特集●安倍政治の黄昏と沖縄

安倍晋三首相の歴史観と国家観を問う

「国家が自由と人権を担保する」はずがない

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

1.安倍首相の歴史観

 

安倍首相による憲法改悪がいよいよ政治日程にのぼってきた。しかし予算国会、統一地方選、天皇代替わり、参院選というスケジュールのなかで、当選回数だけ多くて閣僚になれなかった入閣待ちの政治家を中心とした「最低の内閣」は閣僚不祥事を連発しそうで、安倍首相の憲法改悪のもくろみは追いつめられているようにも見える。

朝鮮半島をめぐる国際情勢の激変と、日本とかかわりが深い国々の政治指導者がナショナリズムを強めるなかで、右翼政治家である安倍首相がうまくやっていけるのだろうかという懸念は、誰しもが持っていることだろう。もっとも安倍首相は、表面的にはトランプ、プーチン両大統領、習近平主席ともそれなりにやってきたから、今の時点では、安倍首相の歴史観がさほど話題にのぼることはなく、国家主義者同士で肌が会うのかもしれない。安倍首相の歴史観は、どちらかというと、国内政治にかかわって議論されることが多い。集団的自衛権と戦争法制を頂点とする国家再編は、安倍首相の歴史観にもとづいて実行されてきた。

しかし、金正恩委員長との日朝首脳会談、日朝国交樹立などが想定されているけれども、安倍首相の歴史観はそれに耐えられるのか。

本稿では、12年前、安倍晋三が最初に首相に就任する直前に執筆した『美しい国へ』(文春新書、2006)を中心に、彼の歴史観と国家観を、現実と照らし合わせながら検証してみよう。

2015年の戦後70年首相談話で、彼は「わが国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのおわびの気持を表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み」と述べた。「アジアの人々に強制した」ではなく、「歩んできた苦難の歴史」と、まるで他人ごとのようだが、「先の大戦における行いについて」「反省とおわび」としているから日本が主語だといいのがれするかもしれない。しかし、朝鮮半島に強いた苦難は35年間に及ぶものであり、「先の大戦」4年間のものだけではない。それに対しても、少し前の段落で「植民地支配から永遠に訣別し」と書いてあるからわかるだろうというかもしれないが、その段落にも主語がなく、日本の責任を問わない一般論に読める。

なによりも「朝鮮半島」とはせず、「韓国」と限定して北朝鮮を除外し、「私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と、これからはもう謝罪しないぞと宣言した。では、今後、北朝鮮には謝罪しないのか。安倍首相は『美しい国へ』で、2005年のアジア・アフリカ会議にいたるまで、中国だけにでも21回、正式に謝罪していると書いている。それだけの回数の謝罪をしても、それが本心からの謝罪ではないと見抜かれていることを、安倍首相は気づいていないのか。

金委員長が求めてくるのはおそらく経済的関係であって、大人の対応をするだろうけれども、興味深いのは、最後まで北朝鮮を敵視してきた安倍首相がどんな顔で首脳会談に臨むかである。

2.アメリカと対等になりたい

集団的自衛権と戦争法制で、日本はいよいよアメリカの戦争に巻きこまれる危険が増したとよくいわれるが、安倍首相の意図はそうではないだろう。アメリカと、より対等に近い関係で、日本がアメリカを中心とする戦争にかかわり、あるいは独自にでも戦争を発動したいというのが、彼の願望ではないのか。

60年安保改定反対の論理も、「巻きこまれ論」だった。しかし、最初の52年安保条約にくらべると、60年安保改定の目的は、明らかに日帝自立志向にあった。安倍首相は『美しい国へ』で、「祖父(岸信介首相)はこのとき、この片務的な条約を対等にちかい条約にして、まず独立国家の要件を満たそうとしていたのである。いまから思えば、日米関係を強化しながら、日本の自立を実現するという、政治家として当時考えうる、きわめて現実的な対応であった」と書いている。誰もがいうように、安倍政治は岸政治の延長線上にある。

