特集●安倍政治の黄昏と沖縄

日米地位協定を考える――基地問題を軸に

安倍軍拡・脱専守防衛の基盤が「日米安保条約」

ジャーナリスト 前田 哲男

はじめに

安倍政治の外交・安全保障政策における特質が――集団的自衛権行使容認を画期とする――<海外で戦争できる>自衛隊づくりにあることは言を俟たない。一部はすでに「米艦防護」やPKO部隊への「任務達成型の武器使用」(いわゆる「駆けつけ警護」)などとして実施されているが、その全体像は、年内にとりまとめられる改定版「防衛計画の大綱」のなかで鮮明になるだろう。そこでは「クロス・ドメイン(領域横断)」という名の防衛構想がうちだされ、「宇宙・サイバー・電磁波防衛」と「自由で開かれたインド太平洋戦略」が自衛隊活動および日米安保協力の柱となるはずである。すなわち、宇宙に向けて垂直に、また水平面ではインド太平洋に拡大した領域が、自衛隊・米軍の共同行動の場となってくる。当然ながら「専守防衛」から完全にはなれたスペースに「日米同盟」は拠りどころを置くこととなる。

そうした脱・専守防衛の基盤が「日米安保条約」であり、そのOS(オペレーションシステム=基本ソフト)にあたるのが「日米地位協定」および「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)であるのはいうまでもない。また兵器・装備面における「FMS」(有償軍事援助)買い付け――とくに安倍政権による<爆買い>――が、<米軍コピーの自衛隊>をつくりだし、共同作戦を容易にしている側面も見落とせない。

同時に、安倍軍拡に<足場>をあたえる意味で、在日米軍基地が果たしている役割はさらに重要である。安保条約第6条に「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため…使用することを許される」と書かれた「施設及び区域」(米軍基地)抜きに、辺野古新基地建設も、普天間や横田基地へのオスプレイ配備もあり得なかった。それらは「日米地位協定」にいう「全土基地方式」を根拠に、ある日突然、基地に指名され、また新機能を付与された。「かなめ」に位置するのが「地位協定」である。

以上を整理すると、安保条約⇒地位協定⇒ガイドライン⇒防衛計画大綱⇒クロス・ドメイン防衛構想、の順序と流れとなって日米軍事潮流を形成しているとわかる。そこで以後は、安保条約の基本ソフト=日米地位協定について、その沿革をたどり、問題点(ありすぎるのでその一部「基地提供」を中心に)にふれる。

1.ルーツとしての「日米行政協定」

地位協定は、正式名称を「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約第6条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定」という。

そもそも慣習国際法の世界では、軍隊は(海外または外国の地にあっても)その属する国家の延長とみなされ、治外法権を主張できるとされる。そこから「派遣国」と「受け入れ国」とのあいだに国家主権をめぐる根源的な矛盾とあつれきが生じることとなる。

20世紀前半までの国際社会では、自外国領土への外国軍隊の駐留は例外的な事象、たとえば、(戦闘の結果としての)「戦時占領」、または(満州に駐屯した関東軍のような)植民地における「駐屯軍」といった特殊ケースしかなかった。ところが、第2次世界大戦後の冷戦期になると、米ソ両陣営とも外国に自国軍を常駐させる状態が一般化し、その結果、派遣国軍隊の治外法権と、受け入れ国の領土主権との調整をはかる必要から「軍隊の地位に関する協定」がむすばれるようになった。NATO地位協定、米韓地位協定などとともに日米地位協定も、その類型に属する。

日本の場合でいうと、敗戦から占領期をへて独立回復(1951年のサンフランシスコ平和条約)がなされたのと同日、アメリカと安全保障条約(旧安保)が調印され、そこに「日本国内及びその附近にアメリカ合衆国がその軍隊を維持することを希望する」(前文)と規定されたため、「米軍隊を規律する条件」(第3条)として「日米行政協定」(当時は地位協定をそうと呼んだ)がむすばれた。「基地」をめぐる日米摩擦の歴史がここにはじまるのである。

