コラム/温故知新

東京下町の労働運動と大正デモクラシー

下町の労働運動史を探訪する(2)

現代の労働研究会代表 小畑 精武

吉野作造と「わたしの『女工哀史』」

「女工哀史」の著者細井和喜蔵のつれあいで、「わたしの『女工哀史』」(岩波文庫)を書いた高井としを(1902~1983年)は同棲する前に名古屋の豊田織機で働いていた。居心地もわりとよかったが、ある日工場でストライキが発生した。その時(1919年、大正8年)にもらった1枚のビラが高井の「一生を変えてしまうこと」になった。ビラには大正デモクラシーの旗手吉野作造(写真1)の論文「個性の発見」の一部(以下)が紹介されていた。

写真1.吉野作造

「だれでも人間は全部平等で、個性と人格、人権があることを。各個人が気づかず、知らずにいる。一人ひとりが自分の個性にあった仕事や学問をして、社会のためにも自己のためにも今より幸せな生活をする。自分を大切にする、そして他人を尊重する。労働者は話しあい、学びあい、団結することによって生活の向上ができる。学者も医者も政治家も個性の発見に努力せよ。労働者よ。団結せよ。自己の尊さに目ざめよ」

高井はこのビラを見て「矢もたてもたまらなくなり」、その夜のうちに旅費36円をつくって上京。18歳の時だった。東京の南の玄関口品川で下車、翌日から職探しをするがなかなか良いところはみつからない。1か月ほどして、お金がなくなるころに東京東部下町の深川にあった紡績工場(たぶん東京で最も古い東京紡績)に入った。ところが、その工場は機械が動き出すと建物のレンガがユサユサと動く。地震が起きたら工場が倒れ大勢の人が死んでしまう。死にたくない、とわずか2日で逃げ出した。その後、深川から本所を通って、柳島から亀戸へ、下町の工場地帯を一回り。まっ黒な小さな川(北十間川)のならびには、東京モスリン吾嬬工場(写真2)、花王石鹸、東京モスリン亀戸工場などが見えた。

写真2.東京モスリン吾嬬工場

ここに出てくる高井の境遇は彼女一人だけではなかった。同じ境遇の女工は下町に、亀戸付近に万を超すほどいた。亀戸地区の人口は1908年(明治41年)には1万人にも達しなかったが、1923年には5万人を超え、女性労働者が占める割合が他地区に比べ40%と高かった。吉野作造が高井に与えた思想的影響はやがて下町の女工たちの心に広がり根づいていく。その思想が大正デモクラシーであった。

思想だけではない。思想と肉体が結合し動くとき一つの運動が生まれる。思想が労働者をとらえ、労働者が思想をとらえるとき、労働運動が生まれる。大正デモクラシーへの流れのなかで友愛会労働運動が生まれ、広がっていった。

吉野作造「賛育院」産院の理事長に

この地域は前号に横山源之助『日本の下層社会』から引用したように、東京で最も細民(貧民)が多いところ。あたり一帯が低湿地で業平橋には落語家の古今亭志ん生が自称ナメクジ長屋に住んでいた。医療機関もない100年前、高井が上京する前年1918年3月6日に東京帝国大学の基督教青年会(東大YMCA)が貧しい人のために産院をつくろうと本所に「賛育会」(写真3)を数人で創立。婦人と小児の保護、保健、救療を目的に無料診療の「妊婦乳児相談所」を開設。借家にベッド1台、机と椅子1脚だった。初代理事長には医学の木下正中がなり、第2代理事長には吉野作造が就いた。

写真3.木造の賛育会病院(大正期)

1923年の関東大震災で大きな被害を受けたが、1930年には地上3階、地下1階の賛育会病院を開設。1945年3月にも東京大空襲で壊滅的な被害を受けた。しかし、見事に復興し今日では医療のみならず介護を含め地域になくてはならない医療・介護の拠点になっている。さらに、関東大震災後、この地域(柳島)には1923年東京帝大セツルメントが建設され、今は東京スカイツリーがそびえ立つ。見上げると雲がかかっている634メートルの東京スカイツリーに「大正デモクラシー」の想いを感じることができる。

