論壇

テキヤ政治家・倉持忠助の「電力問題」(下)の④

反百貨店(デパート)運動とは――昭和恐慌と中小小売業

フリーランスちんどん屋・ライター 大場 ひろみ

反百貨店(デパート)運動

この連載は「電力問題」がタイトルとなっているが、既に電力をはみ出して、テキヤが露天商であることを巡って起こる周囲との軋轢について書いている。テキヤなどという矮小な存在について取り上げることなどに何か意義があるのかと思う方もおられるだろうが、電力の値下げ運動について見ても分かる通り、テキヤが(倉持忠助が)起こす運動は、既に一般の庶民によって「電灯争議」として顕在化されていた。前回の「臨時露店」問題も、昭和恐慌による失業者の小売業界への流入が発端となっている。テキヤに起こる小さなさざ波は、社会全体と必ずつながっているものなのだ。しかも運動を起こしても、恐慌救済に見られるように、尽力した挙句他の階級に及ぶ救済からも取りこぼされる。今回は昭和恐慌と中小小売業全体の関りを点検し、テキヤも他の中小小売業も闘った「反百貨店運動」について見る。

近代小売業の成立 

そもそも小売業は、近代化の過程でどの程度成立していたのだろうか。

『現代の理論』連載第32号でお世話になった満薗勇の『日本流通史―小売業の近現代』(有斐閣)に再度ご登場願おう。それによれば、江戸時代から日本では問屋制度が発展し、卸売が多段階で入る複雑な流通過程を明治になっても維持していたという。一方小売は都市部では大店と呼ばれる大規模店舗が存在していたが、小規模では棒手振(ぼてふり)などの行商(移動販売)がかなりの流通を担っていた。明治になっても、広島県の例で、1892~96年までの間、小売商の6割を行商が占めていたというデータを挙げている(店舗商業が36~38%、露店は2%弱)。それが明治後半から1930年代までの間、特に第1次世界大戦と第2次大戦の「戦間期」に、東京はじめ大都市が発展し人口が集中、サラリーマンや工業労働者が増大して人々のライフスタイルが変化し、小売も個人での行商販売から主に夫婦等での小規模な常設店舗へと変換していった。

人口増加と共に1920年代から30年代までの度重なる恐慌で、最も多くの人口を吸収したのが「卸売・小売業、飲食店」であったという。前号で失業者が露天商に流入する例を見たように、退職金はあったが失業保険などがない制度的不備等のため、人々は流通業へと参入していった。これを満薗は「流通部門は都市における『過剰人口のプール(貯水池)』という側面をもっていた」といい表す。こうして、「小規模稠密性という日本小売業の構造的な特徴」が成立し、「戦前の日本における小売業は」「大規模な法人経営の世界である一握りの百貨店と、小規模な家族経営の世界である数多くの小売店から成り立つものになっていきました」(百貨店については後述)。

満薗のこの論脈からすると、テキヤ(露天商)は近代化と共に変化する流通業の中で、数を減らし衰退する部門ということになる。だが前号で見たように、恐慌への対策に後手を踏む行政から、それこそ都合のいい「調整弁」として利用されたりもする。さらに百貨店や常設小売店に対して、テキヤはどこに立ち位置を持つことになるのだろうか?

その前に、昭和恐慌以降の小売業全体の状況をもう少し見てみよう。

中小小売業の窮状

“戦間期における中小小売業者の困窮問題”は、流通史や経営学、歴史学者らに亘る関心を集めるテーマだった。重要論文がいくつもあり、資料には困らないし、それぞれが一次資料(統計や調査報告など)も示唆してくれる(注1)。で、それらを照覧すると、既に1930(昭和5)年3月に、東京市が『中小商工業者問題に就いて』(B)という、窮状対策を図るために関係者の意見を取りまとめた研究報告を出している。

ここでは、中小商工業者の窮状の原因と対策を
・内的原因
 1. 同業者の過多
 2. 経営並に販売方法の合理化
 3. 金融問題
・外的原因
 1. 生産者の直接販売
 2. 消費組合の台頭
 3. プロレタリアートよりの圧迫
 4. 大企業形態の躍進

と分類した。この報告から、例の同じく東京市の『露店に関する調査』(1931年)も発想されたのではないか。現に前号で取り上げた新聞記事(1932・12・24東京朝日新聞)にある、露天商への近代化の試みは、ここで対策として提案された「内的原因」の「2. 経営並に販売方法の合理化3. 金融問題」が、組合加入推進や不当廉売廃止、資金貸付などとして反映されたものといえる。