自民党の政治家の発言は、党員としての場合と首相・閣僚としての場合とでは、齟齬することが往々にしてある。安倍首相は日本の核武装は主張しないが、首相ではなかった2002年5月、参院予算委員会で、「我が国が自衛のための必要最小限度を超えない実力を保持することは憲法第九条第二項によっても禁止されていない、したがって、そのような限度の範囲内にとどまるものである限り、核兵器であると通常兵器であるとを問わず、これを保有することは憲法の禁ずるところではないとの解釈を政府は取っているということでございます」と答弁した。当時官房副長官であったから、一党員ではなく、準閣僚としての政府答弁である。いま、多数におごる彼は、今後、首相としてもそこまでいうかもしれない。いまのところ、アメリカが許さないから核武装をするとはいわないが、いずれは核兵器を持って、アメリカと対等に近づきたいのであろう。

安倍晋三は大学卒業後、神戸製鋼に入社し、ニューヨーク事務所での研修中、先輩から「アメリカ人と交渉するときは、……同じ立場だと思って、対等につきあうべし」と学んだという(『美しい国へ』)。こう書くのは、たんなるサラリーマンの処世術ではない。また同書に、「日米同盟における双務性を高めてこそ、……わたしたちの発言力は格段に増すのである」とも書いている。安倍首相がめざしているのは、アメリカと対等に近づくことであって、だからこそ英霊にこたえる会や日本会議などの鬼畜米英思想とも親近性を持っている、あるいは彼の本音なのである。

3.「国家が自由と人権を担保する」

安倍首相は国家に最高の価値を置く。自由も人権(わたしは人権とは西欧的価値観であると思うので、ほとんど使わないのだが)も国家が保障する、国家あってのものだという。わたしは、自由と人権をもっとも侵害するものが国家だという立場である。

安倍首相は書く。「個人の自由を担保しているのは国家なのである。それらの機能が他国の支配によって停止させられれば、天賦の権利が制限されてしまうのは自明であろう」「わたしたちが守るべきものとは何か。それは、いうまでもなく国家の独立、つまり国家の主権であり、わたしたちが享受している平和である。具体的には、わたしたちの生命と財産、そして自由と人権だ」(前掲書)。

安倍首相も、政府は国土・国民と並んで国家の3要素のひとつであるということはわきまえているのだろうが、3要素のうち、国土と政府、とりわけ政府の比重が大きいのだろう。国家の要素の中で政府の比重が増したとき、国民は政府に従属せざるをえない。だから労働者の賃上げに政府が介入し、官邸主導の春闘という事態が起こる。

「国家権力は抑圧装置であり、国民はそこから解き放たれなければ本当の自由を得たことにはならない、と国家と国民を対立した概念でとらえる人がいる。しかし、人は他人を無視し、自ら欲するまま、自由にふるまうことが可能だろうか。そこには、すべての要求が敵対し、からみあう無秩序社会――ジャングルの中の自由があるだけだ。そうしないために、近代社会は共同体のルール、すなわち法を決めた。放埓な自由ではなく、責任をともなう自由を選んだのである」(前掲書)。

まるで前近代には法がなかったかのような書きぶりだが、江戸時代にも法はあった。しかも明治維新後にくらべて、自治のある時代だった。はるかにさかのぼって、人間もその一種である類人猿の社会にもルールはあった。類人猿ではないサルにも社会があることは、動物園に行ったことのある人にはわかっているはずである。わたしたちの祖先は、ジャングル、森から出ることによって、人間になった。社会とは、ルールのある世界である。狩りを行なう人間は、必要によって狩りのルールを、そして平等に分配するルールも作った。

弱肉強食のルールは、人間以外の動物にも共通しているが、人間の世界ではそれが強化されてきたように思える。かつて狩りのできない障碍者は、共同体の守り手として尊重された。弱肉強食の基準は変化し、現代では金儲けの上手い、下手が基準であり、ルールなき資本主義ともいわれる。ただ人間は弱肉強食にいごこちの悪さを感じ、福祉というものを発案した。日本列島では少なくとも奈良時代には実行され、飛躍させたのは徳川綱吉である。

社会とは、ルールのある共同体のことであり、それは自治的なものであった。ところが支配者が生まれた社会、すなわち、国家は社会を支配しようとする。支配者の思想が貫徹した社会、国家に支配された社会は、「世間」というものに変質する。世間が国家の機能を一部代替して、人々を支配する。わたしが夢見るのは国家からの社会の独立であって、そのとき国家は消滅する。国家がなくても、人々は自治的にルールを創ることができる。

