論壇

地元からみた獣医学部新設問題

今治新都市計画がもたらしたもの

松山大学教授 市川 虎彦

1 今治市と宇多津町~橋の架かる街

今年5月、愛媛県今治市で高齢者連続殺人事件が発生し、重要参考人の女性が自殺をするという事態が生じ、ワイドショーに恰好のネタを提供した。続けざまに、加計学園の獣医学部新設をめぐる「総理のご意向」文書の存在が報じられ、今日に至るまで何度となく空中から捉えた今治市内の新設工事現場の映像が全国に流れることになった。

このお騒がせの今治市は、愛媛県東部に位置する都市である。江戸時代の1604年、藤堂高虎による今治城築城によってその礎が築かれた。この地は、地場産業のタオル製造業と造船業が基幹産業である。それゆえ、市の紹介は「タオルと造船のまち」というのが決まり文句となっていた。2005年1月には、今治市と越智郡の12市町村が、文字通り大合併して新今治市が成立している。合併当時の人口は約18万人で、新居浜市を抜いて愛媛県第2位、四国全体でも第5位の市となった。しかし合併後、人口は減り続け、今では15万人台に落ち込んでいる。

今治といえば、最近は「バリィさん」が2012年のゆるキャラグランプリで優勝したり、B-1グランプリで焼豚玉子飯が上位入賞を果たしたりと、少し前は明るい話題が多かった。また近年、西瀬戸自動車道(しまなみ海道)がサイクリングロードとして注目されつつある。獣医学部開設が予定されている今治新都市は、実はこの西瀬戸自動車道の関連事業として構想されたものなのである。

今治新都市計画の前に、宇多津新都市計画というものがあった。岡山県児島と香川県坂出を結ぶ瀬戸大橋架橋にあわせて、四国側の玄関口となる宇多津町の塩田跡地を再開発しようという計画であった。1975年の時点で宇多津町の人口は10752人にすぎなかったけれども、1977年に新都市開発計画の事業認可がおりた。瀬戸大橋は1988年4月に開通する。この間、宇多津町の人口は順調に伸び、1990年には12807人と、1975年から20%近い人口増加を示した。そして少子高齢化だ、地方消滅だと騒がれる今日に至るまで人口は増え続け、2015年の国勢調査ではなんと18952人となっている。このような地域であれば、新都市開発の必要性も高く、その効果も大きかったといえよう。ちなみに宇多津町の2015年度決算による財政力指数は0.86で、県庁所在地の高松市(0.81)や工業都市の坂出市(0.84)を抑えて香川県内1位を誇っている。

では、今治新都市計画はどうであったのであろうか。

2 ことの次第~今治新都市計画

「今治新都市開発整備事業」は、本四連絡橋の関連事業として、架橋ルート沿いに新たな交流拠点形成をめざすというものであった。今治市の中心市街地から約3km西に建設される今治インターチェンジ周辺の高橋・阿方地区の丘陵地帯に、工業・流通機能、住宅、教育・研究機関、地域交流施設などを集積し、大規模公園を造成するという一大計画であった。

1983年度から1985年度にかけて、地域振興整備公団(現都市再生機構)と愛媛県、今治市の共同予備調査が行われた。1986年3月に、その調査報告書である『今治新都市開発整備に係る予備調査報告書』が作成されている。その中で宅地需要の検討がなされている。宅地需要を予測するための基盤となる人口の「将来フレーム」として、「トレンド型」と「目標設定型」が用意されている。トレンド型は「過去の傾向に従って推計する」ものであり、目標設定型は「将来予想される各種インパクトを考慮に入れ推計する」ものとされている。それによると、トレンド型の将来フレームでは、2005年までに人口は約1万7千人増えて14万2千人に、工業出荷額は1982年の2601億円から年率4%伸びつづけて2005年には6701億円へ2.58倍に、同じく商品売額は3569億円から6710億円へ23年間で1.88倍になると予想されていた。目標設定型の将来フレームになるとさらに大きな伸びを見込んでおり、2005年までに人口は約3万5千人増えて16万人に、工業出荷額は年率5.1%伸びて2601億円から8170 億円へ3.14倍に、商品販売額は3569億円から11280億円へ3.16倍になると予想されていた。それゆえ、新都市の計画人口は1万人とされ、独立住宅、集合住宅をあわせて3600戸の住宅供給が必要だと推計された。まさに新たな街を1つ造ろうという計画が示されたのであった。

