特集●驕れる者久しからず

[連載] 君は日本を知っているか ⑩

隠居は単なる退隠にあらず―昔、人は隠居して「自由」になった

神奈川大学名誉教授・前本誌編集委員長 橘川 俊忠

制度としての隠居

隠居という言葉を辞書で引くと、最初に「勤め・事業などの公の仕事を退いてのんびりと暮らすこと」(『大辞林』)というような説明がされている。落語に出てくる御隠居さんとか、楽隠居というイメージであろう。まさに退隠である。

しかし、いまでは知らない人の方が多いと思うが、かつては隠居というのは、れっきとした法律上の制度であった。戦後改正されるまでの民法では、家族を統率・監督する戸主権を認め、その戸主権を持つ戸主の地位を家督といったが、隠居は、その家督を相続人に譲る行為をさしていた。その場合、隠居は、戸主に特別な故障がある場合を除いて満六十歳以上で認められることになっていた。また、隠居した者は、新しい戸主の監督に服する家族の一員になるとされた。だから、隠居すると、人によってはのんびりと余生を楽しむか、あるいは新しい戸主に服して逼塞させられるかというような状態になったのであろう。それはともかく、明治時代にできた家父長制的家族を原則とした民法の下で、隠居は法律上の制度として厳密に規定されていたのである。

民法が改正されてから七十年も経ってしまったので、知らない人が増えているのは仕方がないが、家父長制的家族は、専制的天皇制の基礎細胞というべき役割を果たした。家族員に対して絶対的権威を付与された家長(戸主)、国民に対して現人神として君臨した天皇は、前者に対しては孝、後者に対しては忠という道徳規範によって崇敬の対象とされ、その孝と忠が一致すべきものとされることによって、家族と国家は緊密に結び合わされた。本来、隠居するか否かは個人的問題であるにもかかわらず、それが法律制度として厳格に規定されたのは、天皇制の国家の基礎を確固たるものにするための政治的目的に家族が従属させられたことによるのである。

もちろん、隠居は、明治の民法によってはじめてできた制度ではない。慣習も規範として機能するという意味で一つの制度とするならば、明治以前にすでに隠居は制度化されていたといってよいであろう。その起源をどこに求めるかは定かではないが、天皇が生前に譲位する例は、聖武天皇の場合にすでにあった。それを隠居と呼ぶか否かは問題があるとしても、相当古い起源をもつ慣習であることはまちがいない。少なくとも近世には、「家」という観念が確立し、民衆の世界にまで浸透していた。したがって、家督の観念も成立していたし、それにともなって隠居の慣習もたしかに存在した。

その隠居慣習と、明治以後の法律制度を比較すると、なんといっても六十歳以上という年齢制限が付いていることが目に付く。それから、民法では隠居が認められているのに、天皇の場合には譲位が認められていないこと、つまり天皇は隠居できないことも、明治以前とは異なる点として気になる。

隠居は身分的制約を逃れる手段 ?

まず、年齢制限について検討してみよう。近世の地方資料を見ていると、名主・庄屋などの家に「退役願」とか「隠居願」というような表題の文書に少なからず出会うことがある。これらの文書は、基本的に藩や代官所などのいわゆる役所に差し出された文書である。名主・庄屋は公的な役職であるから、差出先がそうなっているのは当然であるが、だからといってその内容が正しいとは限らない。理由は、老齢になったからとか、病身のためというものが多いが、本当にそうなのかは大いに疑問である。

筆者が、調査した能登半島のある村では、毎年のように水害や日照り・虫害のために不作で一同飢渇に及ぶので年貢を減免して欲しいという願書が出されていた。ところが、その願書の文言はどうも定型化しているように思われてならなかった。実際、その村で作られた子供用の手習い手本集を見ていたら、ほとんど同じような文言を使った手習い文例があったのである。実際に減免を勝ち取ったかどうか分からないが、役所に差し出す願書がかなりの程度定型化されていることはまちがいないとはいえるであろう。そして、そのことは、文書の内容の信憑性に問題があることを示していると思われるのである。

この例と、隠居の場合とでは事情は異なるが、とにかく古文書の文言をそのまま信じるわけにはいかないという点では共通の問題があることはまちがいない。実際、年齢はばらばらだし、四十代、五十代の働き盛りの場合も少なくないし、隠居した後に相当長生きしているケースも見られる。隠居には、老齢や病弱というような表向きの理由の背後に、なにか別の理由が隠されていると考えてもよいのではないか。