吉野作造と鈴木文治

大正デモクラシーの旗手吉野作造は宮城県古川町で1878年(明治11年)に生まれた。労働団体友愛会を結成する鈴木文治(写真4)は1885年に古川町にほど近い金成村に生まれている。古川中学で二人は出会う。鈴木は入学して間もなかった。吉野は旧制第二高等学校(仙台)へ。その後、吉野は東京帝大法科に鈴木は旧制山口高等学校に1902年入学。山口への途中、再び東京で鈴木は吉野と会う。山口での生活について相談し助言を受けた。高校時代に鈴木は山口メソジスト教会に住み込む。1905年高校卒業後東京帝大法科に入学、そこで再び吉野に出会う。鈴木は学生基督教青年会館を寄宿舎とし吉野との関係で本郷教会に通った。

写真4.鈴木文治

吉野は明治憲法のもとでのストレートな「民主主義=人民主権」の主張は権力の弾圧を招く恐れがあるとし、天皇主権を認め最大限の民意尊重と民衆の福利を追求する「民本主義」を「民主主義」に換えて主張した、大正デモクラシーの旗手であった。

鈴木は、入学後キリスト教的人道主義を実践する場として労働運動を考えるようになる。卒業後、秀英舎(現大日本印刷)に就職するも8か月で退職し朝日新聞社に入社、社会部記者になる。そこで鈴木は「フェミニズムの運動」などの紹介とともにもっとも力を入れたのが貧民窟のドン底探検で「印半纏(しるしばんてん)腹がけの姿に変装して、東京の貧民窟という貧民窟を片っ端から見て歩いた」。それを『東京浮浪人生活』にまとめ、「浮浪人研究会」を組織し、その世話人として毎月の集会を組織した。市内各所の「立ちん坊」についても調査し、巡査上がりや教員上りなどもいる、これらの人々への相談機関、救済機関、指導機関もないことに義憤を感じ、後の友愛会創立の一動機となる。

その後、朝日新聞を辞め、三田にある理知的信仰を標榜するキリスト教の一派ユニテリアン(後に統一基督教弘道会)の幹事となり友愛会創立(1912年)となっていく。

友愛会の結成、鈴木文治が会長に

友愛会の結成は明治天皇死去への服喪3日目、1912年(明治45年)8月1日。大逆事件から2年、労働者の運動はまだ暗いトンネルのなかにあった。明治天皇の死を受けて結成を遠慮する考えもあったが「極めて真面目な会でもあり・・・謹慎して会合する分なら差支えあるまい」(鈴木文治)ということで予定通りに進められた。場所は東京三田芝園橋畔統一基督教弘道会図書室。服喪3日「帝都は全市をあげて死のごとき沈黙の中を、同志は一人二人、会場に集まってきた」(鈴木文治)電気工、機械工、畳職、塗物職、牛乳配達、撒水夫、大工等13名、それに鈴木文治と現職の巡査で15人。巡査は監督や偵察役ではなく、統一教会の信徒であった。後に友愛会の主事になる。

鈴木は、本来は労働組合の結成が必然であるが、大逆事件から2年を考慮し「友誼的共済的または研究的な団体で満足しよう」と訴え、一同は納得した。そして名称をイギリスのフレンドリー・ソサイテイ-にならって友愛会とすることになった。この日集まった鈴木文治以下15人が会員名簿に署名した。

鈴木を会長とする幹事、会計など役員が決まり、会の綱領と会則が決められていく。

◆友愛会綱領

1、我等は互いに親睦し、一致協力して、相愛扶助の目的を貫徹せんことを期す。

1、我等は公共の理想に従い、識見の開発、徳性の涵養、技術の進歩を図らんことを期す。

1、我等は協同の力に依り、着実なる方法を以て、我等の地位の改善を図らんことを期す。

発足後順調に組織は拡大し、翌年1913年には正会員1,771人、準会員158人となる。1917年(大正6年)の5周年大会で各種職業団体の総連合をうたい、年次大会を規定し、組織としての体裁が整っていった。18年の6周年大会では会員が18,000人、支部41と報告される。

同時に、意識的な労働者が加入し、支部提出議案には「労働時間短縮」「最低賃金1日1円」「養老保険法実施」などが提起された。19年の7周年大会ではナショナルセンターへの発展をめざし、大日本労働総同盟友愛会に名称を変更。20年の第8周年大会では名称から「大」を取って日本労働総同盟友愛会に改め、21年の10周年大会ではさらに友愛会を取って日本労働総同盟になる。神戸の三菱・川崎争議など多発する争議にみられるように運動と組織の戦闘化、急進化が進んだ。