「外的原因」の「1. 生産者の直接販売2. 消費組合の台頭」は“消費者”という存在が小売に対して対立、または要求する軸として現れてきたことを思わせて興味深いが、ここでは言及しない。また、「4. 大企業形態の躍進」は対百貨店問題として後述する。

「内的原因」の「1. 同業者の過多」と「外的原因」の「3. プロレタリアートよりの圧迫」こそが、最も大きく、またテキヤと共通する過剰人口の問題であった。特に「3. プロレタリアートよりの圧迫」について指摘しているのが小池四郎の提言である。ブルジョアジーへの資本集中により中小経営者が隷属化する過程について述べた後、「プロレタリアートの失業者」にとって「煙草屋、化粧品店、ささやかなる資本を以て営業し得るこの種の商売は常に彼等の最後の避難所となるのである。一層資本的に無力なるものは露店商人、行商の範に入る。」「彼等は已然としてプロレタリアートそのものなので」「資本主義的大経営のための産業予備軍の役目をもつものである」(元々『経済往来第4巻第6号』1929年に掲載されたもの)。

他の論者が中小小売業者における仕入れ販売方法等の合理化の遅れ(つまり自己責任論)や金融政策の整備(商業だけでなく工業を含んだ論のため)を唱えるのに対し、大企業との関係の不均衡による構造的問題だといっている。

また1931年の『日本経済年報』(東洋経済新報社)(C)は「小売商と百貨店の問題」と「中小商業者の窮迫」を連続で追及している。小売業の増加と共に廃業の増加(つまり長続きしない)も指摘、税額の比較によって零細なものが圧倒的に多いこと、金融においても担保のいらない高利貸しから借りて搾取されるなど、不振と没落の傾向と原因を、統計を挙げて立証している。いずれも『経済往来』、『東洋経済新報』という、どちらかというと左派(リベラル?)の論壇からのアプローチである。

これらは昭和恐慌前後からの必要に迫られての問題分析だったが、事態が好転することはなく、1941年に竹林庄太郎の『日本中小商業の構造』(D)という、統計を細かく分析して商業人口における過剰性の問題を整理した著作が生まれる。「産業組織そのものが中小規模に基抵を置く」日本経済の特徴を前提とし、その脆弱性を特に際立たせているのが商業部門であり、そこにさらに過剰人口が集中する現象によって、結果的に小売利潤が国民一般に負担となるという。「流通部門は都市における『過剰人口のプール(貯水池)』」という、満薗や多くの研究者が引用する比喩は、ここに「商業層をして相対的過剰人口の貯水池たるの観あらしめたる」という文として登場している(注2)。

竹林によれば、1920年と30年の国勢調査を用いると、商業人口がこの間に34%増加し、その全体に比較した増加吸収率は52.7%に及ぶという。この数字は、後世の研究者が多く利用する「中小小売の過剰化」の根拠の一つとなっている(注3)。

また、商業人口の過剰性の理由について、恐慌による工・鉱業失業者と共に農村から、そしてその他の業種からの流入もあるとする。農村からの流入について、人口問題の権威、上田貞次郎は、1920年から30年の間に増加した人口が800余万の内、62%が都市に吸収され、1930年で見れば全国出生数の2割のみが都市に誕生するので「生れは田舎で居る所は都市という人口が非常に多」く、彼等が従事したのは商業、工業、交通業…等であって、「特に商業は著しいものであった」と説明する(E)。竹林は東京市における商業人口を出身地別に見た調査(調査年不明)から、地方(東京以外)出身者が56.16%という数字を挙げ、このすべてが農村出身とはいえないが過半数以上と想像するのは妥当性があろうとしている。

以上、困っている人の顔が見えない論文報告ばかりだが、恐慌当時から中小商業者の困窮と過剰化の問題が俎上に上がっていたことがわかる。そして露天商は、中小小売商全体の困窮という枠組みの中で、最も資本力のない最下層と見られていた。

百貨店の誕生と躍進

中小小売のひっ迫の原因の一つといわれているのが、大規模小売、デパート(百貨店)の存在である。

日本の百貨店は、19世紀に欧米で誕生した百貨店という業態―「多くの商品が部門ごとにまとめて販売され、企業としての統一的な経営が行われた」「多品種、大量の商品が、陳列販売、正札販売、現金販売といった近代的手法により販売され、ショーウインドウ、大規模な広告といった積極的な消費喚起の手法が用いられた」(F)―を、江戸時代から続く大店の呉服店が導入して、1900~10年代にかけていわゆる「大都市呉服系百貨店」(三越、高島屋、白木屋など)に転換したことにより始まる。洋服、靴、西洋食器など、多品目の商品を取り扱って、呉服からの脱却を図ったが、当初は呉服の売上げの割合が多かった。陳列販売やチラシやポスターや音楽隊、刊行物などの広告・演出によって消費を促したが、ターゲットは主に富裕層だった。第1次大戦後、さらに関東大震災を経て、日用品などの品目の多様化や廉売などによって、サラリーマンや労働者階級にまで射程を広げて「大衆化」していくと共に、売り場面積を拡大していった。

