特集 ● 混迷に"当たり前"を

昭和のプリズム-西村真琴と手塚治虫とその時代

連載・第9回――上海、そして満州へ――学童使節団を率いて――

ジャーナリスト 池田 知隆

1931(昭和6)年9月18日、満州事変が勃発した。これは日本のジャーナリズムにとっても、大きな分岐点となる出来事であった。その後、新聞各紙は大勢の特派員を現地へ派遣し、軍部の動きを逐一報道した。大々的な戦況報道によって新聞は部数を飛躍的に伸ばし、世論には「満蒙は帝国の生命線」という意識が植え付けられ、国民は次第に好戦的になっていく。大阪毎日新聞(大毎)の論説委員や事業部長といった要職を担っていた西村真琴もまた、この軍国主義の奔流に巻き込まれていくこととなる。

蘇峰と本山彦一

満州事変(柳条湖事件)は、満州の奉天(現在の瀋陽)近郊の柳条湖付近で、関東軍が南満州鉄道(満鉄)の線路を爆破した事件である。当時、関東軍は「中国軍の犯行である」と発表した。そのため日本では、太平洋戦争が終結するまで一般的に張学良ら東北軍の犯行だと信じられた。

しかし実際には、関東軍の部隊によって実行された謀略(いわゆる偽旗作戦)であった。首謀者は関東軍高級参謀の板垣征四郎大佐と、作戦主任参謀の石原莞爾中佐。関東軍はこれを武力による満蒙問題解決の口実とし、満州での軍事展開と占領を進めていった。

西村真琴

大毎・東日(東京日日新聞)の社賓となり、西村とも親交のあった徳富蘇峰は、この満州事変を「突然のこと」とは感じなかった。むしろ、以前から予見していた事態が的中したと捉え、「明治三十七八年(日露戦争)以後の愉快」とまで語っている。そして「亜細亜の縄張りだけは日本が引き受けて立派に治めなければならぬ」「皇国日本は膨張する運命にある」と論じた。

一方、大毎社長の本山彦一は、東亜政策や植民地経営に関するシンクタンク「東亜調査会」を設立し、初代会長に就任していた。後にこの組織は徳富蘇峰へと引き継がれ、近衛文麿などがブレーンとなっていく。この東亜調査会は、毎日新聞が戦争協力を進める組織へと変貌し、満州事変を熱烈に歓迎して関東軍と一体化していった。

新聞の「反軍国・平和路線」というものは、国際協調システムが機能しているときだけのものであった。国家的利害がむき出しの形で目の前に現れると、それまで底に沈んでいたナショナリズムが露出した。

新聞も「商品」である以上、売れなければ成り立たないという経営上の論理がある。そこへ、非常事態に直面して噴出した民族的・国家主義的な感情が相乗効果を生み、時代を動かしていったのである。事実を伝えることではなく、「ひたすら国論統一をはかること」こそが、当時の「新聞本来の使命」とされてしまったのであった。

上海市街戦の渦中へ

満州事変の後、中国国内で急速に排日運動が高まった。上海には、「アヘン戦争」の講和条約として、当時の清とイギリスの間で締結された南京条約にもとづき設置された外国人居留地「共同租界」があり、日本をはじめ、アメリカ、イギリス、イタリア、オランダ、ドイツなどが管理していた。

第1次上海事変(Wikipediaから)

中国人の間で「排日貨運動」が起き、日本人居留民の間にも反中感情が高まるなかで翌1932(昭和7)年1月18日、上海で日本人僧侶が中国人によって襲撃される事件(日本人僧侶襲撃事件)が発生した。日本海軍陸戦隊は、この事件を「暴支膺懲(暴れる中国を懲らしめよ)」の口実として中国軍(第19路軍)を攻撃し、事態は激しい市街戦へと発展する。上海の公使館付武官補佐官だった田中隆吉は戦後、関東軍参謀の板垣征四郎から「上海で事を起こして列国の注意をそらしてほしい」と頼まれ、自ら事件を仕組んだと証言。この事件は満州事変から国際社会の目をそらす目的で日本軍関係者が関与したとされている。

この攻撃に対し、中国側は激しく応戦。中国軍の戦闘意欲を軽視していた日本軍は、想定外の苦戦を強いられることになった。

「上海で繰り広げられている戦闘に対し、報道以外に新聞社として何ができるのか」

西村は、大毎の陣中慰問使として「中国慰労奉仕団」の団長を務め、上海へ向かうことになる。上海での医療奉仕に向けた事前調査が目的であった。

大毎社長の本山は、明治・大正期の社会事業の大御所である留岡幸助から「慈善病患者」と評されるほど、慈善事業に情熱を注いでいた。社長就任後の1910(明治43)年12月、大毎の1万号達成記念事業として「大阪毎日新聞慈善団(現・毎日新聞大阪社会事業団)」の設立を決定。新聞社が組織的な慈善事業を展開することは、当時の日本だけでなく、世界的に見ても非常に珍しいことであった。