派遣国の「軍隊主権」と受け入れ国の「領土主権」の衝突という根本的な問題にくわえ、「日米行政協定」はより卑屈かつ従属的な内容を盛りこんでいた。サ条約は、「占領軍は、いかなる場合にも90日以内に日本国から撤退しなければならない」(第6条 占領の終結)と規定していた。本来なら、当時、全国に2824か所、26万人いた米軍兵士(軍政下にあった沖縄をのぞく)は基地もろとも消滅するはずだった。

しかし、吉田茂内閣による安保条約締結がそれをふいにした。米側交渉代表J.F.ダレスは「我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望むだけの期間、駐留させる権利を獲得する」(全土基地方式)方針を主張し、日本側がそれを受けいれたからである。その結果、平和条約発効時に存在した「占領軍基地」の主要部分は、そのまま(安保条約にもとづく)「駐留軍基地」へと看板を書き替えただけで(独立回復から90日が経過しても)米軍管理・米軍管理下に据え置かれることとなった(岡崎・ラスク交換公文によりそれを認可した)。

さらに重要なことは、「日米行政協定」交渉が「内閣の一般行政事務」として行政府かぎりで処理され、その内容は国会にはかられず、批准・承認も必要ない形式、つまり国民のあずかり知らぬ政府間交渉で取り決められたことである。「独立回復」をよろこぶ国民は、安保条約の裏側にそのような「占領軍基地の永続化」がかくされている事実を知るよしもなかった。もっと悲惨だったのは沖縄基地の場合だった。平和条約で日本政府は、沖縄を本土から切り離し米統治下とすることに同意したため、それまでの「戦時占領」が継続され「銃剣とブルドーザー」による基地収奪が以後もつづくのである。

2.行政協定を引き継いだ60年安保の「地位協定」

1957年、岸信介内閣が「安保改定」に乗りだし、60年6月、現行安保条約が成立した。さまざまな論点、また警官隊導入による強行採決など、いくつもの問題点があるが、ここでは基地問題にしぼって見ていこう。

結局のところ、改定安保では「日米行政協定」が「日米地位協定」と名称変更されたほかは、米軍基地の権益になんの変更ももたらさなかった。いちおう「地位協定」は国会の承認を要する安保条約の付属協定として上程された。しかし、内容といえば「行政協定」時代とかわりない「排他的な基地管理権」と「米兵犯罪は米軍に」を継承し、保証するものであった。

たしかに地位協定は、国会に「承認案件」として提案された。とはいえ、全文28条からなるこの協定の実質審議はおこなわれなかった。なぜなら、60年2月、衆議院に設置された「特別委員会」審議の論点は、安保条約本体がもつ幾多の問題点――改定そのものの必要性、極東の範囲、集団的自衛権、海外派兵など――に集中し、そのうえ、審議なかばにして強行採決された結果、関連批准案件である「地位協定」の各条について、それが、いかなる根拠、意義、限度をもつものか、などの質疑はいっさいなされなかったからである。

もし、60年安保国会で地位協定の逐条審議がおこなわれていたなら、その不平等性、従属性はもっとはやく国民の知るところとなっていただろう。「思いやり予算」と称する(名前からしてうさん臭い)支出費目、全国どこにも設定できる「低空飛行訓練空域」など、拡大解釈による運用――それを可能とする「駐留軍用地特別措置法」「刑事特別法」「航空法特例法」などの「安保特例法」――がうまれる余地はなかったにちがいない。しかし、審議打ち切り・強行採決でその機会は失われた。

したがって、日米戦後史の流れに則していうとつぎのようになる。占領時代の米軍基地特権は、1952年、(国会審議なしの)<吉田安保>に継承され、60年の<岸安保>も、ほぼおなじ権益を(実質的な国会審議抜きで)追認した。その結果、在日米軍基地にかんしては(立法府の意思さえ反映されずに)占領期の強制接収をひきずった状態で、基地提供が、いわば<既得権益>として順送りに継承されてきたのだ、と。