1920年代からは、阪急の小林一三の発案である、鉄道や周辺土地開発(郊外化)と共にターミナル・デパートを経営して相乗的に経済を活性化させる方法が広がり、いわゆる「電鉄系百貨店」が台頭する。1930年以降は、大都市だけでなく、全国に「地方百貨店」が続々生まれた。それには大都市百貨店の支店進出と、地方出張販売の影響も関連している。20年代以降、毎年地方を巡回して販売する方法が増加して、その売上げも地方の小売店にとって見過ごせないものだった。(以上、断りのない場合A参考)

百貨店の「大衆化」

百貨店は「大衆化」によって、売上と客数を大幅に増やした。満薗勇は松坂屋名古屋本店の例を上げ、1914年から27年の間に売場売上高が約22倍、店舗入場者数も14年の51万人から27年には872万人まで伸びたという。一方買回品(注4)の代表である呉服部門の売上高シェアが1918年の63.4%から25年に49.0%、29年には27%まで減った。それでも1931、2年の東京市商業調査によれば、小売店に対し、百貨店が10%以上の売上高シェアを占めるのは、住居品19.8%、衣装品55.1%、文化品28.5%で、やはり買回品が多くを占めているのがわかる(逆に小売店で多いのは食料品90.8%、燃料96.5%、生産用品98.0%で、最寄品は圧倒的に小売店で購入されている)(G)。全体の売上高でみれば、同じ東京市の調査で、当時36店舗の百貨店(支店含む)が25%を占めるという数字は、百貨店の存在の圧迫感をよく示している(G、H)(注5)。

百貨店が「大衆化」するにあたって用いた手段は、今まで挙げた他に、商品券の発行、無料配達、夜間営業、催事、送迎自動車などがある。船曳由美の『100年前の女の子』(I)は著者自身の母の話だが、1921年に栃木県足利の小学生が修学旅行で三越に連れられて来て、「タメイキが出るほどきれい」な商品や建物を見学し、おいしい食事やお土産まで出されて「一生のうちでいちばんぜいたくをして」「みんないっぺんに三越を好きになった」様子が描かれている。三越の大衆化戦略が、将来の地方出身者の顧客化まで見越していたのに驚かされる。

なんと高島屋は「高島屋均一店チェーン」なる今日の百円ショップに相当する店舗も展開した。アメリカ視察でみた均一価格雑貨チェーンにヒントを得て、1926年に試験的に百貨店内で均一売り場を設けた後、31年に大阪で「高島屋十銭ストア」を2店舗オープン、32年には「高島屋十銭二十銭ストア」として東京・大阪・京都を中心に51店舗まで拡大した。後述する百貨店法の影響が及ばないよう、38年には別会社にして百貨店から分離している(A)。短期間の多店舗展開、コンツェルン化など、今日の手法を先取りしている。

また中西寅雄(G)は「百貨店のマーケット化」を指摘した。震災直後に日用品市場を経営した(注6)ことに始まり、「中心百貨店に於ける地階政策としての日用食料品並に雑貨マーケットの開設」、また電鉄系百貨店などの「ターミナル・ストア」が、「買回品よりも寧ろ日用便宜品並に保存食料品を中心とする傾向にあり、市場的性質をもつ」(G)。市場については触れてこなかったが、元々第1次大戦期の高騰物価を安定させ消費者を擁護するため始まった、公設市場や私設市場(マーケット)の開設・増加も、売上高シェアは5%弱だが中小小売商に影響を及ぼしている。今でいう「デパ地下」もこの頃に始まった。それまで百貨店は下足を預かってお客を入場させていたが、震災後に廃止され、「下足廃止は更に販売場としての地下室の利用を促し、地下室は生活必需品の購買場として用いらるるに至った」(J)。日用品の販売は中小小売商の圧倒的シェアに食い込んでくる。

このような百貨店の進出に対し、不満を持つのはわかるが、多くの研究者が指摘する通り、中小小売商のひっ迫は、内的原因(同業者の過多や経営の合理化が出来ていないなど)や外的原因(プロレタリアの流入)などが大きく、必ずしも百貨店のせいのみでない。しかも百貨店が資本主義の発展上必至であり、消費者の利益も生むとすれば、一概に槍玉にあげていいものでもないのだ。何故反百貨店運動は起こったのだろうか?