当初の主要事業は、貧困地域を巡回して無料で治療や投薬を行う「巡回医療」だった。「自動車施療巡回病院」や「病院船」による巡回が開始され、木造の「毎日丸」などが診療にあたった。1927(昭和2)年には、最新医療設備を整えた150トンの鋼鉄船「慈愛丸」を投入。慈愛丸は1938(昭和13)年まで巡回診療を続けたが、その後、戦時体制への移行に伴い、鋼鉄船であったために金属として供出される運命をたどる。

西村が率いたこの中国慰労奉仕団には、編集顧問の木下東作も同行した。木下は大阪医科大学(現在の大阪大学医学部)の教授から大毎の運動部長へと転身した異色の経歴の持ち主であった。日本女子スポーツ連盟を設立し、あの人見絹枝(大毎運動課に所属し、日本人女性初のオリンピックメダリスト、陸上800㍍銀メダル)を育成したことでも知られ、後に日本体育協会や大日本相撲協会の会長も務めた。

その陣中慰問の生々しい様子は、西村のエッセイ「長崎で掘り出した黄海大戦の図」(『凡天経』所収)に詳しく描かれている。

傷痍軍人の気迫

上海での戦闘が始まって間もない1月31日、蒋介石が「支那全土に向かって対日戦線を布告した」という号外が流れる中、西村は上海行きの船に乗るため長崎に立ち寄った。

黄海大戦闘図

街を歩き、たまたま入った古道具店で、西村は『軍艦浪速御用印刷、黄海大戦闘図』と記された巻物を発見した。これは日清戦争中の1894(明治27)年9月17日、黄海で繰り広げられた大戦闘の陣形図だった。日本海軍と清国の北洋艦隊が鴨緑江沖で対峙し、高速速射砲を駆使した日本が清国艦隊を破って黄海の制海権を確保した戦いだった。

「これは海戦史上、絶好の参考資料になる。慰問先での話題にも使えるだろう」

そう思った西村は、さっそくこの巻物を購入した。

3日後の2月2日、西村は佐世保の海軍病院を訪れた。第1次上海事変で最初に負傷した軍人たちを見舞うためであった。

その中の一人、本田増吉特務少尉は、病室の壁に日本刀を立てかけ、ベッドに横たわっていた。手りゅう弾で足を負傷し、右手も拳銃で撃たれていた。しかし、本田少尉はいとも朗らかに笑って左手を上げてみせたのである。

「それでも、この左手がお国のお役に立つよ」

病床の傷痍軍人(西村筆)

西村はその左手に、購入したばかりの「黄海大戦闘の図」を持ってもらい、「今にこの通りに敵は降参しますよ」と慰めて病院を後にした。命を懸けて戦い、負傷してもなお戦意を失わない軍人の姿に、西村は圧倒されるような衝撃を受けたようである。

西村が乗船した「上海丸」は、前後を軍艦に護衛されながら、2月5日の朝に上海へ上陸した。西村はまず、沖に停泊していた砲艦「安宅(あたか)」へ挨拶に向かった。安宅は45口径3年式12センチ砲2門、8センチ高角砲2門、留式機銃6挺を備えた軍艦であった。

この安宅艦上で司令官として指揮を執っていたのは、藍澤幸一(後の海軍大将)だった。藍澤は、西村とともに旧制松本中学で学んだ「奮友(ふんゆう)」でもあった。「奮友」とは、朝夕ともに励まし合い、互いに奮い立つような友情を結んだ仲間を意味する言葉だ。

旧友との再会を喜ぶ藍澤司令官は、次のように語りだした。

「明治二十七、八年頃の日本は、世界からは珍しい島国、こじんまりした帝国くらいに思われていた。むしろ大清国と戦うことには同情をもって見られていたから、外交上もやりやすかった。しかし、現在の日本の立場は容易ではない。我が海軍の威力を示すだけなら何でもないが、上海には各国の租界がある。これらに迷惑をかけないようにして敵を掃蕩(そうとう)するのだから、時間がかかる。かつまた、日本帝国は東洋平和の正義のために戦うのだ――『慈故能勇(じこのうゆう:慈しみ深き者は、それゆえに勇敢になれる)』なのだ」

藍澤司令官はそう語り終えると、筆を執り、西村の持っていた図巻に自署した。

皇道の布施

大毎の上海支局は北四川路の内山書店の近くにあった。電話が不通で、西村らは危険を冒しながら、関係方面を慰問し、情報を収集し、戦況を確認して回った。一行が宿泊した同じ宿には、金沢の陸軍第九師団の先行団がひっそりと宿泊していた。その参謀長らにもこの図巻を示すと、同席していた将校たちも次々と筆を執って名を記した。そして参謀たちとともに、「結局、我が国の戦いは『皇道の布施(ふせ)』にある」という議論を交わし、夜を深めたという。

「皇道の布施」とは、自らの命や財産を天皇のために捧げるという思想を指している。天皇への絶対的な忠誠と滅私奉公を意味する精神主義的な戦いであり、「共に論じて」とあることから、西村自身もその思想に共感していた様子がうかがえる。

上海に滞在中、この図巻は陸戦隊を指揮していた植松練磨少将(海軍少将、後に衆議院議員)の陣中に置かれ、その後、上陸してきた久留米混成第24旅団長の下元熊弥陸軍少将(のちに中将)の本陣へと移された。