この時期は、関東がサンディカリズム的傾向をもち、関西がアンチ・サンディカリズムの傾向が強かった。神戸の三菱・川崎争議を指導した賀川豊彦は、1923年(大正12年)9月1日の関東大震災の報を受け、ただちに東京下町へ赴き救援活動に入った。

友愛会初の争議

友愛会結成の翌年(1913年、大正2年)、支部が結成されたばかりの川崎からアメリカ系資本の日本蓄音機商会の従業員が駆け込んできた。7、8月を夏季休暇とし、6月の賞与を2か月に分けて支給するという会社提案に対し、従業員側は2か月の休みはいらない、さもなくば2か月分の賃金を支給せよ、という要求を出してストに入っていた。要請を受けた友愛会は「労働争議の仲介」に入る。鈴木は、従業員の団結を強調するとともに、治安警察法第17条(団結権とストライキの制限、扇動の禁止)の適用を逃れるために川崎警察に赴き争議団を代表して交渉に入ることを説明した。署長も同意。東京電気(現東芝)の工業部長(友愛会評議員)の仲裁で、休暇は1か月に短縮、若干の手当の支給、賞与は即時支給で妥協案がまとまり解決となった。

1914年6月に鈴木文治は東京モスリン吾嬬工場での解雇と賃金引下げの争議の支援に入る。工場(墨田区、当時南葛飾郡吾嬬田、スカイツリーの周囲)は現在文花団地。会社は不況を口実に1000人を解雇。そこで12歳で宮城から就職した山内みな(1900~1990年)(写真5)の一緒に働いていた叔母さんが解雇される。間もなく「仕事をやめろ!外に出ろ!」と叫ぶ声とともにはじめてのストライキに入る。女子工2450人、男子工350人のストライキであった。

写真5.山内みな自伝カバー

ところが、わずかな退職金(10年勤続でわずか2か月分賃金、1年で16日分)で解雇問題は解決。会社に残った労働者には15%の大幅賃下げ、他方株主には1割配当、社員には賞与が出た。これに反対して6月20日交代起床の鐘を合図に再び2000人余がストに突入。あわてた会社は12月からの賃金回復を約束してストは終結。これを契機に6月28日には工友会が組織される。

鈴木文治が山内みなに出会ったスト

さらに会社が7月14日に工友会の幹部12人を解雇したために、「一部の者が犠牲になった時は、全部の力を以てこれにあたろう」という工友会の申し合わせで再びストに突入。工友会の今西会長が「もはやかくなる上は第二の騒擾事件を惹き起こすの覚悟がなければならぬ」、と言ったことが治安警察法17条(ストライキの扇動)に違反すると小松川署(当時南葛飾郡、現江戸川区)に拘引・起訴され、さらに10人が解雇される。

工友会は友愛会の鈴木文治会長に支援を頼み、鈴木会長は小松川警察、東京区裁判所検事局に行き釈放を求めた。会社は「暖簾に腕押し」。今西会長に懲役3カ月(執行猶予3年)の判決が下りる。争議は敗北に終わるが、偶然鈴木と同郷の東京府立職工学校校長が調停に入り、最後に一人10円の金一封が会社専務の名で出された。

敗北に終わったストライキだったが、この争議を通じて千数百人を有する友愛会本所支部が結成された。「友愛会でなければ会社は相手にしない」と山内みなは友愛会に加入し、会員拡大、会費集めの活動を始めた。山内みなは宮城県本吉郡歌津村に生まれ(明治33年)、12歳の時東京モスリン吾嬬工場の女工となり、13歳でストライキに参加、そして友愛会の活動家に育つ。さらに鈴木文治とも出会った。

友愛会は創立5周年(1917年)大会で、女性も正会員になることを決定している。また運営費がそれまでの「資本家からの寄付」によるものから会費によるものへ決定し、友愛会は労働者による組織へ一歩前進。さらに1919年の第7周年大会で山内みなは友愛会初の女性理事になる。

友愛会日本橋支部の発会式が1919年1月に三越前の梅村楼で開かれ挨拶に立った、みなは演説がうまかった。「わたしも労働者、みなさんも労働者、同じ人間であるはずなのに、私は紡績工とさげすまされる。わたしは一人前に、みなさんのように働いているのに、社会は同じ人間として扱ってくれない。私はこんな社会を直さなければだめだと思っているので、社会のためにこれから働きたいと思う」と挨拶。翌朝には「資本主の圧迫から免れたい、そして社会の人としての待遇を得たいと女労働者は絶叫した」と「万朝報」(1月27日朝刊)が大きく載せている。

