論壇

ドイツ68年世代の50年(下)

ベルリンでの同時代的体験から

在ベルリン 福澤 啓臣

はじめに

Ⅰ.戦後のドイツ

1.保守的なドイツ、エリート大学生と淫行勧誘罪
2.西ベルリンと米国、反共の大学

Ⅱ.「68年世代」の反乱

1.非常事態法と院外野党とSDS
2.国際ベトナム会議と親米市民
3.ドイツを震撼させた二発の兇弾
4.反権威主義、店舗保育所・生活共同体と体制内長征 (以上前号)

III.SDSの解散とドイツ社会の変化

1.グループ大学としてのベルリン自由大学
2.ヴィリー・ブラント首相による社会改革の波
3.赤軍派
4.公職禁止令(過激派条例)

IV.緑の党の誕生と政権へ、脱原発

V.最後に-成熟した市民社会へ

III.SDSの解散とドイツ社会の変化

1.グループ大学としてのベルリン自由大学

それまで欠けていた左翼の教養を取り戻そうとしてか、60年代後半から70年代半ばまで『資本論』の読書会参加は批判的な学生の間では必須だった。筆者が70年にミュンヘン大学に通っていた頃、夏休みに同じ学生寮に住んでいた医学部の友達と女友達の四人で、クロアチアの海辺に行き、2週間ほどキャンプをした。我々は毎日のプログラムをきちんと決め、午前中は『資本論』を勉強した。「医者でも人間を病気にする資本主義社会の搾取構造の理解と分析が必要だ」とその友達は言っていた。

ベルリン自由大学には71年の夏学期(4月)に移ったが、『資本論』の学習会がほとんどの学部や学科で行われていた。週に一度か二度集まり、一人がゼミの発表のように準備してきて章ごとに読み進んだ。熱心なグループは全3巻だけではなく、『経済学批判要綱』、さらにエンゲルス、フォイヤーバッハと読み進んだ。 

1969年には、西ベルリンやフランクフルトやハンブルクなどの学生たちの反乱もあり、ドイツの大学は教授陣が大学を治めていた講座制大学からグループ大学に移行した。これは大学を構成する4つのグループが大学の自治内で全てを決める制度である。第一グループは教授陣、第二は学生たち、第三は中間スタッフ(講師や助手など)、第四は事務方(秘書や庭師や掃除婦など)と分かれていた。ベルリン自由大学の場合、この四つのグループが平等に四分の一ずつの権利を持っていた。ということは、教授グループは他のグループが反対すれば、全く主張を通すことはできなかった。他の大学では最初の三つのグループによる自治制が多かった。

筆者がベルリン自由大学に移った71年ごろが、学生たちの力が同大学の歴史の中で最も強かった時期といってよいだろう。民主的な透明性を確保するために学生は全ての会議(学科から学部段階、さらには学長などで構成される最高議決機関の大学評議員会)に出席可能だった。そこで学生代表がほとんどの主張を通すのをしばしば目撃した。当時一人の掃除婦のおばさん(この言い方は失礼かもしれないが)が第四グループの代表だったが、なかなか弁の立つ人で、教授たちと堂々とやり合っていたのが印象的だった。

いくつかの学部では左の学生の勢力が強くなり、教授たちが萎縮したともいえる状況にあった。例えば、政治学部などではテストや卒業論文の評価を軒並み2(良)にして点数をつけた時期もあった。それを学生たちは連帯点数と呼んだが、西ドイツの学界におけるベルリン自由大学の学問的な評価は地に堕ちた。卒業生からも就活などで西ドイツの企業から全く相手にされないという話も聞いた。

大学のトップが学生たちの希望を受け入れた例に、加藤周一氏の招聘がある。学生たちの希望で1969年に米国のニューイングランドから加藤氏が日本学の教授として自由大学に招聘された。加藤氏は学問の分野で若い学生たちと知的な対話ができるかと期待してベルリンに来られたようだが、学生たちは、彼が社会改革のために一緒に闘ってくれることを望んだ。そのため、加藤氏は数年後には失望し、大学を辞めて、日本に帰ってしまった。