皮肉なことに、この予備調査の期間中の1984年に、住民基本台帳に基づく集計で、順調に増え続ける傾向にあった今治市の人口が減少を記録した(126人減)。翌年、一旦人口増へ戻るが(95名増)、予備調査報告書が出た1986年には再び減少に転じ(541人減)、 以後毎年減少していくことになる。その意味で、新都市開発計画は予備調査の段階から将来推計を大きく誤っており、過大な需要予測に基づいて打ち上げられた計画であったといえるのだ。たしかに1980年代後半に日本は好景気を享受する。が、それは東京一極集中という現象をともない、地方には衰退の影が忍びよっていた。また、この1980年代中盤の段階で出生率の低下も顕在化していた。

にもかかわらず、高度経済成長期以降の趨勢をそのまま将来に延長させて、右肩上りの成長を予測するという報告書が提示されたのであった。『予備調査報告書』では、1988年度の事業着手、2000年度完成という事業スケジュールもあわせて示されていた。丘陵地を新たに切り開いて土地造成事業を行うため、宇多津新都市(事業費約233億円)よりも事業費は膨らみ、概算事業費として約600億円を見込んでいた。

1986年度から1988年度にかけて予備調査を行った3主体によって、さらに「事業計画調査」が行われ、1992年に国の新規事業予定箇所の採択を受けた。これにより用地測量などを開始し、1996年度から用地譲渡同意交渉に着手することになる。

新都市計画に関する『予備調査報告書』が出てから10年以上がたち、当時とは日本の経済環境も一変していた。「失われた10年」と称される長期不況に沈んでいたのである。今治市の人口減少傾向や工業生産の停滞も明白になっていた。

この時点での今治市の起債残高は、市の年間予算規模に匹敵する861億円にのぼっている。今治市は「財政基盤強化5カ年計画」を策定する一方で、新都市開発という大規模開発計画の推進をやめず、1999年11月から用地買収に着手した。一度始めると、必要性が疑われるようになっても絶対に止まらない公共事業の典型のような態をなしてくるのである。ここまでのどこかで、見直すことはできなかったのであろうか。

3 高等教育機関の誘致計画

2000年3月に地域振興整備財団から『今治新都市開発整備事業促進検討調査報告書』が出される。これによると、新都市の住宅地では一戸建て住宅900戸・集合住宅200戸の分譲を予定し、その他に産業用地と商業用地にそれぞれ10haずつをあて、さらに高等教育機関、交流センター、試験研究施設の誘致を見込んでいた。2000年6月には、事業実施基本計画が国土庁長官と建設大臣によって認可される。

しかし、長期不況の最中、住宅や工業用地が予定通り分譲できるのか、危ぶむ声が地元でも存在した。そうした中で、着工に向けて最後の一押しの役割を果たしたのが、私の勤務する松山大学であったようなのだ。

松山大学は、2001年から2003年にかけて青野勝弘という人物が学長の任にあった。けっこう強引な大学運営をしたため、この学長の在任中は教授会が常にもめていた。青野学長の施策の中でも、多くの大学構成員の反対にあったのが、今治市に総合マネジメント学部を新設するという案であった。これから受験生が減少していく時代に、人口規模で松山市の約4分の1(合併前)の今治市に、しかも市街地からの交通の便の悪い丘の上に、経営学部がすでにあるのに教育内容が重なるような新学部をつくって定員が充足できるのか、というもっともな反対論が大勢を占めたのである。すったもんだの挙げ句、新学部は教授会で否決され頓挫してしまう。

ところが今治キャンパス推進派は、教授会の議決を得る前に今治市議会に対して今治進出を表明していたようなのだ。私は、徳永安清という今治市長選に立候補した市議から、「あんたところが出てくれるというから安心して、ワシは賛成したんよ」と言われたことがある。こうして2002年度、今治新都市計画は着工に至る。その途端、松山大学の新学部開設の話が消滅してしまったというわけである。梯子を外された格好となった今治市では、新都市計画の是非が合併後の新市長を決める2005年の市長選の最大の争点となった。保守系4候補が、推進論、凍結論、中止論、見直し論に分かれて選挙戦を闘った。しかしいくら先行きが不透明になっても、いったん工事を始めてしまうと事業中止という方策は非現実的になり、退くに退けなくなってしまうのは、ここでも同じである。

それから数年後、見直し論を掲げて当選した越智忍市長のもとに、加計学園の獣医学部新設の話が舞い込んだ。「渡りに船」とはこのことで、今治市をあげて獣医学部誘致をめざすことになる。ここから先は、各種のマスコミ報道で知られているとおりの成り行きとなる。