下元少将は、目の前に座る西村に、砲弾の破片を受けたという鉄兜(ヘルメット)を4つ一束にして見せた。その時の様子を次のように記している。

 まるで焼き損じた陶器のようにいびつに変形し、鶏卵ほどの大きな穴がぶち抜かれている。こんな兵器では到底防ぎきれない。「何とも申し訳ない」という気持ちが胸に突き上げてきた。
 その時、ガサリと音がしたかと思うと、兜から一塊の血が机の上に落ち、そこにあった新聞紙を真紅に染めた。
 「見よ、我が忠勇の士の血潮は――この通り、固まって日の丸を描くのだぞ!」
 下元少将は昂然(こうぜん)として叫んだ。
 そして「陣中では一滴の水が一滴の血液に相当するほど尊いのだ!」と言いながら、惜しむように硯(すずり)に水を差し、悠然と墨をすり流した。やがて描かれたのは「だるまの図」だった。「形見ぞ!」と言って少将は筆を置いた。

命のやり取りが行われている戦場は、理屈がまかり通る世界ではない。新聞社の机の上でこねくり回す知識など、凄惨な戦場には決して届かない。西村は、極限状況における戦地のリアルな感情を、身をもって痛感させられた。

約1週間の上海滞在を終え、西村一行が青島(チンタオ)行きの「長者丸」に乗り込んだのは2月11日のこと。船は陸を離れてからも、時折船腹にパラパラと機関銃の流れ弾を浴びた。

青島は上海とは違って平和な空気に満ちあふれていたが、はるか向こうの大きな建物の壁には「打倒帝国主義」という文字が躍っていた。西村はいう。

「私は笑いながら青島市長の沈鵠烈氏の視線をその排日ポスターに向けさせ、いたずらにまばたきをして見せた。すると、沈市長は困り果てた様子で、顔から後頭部にかけて手のひらでなで回しながら『近日中に必ず取り除かせます……』と答えるのだった。」

東郷平八郎へ図巻寄贈

帰国後、大毎から上海に派遣されていた柿本吉良特派員の消息を、彼の留守家族に伝えた時のエピソードも印象深い。

大毎社員の一人が上海で貫通銃創を負ったことを知った西村が、柿本記者に「自重を祈る」と送信する予定の電文を柿本夫人に伝えた。すると、夫人は、これを一読するや即座に筆を執り、「自重」の2字を「健闘」に改め、

「記者として第1戦に働くからには、武夫の職場に立ち向かうと同様であります。自重せよでは主人も踏み切りがにぶりませう。夫に健闘せよと励ましてこそ大毎に御奉公する記者らしくなります」

と語った。さらに、待ち合わせた旅館の床の間に掲げられていた伊藤博文が揮毫した詩

人生自古誰無死 留取丹心照汗青

を西村に巻紙に書くことと求めた。人は誰しも死を免れないが、歴史に恥じないようにしなければならない、という意味だ。南宋の忠臣、文天祥の有名な詩『過零丁洋(零丁洋を過ぐ)』の結びの句で、モンゴル帝国(元)に捕らえられた文天祥は降伏を勧告された際にこの詩を詠んで拒絶した。柿本夫人は、

「この文句の意味に因んで精進するように、その巻紙の続きに書かせて頂いて上海の柿本に送ります」

といいながら、それをくるくると巻きつけて持って帰ったという。
 西村は、柿本夫人のこの振る舞いに、思わず襟を正さざるを得なかったと振り返っている。

そして西村は、この黄海戦闘図の図巻に込められた「戦地の切実な感慨に、より深く魂を打ち込む」ためにこれまでの経緯を書き記した文と、黄海の水を添えて東郷平八郎(日露戦争時の連合艦隊司令長官)へと送った。大阪で製作されたこの図巻の巻頭にある表に、第一遊撃隊の1つとして「浪速艦370トン 艦長大佐東郷平八郎」と記されていたからである。

東郷平八郎

日清戦争時は47歳だった東郷は当時、84歳。後に側近から、「沈黙の将軍が、やおら黄海の水をすった墨の中に筆を浸したとき、その慈眼は涙に輝いていた」と伝え聞いた西村はこう振り返っている。

「その尊い姿をそぞろに思い浮かべることができた。恐らく元帥が揮毫(きごう)された多くの章句の中でも、この種のものは極めて珍しいと思われる三字を、図巻の巻頭に記された。

『無限感』
昭和七年夏 平八郎書」

当時の新聞紙面は、「残虐な支那兵」「勇敢な皇軍」といった扇情的な見出しや記事で埋め尽くされていた。読者である国民は、虚偽を含む一方的で偏った情報を与え続けられることで、「正義の皇軍、暴戻(ぼうれい:乱暴で人道に外れること)な支那」という歪んだ枠組みでしか事態を判断できなくなっていく。

このように戦争に前のめりになっていく時代の狂気の中で、どのように科学的精神を保ち得るのか、西村は、その問いを自らの生涯のテーマとして抱え込んでいくことになる。

「爆弾三勇士」賛歌へ

激しい戦火が繰り広げられていた上海から西村が大阪に戻って間もない2月22日のことだ。

上海郊外の廟行鎮(びょうこうちん)において、江下武二、北川丞、作江伊之助(いずれも独立工兵第18大隊所属の一等兵。死後に伍長へ特進)の3名が、敵の強固な陣地を突破するため、点火した爆薬入りの破壊筒を担いで鉄条網に突進。自らも爆発に巻き込まれて戦死するという事件が起きた。