この記事を見て、市川房枝、平塚らいてう、奥むめお(本所に婦人セツルメントを開設、戦後主婦連会長)が山内に面会を求めて東京モスリンに行っている。市川はこの時すでに友愛会の機関紙記者になっていた。19年8月の友愛会大会で名称が大日本労働総同盟友愛会と改称され、本所支部の野村つちのと山内が友愛会婦人部を代表して理事に選ばれた。この大会で賀川豊彦がみずからタクトを振って、自ら作った「立て日本の労働者」を歌い、昼食会では山内のテーブルに来て、「山内さん、勉強しなさい。教会に通っているそうだからあなたも救われる、アーメン」と十字を切った。その後、賀川は関東大震災後自ら本所に拠点をつくり下町救援活動をすすめた。

第1回ILO会議の労働者代表

1919年(大正8年)10月、第一次世界大戦後に創設されたILO(国際労働機関)の第1回国際労働会議がワシントンで開かれることになった。正式の国際労働会議代表団には規定により労働者代表を参加させなければならない。本来は唯一の全国労働団体である大日本労働総同盟友愛会に労働者代表選出をまかせねばならないはずなのに、政府は友愛会を労働組合と認めず、政府指名の高野岩三郎博士(友愛会顧問)を労働者代表にしようとしたが、高野博士が断ったので、政府は中小企業の工場長(桝本卯平)を指名することになった。資本家代表は鐘ヶ淵紡績社長武藤山治、政府代表には慶応義塾長鎌田栄吉を指名。各代表には顧問5人、随員若干名がつくことになる。会議の議題は、労働者の待遇改善、低賃金、とくに日本紡績労働者の低賃金、深夜業、長時間労働などであった。

写真6.ILO向けおんぶ母子

市川は「婦人労働者の声を聞かそう、注文をつけよう」と友愛会婦人部主催の労働問題大会を10月に本所業平小学校で開いた。この集会は、政府代表顧問の田中孝子の餞別の意味もこめられていた。雨天体操場は一杯、壇上には東京モスリンや押上の富士瓦斯紡績など周辺の工場から女工も男子工も集まり、なかには子をおんぶして参加している親子もいた。(写真6)来賓席には、政府顧問の田中はじめ、伊藤野枝(関東大震災の際に大杉栄とともに逮捕され憲兵に虐殺された)、平塚らいてうが参加。会場からは女工の演説に「おっかあうめーぞ」の野次や「真の労働者代表は資本主や学者ばかりではいけません」の声。山内はしんがりを務めた。政府顧問の田中にも野次が飛び、たびたび市川があわてて中に入った。

山内みな、労働者代表随員を断る

業平小学校での集会後、田中が山内をILO会議に連れていきたがっていると市川から山内に連絡があった。行けば会議後アメリカに残って勉強もできると聞いて、山内はすっかりその気になり「田中さんについていきます」と返事をした。話を具体化するために、市川は田中のところに行った。

政府から会社に「山内を労働会議に行かせろ」という電話が入り重役から呼び出しがかかる。にわかに山内の周辺があわただしくなった。さらに、友愛会江東連合本部からも呼び出しがかかり、「こんどの国際労働会議はやめたほうがいい、田中孝子の随員など馬鹿にしている。いかに子どもだからといっても、友愛会の理事である。友愛会は労働者の団体だ。政府は労働者の団体を公認しないで無視している。友愛会を裏切る行為になるから中止したらどうか」と友愛会幹部の麻生久と棚橋小虎(総同盟主事)が説得に入った。「鈴木会長は子どもだからアメリカにやったっていいじゃないかと言っているが、あんたの考えで判断しろ」と迫る。山内は会社に帰って一晩眠らずに考えた。「友愛会と足並みを揃えられないのはやはり裏切り行為だとしたら、私の希望は捨てなければなるまい。ストと同じだ。友愛会の団結を守ろう」と決意を固めて江東連合に戻った。

