連載●池明観日記─第2回

韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート

池 明観 (チ・ミョンクヮン)

2009年つづき
歴史に対する展望

歴史的に韓半島(朝鮮半島)は、それが占めている地政学的位置においてどのように生き延びることをはかったといえるであろうか。この観点から考えると朝鮮王朝(1393-1910年)以前は長い試行錯誤の過程であったといえるかもしれない。朝鮮王朝においてもその生き方というのは、半島においてどのように生き残ることができるかということであったといわざるをえない。壬辰倭乱(イムジンウェラン 文禄・慶長の役)、そして丙子胡乱(ビョンジョホラン 1636年の清の侵入)を経験しながら事大的な姿勢で生き残ろうとしたといえるであろう。ある意味では今日においてもそのような姿勢で生きて行こうとしなければならないのかもしれない。

それは事大的な生き方というよりは中間者として北東アジアの平和のために生きることであると表現しうるかもしれない。誠実にその役割を担いながらまずは中国と日本に影響を与えることである。これを自国の生存のために求めながら東アジアのために果たすのである。中国が台頭すれば日本との間に新しいバランスを求めざるをえない。20世紀の初頭前後わが国は日中のあいだにあっていかに迷いに迷い続けたといおうか。その時は帝国主義の時代であったがために、それまで中国と日本とに対してわが国が保ってきた姿勢はくずれて行かざるをえなかった。

今日においては南北分断という歴史的状況を前にしてこのような現実に対応しなければならない。そこにアメリカという重要な国が入ってくるわけであるが、その力が以前ほど直接的ではないといえるにせよ、アメリカの力はまだまだとても重要である。もしもその力が弱まってきているとすれば、それだけ東アジアにおける三国の協力的姿勢はいっそう重要になってくるであろう。

対米関係において今までわが国が今日のような力を持った時代があったであろうか。解放後60年の歴史を振り返って見てこういうことがいえるかもしれない。アメリカが支配的であった状態からわれわれはだんだんと力をつけてより自主的な立場でアメリカと関係しうるようになった。今日アメリカにとってわが国が必要な国となり、北東アジアでアメリカともっとも友好的な国にならねばならない。とりわけわが国の南北問題においてアメリカと協力しあわなければならない。そのような意味で私は北朝鮮を疎外させているといえるかもしれない李明博政府の政策を支持する。(2009年11月10日)

カントも18世紀末において永久平和論を展開しながら経済によって世界平和を展望したではないか。ヘーゲルは19世紀に向けて統一されたドイツを展望しながらそこにおいて歴史の完成なるものを考えた。当時は哲学者とか知識人が歴史の前途を展望した時代であった。今日においては政治家が知識人に先立って‘北東アジア’も展望しているように思える。政治家と知識人の役割が逆転しているようにも見える。知識人がほとんど単純な知的仕事に従事するようになり、その職業を超えて歴史を展望する役割を放棄したように見える。いずれにしてもそのような知識人がいなくなった時代にわれわれは行き着いたのではなかろうか。

キリスト教において終末論的思考がなくなっていくようである。第一次大戦後に現れたような危機意識がなくなったからであろう。それで第一次大戦ころのキリスト教的歴史観がこれまでの断絶を超えて続くものであると考えるならば、今日の神学はそれに対する深い考察をくり広げるべきであろうと思われる。近代の歴史発展論と今日のそれとを比較して論じなければならないのではなかろうか。そこにおいて思想史的にどのような論理の発展を見つけ出すことができるのであろうか。

正反合の弁証法ではない。与野の対立ではなく、選挙に勝てば天下はわがものという発想ではない。どうすれば反対者いわば敗北した少数者を収容しうる政治権力となりうるかが問題である。常に現実的な妥協の道をさぐり出さねばならない。それが人間社会のあるべき姿ではないか。政治権力を握るというのは多数者の支持をえて勝利することであるが、権力を握った瞬間から全体の代表となることに努めなければならない。多数であれば正しいのであり、支配者であるというのが今日における政治的民主主義であるとは思わない。歴史的に多数を占めた権力がこれほど脆弱になった時代があったであろうか。日本の与党になった民主党政権の低姿勢は見ものであるといえよう。李明博政府はわが国の近現代史において今までもっとも国民に対して腰の低い政府といえるのではなかろうか。大統領の権威とはほとんど縁のない政府ではないかと時たま思えてならない。