この出来事は「死を覚悟した自爆攻撃」という「軍国美談」として、新聞やニュースで報道された。当時の陸軍大臣・荒木貞夫が彼らを「爆弾三勇士」と命名。大毎・東日は「爆弾三勇士」、大阪朝日・東京朝日は「肉弾三勇士」と称し、報道合戦を繰り広げた。しかし、後の研究や証言(上野英信『天皇陛下萬歳 爆弾三勇士序説』など)によれば、実際には「導火線が短すぎた」、あるいは「突入時の混乱による事故」であった可能性も指摘されている。ただし研究者の間でも評価は分かれており、詳細についてはなお議論がある。

肉弾三勇士像(東京都港区の青松寺で、Wikipediaから)

当時のメディアの熱狂ぶりは凄まじいものだった。NHKラジオは特別番組「三勇士の夕(ゆうべ)」を放送。各種月刊誌はもちろん、映画、演劇、音楽、絵画、彫刻など、あらゆる表現の場で競うように「三勇士」が取り上げられた。子どもたちの間でも「爆弾三勇士ごっこ」が大流行し、後に「特攻」へとつながる「命を捨てて国に尽くす」という自己犠牲を美化する精神的土壌が、このとき作られたともいわれている。

大毎・東日はさっそく、この爆弾三勇士をテーマにした軍歌の募集を行った。一等に選ばれたのは、当時慶應義塾大学の教授をしていた与謝野鉄幹(寛)が作詞した「廟行鎮の敵の陣」だ。かつて日露戦争時に「君死にたまふことなかれ」と歌った妻・晶子と比較され、世間からは「鉄幹、血迷うたり」との非難も殺到した。ただ、そうした非難が起きたことは、まだ当時の社会に正常な感覚が残っていた証拠でもある。

作曲は陸軍戸山学校軍楽隊が手がけ、彼らの演奏・歌唱によって吹き込まれたレコードは、4月にポリドールから発売された。(※競合の大阪朝日・東京朝日も公募により、中野力作詞・山田耕筰作曲の「肉弾三勇士の歌」をリリースしている)。

大毎も大阪朝日も、連日のようにこのキャンペーンを展開した。紙面の一面には弔慰金の金額と寄託者の名前がずらりと載り、新聞の購読者拡大に利用されたのである。この凄まじい「忠誠合戦」は、軍部が意図的に作り上げたという側面だけでなく、メディアの側が商業主義に走って暴走した面が非常に強かった。西村は大毎の事業部長として、その狂乱の一翼を担わざるを得ない立場にあった。

上海における日中間の停戦協定が成立したのは5月5日だった。この上海事変における日本軍の戦死者は約740~770人、中国軍の戦死者は約4000人、中国の民間人の死亡者は約6000人から10000人とされている。(日中の研究者によって数字は異なるが、一般的にはこの数字が使われている)

満州の少女使節を迎えて

上海から戻って日本各地で時局講演会を開いていた西村に、今度は満州に派遣する学童使節団を引率する使命を与えられた。それは「平和国家満州国と正義の国日本」というイメージづくりに純粋・無垢な子どもを起用する試みでもあった。

「満州国から可憐な少女使節」――。大毎は5月28日、満州国からの「建国の象徴」として満州の少女たちの派遣計画を大きく報じている。3月1日の満州国建国宣言後の最大課題となっていたのは日本政府による正式承認。日満親善を演出し、「五族協和」を宣伝するため、日本の世論に働きかけることが目的だった。軍人や政治家よりも、可憐な少女の方が日本国民に親近感と好感を与えると考えられた。これが満州国最初の対日公式文化使節といわれる。

使節団は、満州国政府資政局が選抜し、13~16歳前後の少女で構成。「五族協和」を象徴するために団員には主として、日本人、満州族、漢族など複数民族の代表が含まれていた。

少女使節団一行は大連神社へ参拝し旅行の安全を祈願したあと、6月22日神戸に到着し、婦人団体、女学校関係者、新聞社関係者による歓迎を受けた。新聞では、使節団の東京駅頭での歓迎、花束贈呈、記念撮影、新聞社訪問などを写真入りで1面に掲載した。日満親善、五族協和、女子教育をテーマにした交流会では、「満州国の女性は高らかに叫ぶ」と「童心に映じた日本」と少女たちの日本への感想、東京見物、学校訪問、日本少女との友情を紹介した。

これを受けて「答礼少女使節 本社から満州国へ派遣 来る8月3日出発」という囲み記事を大毎は7月1日、朝刊1面の題字のすぐ下に掲載した。

「日満親善の美を結ぶために新興満州国から可愛い少女使節が来朝し日本少女と固い握手を交わしました。童心国境を越え第二の母たるべき日満少女の情誼美しい交歓は国交上最も意義深きものと信じます。本社並に東京日日は日満両国の遠き将来のため一層友愛の情を厚うすべく……」