その後、とつぜん重役が工場を訪問、1か月後に「明日から工場に出なくてよい」と工場長から解雇通告。「こんなことではやめません。明日も出てきます」と仕事をせずに毎日出勤した。年末に友愛会から呼び出しが来て、「市川さんはやめた」と切り出し、会長と松岡主事が会社と交渉して「勉強が好きなようだから、学問をさせたら」と5000円(4000円かも)をもらってきたので「今年いっぱいで会社をやめなさい、わたしの家で引き取る」と鈴木会長の言。山内はがっくりと気が抜けた。こうして6年間働いた会社を辞めることになった。

解雇され、男女同権の婦人運動へ

鈴木会長のところに行く予定であったが、次の日に松岡主事から「みなちゃんを松岡の家に引き取ることになった。実は鈴木会長は女ぐせが悪くて、いたるところで問題を起こしている」と言われ驚く。山内は鈴木会長を「正義の人、たのもしい人として尊敬していたのに、信頼が音をたてて崩れ落ちてしまった。だれを信用すればいいのか、前途に希望が持てなくなった」と振り返っている(「山内みな自伝」)。

解決金をもらって労働争議を解決する行為がいつから始まったか分からないが、鈴木と松岡が4~5000円という巨額の解決金を東京モスリンからもらって事を収めたことは「ダラ幹」と呼ばれても仕方ない行為だった。

後に総同盟が分裂し評議会が結成された時に、堕落した幹部という意味で「ダラ幹」攻撃が評議会から鈴木に集中した。しかし、鈴木は太平洋戦争後まで生き抜いている。鈴木は「でっちあげで名誉を傷つける行為」と反批判していった。「彼はしばしばダラ幹呼ばわりされたが、自身は終生プロテスタントとして清貧に甘んじた」と塩田庄兵衛は『日本社会運動人名辞典』で評している。だが女くせまで悪いときては、今日では通用しない。労働運動のリーダーとして失格だろう。

山内は不安のまま松岡の家へ向かった。クリスチャン松岡を信じ(鈴木もクリスチャンだったが)松岡宅へ。松岡家では大事にしてくれて飯も炊かせない、掃除もさせない、3か月間何もすることがなく過ぎた。山内はふたたび四谷荒木町の炭屋の4畳半にいた市川を探し出す。市川は「総同盟の中で、どれほど男女の差別が残されているかを、いやというほどみせつけられてきた。私としては婦人の労働運動をするまえに男女同権の婦人運動をせねばならないという結論を出した」と山内に語っている。山内は神田の男女共学の正則中学で英語を学び、新婦人協会の仕事を始めることになる。

皮肉なことに、戦後第1回の衆議院選挙(1946年4月)で鈴木文治と山内みなは宮城選挙区で相対する候補者となった。鈴木は社会党から、山内は共産党からの立候補。しかし、不幸なことに鈴木は立候補届の翌日、結果をみないまま帰らぬ人となった。山内は全県一区の連記制のもとで奮戦し4人が立候補した共産党内ではトップ、全体でも仙台選挙区ではトップだったが全県的には当選数(共産党が)に届かず、山内は議席を獲得できなかった。

次回は関東大震災前後の下町労働・社会運動を探訪する。「ヴ・ナロード(人民の中へ)」をめざす東大「新人会」と戦闘的理論的な南葛魂で生涯を貫いた渡辺政之輔が下町南葛(亀戸)地域で出会い、共産党労働者党員第一号となる。1923年9月1日に突然下町を襲った関東大震災の混乱のなか、大杉栄が虐殺され、亀戸事件で若き戦闘的労働者10人が官憲によって殺された、数千人の朝鮮人、中国人も虐殺された。(次号に続く)

【参考文献】

鈴木文治『労働運動20年』光洋社

高井としを『わたしの「女工哀史」』岩波文庫

芳賀清明『鈴木文治のいる風景―日本労働運動の源流をつくった男』無明舎出版

山内みな『山内みな自伝-12歳の紡績女工からの生涯』新宿書房

市川房枝『「市川房枝自伝」戦前編』新宿書房

おばた・よしたけ

1945年生まれ。東京教育大学卒。69年江戸川地区労オルグ、84年江戸川ユニオン結成、同書記長。90年コミュニティ・ユニオン全国ネットワーク初代事務局長。92年自治労本部オルグ・公共サービス民間労組協議会事務局長。現在、現代の労働研究会代表。現代の理論編集委員。著書に「コミュニティ・ユニオン宣言」(共著、第一書林)、「社会運動ユニオニズム」(共著、緑風出版)、「公契約条例入門」(旬報社)、「アメリカの労働社会を読む事典」(共著、明石書店)

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