1973年になると憲法裁判所(最高裁)が、グループ大学法は基本法(ドイツの憲法に代わる法律)に合致している、つまり合憲であるとの判決を下した。ただし、学問的な内容に関わる決議の際(カリキュラムの制定、教授の招聘などの場合)には教授グループの代表が過半数を占めていなければならないという付帯条件をつけた。さらにその際に第四グループには議決権がないという条件もつけられた。

ベルリン自由大学では、授業料無料(ドイツの大学は授業料を徴収しない。80年代に最初の私立大学が認可されたが、その時の条件も授業料なしだった)や自由な大学間移動や学割(健康保険や公共交通機関)などが相まって、学生がなかなか卒業しないので、80年代には学生数が6万人以上にも膨れ上がってしまった。15年も在籍していた猛者も結構いた。それだけでも大学のレベル低下は避けられなかった。90年代に入り、長期在籍の上に卒業する意思がない学生を除籍するなどの荒療治をして、3万人代まで減らし、やっとレベルが上がった。失墜したベルリン自由大学の学問的評価の回復にはとても長い時間がかかった。現在は連邦政府によるエリート大学のリストでも常時トップテンに入るほどに持ち直している。

2.ヴィリー・ブラント首相による社会改革の波

若者たちの闘いが一段落した頃に、連邦政府の政権交代があった。戦後一貫して与党だったCDU(キリスト教民主同盟)/CSU(キリスト教社会同盟)政権がSPD(社会民主党)/FDP(自由民主党)政権に取って代わられたのである。ヴィリー・ブラントが1969年10月に首相に就任した。ブラントは、労働者階級出身の上に私生児でもあったので、苦労しながら育った。十代からSPD党員として政治活動を始め、ジャーナリストとして働いた。ナチ時代にはノールウエーに亡命を余儀なくされたが、ナチ・ドイツにも潜入し、大胆な非合法活動を行ったりした。このような経歴を持つ政治家がドイツの首相になったことは、ドイツの過去への反省と社会変革にとって決定的な意味を持った 。 

「1969年10月の施政方針演説でブラントは、『もっと民主主義を』と誇らかにうたい、内政面において『改革』という果敢な仕事に立ち向かうように国民に訴えた」(注1)。そして実際に多くの改革が実現した。ちなみに先に紹介した「淫行勧誘罪」は1973年に解消された。

このように見てみると、「68年世代」の政治的な活動と保守政権から革新政権への移行は時期的に一致しただけではなく、ブラント政権は68年世代の社会変革運動のバトンを受け継いだかのようであった。68年世代の闘いが何らかの形でこの政権交代の後押しをしたという見方もあながち否定できない。

68年世代が始めた体制批判、さらにSPD/FDP政権による69年以降の社会改革の波が、若者たちの政治意識の覚醒を促した。SPDの青年部Jusos( 「若き社会主義者」。36歳までの党員)は党内で政治的に左に位置するが、1973年には会員が30万人に達し、SPD党員の30%を占めるに至った(注2)。同党の党員数(青年部を含む)は63年に65万人、70年に78万人、77年には100万人の大台を超える。ちなみに現在は44万人である。

SPD/FDP政権は「労働者の子弟も大学に」という政策で無償の奨学金制度を設け、一度職業に就いて社会経験をした若者たちにも高等教育への門戸を開いた。それもあって、学生数は10年間で3倍と急増し、Jusosなどの党員の急拡大に繋がった。

1970年3月には学生たちの要求に理解を示すハイネマン大統領(SPD出身)が、 機動隊との衝突などで起訴され、裁判中だった3700名の活動家に恩赦を施した。これにより、元SDS(ドイツ社会主義学生同盟)メンバーなどにとってドゥチュケが唱えた「体制内の長征」(体制内で正職に就いて自分の職場で社会改革を進める)がより可能になったともいえる。それまで政治活動および裁判闘争に向けていたエネルギーを勉学に向け、卒業を果たした元SDSメンバーも多い(注3)。ドゥチュケは1973年に自由大学の社会学部に博士論文を提出している。