始まりは下谷のモスリン商

「我国小売商の百貨店対抗運動の発端は、震災後間も無い大正14年秋、東京下谷区竹町通りの呉服モスリン店が中心となって区内の呉服モスリン店を糾合して、同区内下谷神社において百貨店反対大会を開いて第一声を挙げたのに始まる」(K)。竹町通りの商店街は竹盛会(のち佐竹本通商店街)という名称で、1898年頃誕生した、東京で最も古い商店街とされる。ライバルとなった百貨店は700m程先にあった松坂屋(上野店)であった。松坂屋は震災後から仮店舗で積極的に催事・廉売(特に呉服、衣類)を繰り出した(L)。モスリンとは、薄手の毛織物(綿モスリンもある)で、普段着の和服や襦袢などに使われ、明治以後圧倒的に普及した。目と鼻の先で庶民の着物の特売を繰り返されてはたまらなかろう。

1928年になると、日本橋人形町の商誠会というこれも古い商店街(1909年結成)が下谷竹盛会と共に「全市の主要商店会に檄を飛ばし市内約40商店会を糾合して」「小売商連合会を組織した」(K)。人形町は日本橋の三越本店、白木屋本店が1km程の距離である。この連合会は百貨店の商品券販売、出張販売、オトリ販売(儲けを伴わないほど安い商品で客を釣る)禁止と百貨店税の創設などをスローガンとしたが、神山某を会長にしたところ選挙利用され、自然解消してしまった(K,L)。

商店街と別に、百貨店の同業組合からの脱退を巡って訴訟も起きた。地域の同一業者は同業組合に対し加盟義務があったが、元々東京呉服太物商同業組合の中心にいた白木屋や松屋は、百貨店として成長後は組合からの脱退を図り(各種商品を扱う場合、その商品ごとに同業組合に入るのは過重負担であるのが理由)、組合は百貨店を制限するため争った。結局1927年、商工省は百貨店の立場を認め、1928年、申請していた三越と白木屋の同業組合からの脱退が認可された。東京呉服太物商同業組合からは白木屋、松屋、松坂屋、高島屋が脱退した。組合は「東京呉服商同業組合」と名を改め、舞台を東京商工会議所に移して百貨店と争った(L,J)。

佐竹本通と人形町商店街では、衣料品取扱店がそれぞれ全小売店116店の内63、77の内44と、半数以上を占めている(A)(「東京市内商店街に関する調査」東京商工会議所1936年により作成した表より)。また同業組合の争いも呉服商であったことから、百貨店に対する反発が、呉服・衣類商を中心に起きていたと推測される。少し後だが1932.8.30の読売新聞に「呉服類の7割百貨店独占 小売商が浮かばれぬも道理」という記事が出た。それによれば商工省と東京市の共同調査で、東京市で1930~31年にかけての1か年における売上げは、織物被服類が百貨店69%を占め、対し一般小売商は24%、これに次ぐ小間物洋品類は百貨店59%、一般小売商37%と、呉服商に対する圧迫が最も大きいことを報じた。町にひしめく呉服・衣類商が売上げの70%も持っていかれては、真っ先に声を上げるのも「道理」だろう。

商品券をターゲットに

1930年になって、「東京呉服同業組合が中心となって、同じく東京の酒類、砂糖、小間物、洋服各同業組合に前記の小売商連合会の一部がこれに加わって百貨店商品券撤廃期成同盟会を組織し、百貨店商品券の撤廃並に百貨店の同業組合強制加入」などを叫んだ(K)。この同盟も大蔵当局や商工当局に陳情を繰り返したが効果なく、団体解消してしまったというが、反百貨店運動は当初から商品券を問題の中心にしていた。

百貨店の商品券は全国で使え、贈答用として重宝された。百貨店は無利子・無担保で資本をあらかじめ吸収でき、顧客を引き寄せて、さらに商品券の額面以上の買い物も期待できる。今日の金券ショップのような売買所も出来ていた。「東京における商品券は…1929年の発行額は2000万円を超える額に達していたという(T)」。また商店街などによる共通商品券の発行は禁止されていた(注7)ため、不公平感は多く商品券に集まった(A、M、P、T参考)。渡辺玄(K)によれば、「対百貨店問題は百貨店の全面的反対ではなく、部分的の反対である」。つまり、百貨店をなくせという運動にはなり得ず、個々の問題に集約せざるを得ない。その中で、法によって手厚く守られた上で大資本の有利性を見せつける商品券が、小売商を圧迫する象徴としてターゲットになったのではないか。