とりわけ沖縄基地の場合は、(改定された安保条約のもとでも)いぜん「日本の施政の外」に置かれたので、占領=軍政そのものの基地使用がつづくこととなった。

ここで「全土基地方式」というキーワードの移り変わりを考えてみる。

占領期において「占領軍調達命令」は抗弁を許されぬ絶対のものだった。必要とされる場所すべてが接収の対象とされた。<吉田安保>では(ダレスのいう)「望む場所・望む期間・望むだけの兵員」を満足させるため「駐留軍用地特別措置法」が制定された(1952年)。一方的な基地指定に反対して「内灘闘争」や「砂川事件」「妙義闘争」など多くの反基地運動が起こったことはよく知られている。

「地位協定」時代になると、「日米合同委員会」(第25条)という常設機関がすべてを取り仕切るようになり、その合意と決定が安保運用にかんする最高方針となった。

地位協定第2条は「個個の施設及び区域に関する協定は、合同委員会を通じて締結しなければならない」と規定する。裏を返せば、合同委員会の合意があれば、全国どこにでも基地新設が可能となる仕組みだ。合同委員会メンバーに閣僚はいない。日本側・外務省北米局長、米側・在日米軍司令部副司令官がトップである。その下に20を超す省庁横断型の分科委員会と部会がもうけられて案件を処理する。思いやり予算なら「財務分科委員会」、低空飛行訓練空域は「施設分科委員会」や「航空分科委員会」といった具合である(辺野古新基地の場合は「SACO実施部会」が受けもつ)。

日米合同委員会の議事録や合意文書は「非公開が原則」とされ、決定事項は(実施の必要上)官報に掲載されるが、国会承認がもとめられることはない。情報開示請求も受けつけず、文字どおり<闇の権力>である。このような機関で、(辺野古など)基地の新設、(低空飛行訓練など)空域の使用が協議され、「閣議決定」にいたるのである。そうしてできた基地は、第3条(基地管理権)によって「運営し、維持し、占有し、整備し、警備し、及び管理すること」が保証される。いまなお「占領期を引きずっている」というのは、そのような意味においてである。

3.沖縄への適用 大田知事の改正提起

こうした屈辱的な地位協定の運用実態に風穴をあけたのが沖縄県の大田昌秀知事であった。

沖縄は、占領期には、戦闘の結果としての戦時占領、すなわち「軍政下」に置かれ、<吉田安保>と<岸安保>の時代もまた本土から切り離された境遇――「沖縄に基地があるというより基地の中に沖縄がある」と形容された――にあって、本土よりもさらに苛酷な基地との共存を強いられてきた。それゆえ、1972年の日本復帰は「平和憲法のもとへの復帰」が県民多数のねがいだった。しかし、現実はそうならず、「安保条約下への復帰」となった(じっさい、「沖縄返還協定」第1条は「施政権返還」だが、それにつづく第2条は「安保条約の適用」である)。

復帰後四半世紀たっても「基地苦」に変化はなく、そのようななかの1995年9月、「米軍人による少女暴行事件」が起こったのである。米軍側は、沖縄県警が特定した容疑者の身柄引き渡しを「日米地位協定」の規定(第17条 刑事裁判権)により拒んだ。

10月21日、「米軍人による少女暴行事件を糾弾し、日米地位協定の見直しを要求する県民総決起大会」がひらかれ、8万5000人の県民が参集した。県民の声を背に、大田知事は11月、政府に「地位協定見直し要請」をおこなった。そこには、協定第2条の「問題点」として、