8月の夏休みの間に、東京、大阪の代表少女5名を満州国に特派するという計画だ。大阪を起点に8月3日神戸を出帆、大連から奉天を通り、新京、京城(現ソウル)となっている。

大毎・東日が少女使節派遣を発表したこの日、大阪で少女使節たちを迎えての「満州国即時承認国民大会」が開かれ、各新聞社の報道合戦がピークを迎えていた。「こども博覧会」(大毎、東日主催)事業などを展開していた大毎にとって、こどもを中心に据えた催しは世間の注目を集め部数拡大が見込める事業だった。

西村も翌2日に開かれた満州国少女使節と大阪の少女たちの座談会に出席していた。「少女使節が選んだ満州の野の縁(ゆか)りの草花」と題して、こんなエッセイを書いている。(『科学随想』所収)。

「私もその嬉しい仲間入りをすることになったので、待遇(もてなし)の一端として、満州植物二千余の標本の中から六百種ばかりを選んで展観しました。
 『あら! こんなにいろんなお花が満州に咲いているのかしら……』
 ほろりとするどころか、すっかりはしゃぎ立った彼女たちでした。
 当時の北満やシベリアからもたらされた幾種かも今度の少女達がつぶらな眼をみはって『あれよこれよ』と鮮やかな日本語で讃えてくれました。(略)
 さてそれ等の草花の中からこの使節達が特に親しんで花の名と自らの名を記し残された十数種について、少女使節を迎えた記念として書き綴ることとします」

「ここに少女使節の第一のお気に入りがカラナデシコです。この種は名の示すように原産地は支那大陸、彼女達にこれが目立ったばかりでなく日本の土にも機嫌よく咲いているというので一層喜んでくれました。(略)
 唐撫子に対して大和撫子があります。--我国ではこれを秋の七草に数えます。淡紅色の可憐な花が初秋に咲き出ます。日本へ唐撫子の咲くように満州国の野山にも大和撫子を咲かせたいものだと語ったことでした。
 旅順、大連から遼陽、千山、奉天、遥に離れて醫坐閭山(いふりょざん、中国東北部の三大名山のひとつ)あたりにはココメナデシコが咲いています。」

西村は短歌1首を添えて日満親善交流に熱い思いを寄せ、満州の植物を紹介している。

「いかづちは遠鳴り渡る文机の糸撫子の花はさゆれつ」

学童を引率して満州へ

大毎・東日が、すばやく「答礼少女使節派遣」計画を発表したが、民間の小学校教員団体である全国連合小学校教員会(全教連)も独自に満州への少女使節の答礼計画を進めていた。

全教連は、全国規模の小学校の教員組織と標榜していた。「文部省の支援をうけてはいたが、その実情は東京を中心とする一部の地域の現職小学校教員による民間団体にすぎなかった。ただし同会は文部省に盲目的に追従する、いわゆる御用団体ではなく、率先して現場の教育者の立場から日満親善運動を展開し、国や社会に向けてアピールするという行動を取り続けて」いたという。(是澤博昭「満州国承認と日本学童使節ー小学生による日満親善の試み」)

全教連は、日満教育提携を模索し、学童の交流や使節団派遣を東京市や外務省に働きかけたものの、満州国が未承認国家であるために行政側は派遣に消極的だった。そんなときに大毎・東日主催の「答礼少女使節」の計画を知って、大毎・東日側に合同主催を提案。新聞社にとっても手間や責任を負うことなく、ニュースソースを独占できるため、これに合意した。

全国連合小学校教員会、大毎・東日主催で、全国各地から選抜された「日本学童使節」が満州国に9月19日に派遣されることになった。出発の4日前の15日になって「日満議定書」が調印され、日本政府も満州国を承認した。出発前日の18日は、満州事変勃発から1周年にあたっていた。

このため政府も全面的に協力することとなり、満州国の建国を「世界平和への寄与、国際社会への文化的貢献」として強くアピールする絶好の機会ととらえたのである。欧米列強との国際競争に勝ち抜く世界の中で満州国は、日本の国家主義的なイデオロギーを後ろ盾として対外発展を目指していた。

この使節団で大毎・東日を代表して引率を任されたのが西村真琴だった。西村は広島高等師範学校卒業後、日本と満州で小学校校長を務めた経歴を評価されたのであった。社内における役職も事業部長から学芸部顧問(部長待遇)に変わった。

満州を訪ねた学童使節団(中央にいる西村、『日本学童使節満州国訪問記』から)

満州事変1周年の18日は、NHK放送局でもこの一日を挙げて満州事変記念放送番組の豪華版を編成。関東軍司令部がある奉天のスタジオから板垣征四郎少将の「満州国建国に就いて」や奉天市長、憲兵隊長講演などがあった。また当日の「朝の子供の時間」に、学童使節の送別放送が満州事変関連の子ども向の放送として組み込まれた。大毎の当日の番組表に「お話『訪満学童使節』本社学芸部顧問理学博士西村真琴」と記されていた。