東京市では様々な陳情に答え、且つ市の財政難対策として、1930年8月1日から商品券に発行税を課す(発行高の百分の1のち2)ようになった(大阪、京都、神戸、名古屋各市等も追随)が、百貨店は「箱代」として消費者に転嫁した(N、L、J他)。また東京府商工課は31年5月に府下の商店会を組織して東京府商店会連盟を結成させた(当初参加商店会250、1万商店)(K)。

1930年の年末、大阪商工倶楽部常任理事だった桜井利助(メリヤス商)が江戸堀・京町堀方面の会員90余名を糾合して、「横取り商法」(百貨店の商品券で自店の品物を売り、その商品券は商品券屋に売る)を仕掛けたが、警察・大蔵省・商工省・自治体に禁止された(大阪朝日新聞1930・12・16、17、19、東京朝日12・23夕刊)。これに反発し、大阪商工倶楽部・大阪商工同志会などが31年2月2日、大阪小売商人擁護連盟を創立し、7日に商品券禁止を中心として決議(他は営業収益税(注8)軽減、低利資金貸付など)。

このうねりは中小商業者の政党誕生へとつながった。大阪では3月17日、全日本商工党が結党、幹事長に桜井利助、法律顧問に溝渕春次が座った。東京では3月16日、京橋、日本橋の商人有志が中堅建設同盟の発会式をあげた。全日本商工党は宣言で、「政友会民政党の現状を観るに…一部大資本家の擁護政治或は企業家の保護政策を以て終始するに過ぎず」「吾人国民の中堅階級に属する大多数のものの、熱望欲求して已まざる政治は、資本家に与みせず無産者に偏せず、政党中正不偏大日本帝国を益々堅実ならしむる」とし、また中堅建設同盟は同じく宣言で「日本の中堅を形成する数に於て、力に於て、圧倒的の勢力を潜有する中産者の統制ある結成とそれに依る穏健なる主張と実行は名実共に国家の中堅として、国運の進展に資せん」とし、共に国の「中堅」という、マジョリティであることと、国に忠誠を誓う保守性を強調して憚らない。つまり彼等の政治運動は、大資本(その現実の利害は百貨店)とそれに与する既成政党政治への失望・反発であり、無産政党とも協調せず、自らを国家の中の多数派として政策を優先させ、現実問題を解決したいというスタンスだった。

他、31年2月に浅草方面の小売商人らが中心となって共和一新党が名乗りをあげたというが、この時期ちょうど浅草松屋の出店計画が浅草付近のテキヤで大問題となり、反対運動が起きていた(後述)ので、この動きと連動したものかも知れない。共和一新党の宣言には、都市や農村の争議等に現れる「階級闘争は益々尖鋭化」、「デパートの激増強化に依る一般小売業者の悲惨状況」と更に「電燈瓦斯事業の営利組織に依る横暴振り」が盛り込まれている。倉持忠助がバックにいたことが窺われる。この党は「中堅」の主張よりも無産者への親近性が強い。

江口圭一(H)によれば、都市の小売商は小ブルジョア(資本家)であり「中堅」意識を持ちながら「いちじるしく零細・過剰であり、相互にはげしい競争を演じ、大量に零落・再生をくりかえした」ので「強度の排他性を身につけ、あらゆる社会層を通じてもっとも連帯性に欠ける存在」と身もフタもないが、実際、31年5月、3党他は全日本中堅同盟として大合同を図るも決裂。大阪では9月に日本商工党が溝渕を府会議員として当選させたが、その後溝渕が政友会入りをするという「裏切り」によって商工党は衰退した。(この項断りない場合主にH参考)

1932年8月の急旋回

31年9月、満州事変が勃発した。日本商工党は11月大会を開催して、軍人の講演と共に満州派遣部隊慰問金として30円52銭を集めて寄付した(H)。日本経済年報はこの頃の「中間層に属する之等小売商人は、今や極端に動揺しつつある。其の最下部のものは既に無産階級へと転落しつつある。其れ以上のものは未だ彼等の位置を保たんと必死に従来の位置にしがみつきつつある。そしてそこにファッシズム政党発生の可能性が充分過ぎる程既に醸成されているのである」と指摘した(C)が、その傾向は既に形になって現れていた。江口圭一(H)は都市小ブルジョアの独占資本への反感が「(大衆に開かれた『安住楽土』という)幻想に導かれて、満州の侵略・支配の欲望のなかへ転回して放出させられ、排外主義化をいっそう促進した」とする。