ドイツの憲法擁護庁(注4)の発表によると、70年代における左翼勢力(SPDより左に位置する)の数を約8万人と見ている。このようにSDSの解散後左の勢力は減るどころか増えている。

日本の60年代から70年代には、戦前の高級官僚から政治家に転じ、保守本流を歩んだ佐藤栄作が首相だったが、全共闘世代にとっては大変不幸な巡り合わせだったといえる。ヴィリー・ブラントと佐藤栄作は奇しくもノーベル平和賞(71年と74年)を受賞したが、何かのいたずらではないかと思えてくる。ブラントの受賞理由は、内政面ではなく、彼が始めた東欧諸国との関係正常化を目的とした東方外交であった。この成果がひいては1989年の冷戦の終結、東西ドイツの統一、さらにソ連邦の崩壊につながったといわれている。

3.赤軍派

68年世代の何人かが、ドイツを含めた帝国主義の打倒には武装闘争が唯一の方法であると確信し、赤軍派(RAF=Rote Armee Fraktion)を結成した。1960年後半から数十人のメンバーによって、要人暗殺、誘拐、銀行強盗、施設爆破を行なった。そして連邦検事総長、経営者連盟会長、銀行頭取、NATO将軍に及ぶ33名を暗殺した。

77年にPLO(パレスチナ解放機構)の仲間がルフトハンザ機をハイジャックして、機内の人質と刑務所内の赤軍派創立メンバー3名を交換しようとしたが、ヘルムート・シュミット首相が10月18日に対テロ・エリート部隊GSG-9に突入を命じ、人質を解放した。これを知った3名は同日夜に刑務所内で自殺した。この77年を境にして、武装闘争は沈静化に向かう。赤軍派の捜査、取締りのために特別な法律(裁判官の許可なしで個人情報が取得できるなど)が作られた。赤軍派の核になったメンバーは60人から80人と推定される(注5)。

拘留されている赤軍派の面倒を見るために「赤色支援」というグループが組織され、メンバーについての情報や必要品の差し入れなどの支援を行なった。シンパ層は相当広がっていたようだ。昔の仲間から「ちょっとだけ泊めてくれ」、「カンパを頼む」、あるいは「お前のパスポートを使わしてくれ」などと頼まれると、断りづらかったようだ。このようなシンパ層も、 77年を契機として武装闘争との決別に踏ん切りがついたともいえるかもしれない。赤軍派自体は1998年に解散声明を出す。

4.公職禁止令(過激派条例)

SDSが解散した後、68年世代には武装闘争以外に複数の選択肢があった。SPDに入党し、Jusosのメンバーとして全く合法的な活動をする。どのグループにも属さず、自分の生活圏で政治的な生き方をする「体制内の長征」も一つの選択だ。 より組織的な政治活動が適切だと確信するなら、60年代末から結成されたKPD(ドイツ共産党)やKPD/ML(ドイツ共産党/マルクス・レーニン主義)やDKP(東独系のドイツ共産党)などの共産主義社会を目指すいわゆるK(共産主義)グループで活動するなどであった。

それらに対抗するためSPD/FDP政権は1972年に「過激派条例」を出し、自由民主主義の原則を認めないドイツ人を公職に就けないようにした。大学や公立校、さらにドイツ国鉄やドイツ・ポストの公職に付くことは、終身職であり、戦前の日本の役人と変わらないステータスを意味した。これらの公職に応募すると憲法擁護庁(公安警察)による調査と審査が待っていた。1979年に連邦政府は同条例を廃棄したが、バイエルン州などは1991年まで続けた。公職禁止を受けた人物は1100名、審査されたドイツ人は140万人にも上る(注6)。