本県には、在日米軍専用施設の約75%の米軍基地が存在し、県土の約11%を占め、とりわけ人口、産業の集積する本島では、米軍基地は約20%を占めている。

さらに、米軍基地に接する水域や訓練水域(31ケ所)、訓練空域(15ケ所)が設定されているなど、本件の振興開発に大きな支障となっている。

復帰後、これまでに返還された施設・区域は、全体の約15%にとどまり、整理、縮小は、進展していない。

このように全土基地方式でありながら、沖縄だけに基地が集中する現状に対して、県民は大きな不満を持っている。

こう述べて、大田知事の「見直し要請書」は、第2条だけでなく、第3条の基地管理権における排他・閉鎖性、第5条(通過権)を根拠とした海兵隊部隊による「基地間移動」という名の昼夜問わぬ行軍、さらに、第17条・刑事裁判権(「被疑者の拘禁を日本側でもできるようにすること」)にもおよんだ。「要請書」は、ドイツが米政府と交渉して改正した「ボン補足協定」――同協定によりドイツでは「国内法優位原則」が確立された――を援用しながら、日本政府に地位協定の不平等性是正に向けた対米交渉をもとめた。また第25条・合同委員会についても、「地域住民の生活に大きく関わる問題であるにもかかわらず、当事者である県や市町村等の意向を聴取したことはない」と閉鎖性をつよく批判、見直しをもとめた。

大田知事による「地位協定見直し要請」は、98年にも再度なされ、そこでは、SACO(沖縄に関する特別行動委員会)合意による普天間飛行場の移設先に「キャンプ・シュワブ沖」が挙げられていることについて(この時期、大浦湾埋め立てはまだ決定していなかった)、名護市の住民投票(97年実施)で「反対が賛成を上回り住民は地元に海上ヘリポート基地を建設することに明確な反対の意思を表明しました」と指摘した。この大田知事の意思は、翁長雄志知事にも受け継がれて「オール沖縄」への結集となり、玉城デニー新知事誕生となったことは述べるまでもない。

この間、沖縄以外の本土米軍基地においても、たとえば、厚木基地周辺の空母艦載機による騒音問題や横須賀基地の空母母港化、原子力空母の配置、また九州~関東~北海道にわたる低空飛行訓練のルート設定と被害報告など、「全土基地」のもたらす負担は増大していった。でありながら、政府は(ドイツやイタリアがしたような)「地位協定改定」にまったく動こうとしなかった。

4.「新ガイドライン」に見る基地使用の新段階

目を転じて、地位協定のいま、を見ておこう。そこでは「全土基地」のさらなる拡大、グローバル化がはかられている。

「戦争法」が制定(2015年)されたのとおなじ年、「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)の改正が日米合同委員会経由で了承された。ガイドラインとは、日米軍・軍連携の指針、いわば「ウォー・マニュアル」にあたる文書である。「新ガイドライン」は、それまでのガイドライン(97年合意)にあった「平時・有事・日本以外の事態」の区分をなくし、「防衛協力の目的」を以下のように設定した。

・切れ目のない、力強い、柔軟かつ実効的な日米共同の対応

・日米両政府の国家安全保障政策間の相乗効果

・政府一体となっての同盟としての取組

・地域および他のパートナー並びに国際機関との協力

・日米同盟のグローバルな性格

これらを見るだけで、地位協定の枠組みが(集団的自衛権行使をふくむ)グローバルなものとなり、日米の軍・軍連携が「国外行動型」に変化したことがわかる。当然、それは日本国内の米軍基地の活動に映しだされる。新ガイドラインには「施設(基地)の使用」が多くの個所で言及されている。たとえば――

「日本の平和及び安全の切れ目のない確保」の節

施設の使用

日米両政府は、自衛隊及び米軍の相互運用性を拡大し並びに柔軟性及び抗たん性を向上させるため、施設・区域の共同使用を強化し、施設・区域の安全の確保に当たって協力する。日米両政府はまた、緊急事態へ備えることの重要性を認識し、適切な場合に、民間の空港及び港湾を含む施設の実施調査に当たって協力する。

また「日本に対する武力攻撃への対処行動」の節では、

施設の使用

日本政府は、必要に応じ、日米安全保障条約及びその関連取極に従い、施設の追加提供を行う。日米両政府は、施設・区域の共同使用における協力を強化する。(下線は引用者)

「その関連取極」が、日米地位協定を指していることはいうまでもない。「施設の追加提供を行う」としたくだりに、「全土基地方式」がいぜん生きていることを読みとれる。

このような地位協定~ガイドラインの流れのなかに、占領期から継続されてきた「基地特権」は確固として維持されてきたのである。大田知事の「見直し要請」は黙殺された(のちの稲嶺知事も要請書を提出したが同様だった)。

