コラム/追悼・上間常道さん

沖縄の“伝説の出版人”逝く

上間さんありがとうございました

神奈川大学準教授 後田多 敦

出版舎Mugenの上間常道さんが8月1日、逝ってしまった。いつだったか。「仕事をするのは72歳までだよ」と上間さんが言い、私の方は「もう少し、先まで仕事をしてください。本にまとめたいテーマが幾つかあります」とお願いしていたのを思い出した。その後、上間さんは72歳を過ぎても仕事をしていたので、大丈夫なんだろうと勝手に思っていた。どこかで油断していたのかもしれない。

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大学生時代、私が沖縄出身だと知った大学の恩師・橘川俊忠さんが、沖縄に上間常道という学生運動時代の知人がいると話してくれた。大学を卒業し、沖縄の新聞社に入ると、そこに上間さんがいた。そのころの上間さんは40歳代後半だったが、会社でも沖縄の出版・文化界でも、もうすでに「伝説の人」だった。会社が1980年代に刊行した『沖縄大百科事典』(全三巻・別巻一、沖縄タイムス)の中核を担い、その後の『沖縄美術全集(全五巻・別巻一)』(1989年)も担当していた。めぼしい本は上間さんの仕事という印象だった。部署は違ったが、年下の同僚として何かと可愛がってくれた。私にとってはどこか怖い先輩ではあったが、機会あるごとに上間さんについて回った。

上間さんが定年退職まであと数年というころ、『沖縄大百科事典』の改訂版をつくろうと、上間さんを囲んだ社内の勉強会を企画した。それより少し前、地域プランナーで詩人・作家の真久田正さん(故人)が「『沖縄大百科事典』の新版をつくろうよ」といって、「ゆいマール方式」というアイディアの企画書を会社に持ってやってきた。簡単に言えば、「御社に資金がないなら集めてきます。人が出せないなら、人や人件費を提供する会社をみつけてきます」というようなユニークなものだった。「二匹目のドジョウという話もある。せっかくの経験を途絶えさせるのはもったいない。上間さんと何か楽しくて、意義あることをやろうよ」という企画だった。

その企画の思いを引き取って、準備としての勉強会のつもりだった。仕事が終わった後に集合し、一時間程度話を聞いて、飲みにくり出した。話や飲み会だけでも楽しかったが、上間さんは「局幹部クラスを一人でも本気にさせれば、企画に協力しよう」といってきた。そして、新川明(後に社長・会長)さんの名前で書かれた『沖縄大百科事典』企画書のコピーを渡してくれた。読んでみると経費も細かく詰めていた。百円単位まで計算していたように思う。

勉強会を重ね、文化に興味のありそうな中堅有力記者に目星をつけ、感触をさぐるべく、上間さんとその人を誘った。結論から言えば、「やる気がないのかな」ということだった。そう思っていると、上間さんが目配せするので、後はいつも通りの酒宴となった。結局、『沖縄大百科事典』の改訂版や新版は、いまでも実現していない。

真久田さんの一緒に何かやろうよという提案は、彼自身の詩集『真帆船のうむい』(KANA舎、2003年)にばけてしまった。この詩集の編集は上間さんだった。はたから見ていると、二人は結構激しくやりあっていたが、詩集は代表作の一つとなっている。

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上間さんが定年退職した年だったか。正月気分が抜けきれていないころ、出勤し会社ビル1階のトイレに立ち寄ると、当時の社長と一緒になった。鏡を見ていた社長が「後田多、雑誌を作りたがっていたが、やってみるか。専務も賛成している」と声をかけてきた。いまにして思えば、少し単純すぎたようだが、その時は「今年はいい年になる」と、張り切って社内会議を経て企画案を作り、上間さんにも相談した。会社が発行していた『新沖縄文学』が1990年代に休刊になった際、上間さんが新しい雑誌の見本をつくり、それを見せてもらっていたことが記憶にあったからだ。

上間さんとメールでやり取りしながら、仕事を終えた後、会社近くのファミリーレストランで週に一度ほど会い案をたたいた。そして、雑誌特集の作り方、作業の進め方などを教えてもらった。印刷料の見積もりなどは、業者にお願いしてくれた。何号か分の特集案を練り役員会でも説明したが、結局はこれも実現しなかった。それでも、雑誌の作り方なども含めて、多くを教えてもらう機会となった。