IV.緑の党の誕生と政権へ、脱原発

70年代に入ると、反原発運動が、ヴィール(73年から原発建設反対運動が始まる。78年に裁判で工事差し止め。その後工事費高騰のために建設放棄)、ブロックドルフ(原発建設76年開始。大きな反対運動にもかかわらず1986年に操業開始)、カルカー(高速増殖炉。77年建設開始。85年完成するが、大規模な反対運動もあり、ノルトライン・ヴェストファーレン州政府は安全が確保できないという理由で認可を取り消す。さらに86年にチェルノブイリ事故が起こり、同年に稼働しないまま放棄)、ゴアレーベン(最終処分場建設および中間貯蔵所への核燃料再処理済みキャスク輸送に反対して10 万人デモ。デモ隊一人死亡。現在も運動継続中)、ヴァッカースドルフ(83年に使用済み核燃料の再処理工場建設開始。直ちに反対運動が始まり、10 万人デモと広がる。デモ隊二人と機動隊員一人が死亡。89年にプロジェクト放棄)などで次々と起こった。

SPD/FDP政権は原子力エネルギー政策を推し進めたので、それに反対して1979年に「緑の党」が誕生した。 最初は伝統的な自然保護的な観点から参加したメンバーもいたが、次第に68年世代運動経験者が主流になっていった。

反原発運動には、地元住民(主として農民)の参加が最も重要である。彼らは、本来なら保守党支持であるにもかかわらず、原発建設が発表されると、自分たちの生活の基盤が脅かされるとして、立ち上がり、運動の中核を担うようになる。農民が100台ものトラクターを連ねてデモの先頭を走るのは壮観である。彼らに環境意識の高い若者・学生や市民が連帯し、運動が広がる。すると全国から賛同者が駆けつけ、息の長い闘いに発展する。

非暴力のデモに対し、機動隊の過剰警備が起こり、問題になることが多い。裁判闘争も加わり、時には裁判は地元住民の勝利に終わる。あるいは安全上の付帯条件がつけられたりして、建設費用の高騰を促す。加えて建設工事が長引いて、推進企業が断念するという経過が何度かあった。

西ドイツの反核平和運動の中で重要だったのは、79年から83年まで闘われたNATO(北大西洋条約機構)の核弾頭付き中距離弾道ミサイル・パーシングII配備への反対闘争であった。81年10月にボンで35万人デモ、82年6月にボンで50万人デモ、83年10月には全国で130万人が反対デモをしたが、冷戦の最中でもあり、結局84年に配備される。

これらの反原発と反核運動が追い風になり、緑の党は、83年には5%条項(ドイツでは投票数の5%以上を得票しないと政党として議会に進出できない)をクリアして連邦議会に進出を果たす。86年4月にはチェルノブイリの原子炉爆発事故によりドイツにまで放射性物質が到達し、ミルクなどの食品を汚染した。そのため特に母親および女性が核分裂エネルギー利用の危険さに目覚め、様々な市民活動を開始する。南ドイツのシェーナウ市で市民たちが、原子力発電の電気を売らせないように、地域の電気小売会社を買い取り、自分たちで経営し始めたのも、同事故がきっかけであった。90年の総選挙で得票率が5%に達しなかった経緯もあり、93年に旧東ドイツの民主化運動グループ「同盟90」と合併し、「同盟90/緑の党」と改名する。しかし通常は「緑の党」と称されている。98年から2005年までSPDと緑の党は連立政権を組む。

緑の党の中で重要な役割をした二人のメンバーのたどった経歴が68年世代の現在までの歴史を物語っているので、簡単に紹介したい。

ヨシュカ・フィッシャーは67年頃から院外野党(APO)として政治活動を始める。高校中退で大学には行かなかったが、フランクフルト大学で批判的な哲学者のアドルノなどの講義を聴講する。タクシー運転手、本屋の店員、翻訳業など仕事を転々としながら、政治活動を続ける。時には街頭闘争にも参加し、機動隊と衝突もした。緑の党には82年に入党し、83年には連邦議員、85年にはヘッセン州の環境大臣を務める。98年から05年までシュレーダー政権の外相兼副首相を務める。外相就任直前に警察官に石を投げる写真が見つかり、大きな問題になる。緑の党には現実派(妥協も辞さないで、政権にも参加し、社会を良くしていく)と原理派(妥協を排し、理念を曲げないで活動)がいるが、フィッシャーは現実派のリーダーであった。