5.「全国知事会」が見直し提言に踏みきる

なぜ、このような不平等な協定が維持されてきたのか。

理由は単純である。まず日本側に改定意欲が欠けていたこと、そして米側からすると、この上ない好境遇を変えたくない思いがつよかったことにつきる。日本政府の弱腰ぶりは、95年に沖縄で起きた「少女暴行事件」のさい、県民大会の決議、大田知事の要請にたいして、米側に「地位協定の運用改善」以上の措置をもとめようとしなかった事実にも表れている。

他国、たとえばドイツやイタリアの場合、東西冷戦終了後の国際環境を利用して対米交渉を開始した。その結果、「受け入れ国側の国内法優越」「派遣国の基地管理権制限」「訓練・演習への受け入れ国の関与」などを米政府に認めさせた。新基地の提供はもとより、低空飛行訓練がドイツ、イタリアで実施されることは、もはやない。まして、「嘉手納ラプコン」や「横田ラプコン」といわれる米軍が空域管制する権利など存在しない。米韓地位協定にしても、金大中大統領時代(2001年)に合意議事録が交わされ、より対等に近いものとなった。

遅ればせながら日本でも動きがでてきた。ようやく時代に追いついた、というべきだろうか。本年7月27日、全国知事会が「地位協定の抜本的見直し提言」を採択したのである。背景にオスプレイによる全国空域での飛行計画、低空飛行訓練による騒音被害なども頻発して、「沖縄のことだけではない」と認識されたのであろう。ようやく全都道府県の知事が「地位協定見直し要求」に結集した。

知事会提言は、16年以降「米軍基地負担に関する研究会」を設置、検討をかさねてきたと前置きし、沖縄県の過重な基地負担を指摘したうえで、

「米軍基地の存在が、航空機騒音、米軍人等による事件・事故、環境問題等により、基地周辺住民の安心安全を脅かし、基地所在自治体に過大な負担を強いている側面がある」と述べ、4項目の提言をした。全文をかかげておく(強調部分は原文のまま)。

1 米軍機による低空飛行訓練等については、国の責任で騒音測定器を増やすなど必要な実態調査を行うとともに、訓練ルートや訓練を行われる時期について速やかな事前情報提供を必ず行い、関係自治体や地域住民の不安を払拭した上で実施されるよう、十分な配慮を行うこと

2 日米地位協定を抜本的に見直し、航空法や環境法令などの国内法を原則として米軍にも適用させることや、事件・事故時の自治体職員の迅速かつ円滑な立ち入りの保障などを明記すること

3 米軍等による事件・事故に対し、具体的かつ実効的な防止策を提示し、継続的に取組を進めること

  また、飛行場周辺における航空機騒音規制措置については、周辺住民の実質的な負担軽減が図られるための運用を行うとともに、同措置の実施に伴う効果について検証を行うこと

4 施設ごとに必要性や使用状況等を点検した上で、基地の整理・縮小・返還を積極的に促進すること

この提言に、政府はまだ回答していない。それよりも、4.「新ガイドライン」に見る基地使用の新段階で見たように、「戦争法」と「新ガイドライン」に書きこまれた「施設の使用」のほうが先行しているとの懸念もつよい。今後、全国知事の声をどのように実質化していけるかがカギとなる。

おわりに

以上、日米地位協定の沿革と現状をごくおおまかに振りかえってきた。そこからわかるのは、「行政協定」時代にさかのぼるまでもなく、この協定には、いまなお「占領時代」の跡が色濃く刻印されている事実である、地位協定の運用実態に照らしても、日本はまだ<被占領国>だといわれても致しかたない。沖縄はまさしく<そのもの>である。