弁証法でないとすれば東洋的論理とでもいおうか。実際今は歴史は弁証法的に発展することなく反復するものであるといえよう。今日においては対立している間をどのようにくぐり抜けるかが政治であり、実際これがまた歴史であるといえようか。そのような過程を踏みながらもわれわれは発展を考える。数日前同窓会の席上で私は日本の支配から自由になって半世紀以上の歴史を振り返って、この国の歴史はたえず発展してきたといわざるをえないと語りだした。これからもこれ以上の国民所得、暮らし向きの向上をわれわれは頭にえがいているのではないか。われわれは過ぎ去った日々とは異なって常に発展を夢見ながら、その夢がきっと実現するものだと信じて生きている。

われわれ個人の人生とは関係なく、たとえわれわれは淋しく逝ってしまっても、この国、この世界の歴史はそのように進んで行くに違いないと考える。そこでキリスト教的終末論はどうなるのだろうか。至上のものと考えられてきた国民国家という考えも崩れて来ているようである。ヨーロッパの歴史においてラテン語が消えて行ったように、いまフランス語がすでに外交の舞台において消えてしまった。英語が各国の国語を地方語にしながら世界を支配して行くのであろうか。コンピュータもこのような流れを促進させているのであろう。そのような流れに対する学問的検討も追いつかぬまま、現実の政治は流れて行くのであろう。反動はありうるかもしれないが、歴史は不可逆であるといわねばなるまい。

かつては死の戦場へと政治が国民を追い出していた時代であった。しかし今は一人の死があっても恐れをなしながらアフガニスタン派兵をためらわなければならない時代ではないか。数多くの生命が奪われて行くのに、それでも愛国といって戦争に歓呼した時代は過ぎ去った。人間個人の生命をこのように尊重しなければならなかった時代が、今まであっただろうか。核兵器で人間を絶滅しうる時代であるというのに。力が極限に達してかえって、無にひとしくなるという歴史のアイロニーであるというのか。人間がそのような‘有情’の存在になったというのではあるまい。歴史がそのような方向へとわれわれを追い立てているのだ。それにもかかわらずかつての歴史におけるように国民を戦争へと追い立てようとしながら、それを口実に一人独裁を続けようとする北のあの地をわれわれはながめていなければならない。歴史はそのような状況をいつまで許しておくというのであろうか。その地は没落の日を恐れるあまり、異常な精神状態に陥っているのだろうか。(2009年11月15日)

2010年
ジャン・クリストフを読みながら

ロマン・ロラン『ジャン・クリストフ』(岩波文庫)を読んでいる。ロマン・ロランはジャン・クリストフを通してドイツとフランスの間の国境はなくならねばならず、二つの国がおたがいに力を補いながら協力しあってヨーロッパ文明の礎を築き上げなければならないと考えた。この作品は1904年から12年にかけて完成した作品であった。ちょうど第一次世界大戦直前に書かれた預言者的小説である。このような姿勢で、彼は第一次、第二次の世界大戦の時代を耐え抜かねばならなかった。ロマン・ロランはイスラエル人に対して“異民族であるために数世紀来孤立して生き、冷笑的な観察眼が鋭利にされている”(第2巻68頁)といった。彼はまたイスラエルの女性に対してつぎのように考えたのであった。“イスラエルの女は全ヨーロッパを通じて住んでいる国土の肉体的および精神的風潮を、しばしば大袈裟に採用するが―それでもなお、民族固有の面影を、その濁った重々しい執拗な風味を失うものではない。”(第4巻85頁)

ハンナ・アレントの場合はどうであったであろうか。そして世界に散らばっているわが民族の場合はどうであろうかと考えざるをえない。ある意味ではわれわれの場合もそのような方向に流れているのではなかろうか。

ロマン・ロランはヘルデルのことばとして“何かを栄光とする者のなかでおのれの国家を栄光とする者は、至極の愚者である”という一言とシラーのことばとして“ただ一国民のためにのみ書くのはきわめて貧弱なる理想である”(第4巻257頁)ということばを引用した。ドイツの近代的国家主義が起こってくる時代相を耐え難く思いながら悩み苦しんだ知識人のことばであるといわねばならない。日本の場合は、‘韓国の場合は’、ナショナリズムをどのように解釈すべきであろうか。21世紀の北東アジアを前にしてわれわれもこのような国家主義を問題にしなければならないのではなかろうかと考えざるをえない。

フランスに対するロマン・ロランのことばも興味あるものである。パリでのことばであるが、“そこでは政治が文学芸術に干渉することがなく、情誼とか恩義のために勲章とか地位や金銭を分け与えることはない”というかと思うと、“自分たちのすべてを非難し敵をたたえるフランス人たちの驚くべき自由”についても彼は言及した。われわれの場合はどうであろうか。 (2010年1月17日)