危険の多い満州へ派遣する学童の安全をどう確保するのか、西村には大きな責任が課せられていた。

「覚悟」は「出征軍人」

学童使節団の派遣計画によると、使節は小学生男児7人、女児8人の15人。それに全教連の教員3人、付き添いの医師と西村が加わった。期間は9月19日から10月11日の23日間。資格は小学生に限り、「身体強健」「学力操行共優良」「比較的発表自由なるもの」「食事に好悪なきもの」などを基準に選抜された。

全教連代表として同使節の監督・引率をした上沼久之丞(東京・富士尋常小学校長)がその一連の経緯を『日本学童使節満州国訪問記』にまとめている。使節の選定・旅費・監督を全教連が担当し、「大毎」側は土産物・使節の服装・絵葉書の募集・訪問地での自動車費・通信連絡などを担った。

現地で訪問し、挨拶する予定者には、日満両政府、関東州、朝鮮、満鉄の主な人物が網羅されている。これ以外にも本庄繁、武藤信義の歴代関東軍司令官を訪問する。

「日本の少年少女から満州国のお友達へ」
「親愛の絵葉書を募ります 日本学童使節に托して」

こんな見出しをかかげて、「大毎」は学童使節特集を組んでいる(9月9日朝刊)。使節全員を顔写真付きで紹介している。各家庭にある日本の地理、歴史、風景、風俗などを描いた絵葉書に日満親善を語る文面が書かれたものが、わずか9日間に約15万枚も集まった。

民間事業であったとはいえ、使節に選ばれることは家族や学校、地域にとって大きな名誉であり、日本を代表する公的使節にも匹敵する扱いを受けた。

大阪市長関一は『大毎』に「平和の楽土としての 新興満州国に使する学童使節」という文章を寄稿している。「新興満州国育ての親として」日本は、物心両面での援助が必要だと指摘。さらに両国をつなぐものは「信」と「愛」であり、今回の学童使節が担う責任は「こどもといえ実に重大」であると強調している。(『大毎』9月30日朝刊)。

「平和の使い」「純真なる15名の使節」「子供の手で平和を誓う」といった言葉が新聞紙上を躍った。これについて是澤博昭氏は「謀略がうずまく大人社会の醜さを覆い隠す子供というイメージの利用価値が、日満の両政府をはじめ社会的にも浸透していることがわかる」と指摘している。

学童使節派遣計画の段階では、満州国はまだ日本政府が承認していなかった。平和の目的であったとしても多くの危険が予想されていた。使節を選考していたころにも奉天付近では匪賊襲来の報道もあり、全教連には各地方から「予定通り決行するのか」との問い合わせが寄せられた。上沼は万が一のことを考えて、陸軍省に相談したところ、大笑いされたという。

「東京だって強盗や人殺しがいる。それより安全なくらいだ。そんなに心配するくらいなら満州に居る人がないはずではないか」

それを聞いて、監督の上沼は次のような決意を固めた。

「(不可抗力でなにかあれば責任を問われても仕方がない)万全の策を尽くして遺漏なきを期して人事を尽くして天命を待つ外ない。平和の使節であるが、覚悟は出征軍人の意気で、運命を神様に托しておくのだ。どうか使節の関係者も此の心持であってほしい」

日本の生命線としての満州へ向かう使節団。その「覚悟」は「出征軍人」である、と上沼は強調した。

新桃太郎主義

学童使節は、鳩山一郎文部大臣の「満州国少年少女へ」、永井柳太郎拓務大臣の「関東州の学童諸子に告ぐ」「親愛なる朝鮮の少年少女諸子に告ぐ」という、満州国と関東州・朝鮮の子ども達へのメッセージを携えていた。その子どもたちに対して、上沼は「新桃太郎主義」を語りかけていた。

日本の昔話である桃太郎は、「鬼退治をして宝物を積んで帰り、錦を故郷に飾る」という物語である。しかし、満州国においては「勝っても宝物を持って帰らない新桃太郎の意気」が必要だというのである。

満州国に王道楽土を建設するためには、日本を忘れて満州国人として尽くす意気を持つ人材の育成が求められていた。日本の対外進出を担うことが期待された子どもたちであった。将来はアジアの盟主として他国を指導する人間への成長が期待されていたのであろう。ここに学童使節団の一つの本質を見ることができる。

若き日、満州で暮らした西村もまた、上沼と同じ思いを抱いていた。学童使節の出発に向けた横浜での交歓会の席上で、次のように話したという。

となりにはけむし(毛虫)のたかつてしようがない大きな木がありました。何とかしてこのけむし(毛虫)をとりのぞきたいけれども、ようい(容易)にそのけむし(毛虫)をとりのぞくことが出来ませんでした。
 けれどもそのわきへめばへ(芽ばえ)のよいのが出来ました。こちらには意気はつらつとしたわかめ(若芽)がたくさんあります。どうしてもこんなけむし(毛虫)のたかつた木よりも、日本のようないきほひのよい苗木を、そのあたらしい地へうえつけて、ますますそののびてゆくことをいのらなければならない、といふことを(西村先生は)述べられました。(『日本学童使節団満州訪問記』)

