追悼

本誌前編集委員長 橘川 俊忠

「矢代俊三、倒れる」の報を聞き、心配していたが、間もなくなんとか電話で直接会話できるようになったというので、何度か電話で会話を交わすことができた。八十の壁を越えるのは結構きついぞなどと言いあっていたのがついこの間のような気がしていた。コロナ禍以来、編集会議もオンラインで、直接会うことも無くなり、ましてや一杯酌み交わすなどということもできなくなったこともあって、矢代君が他界したと聞いても、実感がなかなかわかなかった。原稿の催促の電話がかかってきて、発行日を動かすわけにはいかないから早く原稿をよこせ、タイトルは多少羊頭狗肉でもいいから人の注目をひくようなものにしろ、読みやすいように適宜小見出しを入れろと、例の関西弁でやかましくいつものように注文をつけてくるような気がしていた。

しかし、いつまでたっても電話はなかった。矢代君が他界したからといって、ただちに『現代の理論』を止めるわけにはいかないし、どうするかきちんとした結論を出すまでとにかく次号は出さなければいけないし、そのために原稿を書かなければならないと覚悟はしてはいるものの、気合が乗ってこないのは矢代君の電話がないせいに違いなかった。この追悼文を書いている今も、矢代君の電話を待っている自分がいるような不思議な感覚が消え去らない。

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考えてみれば、矢代君との付き合いは、今となっては半世紀を越えるほどの長きにわたっていた。1969年から70年にかけて矢代君が『現代の理論』と統社同の機関紙の編集実務の担当者として関西から上京し、私がデモなどで拘束された活動家の救援対策の担当者として、それぞれ活動拠点の事務所に詰めていたのが出会いの始まりであった。そのころの矢代君は立命館大学の学生新聞の編集経験を基礎に、理論雑誌と党派機関紙の編集者として八面六臂の活躍をしていた。私も、機関紙の編集の手伝いを頼まれ、印刷所に何度かついていったことがあったが、そこで矢代君に編集の技術的なことについてずいぶん教えてもらった。

当時は、まだ活版印刷の時代で、鉛の活字を拾って紙面を作り、それから紙型をとりそこに鉛を流し込んで鉛版を作り輪転機にかけて印刷するという大変手間のかかる作業が必要とされていた。その作業の全過程を把握し、見出しや写真の大きさ、配置などに気を配り、見やすく読みやすい紙面を組み上げていく作業は、繊細な感覚を必要とする大げさに言えば芸術的センスが求められる作業であった。またその作業を時間に迫られながらスムーズに進めていくためには実際に活字を操作する印刷工の協力が不可欠であるが、そういう協力を得るための信頼関係にも細かい配慮を矢代君は欠かすことがなかった。

こういう矢代君の編集実務への思い入れは、デジタル化によって雑誌制作の現場が大きく変わっても変えられることはなかった。印刷や製本など制作現場の日程に縛られていた時とことなり、多少の日程変更は大丈夫であるにもかかわらず、発行日を守ることにこだわり、紙面のデザインもきちんとすることにこだわる矢代君に対して時代遅れの編集屋と批判したこともあったが、それは、インターネット上に無秩序に垂れ流されている情報と明確に区別された確かな情報であることを示すために必要なことであるというべきだろう。きちんとした編集の目が届いていることが、記事・論文の信頼性を保証することになるからである。その意味で、編集者としての矢代君のこだわりは大いに意味があった。

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矢代君は編集者のほかに労働組合のオルグとしての顔も持っていた。1970年代初頭の新左翼運動の盛り上がりが、一方で過激な行動主義を生み出し、他方で大衆運動として退潮していく過程で、我々の活動も党派的な混乱の波に飲み込まれて、東京での活動の意義を見出せなくなった矢代君は、関西に帰り、中小企業を中心とした労働組合のオルグに活動の場を求めた。そのころには、私も、『現代の理論』編集者を経て、研究の道に入り直し、大学の教員に転身していったために、疎遠になった時期が続いたが、たまに会う機会があると「若い労働者がちゃんと飯が食えるようにするにはどうすべきか。それが最大の問題だ」と口癖のように言っていたことを思い出す。

本誌再刊の経緯は本誌のバックナンバーなどを参照いただくとして、とにかく20数年紙媒体からデジタルへと形を変えながら刊行し続けてこられたのは、編集者矢代俊三の執念と組合オルグ矢代俊三の「若い労働者が食っていかれる社会を作ろう」という強い思いがあったからに他ならない。特集テーマを決める時も、執筆者を選ぶ時も、そして編集者として原稿を点検するときも、矢代君は、この二つの面を忘れたことはなかった。学術論文はいらない、若い労働者が読めるものをとは言わないが、根底には彼らのおかれている状況を少しでも良い方向に変えようという意志が据えられているものを書いてくれ、という矢代君の期待に答えられたかどうかは分からないが、とにかく20数年、雑誌の号数では第三次の分も含めて75号あまり、なんかかんか書き続けてきた。矢代君の原稿を督促する関西弁が聞けなくなってしまって、これからどうしたら老体に鞭を入れることができるのか、寂しさがつのるばかりである。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

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