ロマン・ロランは『ジャン・クリストフ』第5章‘広場の市’でドイツとフランスの大きな違いについて、フランス語はドイツ語に比べて“あまりにも論理的であり、あまりにも形態が正しく、あまりにも輪郭が確実で”音楽には不適当であると考えるという。日韓を比較すればどうであろうか。地理的に近いながらもそのような文化の相異が現れると考えなければなるまい。作品の主人公であるクリストフはつぎのように考えた。

“このフランスの音楽家はあらゆる熱烈な感情をも声低くささやかせようと皮肉な慎重さで努めたようだ。愛も死も叫びの声を挙げはしなかった。作中人物の魂の中で行なわれている動乱も旋律の線のかすかな震えによって、口角の皺ほどほとりのしわの程度の管弦楽のおののきによって震えで伝えられているのみだった。あたかも作者は身を投げ出すことを恐れているようだった。”(第5巻455頁)

少なくとも韓国の詩と日本の詩との間にもこのような違いがあるのではないかと思われる(拙著『叙情と愛国―韓国からみた近代日本の詩歌』明石書店、参照)。『ジャン・クリストフ』ではドイツとは異なり淫らであるといえるフランスの小説に対しても言及している。ロマン・ロランは‘ラテンの不道徳’と‘貞節なるドイツ’ということばを使用した。(2010年1月18日)

ロマン・ロランはまた『ジャン・クリストフ』においてこのようなこともいった。第一次世界大戦直前のフランスの‘社会主義または急進主義をやっているという’勢力に対してである。

“それほど彼らの野心は短見浅虜であって直接の利益と再選の範囲を出てなかった。彼らは新しい社会を信ずるようなふりをしていた。おそらくかつて信じたことがあっただろう。しかし実際は、死にかかっている社会の遺物によって生活しようとしか考えていなかった。……選挙人の息を迎えるためには祖国の四肢を断つかもしれなかった。彼らに欠けてるのは知力ではなかった。彼らはなすべきことをよく知っていた。しかしそれを少しもなさなかった。なすには多くの努力がいるからだった。……社会の上下を通して、できるだけかぎりの快楽を多くして、努力は少なくせんとする同一の道徳が支配していた。かかる不道徳な道徳が多難な政治を導いて行く唯一の糸であった。”

“道楽的将校、道楽的裁判官、道楽的な革命家、道楽的な愛国者。一般的にわたる政治道徳の堕落であった。……議員らは歳費の増額をみずから投票した。” 

そういう中で“祖国に対する反応を教える小学校教員……”とまでいっては、“富者の破壊ではなく、世界の富の破壊であった”と続けた。そこで“病人めいた人道主義”とまでいった。そこで主人公をしてつぎのように嘆息をつかせた。

“フランスは自由というものに酔っている。狂乱を演じたあとで倒れてしまうだろう。そして目を覚ます時には拘置所にぶち込まれてるだろう。”

そこでは“何も信じない不安定な性質と何事にも耳を傾けずにただ人生をかき回す理屈癖の理性”(第5巻548-9頁)が横行しているといった。『ジャン・クリストフ』が1904年から12年までの独仏を舞台にしたものであるとすれば、これは第一次大戦前夜のドイツとフランスのことではないか。この時の両国の姿が今日の韓国の政治風土となんと似通っていることか。今日においては戦争はないといえるかもしれない。しかし、今日の韓国における与野党そして国会議員たちの風土がなんとこの時代に似ていることであろうか。歳費を値上げすることには与野党一致というのは、どこでも同じ風景なのであろうか。ロマン・ロランはそれを嘆いたが、その目で第一次、第二次大戦が起こり、人類史的な恐ろしい罪悪がくり広げられるのをながめなければならなかった。(2010年1月21日)

ロマン・ロランは第7巻に‘ジャン・クリストフの友人らへ’という序文をつけた。このような困難な時代にこの流れに押し流されない人間像を描きたいと思ったという。“ジャン・クリストフはいつも大河のごとく私の眼に映った”(143頁)といった。フランスの息の根を止めるような精神界といいながら、何よりも政治家たちの腐敗している思想に対して反抗して立ち上がりたいといいながら、彼らに対してつぎのように言ってやりたいというのであった。“君らは嘘を言ってる。君らはフランスを代表してはいない”(142頁)と。