この話を作文に書いた関東代表の女子児童は、その意味を次のように理解したという。

それは日満親善であつて、支那といふ老大国は今けむしがたくさんたかつてしまつてゐる国である。ところで日本のようなのんびりとしたいきほひのよい苗木を満州へうえつけ、さかへゆくことをながめ楽しまうといふことで、それがとりもなほさづ東洋の平和といふことになるのではないか、ぜひそうしていかねばならぬ。又そうしてゐなければならぬ、と云ふ意味であると思ひました。(同)

西村たちは、

「満州はわが国防上からも、経済上からも極めて大切な場所である、君がこの満州国との親善といふ重大な任務を十分果たしてかへってくれることを心から願ふ」

と学童たちに語りかけた。

そして、生まれたばかりの満州国を日本が守り育てるという意識は、学童使節だけでなく多くの子どもたちの胸にも刻み込まれていった。

満州を旅して歌う

溥儀を囲んで(右から二人目が西村)

神戸港を出発し、門司経由で満州に到着した後、大連、奉天、新京、ハルビン(哈爾浜)を訪れ、各地で歓迎式典に参加した。満州では各地で抗日武装勢力による抵抗活動が続いていたが、学童使節は安全なルートのみを移動した。『大毎』『東日』は、ほぼ連日のようにその動向を伝え、満州国執政の溥儀や鄭国務総理をはじめ満州国の要人に謁見し、武藤全権を訪問する様子を独占的に伝えた。

子どもによる「日満親善」と満州国へのイメージ向上が、日本の大人たちにより演出されたのである。ここでは、西村が訪問期間中につくった短歌を列挙しておく。(「日満親善学童使節を伴ひて」)

満州の国のさきはひいのりつゝ 使節の子等はたまくしをさゝぐ(明治神宮参拝)
桜木の葉数ちりしく拝殿に ぬかづく子等の夕陽にはえたり(靖国神社参拝)
北満の水難救助と記しあるポスターに見入る使節わらべたち(七月より九月にわたる北満の水災)
うすりい丸いよいよいでゆく幾千すじテープのきれて海にちりつゝ(神戸港出発)
使節等は五色のテープ貼り交え満州国の旗をつくれり(船中のすさび)
わらんべの使節はいゆく海のあなた雲はえ渡る王道の国(甲板に夕映を眺めて)
玄海も波しづもりて壹岐つしま眺めて語る夕べなりけり
朝あけのキャビンの窓はあかねして流れ去る島流れ来る島(朝鮮の西多島海にて)
爾霊山の土に埋れし弾丸(たま)なりとゆがみ錆びたるをひさぐ子のあり
一握の土にもこもるますらをのいさをししのぶ山肌の菊(爾霊山にて=日露戦争の激戦地「二百三高地(現在の大連市旅順口区)」を指す)
ものゝふのをり重なりて討ち死ねる塹壕の土堤(つち)に野菊花さく(東鶏冠山=大連市旅順口区)
つぎつぎに鳩はとび去る汽車の窓使節の子等の文をになひつつ(軍用鳩)
満州を訪れし子等の日記にはきっと世界を旅をすとあり
朝あけの野にひびかへり犂(すき)の音はたらき働く大和男子等(満州の開拓)

満州は「太った赤ん坊」

満州各地で親善交流活動を行った学童たちは、どのような感想を抱いたのであろうか。

『日本学童使節満州国訪問記』によると、最も多かった感想が、「駅で大勢が迎えてくれた」「万国旗が飾られていた」「花束をもらった」ことへの喜びにふれたものだ。実際には、各地の学校・協和会(官民一体の国民教化組織)・在郷軍人会が総動員され、交流した相手は日本人学校児童や満洲国協和会が選抜した児童であった。一緒に歌ったり、記念品を交換したり、写真を撮ることで「満州の人はみな日本を好きである」「友達ができた」と語っていた。

大連、奉天では「日本人が多い」という印象が強く、「日本語が通じる」「日本の町に似ている」「日本人学校がある」ことに驚いていた。『訪問記』に掲載されている写真は「歓迎される日本」の姿や近代国家建設の象徴として建設中の満州国の風景が中心であり、農村や貧困地域の写真はほとんど見られない。

これらの作文・感想文・写真を総合すると、「歓迎」「親善」「新国家建設」「五族協和」の四つのテーマが反復され、「軍事」「紛争」「抵抗運動」は排除されていた。「新しい建物が多い」「道路が広い」「未来の首都らしい」「満州はまだまだ発展する」と、発展、建設、進歩が強調され、満州国は日本が守り育てるべき「赤ん坊」である、という結論で締めくくられていた。

使節団帰国歓迎の記事

使節団の一行は帰郷後、各地で盛大な歓迎を受けた。

例えば、仙台では帰郷後も歓迎会と同様の盛り上がりで、プラットホームには、何時からともなく満州国国歌の合唱と、使節少年の母校の校歌が流れた。列車が到着すると、万歳三唱。駅前広場での歓迎式の後、徒歩で学校に凱旋し、司令部、知事、市長を訪ねた。翌日は仙台放送局で歓迎放送が行われ、同小学校では執政溥儀などから貰ってきた「お土産展覧会」が開かれた。

「(使節の)松岡少年は正に童話の国の凱旋将軍の意気を見せて凛々しい姿を仙台駅に現すであらうーもつともだ、松岡少年の訪満は国際的であり歴史的なのだ。従って駅頭における最初の歓迎式は最も熱誠をこめたものでなければならぬ」『東日宮城』(10月12日)