もう一人は、ダニエル・コーンベンディット。パリ第10(パリ・ナンテール)大学で社会学を専攻。パリの68年5月の学生反乱の時にはリーダーとして活躍し、「赤毛のダニー」として有名になる。ドゴール大統領によって国外退去を受け、フランクフルトに移る。SDSメンバーとして政治活動を続ける。赤軍派のメンバーとも付き合いが深かった。79年の緑の党の創立に関わる。94年から14年までシュトラスブルクの欧州議会で緑の党の議員を務める。ジャーナリストとして、テレビでも活躍。フィッシャー同様現実派に属した。

現在緑の党は、環境問題のみではなく、新しい社会保障の仕組み、平和な世界を目指して難民問題などの様々なテーマに取り組んでいる。支持者の教育レベルと収入レベルは政党の中で最も高い。ここ数年の選挙では10%前後の得票率を誇っていた。ところが、最近世界の気候変動による人類の行く末が危ぶまれる中、ドイツの政権は自動車企業と石炭産業の利害に引きずられて、環境保護の旗印を取り下げてしまった。そのため緑の党への市民の支持は相対的に高まり、得票率は15%以上に達している。

V.最後に-成熟した市民社会へ

ドイツでは、68年世代だと称する、あるいは称されることは誇りを持って語れることだ。同世代の闘いの目標を振り返って見ると、弱者への連帯意識および平等意識、非ナチ化、反動的な国家の改革、性の解放、大学を含む教育の民主化、 反資本主義などが挙げられる。

非ナチ化はナチス社会の抑圧状況を自ら体験したブラントのSPD政権によって大きく進んだ。1985年の5月8日の敗戦記念日にヴァイツゼッカー大統領(CDU)は記念講演で、この日を「解放の日」と呼んだ。ドイツ国民は自分たちでファシズムを克服したのではなく、連合国に解放されたからである。保守党出身の大統領による新しい認識は非ナチ化が浸透したことを示している。今でも強制収容所の元看守などへの裁判を行い、90才を過ぎても刑に処している。

反原発運動は市民社会への転換を推し進めたが、その道のりは平坦ではなかった。闘いは70年代から始まったが、いかにドイツの市民が様々な場所で大規模なデモ(人数的に)と命を懸けた激しい抵抗(数人のデモ隊員と警官が命を落としている上に、負傷者や逮捕者の数は数万人に上る)を続けてきたことか。それでもメルケル政権は、2000年にSPDと緑の党が一度決めた脱原発を覆し、2010年10月には稼働期間の延長を決議したのだ。ところが、2011年3月11日に福島第一の事故が起こり、さらに事故後(3月27日)の州選挙(バーデン・ヴュルテンブルク州とラインランド・プファルツ州)で、与党は得票率を大きく下げ、緑の党がそれぞれ24.2%および15.4%%と得票率を伸ばした。戦後一貫して保守党の牙城であったバーデン・ヴュルテンブルク州では州首相の座を緑の党に奪われてしまったのは、メルケル首相にとっても大きなショックであったろう。さらに倫理委員会の勧告もあり、彼女はやっと脱原発に踏み切る。政治の世界ではやはり票が決め手になるのであろうか。

ここで政治のおさらいを簡単にしてみよう。議会制民主主義には、互いにチェックする三権分立(立法・行政・司法)が本来必要だ。それが現在は全く建前になってしまっている。特に日本などでは行政が圧倒的に強く、立法も司法もほとんどチェック機能を果たしていない。そこで、市民が立ち上がり、時には異議申し立てをする必要がある。国家権力に対して対抗する市民権力が第四の権力として確立されなければならない。短絡的な考えだと笑われるかもしれないが、4権分立が必要だ。その点ドイツの市民はひんぱんに権力に異議申し立てを行ってきた。何度も申し立てが成功したのは、司法のチェックが機能しているからだといえる。68年世代の「体制内の長征」により、健全な判断力を備えた法曹従事者が育ったからかもしれない。

ドイツでは、ここ数十年の裁判の結果を見て、権力に偏った判決が出やすいという声は聞かれないし、最高裁は権力側からも体制批判側からも独立した司法機関として受け入れられている。ちなみにドイツの裁判官は終身制で、本人の希望で異動することはあっても、異動させられることはない 。つまり、左遷のような異動はないのである。