であるから、「獣医学部の空白地帯」「獣医師不足」を解消するためというような理念は後づけである。今治市としては、どんな大学であれ、とにかく新都市に高等教育機関がほしかったというのが本音であろう。

4 新都市開発のツケ~中心部の衰退と財政問題

こうして今治市は、時代の趨勢に逆らって大規模郊外開発を進めていったわけである。その間、今治市の中心市街地は衰退する一方であった。今治市中心部にあたる今治校区、美須賀校区、日吉校区は、ともに大幅な人口減少にみまわれた。1970年と2000年とを比較すると、3校区の人口はほぼ半減している。この中心市街地の中央部には、今治港から今治市役所方向にむかって中心商店街が形成されている。1991年と2002年の年間商品販売額を比較すると、今治市全体ではこの期間横ばいなのに、中心部の3校区ではほぼ半減している。さらに1999年のしまなみ海道開通以降は、船舶を利用して今治港に到来し、ついでに買い物をして帰るというような人々が減少するので、中心商店街の苦境はさらに深まった。

今治市にとって、必要性が疑われる大規模郊外開発に予算を投入するという政策判断が正しかったのかどうか。中心部活性化策を推進してコンパクトなまちづくりを目指すという方向性もあったように思われる。しかし、造成してしまった土地は塩漬けにしておけない。売れるところから売ってしまえとばかりに、今治市は中心商店街の強い反対を抑えて新都市の10ha分をイオンに売却する。出店は大幅に遅れたが、2016年4月に郊外型大型商業施設のイオンモール今治新都市が開店している。

逆に中心部のアーケード商店街は、これが四国5位の都市かというぐらいの、みるも無残なシャッター街と化し、市内のへそであるどんどび交差点には2008年末で閉店した百貨店の跡地が今も更地のまま残っている。

であるからこそ地元では、獣医学部開設によって教職員や学生が、住んで、食べて、遊んで、納税してくれることへの期待が高いのであろう。しかし、加計学園に対し新都市の土地約37億円相当を無償譲渡し、さらに事業費の半分にあたる96億円の補助金を支出するとなるとどうであろうか。

前出の宇多津町と異なり、今治市はけっして財政状況がいい自治体ではない。2015年度決算によると、財政力指数は0.57(愛媛県下6位)。経常収支比率は89.2で、愛媛県下20市町中18位。実質公債費比率に至っては、12.8で県下最悪である。そこに、獣医学部の補助金がかぶさるのである。加計学園の千葉科学大学を誘致して補助金を出したために財政が悪化した銚子市の二の舞になるのではないかという声が出るのも、ある意味当然といえよう。

これに対して今治市は、獣医学部の経済効果を年間20億円と宣伝している。私はとある会合で隣りあった地元シンクタンクの所員に、「20億円という数字は、ほんとうなんですかね。それに持続的に定員充足できるんでしょうか」と話しかけてみた。すると、「あれ、うちが出した数字なんです。今治市が言うとおりに計算したら、ああなりました」というではないか。今治市の希望的観測にお墨付きを与えるのがシンクタンクの役割であったということで、あまりあてになる数字ではないようだ。しかしここでも、では土地を塩漬けのままにしておけばいいのか、という議論になる。筋の悪い行政施策は、どこまでいっても難題を抱えてしまう。

5 2区で始まり3区で終わりとなるか

ここからは蛇足である。

「安倍一強」と称されたとき、自民党内で数少ない「もの申す政治家」「良識派」の代表格となった感のあった村上誠一郎衆院議員が、今治市を中心とする衆院愛媛2区選出の代議士だというのも、皮肉なめぐりあわせである。ちなみに愛媛1区選出の代議士はいわゆる「お友だち」の典型・塩崎恭久厚労相で、同4区選出が「お友だち」の割をくってなかなか大臣になれず、当選8回にしてようやく初入閣を果たした山本公一環境相である。残る愛媛3区は製造業が盛んな新居浜市・西条市・四国中央市が選挙区で、愛媛では例外的に労組が強い地域である。これまためぐりあわせで、この3区で10月に衆院補選が予定されている。はたしてどのような有権者の審判が下されるであろうか。安倍一強体制の「終わりの始まり」が2区で、死命を決するのが3区となるか。

いちかわ・とらひこ

1962年信州生まれ。一橋大学大学院社会学研究科を経て松山大学へ。現在人文学部教授。地域社会学、政治社会学専攻。主要著書に『保守優位県の都市政治』(晃洋書房)など。

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