32年になって、血盟団事件、5・15事件と立て続けに起こり、特に5・15は「大いにこれら小売商の人心を刺激し、百貨店に反対することは当然の権利とさえ考うるに至たらしめた」(K)、或いは「俄然国内問題は沸騰を見せ、此処に小売商の救済、百貨店の抑圧は農村問題と相並んで社会の重要問題となった」(J)。事件直後に報道管制が敷かれたのだから、犯行の動機や犯人らの主張は1年後の公判開始まで知られなかったはず(R)だが、事件が内包する、大資本や政党政治への批判や社会の不安感の体現というものは、ダイレクトに大衆に伝わっていたことが同時代者の記述から窺われる。

5月29日に結成された赤松克磨らの日本国家社会党は「反百貨店運動をもって『新党の拡大強化のため好機』」として、中小商工業者懇談会を開き、日本中小商工連盟を結成、中小商工業者への低利融資や、百貨店の地方進出反対、満州移民進出、10銭ストアの営業禁止などを掲げた。会長は衆院議員になっていた小池四郎(H)。要はファシズム政党による政治利用である。

一方、百貨店を巡る動きは8月に急旋回する。それ以前、渡辺玄(K)によれば、暗殺された犬養毅の後を受けた斎藤実内閣の第62回臨時議会(32・5・23~6・14)において、商工大臣(中島久万吉)が議員の質問を受けて「小売商現下の実情に鑑み何等かの方策を行わなければならないと思っている」と答弁したので、商工省内の小売商に対する態度は一変した。これを伝え聞いた百貨店側も急遽当局に懇談し、自制協定へ動いたというのである。事態の経過を東京朝日新聞で追うと、商工省による百貨店法の制定が予告され(8・2)、8月4日に中島商工相と日本百貨店協会代表が会見、「百貨店法阻止に自制の原則成る」と、協定の原則として、地方への出張販売、不当廉売や無料配達などの取りやめ、商品券は指示を仰ぐなどの方針を発表した(8・5)。翌日には既に商工省は百貨店法より自制協定の成立に流れ(8・6)、6日に自制協定が提出された(8・6夕刊)。その後修正を加えて9日承認し(8・10)、11日には百貨店協会が自制協定の声明書(注9)を発表、商工省は商品券に制限を加える法案を提出する意向(8・12)。商品券に関し、大蔵省から少額商品券(50銭1円など)を廃止したらどうかと意見(8・16)。

百貨店が百貨店法を阻止するため自制協定を急ぐ一方、迎え撃つ商工業者の団体も動いた。小池四郎らの日本中小商工連盟は、8月15日には上野自治会館で大会を開き、400名を集め、百貨店営業に対する統制を求めるなどの決議を行った(「不慣れの演壇でせっぱ詰った叫び 臨時議会に友響せよ!と中小商工業者の猛運動始る」8・16)。翌16日には西園寺公望や在郷軍人会本部、三越、松坂屋、白木屋、松屋、高島屋、ほてい屋等各百貨店に面会、陳情した(17夕刊)。

東京府の指導の下にある商店会の集まり、東京府商店会連盟は、全国35都市の小売商代表者に呼びかけて(8・16)、8月18日、日比谷公会堂で5000名を集めて大会を開き、全日本商店会連盟を結成。「提案はいずれも百貨店いじめばかりなのでデパート顔色なし」。翌19日には首相官邸、内務・大蔵・商工各省を訪問して陳情を行った(8・19)。

商工業者らは後手を踏んでいるように見えるが、反百貨店運動の盛り上がりがなければ議会での決議まで辿り着くことは難しかったろう。この他、少数政党の国民同盟(親軍部政党)が百貨店に課税する法案を提出する動きもあった(8・30)。右派のすり寄りの一つだ。広告欄に百貨店協会東京各店の「謹告」(顧客の送迎乗合自動車を廃止、定休日―毎月8の付く日―の新設)が掲載された(8・29)。

第63回臨時議会(8・22~9・4)は、商業組合法の付帯決議として、中小商工業者のための金融制度整備や営業収益税免税上限の引き上げなどを盛り込み、商品券取締法と共に決議、9月発布(施行は10月1日)された(H)。商品券取締法の要点は商品券発行額3000円以上のものにつき2分の1以上を国債によって供託すること、商品券額面5円未満の発行を禁止、である(N)。廃止を唱える中小商工業者の訴えには程遠い。現に商品券発行額は、東京市で1932年1333万円から36年1811万円に増えた(J)。百貨店の自制協定は同業の過当競争を抑え、経費削減、カルテル化につながり、むしろ百貨店に利する面もあった(S)。