その問題を考える場合、近世が身分制の社会であったという前提を検討する必要がある。身分制とは、一般的な定義によれば、人が所属する社会に占める地位・資格・職業などを意味する身分が血統・出自・生まれなどによって階層的に固定されている状態をいう。そこでは、人は生まれた瞬間に地位・資格・職業などが決定されていることになる。武士の家に生まれれば武士に、農民の家に生まれれば農民になるしかない。ただ、日本の近世社会は、それほど単純ではなく、本来別の体系である役職の体系と身分制とが複雑に絡み合っていた。たとえば、家老や代官は基本的に役職で、その役職が特定の家柄に固定されていることが多く、役職が身分と同一視される傾向があった。また、百姓は身分の呼称であると同時に、検地帳に記載され、高を持つ、いいかえれば年貢負担の義務を負い、村の行政に何らかの形で参画する公的資格を有する者という意味を持っていた。だから、生活は農業以外の職業で維持していても、わずかでも高を所持していれば百姓とされた。

そういう複雑なシステムを前提にして隠居の問題を考えると、表向きの理由以外の動機が見えてくる。隠居とは、何らかの役職や公的資格からの引退を目的とし、公的立場すなわち身分に伴う義務を負う立場を離れて、個人として「自由」な活動をしたいという動機があったのではないかということである。もちろん、完全な職業選択の自由が保障されていたわけではないので、自由な活動といっても限られた範囲でしかないことはいうまでもないが、引退後に商売をしたり、廻船業を営んだり、家業以外で成功を収めた者もいたのである。

一つだけ例をあげよう。それはかの有名な伊能忠敬である。忠敬は、醸造・金融などの業を営む伊能家の養子となり、家業を継いだが、四十九歳の時に隠居を願い出て許され、それから暦学・天文学・地理学・測量術などの学問を学び、日本全国を測量して回り、『大日本沿海輿地全図』を作り上げた。この偉業は、忠敬が、四十九歳というまだ余力を残している年齢で隠居したことによって成し遂げられたのである。これが、もし先に述べたように満六十歳以上というような条件が付いていたら、伊能忠敬の業績は無かったことになってしまっていたであろう。

では、明治になって、なぜそういう年齢制限が付けられたのか。それは、家族より正確には家産も含めた「家」の存続を目的とした家族制度を考えた結果であろう。身分制は一応撤廃され、一定の職業選択の自由は認められたが、天皇制の最終細胞たる「家」の存続のために個人の自由はかくも犠牲に供されたのである。

天皇も将軍も隠居できた

近世の民衆世界の隠居の意味が、上述の通りであったとすれば、支配者の方ではどうであったかも検討しておこう。まず、支配者中の支配者天皇の場合、いうまでもなく位を譲って上皇になるという形で隠居が行われていた。この隠居は、時の実権者の意向によって隠居に追い込まれる場合もあったので、一概にはいえないが、天皇自身の意思によって隠居する場合も少なくはなかった。

特に、いわゆる院政期には、天皇自身の意思で上皇になったり、その後出家して法皇を称したりすることが常態化した。これは、天皇という立場は、建前上神政国家の長として多くのタブーに囲まれ、個人の自由な意思による統治ができなかったことに関係している。また、藤原氏をはじめ、荘園支配を基礎とした貴族達の権力が強くなってくると、天皇の地位は形骸化し、権力をふるう余地は小さくなった。そこで、まだ力のあるうちに譲位し、上皇となって天皇としてのタブーから解放され、天皇家(天皇一族)の長としての立場を維持しながら、独自に荘園を集積し、荘園貴族に対抗して実権を確保しようという事情が院政という統治形態を作り出した。

院政という権力争いのためのシステムとは別に、天皇個人にとっても上皇になれば、仏法に帰依したいという個人的意思も、出家するという最高の形で実現することもできた。この場合でも、隠居は個人を公的立場からくる拘束から解放するという意味で、「自由」をもたらすという面があったのである。

さらに、近世の初頭にも、上皇問題があった。成立まもない徳川幕府は、天皇朝廷を将軍権力の権威化のために利用すると同時に実質的に統制しようとして禁中並公家諸法度をはじめとして様々な圧力をかけた。それに怒った後水尾天皇が、病気治療を理由に退位しようとした事件である。細かい経過は省かざるをえないが、病気治療のための灸治が、玉体を傷つけるというタブーを犯すことになるために受けられないので、譲位して治療を受けようとした。これが問題なのは、玉体を傷つけるということがタブーであったかどうかということと、治療のためというのは口実で本当は横暴な幕府に対する抗議としての退位ではなかったのかという点で歴史家の見解が分かれていることである。しかし、状況的に考えれば、病気治療のためは口実で、真意は幕府への抗議にあったとするのが妥当であろう。

ただ、はっきりしていることは、後水尾天皇が、和歌、生け花、書道にすぐれ、退位後修学院離宮を造営し、文化的な面で高く評価される実績を残しているということである。修学院離宮の造営には自ら現場に足を運んだという伝承を残している後水尾天皇が、退位後の生活を十分堪能していたという想像も許されそうである。だとすれば、後水尾天皇も、隠居して「自由」になれたということもいえるであろう。

次に、将軍の場合も検討してみよう。徳川家康が、将軍就任後間もなくその職を長男秀忠に譲り、自分は駿府に隠居し、大御所と称されたことは今更いうまでもないことであろう。