ドイツ社会に成熟した市民社会を筆者が実感したのは、2015年に100万人近い難民がドイツに押し寄せてきた時に、大多数の市民が示した人道的な行動だった。夏にイラク、シリアから歩いてドイツまでたどり着いた難民を暖かく受け入れたドイツ国民の姿は感動を引き起こすものだった。赤ん坊を抱え、子供の手を取り、3000キロも歩いて難民たちが、ドイツにたどり着くと、何十万人という市民が食べ物、衣類、寄付金などを持ち寄って迎えたのだ。そして公共の建物や自宅に寝床を提供したのだ。筆者はあるスポーツクラブで卓球をしているが、その市営の体育館は難民宿泊所になり、1年半ほどスポーツができなかった。この他人の苦しみや痛みを分かち合う「エンパシー」こそ市民社会を形成する基盤だと納得した。

現在一部のドイツ国民は、これらの難民(主にイスラム教徒)を受け入れたために、ドイツの伝統社会と固有の文化は危機に瀕しているとメルケル首相を激しく批判している。その結果、自国優先主義者の政党「ドイツのための選択肢(AfD)」の得票率は連邦および州選挙レベルで10%から20%にも達している。しかし、多くのドイツ国民は難民受け入れ政策は間違いではなかったと反論している。そして心強いのは、AfDや右翼のデモには必ず反対デモが行われ、ほとんどの場合、前者を大きく上回る数のデモ隊が集まることだ。その上若者が多数参加していることである。

陸の孤島だった西ベルリンにおいて反共大学としてベルリン自由大学が創立され、その学生たちの一部が社会変革運動を始めた。それがドイツの社会体制および政治の改革を経て、成熟した市民社会にまでつながったのである。これはあまりにも我田引水的な見方だろうか。

福澤啓臣    ベルリンにて                               2018年10月15日

(注1)三島憲一『戦後ドイツ』 岩波新書、1991、189頁

(注2)参照:Jusos、社民党青年部 (Wikipedia)

(注3)SDSの中心メンバーの一人であるティルマン・フィヒターと筆者は面識があるが、彼は8年間近い政治活動の結果、18件も起訴されていた。この恩赦により起訴がなくなり、やっと勉強できるようになったので、2年間で自由大学を修士卒業したと言っていた。彼は大学に10年間在籍していたことになる。

(注4)基本法を脅かすグループおよび人物を監視する連邦機関。右と左の組織にアンダーカバーをたくさん送り込んでいる。問題は、彼らの活動について議会や裁判で証言免除になっていることだ。法治国家のドイツにふさわしくない。暗殺に関係したテロリストの裁判でも彼らは合法的に証言を拒否している。

(注5)参照:赤軍派 (Wikipedia)

(注6)参照:過激派条例 (Wikipedia)

ふくざわ・ひろおみ

1943年生まれ。1967年に渡独し、1974年にベルリン自由大学卒。1976年より同大学の日本学科で教職に就く。主に日本語を教える。教鞭をとる傍、ベルリン国際映画祭を手伝う。さらに国際連詩を日独両国で催す。2003年に同大学にて学位取得。2008年に定年退職。2011年の東日本大震災後、ベルリンでNPO「絆・ベルリン」(http://www.kizuna-in-berlin.de)を立ち上げ、東北で復興支援活動をする。ベルリンのSayonara Nukes Berlin のメンバー。日独両国で反原発と再生エネ普及に取り組んでいる。ベルリン在住。

出版・ドイツ語:

 『Aspekte der Marx-Rezeption in Japan (日本におけるマルクス主義概念受容の検討)』

 『Samurai und Geld (サムライとお金)』

 『Momentaufnahmen moderner japanischer Literatur (現代日本文学のポートレート)』(共著)

日本語:

 『現代日本企業』(共著:東大社研、有斐閣)

 『チェルノブイリ30年と福島5年は比べられるか』 (桜美林大学出版)

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