こうしているうちに第一次大戦が起こってくる。ロマン・ロランはそのような濁り切った社会、フランスとドイツの傷ついている社会を赤裸々に描き出しながら、それに染まっていないフランスとドイツの友情を描き出そうとした。それは今日のわれわれに対するメッセージでもある永遠なることばである。そのようなことばが日韓の間でも可能でありうるだろうか。何よりもロマン・ロランは独仏間の状況にかかわらず、その時代全体の状況に対して生々しい批判的な描写を加えようとしたのであった。それはフランスであったからこそ可能であったのであろうか。独仏の間に国民感情的な対立がたけり狂っていた時代であったように思えるのだが。(2010年1月25日)

ロマン・ロランが第7巻‘家の中’において展開しているドイツ、フランス論は実に徹底しているように思われる。フランスの偏狭性、閉鎖性は日本人の場合に比べられるかもしれない。オリヴェがフランス人に対してつぎのように語るところは苛酷過ぎるといえよう。“フランスの少年らは、敗北の影がたちこめた喪中の家に生まれ、意気阻喪した思想に養われ血腥い宿命的なそしておそらく無益な復讐のために育てられた。とうのは、彼らはいかにも幼少であったけれども、彼らが意識した第一のことは正理がないということ、この世に正理がないということだった”。(232頁)“君らドイツはわれわれをひどく苦しめたのだ”(232-3頁)と。

そういいながらも“ドイツみずから知らずにわれわれにしてくれた善は、その悪よりも大きいのだと”(233頁)と続ける。そしてこのようなこともいった。”大洋のごときドイツの力に比すれば一滴に過ぎないけれど―しかもわれわれは大洋全部を染め得る一滴であると自信しているのだ“(234頁)と。そしてさらに続けた。“敗北は優秀者らを鍛え、霊の選り分けをする。それは強い純粋な者だけを別になし、それをいっそう強く純粋になす。しかしそれは他の滅亡を早め、もしくはその気勢をくじく”(235頁)と。 

独仏間についてこのような論理をロマン・ロランは展開したのだ。第一次世界大戦前夜、独仏間の対立のなかで彼はなぜ主人公のドイツ人の若者クリストフをドイツからフランスへと行かせながらこのような論理を展開したのであろうか。‘信頼の念’を失い、共同の行動に対する感情を失いつつあった時にである。第一次大戦前も、第二次大戦前もこのような平和の声は黙殺された。では第二次大戦後はそのような知識人の平和の声が政治の中心においても聞こえるようになったといえるのであろうか。

再び私は日韓関係のことを考える。独仏関係に対するロマン・ロランの文章はそのままこの関係にもあてはまるように思えてならない。しかし過去100年間、日韓の間にこのような声があったであろうか。このような文学作品が可能であったであろうか。いや今日ではどうであろうか。そのような意味において日韓関係を冷静に批判しながら明日を展望しなければならないと考える。『ジャン・クリストフ』の日本語への訳者も多くの日本人読者もこのヨーロッパにおける話が日本に向けてのメッセージでもあるということを感じとることはできなかったのかもしれない。日韓の間ではそのような文学が誕生しなかった。敗北した者に‘水の一滴’に対する自覚があったであろうか。その時ロマン・ロランはクリストフもオリヴェも、彼らを理解しうる精神に満ちているパリにいたのにもかかわらず“アジアの砂漠中にいると同じくらい孤独であった”といったのはこのことを示してはいないか。(2010年1月26日)

ヨーロッパには国家とか地域間の対立はあったが、国境を超える芸術と文化の交流があった。しかし政治的な対立が芸術と文化に影を落とし憎悪と排斥を呼び起こすことが絶えなかった。実際このような嗜好と反発の渦巻きは文化の活性化に連なったかもしれない。そのような接触と衝突が創造への出発となるのではないかと思うのである。

北東アジアではこのような文化の衝突がほとんどなかったような気がしてならない。崇拝と卑下、師弟関係か敵対関係のみが成立したのかもしれない。われわれの北東アジアは一つの文化空間であるにはあまりにも広く、おたがい離れていたといえるかもしれない。同じ文化圏とは言いながら北東アジアの場合は地理的にあまりにもかけ離れ、その間に海が横たわっていた。それに政治的葛藤、文化的葛藤または共存において、北東アジアでは常に政治的葛藤が優位を占めていたと考えねばなるまい。ロマン・ロランにおけるジャン・クリストフの運命に見られるようにヨーロッパにおいては結局文化が優位を占めるようになっていた。このことはヨーロッパの統合が知識人の間で芽吹いたことと関連するであろう。そのような意味においても北東アジアにおいても知識人または知的な大衆の先導的な力がいっそう優位を占めるようにならなければならないと私は考えるのである。