そして、その狙いが、徳川氏による将軍職の相続という実績を作り、それによって徳川家の支配を安定させるためという政治的目的にあったこともまちがいない。しかし、それだけでもなさそうである。というのは、将軍―幕府という機構は、譜代の家臣団や諸大名の機構への参画という構造を持っている。将軍といえども、家臣団や諸大名への配慮なしには機構の維持が難しい。隠居して、自分の周りには自分の気に入った、あるいは自分が評価する人材を身分・格式にとらわれずに集め、ブレーンとして働かせれば、より自由に統治方針を打ち出せる。実際、駿府の家康の周りには、僧侶・儒学者・商人など身分的には幕閣に連なれないような人材が集まり、家康はそのブレーンの提言を大御所としての権威で実現していった。そう考えれば、家康が隠居したのは、全国統治のためのフリーハンドを確保するという意味もあったとも考えられる。そこにも「自由」への配慮があったともいえそうである。

以上のように、明治以前には、天皇も将軍も、まったく自由にではないが隠居することができた。にもかかわらず、明治になって、天皇だけが隠居すなわち退位を認められなくなったのは何故なのか。この問題については、憲法や皇室典範の制定に深くかかわった伊藤博文の主張が取り入れられたといわれているが、その理由については浅学にして、まだ明確な説明を聞いたことがない。そこで以下、若干の推測を述べておくことにしたい。

明治維新が、王政復古の大号令を以て始まり、それが神武創業の昔に帰ることを掲げていたこと、そして維新政府は、当初、その実体化のために祭政一致・神政政治の実現を目指していたことは周知のとおりである。そして、その政治理念は、平田派をはじめとする国学者達によって主張されていたこともまちがいない。その国学的立場からすれば、天皇は現身のままに天孫ないし皇孫であり、皇祖神アマテラスの皇霊を受け継いでいる者であり、神に等しい存在とされる。そのような天皇は現人神と呼ばれた。そして、天皇の現身の死に際して、皇霊は次の天皇に受け継がれ、天皇=皇孫は永遠にこの国を統治し続ける。そのような天皇観に立てば、天皇が隠居するなどということはあり得ないことになる。

伊藤博文が、そういう国学的天皇観を共有していたかどうかは疑問があるが、天皇を国民統合の中心に据えようとしていたこと、そのために天皇の神格性を利用しようとしていたことは間違いないところであろう。そう考えると、皇室典範に退位の規定を置かなかったことの意味も理解できる。それはともかく、戦前の日本は、国民には等しく隠居を法律制度として認めながら、天皇にはそれを認めてこなかったのである。

せめて隠居後には自由を

以上、隠居について書いてきたが、どうしても触れておかなければいけない問題がある。それは、最近成立した「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」のことである。この法律は、現天皇一代に限り退位すなわち隠居を認めることを定めた法律である。事の起こりは、現天皇が、昨年八月に生前退位の意向を表明したことにあった。それで政府はわざわざ諮問会議を設け、広く意見を求めた上でという形式を整え、ようやく国会を通過させた法律である。その特例法制定までの過程でいろいろな議論があったが、その中にかなり有力な意見として天皇の退位を認めるべきではないという主張があったという。

この主張の根拠は、あまりはっきりしないが、退位して上皇が誕生すると二重権力的状況が生まれて混乱するというようなこともいわれたらしいが、すでに権力を持たない象徴にすぎない天皇制の下ではそんな事態は全く予想できない。だとすると、旧皇室典範から引き継いだ終身天皇制を維持するためなのか、あるいは国学的天皇観を引きずっているのかのどちらかであろう。しかし、そんなノスタルジアが通用するはずもない。特例法で現天皇一代限りの特例として天皇退位を認めたのは、少なくとも、旧皇室典範の原則を国会の議決によって変更したという点では小さくない意味を持つ。というのは、敗戦後、旧支配層は天皇制の実質的温存のための一つの手段として皇室典範という名称の維持を画策し、それを実現したが、今回国会の議決で実際にその内容に変更が加えられたということは、皇室典範も普通の法律の一つにすぎないことが明確になったことを示しているからである。

それにしても、退位を隠居として認め、かつてがそうであったように隠居として自由に活動できるようにするという発想はなかったのであろうか。自由に活動できるようにするというのは、現憲法が人及び国民に保障する基本的人権、たとえば信教の自由、表現の自由などを隠居した天皇にも行使できるようにするということである。そうすれば、現憲法にふさわしい天皇制の在り方に近づけることができるというものだ。天皇制がどうしても必要だというなら、天皇の隠居問題をきっかけにして、現憲法にふさわしい天皇制の在り方についてもっと議論すべきであろう。ひょっとしたら、現天皇も隠居して自由になりたかったのかもしれないから。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任、昨年4月より名誉教授。前本誌編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

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