国家がなければ、無秩序で放埓な自由しかないという安倍首相は、よほどの性悪説で、人間というものを信頼していないのであろう。

4.国家と社会は本来対立するもの

「日本の国家と社会」というように、国家と社会という単語を区別せずに並列して使用するのは、国家が社会を支配していることを是とする国家主義者と同類になると思っているのだが、多くの人が何も考えずに使用しているのだろう。国家と郷土の関係も同じである。2006年の安倍教育基本法が「我が国と郷土を愛する……態度を養う」としたのは、郷土を愛するものは国を愛して当然という論理である。郷土とは、人が育つ社会であり、風土と文化である。例外はあろうが、多くの人は、郷土に愛着を持つ。中小規模の面積の国家の国民は、支配者が国家と郷土をわざと渾然一体とさせて国民を愛国に誘導していることに気づくことが難しい。

わたしがこのようにいうと、若者から「千本は日本や郷土を愛していないのか」と反問される。わたしにとって、郷土の範囲は自分でも不明確だが、関西、少なくとも播州は、わたしという存在にとって切り離せないものであって、「郷土を愛する」というような甘ったるいことばで表現するのは不適当である。

日中貿易にたずさわる中国人が、「中国人には愛国心がないので、政府は愛国教育を必要としているのです。日本の書店には、『日本の~』という本が山ほどありますが、中国には『中国の~』という本は、政府刊行物以外にはまずありません」と発言していた。中国人は、郷土愛が日本人以上に旺盛のように見えるのだが、国土が広すぎて愛国心が育ちにくいようである。愛国心と郷土愛は必ずしも一致しない。それは、支配装置としての国家と、人類、動物が持つ社会とは本質が異なるからだ。

安倍首相は、「人は何かに帰属してはじめて、自己を確認する……若者たちが、自分たちが生まれ育った国を自然に愛する気持ちをもつようになるには、教育の現場や地域で、まずは、郷土愛をはぐくむことが必要だ。国に対する帰属意識は、その延長線上で醸成されるのではないだろうか」(前掲書)と書いている。

人は色々なものに帰属する。自分がつくった人間関係、自分が選んで所属した組織。わたしはそこに自己を確認するが、日本国は自分で選んだ組織ではないので、そこでは自己を確認することはできない。安倍さんは、自民党にしても、日本会議にしても、自分で選んだ組織ではないのかもしれない。郷土愛の延長としての愛国心を強制されて、それでやっと自己を確認することができるとは、あまりにも自分というものがない、悲しくて寂しい人生ではありませんか。

5.「国のために死ぬのはいやだ」といえる日本

安倍首相は、就任直後は別として、靖国神社参拝を自粛しているようにみえる。しかし靖国神社にとって最も重要な春と秋の例大祭には欠かさず真榊を奉納するなど、最低の、というよりは基本的な義務を果たしている。靖国神社について無知な小泉首相が、自民党総裁選で日本遺族会会長の橋本竜太郎に勝つために、戦術的に「8月15日靖国参拝」を公約に掲げ、一部右翼から「小泉首相の欺瞞的靖国参拝弾劾」と批判されたのと対照的に、右翼・安倍は靖国神社を知っている。

靖国神社は戦死者を追悼する神社ではないのに、小泉首相が「追悼のために」といった際、安倍晋三は来日中のインドネシアのユドヨノ大統領に「わが国のために戦い、命を落とした人たちにたいして、尊崇の念をあらわすとともに、その冥福を祈り、恒久平和を願うためです」(前掲書)と靖国神社の公式的な立場に立って説明したという。当の小泉首相がそうはいっていないのに、勝手に訂正したのは越権行為であるが、靖国神社は追悼施設ではなく、「英霊」を顕彰、褒めたたえる施設である。安倍晋三はそれをさらにジャンプアップさせて、「尊崇の念をあらわす」といった。

靖国神社という存在も、8月15日に天皇夫妻と首相らが行なう「全国戦没者追悼式」も、天皇のために、国のために戦死した軍人らを顕彰・讃美するためのものである。靖国神社への首相参拝問題については、中国・韓国からの批判という外交関係は副次的な課題であって、本質は、今後も国民を戦争で死に追いやるために戦死者を賛美するという国内問題である。