ロマン・ロランはよりよき生活のための芸術が可能になるためには“生活に一つの意味を与えるような情熱と苦悩が必要である。それでなければ人は創作をするのではなく、ただ本を書くのみである”(第9巻8頁)といった。私は、私が少し前に書いた『韓国近現代史』(明石書店、2010年1月発行)思い出して、この点において反省しなければならないと思わざるをえなかった。ロマン・ロランは“そのような共通の霊魂こそ大芸術家が表現しなければならないことである”。これが“生きている客観主義”であり“大芸術の理想”であると考えざるをえないともいった。  

これから北東アジアではどのような歴史が展開されることか。現代においては過去とは異なるというのであるのか。やはり北東アジアでは文化の力、芸術の力は劣弱だということであろうか。ロマン・ロランが『ジャン・クリストフ』を生み出すことができたそのような文化的風土は伝統的に北東アジアにはなかったというべきではなかろうかと憂えるのである。

ロマン・ロランの美しいことばがある。劇芸術は‘芸術のうちでもっとも完全な、もっとも簡潔で充実したもの’といった。偉大な詩人は一定した舞台、一定した俳優を自分の思想に適応させることを少しも恥としない。“そうすることで自分が狭小となるとは考えない”ともいった。自分の夢を‘一定の場所’に適応させることが偉大なことであると考えるという。“演劇は壁画のように一定の場所にある芸術―生きている芸術である”(第8巻502-3頁)ともいった。

そうだ。思想もそのようなものであると考える。一人で理論を生み出して主張するものではあるまい。人々の心の中にあるものに形を与えて提示して他人の共感をかちえなければならないのではないか。そのような意味において知識人とは民衆の一歩先を進んで行くものに過ぎない。民衆とともに歩んでいくのである。政治的判断においてはとりわけそうではないか。ロマン・ロランはイプセンのことばとして、よりよき芸術には“熱情と苦悩が必要である。それでなければ作家は創作するのではなくただ本を書くだけである”ということばを引用した。私はひそかに私が書いた本はどうであろうかとふり返って考えざるをえなかった。学者の文章であればこのように人間の生活を豊かにし、歴史を前進させるものでなければならないのではなかろうか。それでこそその研究は歴史の進展と進歩を伴いうるのではなかろうかと心重く考えざるをえなかった。(2010年1月28日)

池明観(チ・ミョンクワン)

1924年平安北道定州(現北朝鮮)生まれ。ソウル大学で宗教哲学を専攻。朴正煕政権下で言論面から独裁に抵抗した月刊誌『思想界』編集主幹をつとめた。1972年来日。74年から東京女子大客員教授、その後同大現代文化学部教授をつとめるかたわら、『韓国からの通信』を執筆。93年に韓国に帰国し、翰林大学日本学研究所所長をつとめる。98年から金大中政権の下で韓日文化交流の礎を築く。主要著作『TK生の時代と「いま」―東アジアの平和と共存への道』(一葉社)、『韓国と韓国人―哲学者の歴史文化ノート』(アドニス書房)、『池明観自伝―境界線を超える旅』(岩波書店)、『韓国現代史―1905年から現代まで』『韓国文化史』(いずれも明石書店)、『「韓国からの通信」の時代―「危機の15年」を日韓のジャーナリズムはいかに戦ったか』(近刊、影書房)

池明観さん日記連載にあたって 現代の理論編集委員会

連載を開始している「韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート」は、池明観さんが2008年から2014年にかけて綴ったものです。TK生の筆名で池明観さんが1970年代~80年年代に書いた『韓国からの通信』は雑誌『世界』(岩波書店)に長期連載され、日本社会に大きな衝撃と影響を与えました。このノートは、折々の政治・社会情勢を片方に見ながら、他方でその時々、読みついだ文学作品、あるいは政治・歴史にかかわる書籍・論文を参照しながら、韓国の歴史や民主化、北朝鮮問題、東アジア共同体の可能性などを欧米の歴史・政治と比較しながら考察を加えています。

今回縁あって、本誌『現代の理論』は、著者・池明観さんからこの原稿の公表・出版についての依頼を受けました。前号から連載記事として公開しております。同時に出版の可能性を追求しています。この原稿の出版について関心のある出版社は、編集委員会までご連絡ください。

第13号 記事一覧

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