そのような状態――わけても沖縄の現状――を解消するために、「米軍基地を本土に引き取る」という考えがあるようだ。しかし、それが解決策になるのだろうか。

(何度もふれたように)日米地位協定は「全土基地方式」の原則に立つ。運用の全権は「日米合同委員会」の密室にゆだねられる。国会も関与できない。そのような不均衡な基盤に(たとえ善意であっても)「本土への基地引き取り」を提案すれば、現状の悪にさらなる悲惨を積みかさねるだけでしかない。「新ガイドライン」に書かれた項目からもそれは明白である。

10月3日発表された「第4次アーミテージ・リポート」(21世紀における日米同盟の刷新)の一節には、

「日米は米軍と自衛隊が別々に使用している基地の統合に向けて動くべきだ。最終的には在日米軍は日本の国旗を掲げた基地(Japanese- flagged bases)から部隊運用をするべきだ。」

とある。

佐賀空港のオスプレイ基地化、秋田市と萩市へのイージス・アショア基地設置、これらはいちおう「自衛隊基地」を名乗っているが、地位協定第2条4項を適用すれば、いつでも米軍基地に変換し得る(政府もその可能性を否定していない)。「アーミテージ・リポート」はそこへ踏みこんでいるのである。

そのような大きな枠組みに目をつぶった「引き取り論」の主張は、日米当局にエールを送るものとしかならないだろう。

正道は、「全国知事会提言」――ドイツ、イタリアにくらべるとずっと控えめではあるが――にあるように、安保条約はさておいても「地位協定」改定に全力をあげることである。95年に大田知事が提言した「地位協定見直し」が、ようやく全地方自治体代表者の声となった。これを安倍政権がめざす<戦争法体制>と対峙させること、沖縄はじめ全国米軍基地のありかたを変える方策はそこにしかない。

付記

本文ではふれなかったが、「軍隊派遣国」と「受け入れ国」との不平等な関係が、いま、日本に「自衛隊派遣国」の立場を持たせるにいたった現実も直視しておかなくてはならないだろう。

2009年4月3日、中曽根外務大臣とユスフ・ジブチ外務・国際協力大臣が、署名、交換した「ジブチ共和国における日本国の自衛隊等の地位に関する日本国政府とジブチ共和国政府との間の交換公文」がそれである。ここにおいて日本は、「日米地位協定」における<被動者>の立場を<主動者>へと転換させた。その一部を見ると――

 

4 部隊、海上保安庁及び連絡事務所は、ジブチ共和国政府によって次の特権及び免除を与えられる。施設並びに部隊、海上保安庁又は連絡事務所が使用する船舶及び航空機は、不可侵とする。

(a) ジブチ共和国政府の官吏は、日本国政府の権限のある代表者の同意を得てそれらに立ち入ることを許される。

(b) 部隊、海上保安庁及び連絡事務所並びにこれらの財産及び資産(所在地及び占有者のいかんを問わない。)は、あらゆる形式の訴訟手続からの免除を享有する。徴発、差押え又は強制執行を免除される。

(c) 部隊、海上保安庁及び連絡事務所の公文書及び書類は、いずれの時及びいずれの場所においても不可侵とする。

(d) 部隊、海上保安庁及び連絡事務所の公用通信は、不可侵とする。

 

かつての(「日満議定書」1932年)を想起させる内容である。一方で、このような<基地加害者>の立場を獲得している現実にも目を向けなければならない。

まえだ・てつお

1938年、福岡県生まれ。長崎放送記者をへてフリージャーナリスト(軍事・核・太平洋問題など)。東京国際大学教授、沖縄大学客員教授も務めた。著書に『日本防衛新論』(1982年現代の理論社)、『国会審議から防衛を読み解く』(編著03年三省堂)、『戦略爆撃の思想―ゲルニカ・重慶・広島 』(06年凱風社)、『自衛隊 変容のゆくえ』(07年岩波新書)、『9条で政治を変える 平和基本法』『「従属」から「自立」へ 日米安保を変える』(08、09年、いずれも高文研)、『自衛隊のジレンマ―3・11震災後の分水嶺』(11年現代書館)、『フクシマと沖縄―「国策の被害者」生み出す構造を問う』(2012年、高文研)など多数。『世界』11月号に「安倍軍拡の行方」を寄稿。

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