かねてから中小商業者の窮状は認識されていたが、何故この段階で政府が動いたか。5・15が人心に動揺を与えたことが影響していたのは間違いないだろう。しかし結局中小商業者の窮状を何とかするという問題は、解決には至っていない。自分たちが分厚い中間層であるという自負を持ちながら優遇されない不満を抱えたままの彼等が、大資本や既成政治への批判を同じくし、満州侵略による経済的解決を目論むファシズムに共鳴していくという構図を歴史家は描く。また現在の状況に重ねる見解も近頃現れているが、私はまだこの時代の、苦しむ商店主らの顔を見届けた気がしない。第63回臨時議会では満州国承認の方針が示され、9月15日承認された。小売商人たちは「王道楽土」に万歳したのだろうか。今の時代が見えないように、彼等の時代もまだ見えない。

肝心のテキヤの反百貨店運動に触れていなかったので次回へ。そして百貨店法の制定とあっという間の経済統制、倉持忠助衆議院選大落選へ。

 

(注1): 参考文献(発行年順)(文中の引用文献にはアルファベットがふってある)
・P 『商工調査第21号―我国に於ける百貨店対小売商問題に関する調査』(東京商工会議所1929)
・B 『中小商工業者問題に就いて』(東京市役所編1930)―小池四郎『プロレタリアートの圧迫』
・C 『日本経済年報第2巻第5・6輯』(東洋経済新報社1931) 
・ 大阪朝日新聞経済部編『農工商の第一線に立つ中小業者の叫び』(朝日新聞社1931) 
・K 渡辺玄『最近に於ける我国小売商の動向』(『小売商更生策:ヴォランタリーチェーン中心の実証的研究』立教大学販売広告研究会1934)
・E 『上田貞次郎全集第6巻 日本人口論(「人口都市集中の傾向と中小商業の将来」初出1934)』(上田貞次郎全集刊行会1976)
・ 『東京市産業時報第2巻8・9号(上林正矩「中小商業と百貨店法制定の問題」)』(東京市役所1936)
・ 堀新一『百貨店問題の研究』(有斐閣1937)
・N 水野祐吉『百貨店論』(日本評論社1937) 
・G 中西寅雄編『百貨店法に関する研究』(同文館1938)
・J 松田慎三『デパートメントストア新訂』(日本評論社1939 初出は1931)
・D 竹林庄太郎『日本中小商業の構造』(有斐閣1941)
・M 向井鹿松『百貨店の過去現在及将来』(『小売商問題研究叢書第10 日本学術振興会編』同文館1941)
・H 江口圭一『都市小ブルジョア運動史の研究』(未来社1976)
・L 鈴木安昭『昭和初期の小売商問題―百貨店と中小商店の角逐』(日本経済新聞社1980)
・Q 尾高煌之助『労働市場分析:二重構造の日本的展開』(岩波書店1984)
・S 加藤義忠他『小売商業政策の展開改訂版』(同文館出版2006初出1996)
・I 船曳由美『100年前の女の子』(講談社2010)
・O 満薗勇『商店街はいま必要なのか―「日本型流通」の近現代史』(講談社現代新書2015)
・T 石原武政『戦前の商品券問題―百貨店の商品券と商店街の共通商品券(上・下)』(『流通情報』2016・3、7)
・R 小山俊樹『五・一五事件 海軍青年将校たちの「昭和維新」』(中公新書2020)
・A 満薗勇『日本流通史―小売業の近現代』(有斐閣2021)
・F 林雅樹『わが国大規模店舗政策の変遷と現状』(論文)
・ 攝津斉彦『戦間期における中小小売商の雇用吸収と信用不安―「中小商業問題」の一側面』(論文)

(注2): 小池四郎(B)の「資本主義的大経営のための産業予備軍」という比喩も同種であるが、小池の方が早い。しかも後の学者が立証する、本来なら減少するはずのひっ迫した小売業に失業者が参入し、増加する(故に失業率が大きな数字であらわれない―EとQで指摘―)という奇妙なねじれを「変態現象」として指摘し、その結果「全体の色彩をプロレタリア化する」(中小商業全体が貧困化する)と捉えるところも鋭い。小池四郎は後に、社会民衆党から日本国家社会党(後愛国政治同盟)へ、翼賛体制下で衆議院議員も務めた。マルクス主義から発して国家統制に傾きファシスト化する典型的知識人の一人である。

(注3): しかし見逃せないのは、1941年という刊行年が、アメリカとの開戦の年であり、著作の終章も、配給制度の整備の必要と、統制経済下で職業としての役割を失う中小商業者を「商業報国運動」として積極的に組織化するよう提案することで締めくくっていることだ。つまりこの本は、総力戦のために配給制度が革新される必要に迫られる事態に直面しての基本資料となることを目的の内に含んでいる。