定年退職前後の上間さんは、宮城信勇『石垣方言辞典(二巻)』(沖縄タイムス社、2003年)や『軍事事典(仮称)』の編集をしていたように思う。『石垣方言辞典』の方は刊行され、伊波普猷賞を受賞した。『軍事事典』はいろいろ事情もあり、刊行されなかった。

そのころ会社の読者センターという部署と連携し開催した「琉球弧の雑誌展」(2005年5月17~29日)の図録編集を、退職後の上間さんに協力してもらった。お願いすると「小冊子だし、面白そうだから、やるよ」といってくれた。もう一人の協力者は新城栄徳さん。沖縄を代表するコレクターの一人で、雑誌や新聞などに強い。最終校正は印刷会社でやったが、二人が並んで競うように校正する姿は記憶に残っている。『徐葆光和琉球人』(2006年7月20日)なども一緒だった。

いまにして思えば、退職した先輩に随分甘えていたものだ。上間さんからすれば、自分の仕事の合間に気晴らしや息抜きで、私の「仕事」につきあってくれていたのかもしれない。私にとっては、ありがたい仕事のアドバイザーだった。

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退職後の上間さんは2006年から編集事務所を立ち上げていた。きちんとした仕事としてお願いできたのは、沖縄県立博物館・美術館の指定管理者となった会社である文化の杜での仕事だった。県立博物館・美術館の開館記念「沖縄文化の軌跡展」(2007年11月から08年2月)の図録。A4判で407頁。私の方は開館自体の準備で動いたので、上間さんの編集作業は初めの方しか知らないが、結構大変だったと聞いていた。

その後も、上間さんは県立博物館・美術館の仕事も幾つかやっていた。私がかかわった『血と哀愁の造形 嘉手川繁夫の世界』(2008年)や写真家比嘉康雄の展覧会図録では一緒だった。『母たちの神 比嘉康雄展』(20010年)はいろいろな経緯もあり、贅沢なつくりの本になっている。

私は勤めていた会社に見切りをつけ2009年に退職した。上間さんの事務所を訪ね「会社を辞める」という話をすると、「一年ほど準備期間を置いたらどうか」と一度だけ止めたが、その後はもう何も言わずに応援してくれた。そして、上間さんに作ってもらった本が『琉球の国家祭祀制度―その変容・解体過程―』(2009年)。名誉なことに、出版舎Mugenでも最初の刊行物だ。原稿を持ち込むと、当初上間さんは渋っていた。理由は二つ。一つは内容がいま一つだということ、もう一点は出版舎Mugenとしての刊行物を手掛けるのは、もう少し先にしたいということだった。原稿の方は何度か書き直し、時期の方は上間さんが折れて、最終的には出してくれた。

私の新しい出発の名刺代わりとなったこの本は、類似テーマを扱った本が少ないこともあって、比較的早く動いて在庫もなくなった。刊行の際の上間さんとの約束は「増刷はしない。研究を深めて、いつか改訂版か同じテーマの新しい本を出す」ということだった。

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私が上間さんにつくってもらった本は詩集を含めて四冊。ボツになって出してもらえなかった原稿は一点、最後の入院とかさなり「仕事ができるようになったら読むから、それまでにもう少し整理しておくように」といわれてそのままになってしまった原稿が一点、見せる勇気がなくて抱えたままとなっている原稿が一点。いってみれば四勝三敗。詩集は、今読めば熟成の足りない詩を集めたものだが、なんとか形にしてくれた。聞けば「頑張れということだ」という。そして、その詩集を通して、真久田正さんとの出会いもお膳立てしてくれた。

『琉球救国運動―抗日の思想と行動―』(2010年)は私の博士論文だった。もろもろが手探り状態だった私にとって、格調高く仕上がった本は、何よりの励みになった。辛口の知人らは「上品なつくりの本だ」と、内容ではなく本のつくりの方を褒めていた。この本を出した後、現在の職場にもたどり着いた。そして、本は増刷された。ご祝儀だったのだろう。本が出てから時間は流れたが、最初に手にしたときの感激は今でも色あせない。