ユドヨノ大統領は、「国のために戦った兵士のためにお参りするのは当然のことです」と理解を示したというが、これは、世界の趨勢である。安倍首相は、「英霊」を賛美することについて、各国の賛同を得ようとしている。中国・韓国はもちろん、世界のほとんど、すべてかもしれないが、国のために死んだ者を顕彰している。中国・韓国は、靖国神社がA級戦犯を合祀していることを批判しているだけである。

日本人の特異性は、国のために死ぬことに対する忌避感を持っていることである。15年ほど前、わたしの授業で、日本人学生と留学生が討論したときに、日本人学生が「国のために死ぬのはいやだ」と発言すると、ベトナムと韓国の学生が「国のために死ぬのは当然でしょう」と反論した。10年ほど前、NHKがBS放送で戦争体験を募集するお知らせで、「国のために死ねという国なら、要りません」という趣旨の男子高校生の発言を連日流していた。

現在は、少々変化しているかもしれない。9月の沖縄県知事選で反基地派の玉城デニ―候補が勝ったとき、ある女子大のわたしの大講義の感想文で、「若者は多くが佐喜眞候補を支持したのに、自分はアメリカ系だからわたしが交渉すると米軍基地はなくなる、と言うような馬鹿な玉城が当選したのは、老人が玉城に投票したから。若者の未来を奪う老人は投票権を制限すべきだ」というのがあった。驚いた。そういう現代でも、まだ、「国のために死ぬのはいやだ」という若者のほうが多数派であるように思える。それは、単なる政治アパシーなのか、それとも憲法第9条の精神が死なずにいるのか。若者の多数が、「国のために死ぬのはいやだ」といえる日本は、世界でもまれな国であって、その精神を日本は世界に発信していくべきである。

6.教育のさらなる国家統制へ

安倍首相が危機感を強調するのは、日本の高校生が「国に対して誇りをもっている」と答える割合の少なさである。日本青少年研究所の2004年の調査によると、日本は50.9%、アメリカは70.9%、中国は79.4%ということである。

「教育の目的は、志ある国民を育て、品格ある国家をつくることだ。そして教育の再興は国家の任である。日本の高校生たちの回答は、わたしたちの国の教育、とりわけ義務教育に、大胆な構造改革が必要であることを示している」と安倍は書き、この本の出版の2カ月後に首相に就任、その3ヵ月後に教育基本法を改悪した。「志」と「品格」の語義がわからない。わたしも志は持ちつづけているつもりである。品格と嘘はどのような関連があるのだろうか。教育が大事なら、教育予算をふやすべきだ。愛国心を育てるために、日本の「伝統・文化」理解教育が必要だとして、いまでは、全教科で「伝統・文化」理解教育が実施されている。しかし中身が伴っているとは思えない。

安倍首相の理解は、「ゆとり教育」の弊害で子どもたちの学力が落ちた(筆者は、ゆとり教育を主唱した某官僚の評価は別として、ゆとり教育の実施方法、その前に展望に欠けていたのであって、ゆとりそのものは悪くないと思うのだが)ことを回復するために、「ダメ教師には辞めていただく」、それ以上に重要なこととして、モラルを回復するためにボランティアを義務化すると提唱する。ボランティアでモラルが回復できるとは、あまりに底が浅い発想だが、近い将来の大学入試改革で同じことが語られていることにはあきれるとしかいいようがない。

重大なことは、学校に対する統制の強化である。「ぜひ実施したいと思っているのは、サッチャー改革がおこなったような学校評価制度の導入である。学力ばかりでなく、学校の管理運営、生徒指導の状況などを国の監査機関が評価する仕組みだ。問題校には、文科相が教職員の入れ替えや、民営への移管を命じることができるようにする」(前掲書)。

12年前に書かれたものであるが、当時は公立小中学校の民営化など、現実性があると思った者はいなかっただろう。しかし国立大学が法人化、自由になるという触れ込みでいわば民営化されて十余年、文科省による統制、それ以上に経産省による誘導は強化され、さらには防衛省まで介入してきて、国家統制は強まった。義務制学校が民営化されれば、もはや文科省も不要となり、経産省主導の国家統制「民営」学校となりはてるであろう。近年の文科省の首相官邸への抵抗は、そこを生命線としているというのは、噂にすぎないのであろうか。

「明治維新と天皇制―3-」は次号掲載の予定です。

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など

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