(注4): 流通業においては「買回品」「最寄品」「専門品」という商品分類がよく用いられる。「買回品」は品質や価格などを吟味して選択する商品で衣服、家具、靴など。「最寄品」は近くの店舗で常に買われる商品で、日常的食料品、薬品、洗剤など。「専門品」は特定のブランドなどに魅力を感じて背伸びしてでも買う商品で、高級ブランドの服や時計など(A参考)。呉服は昭和初期では買回品であったが、現在では日常的に着ないし高価なので、「専門品」化しているといえる。

(注5): 満薗勇が各都市商(工)業調査書および『昭和14年臨時国勢調査結果表』より作成した表「地域別にみた小売総額に占める百貨店売上のシェア」によれば、東京市の1931年における百貨店数は18、小売店72228で百貨店売上高シェア32.3%。(O)

(注6): 関東大震災によって百貨店も多くが焼失などの被害を受けたが、「震災後間もなく各百貨店は本店跡に仮営業所を設くると共に、市内各所に臨時の出張販売所を設け続いて各方面に分店を置いた…其の取扱品も自然日用品、実用品とならざるを得なかったので、此の時を以って我国の百貨店が…民衆化の方向に向った」(M)。例えば松坂屋上野店では、店舗を焼失しながら池之端の舎宅に仮営業所を開店し、また東京市設衣類雑貨臨時市場を受託して巡回売店を各地で開いた(L)。

(注7): 商品券(切手)は百貨店以外に丸善、にんべん、服部時計店などの大店舗のもの、ビール会社の1ダース券、そして菓子共通券などが発行されている。小売商の共通商品券は1925年紙幣類似証券取締法によって禁止されている。菓子共通券は葬儀の贈答用として利便性があり、需要も大きいためか5円以下の少額券のみ許可となっていたが、法としては曖昧な運用である(P、T参考)。なお、1938年商業組合法の改正によって商業組合に対し商品券を発行する権限を認め、人形町の組合、続いて銀座の組合が商品券を発行した(M)。が、結果としては、例えば人形町が中元セールで3382円売ったが、この枚数にして赤字であった(T)。

(注8): 元々営業収益税の前に、日清戦争後の戦後経営、特に軍拡のための大増税政策の一貫として、1897年1月に施行された営業税というものがあった。商工業者らに対し、収益に関わらず、従業者数や建物賃貸価格などに対し一定比率でかかる税制のため不公正感や重税感が強く、足尾銅山の被害の訴えや普選運動、労働組合運動なども起こる時代の機運もあって、当初から反対の声が上がった。が、運動を担う階層がどこであるかや、景気の波の変化などに伴って、反対運動は浮沈を繰り返した。1923年に大阪から実業同志会という商工業者の政党も生まれて(委員長:鐘淵紡績社長の武藤山治)第49議会に営業税廃止法案を提出したが廃案。結局1926年に営業税廃止→営業収益税制定となり、純益に課税されるようになったが、個人と法人では個人に不利な制度で、中小小売に不満がたまった(H)。この営業税反対運動の下地の上に、百貨店反対運動があるのはいうまでもない。

(注9): 日本百貨店協会(1924年設立。参加企業は阪急、ほてい屋、大丸、高島屋、十合、野沢屋、松屋、松坂屋、丸物、三越、白木屋)が発表した声明書は以下の通り。
 「現下の深刻なる不況に当り百貨店事業も又甚大なる影響を蒙り経営容易ならざるものありといえども
 目下一般小売業界の実状に鑑み慎重協議の結果左に列挙する事項を実行すべきことを協定す
 1.出張売出はこれを行わざることとす
 2.商品券に付ては当局の指図により供託等適当なる措置を講ずることとす
 3.支店分店の新設は当分の内これを行わざることとす但し目下建設準備中のものについてはこれを
 商工省へ具申し諒承を受くるものとす
 4.いわゆるおとり政策の如き販売方法を取らざることとす
 5.過当なるサーヴィスによる顧客誘致の方法を取らざることとす
 6.無料配達区域は東京においては最近これを整理縮小せり関西においても近くこれを縮小することとす
 7.毎月一斉に三日間の休業を行う、但し中元、歳暮、並に誓文払売出し期間中はこれを除く
 8.商業組合法制定ありたるときは百貨店商業組合を設立し法規による統制を行うこととす
 本協定の実施は昭和7年10月1日とす」(東朝32・8・12)

おおば・ひろみ

1964年東京生まれ。サブカル系アンティークショップ、レンタルレコード店共同経営や、フリーターの傍らロックバンドのボーカルも経験、92年2代目瀧廼家五朗八に入門。東京の数々の老舗ちんどん屋に派遣されて修行。96年独立。著書『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ、2009)

論壇

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