『「海邦小国」をめざして―「史軸」批評による沖縄「現在史」―』(2016年)が上間さんとの最後の仕事となった。横浜に生活の拠点を移し、大学で働き始めると何かとせわしく、自分の時間が思うようにつくれない。それでも、何もしないのはつまらないので、書き溜めた文章の一部を整理し、上間さんに送った。「これではだめだ」という。さらに文章を書き加え、全体の構成を整理しなおしたりした。いろいろやり取りを続けていると、「残りは宿題だね」といってくれた。

私のふるさとの海は、青ではなく緑色のイメージだと話したら、心地よい色合いと肌さわりの本が出来上がってきた。この本が出た後、琉球館(東京駒込)の島袋マカト陽子さんが本のイベント(2016年10月8日)を企画し、上間さんも東京まで来てくれた。本をめぐってはさらにうれしい展開となった。『図書新聞』の米田綱路さんが『「海邦小国」をめざして―「史軸」批評による沖縄「現在史」―』を手掛かりにインタビューしてくれ、その年末に1面から2面にわたり掲載してくれたのだ。『図書新聞』を手にした上間さんは「本を丁寧に読んでくれる人がいるというのは、ありがたいね」といってくれた。

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上間さんは、私にとって先生の一人のような存在だったが、それだけでなく世に出してくれた恩人でもある。畏敬の念と信頼感、近さや親しみなどが一体となっていた。入院し手術をしたと2017年12月に聞いたので、見舞いに沖縄へ行くと、その都度、手術の後だった。聞けば、4回も手術をしたのだという。私がまとまった話をできたのは一度だけで、その時、上間さんが手掛けていた仕事のことだった。「丁寧に資料を追うと、きちんと見えてくることを実感している。復帰するから心配するな」ともいっていた。

上間さんは、沖縄のことを考え、沖縄のために何をすべきかを柱に生き、仕事を続けていたように思う。日々が沖縄だった。楽しみや悲しみ、怒りも、沖縄が背後にあるように感じられた。沖縄への情熱や愛情、そして異質なものでも排除せず、努力を怠らない姿が周りの人に信頼感を醸成させたのだと思う。いろいろ書いていると「ごちゃごちゃ書く時間があったら、少しでもいい仕事をしろ」と言われそうな気がしてきた。

やり残した仕事や心残りもあったのだろうが、結果的にみれば、入院したことで家族との時間も持て、そしていつもの「上間常道」としての立ち振る舞いをも通せたようにも思う。上手にこの世から離れていったのかもしれない。そう考えても、上間さんのいない世界は、私にとって味気なく寂しい。けれども、いまはお礼をいって送るしかないのだろう。

「上間さん、ありがとうございました。そして、お疲れ様でした」

しいただ・あつし

1962年石垣島生まれ。神奈川大学大学院歴史民俗資料学研究科前期課程修了。沖縄タイムス記者、琉球文化研究所研究員などを経て、2015年4月より神奈川大学外国語学部准教授。著書に『琉球救国運動―抗日の思想と行動―』(出版舎Mugen、2010年)、『琉球の国家祭祀制度―その変容・解体過程―』(出版舎Mugen、2009年)。『「海邦小国」をめざして―「史軸」批評による沖縄「現在史」―』(出版舎Mugen、2016年)。

上間常道さんと『現代の理論』 この8月に逝去され、後田多敦さんが本号で追悼された上間常道さんは、1943年大阪に生まれ育った沖縄二世。東京大学文学部の学生の頃、アルバイトで『現代の理論』の編集業務を担当。それは現代の理論の中心であった沖浦和光さん(後に桃山学院大学長)の紹介であった。上間さんの思想形成に大きな影響を与えたようだ。河出書房新社に入社後ほどなく会社倒産で労働組合員として再建闘争を担う。この過程で学園闘争や70年安保、また沖縄返還協定闘争に主体的に参画。自らの出自や沖縄のあり方で自己の責務を厳しく問い、73年に沖縄移住を決断。以降、沖縄人民の自決権獲得の想いを胸に、それらを自主的に担う琉球―沖縄人の主体形成に役割を果たそうと決心され生き抜かれたのであろう。

本誌(デジタル版)の3号(2014年12月)からコラム「沖縄発」の常任筆者として連載の執筆を願った。2017年12月号のコラムは最後の入院直前に書かれ上間さんの絶筆となったと思われる。(現代の理論編集委員会・矢代記)

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