この報道から確かに熱誠をこめた歓迎式であったことが推測される。

『日本学童使節満州国訪問記』は、児童たちが見た満州の記録であると同時に、当時の日本社会が児童に見せようとした満州の記録でもあった、と是澤氏は指摘した。

大人は子どもに勝てず

アジアの盟主である日本人の次の世代をいかに育成するのか。日本人を中心としたアジア建設という「国民的使命」が、学童使節だけでなく多くの小学校高学年児童にも共有されていった。慰問団を監督した上沼は、総括の言葉として「遂に大人は子供に勝てず」と語った。

「新京に於ては学童使節の効果に対して、大人より以上であるとの好評を得た。子供のかん高い声で挨拶や慰問の言葉を述べると殆んど全部のものが感動した結果生まれたのが「遂に大人は子供に勝てず」といふ新語である。満州へは多方面の人々が入つて居る。利権屋も行つてゐる。利権屋などに対する警戒心から見れば学童使節に対しては平安である。子供は純真で可愛い。挨拶を聞き乍ら喜びの涙にむせばぬものはないのであつた。」

「…(学童使節は)全国八百万の学童に日満親善の過程を充分に味はしめた。日本の国際的地位を明確にした。満州の平和は日本の安全だ。東洋の平和だ。世界的の平和に貢献するのだ。やがて支那とも平和にすべきだ。人類の幸福増進に寄与するのだ。使節の使命は重かつた。それを果たしたのだ。将来にも貢献すべき使命を持つて居る。

…使節よ健在なれ。すくすくと伸びよ。満州に植えた平和の種を見守つて水を与へて成長せしめよ。虫ばむものがあつたら払ひのけよ。それが親木のつとめだ。健在なれ学童使節よ。」

満州国を虫食むものがあったら払いのけること、すなわち中国や米国をはじめとする欧米列強を排除することが親木である日本の務めであり、それを将来担うのが学童であった。西村もまた、それが東洋平和であり、世界平和につながるとの思いを強くしていた。

学童使節団は、日満親善を掲げながら、実際には満州国の正当性を国内外に印象づけるための大規模なメディア・イベントでもあった。子どもたちの純真さは政治的意図を覆い隠す装置として利用され、新聞社、教育団体、政府が一体となってその演出を支えたのである。

軍部の世界観に共鳴

国際連盟が現地に派遣した調査委員会(リットン調査団)は、「日本軍の行動は正当防衛とは認められない」「満州国も、現地住民の自発的な独立運動によって生まれたものではない」とする報告書をまとめ、10月1日、日本に通達した。

日本政府はその直前の9月15日、既成事実化を狙って国際連盟の結論を待たずに「満州国」の国家承認に踏み切っていた。

実は、リットン報告書は日本を一方的に悪者として非難するだけのものではなかった。満州に広範な自治政権を樹立するという、日本側の権益にも一定の配慮を示した妥協案を提案していたのである。

しかし、当時の斎藤実内閣では、荒木貞夫陸相が「報告書は単なる旅行日誌に過ぎん」と激しく罵倒したのを皮切りに、閣僚たちがこぞって猛反発した。衆議院に至っては、すでに6月の時点で「満州国承認決議」を全会一致で可決していた。

新嘗祭の11月23日、西村は大阪城内に置かれていた陸軍第四師団司令部を訪ね、寺内寿一師団長の話を聴いた。新嘗祭は、その年に収穫された新穀を神々に供えて恵みに感謝し、翌年の豊作や国家安泰を祈願する日(現在の勤労感謝の日)である。 

寺内師団長は、明石将軍(明石元二郎・陸軍大将)から寺内の父で当時の朝鮮総督元帥寺内正毅大将に送られた画を掲げ、「東亜の妖雲はすでに20年前に漂っている」と熱弁を振るった。

「腥風地を捲いて起り鬼哭聲啾々たり、国若し其の計を失はばこの満州を奈何せん、この髑髏を奈何せん」

明石将軍の絵図

この明石の言葉に「憂国の叫び」、国のために殉じた者たちの「鬼哭の叱喝」を西村は感じ取り、深い感銘を受けた。「満州鉄道のレールは実に戦死者の骨の一本々々をつないで出来上がったもの」との思いが伝わってきたのである。西村はいう。

「明石将軍のゑがかれた画上、鬼火は更にシベリア方面に炎々と燃え上がり、雷電轟き渡って支那は漸く赤化し、この飛火が日本海に没して辛じて沈下されつつあるかに見え出した。そして、これが第一防備戦としての満州には火箭乱れ飛び、腥風天に揚り鬼哭地に満ち、あらゆる凄愴なる画の資材が眼前に幻覚としてちらつき、いかんとも払うことが出来なかった」

西村は、この明石将軍作の画をどうしても手元に置きたくなり、同師団に依頼して複製を受け取った。

生物学者として合理主義を掲げてきた西村もまた、上海での戦場体験と満州視察を経て、次第に軍部の世界観に強く共鳴するようになったことがうかがえる。

12月26日、西村は大毎での5年間の雇用期間を終えた。この年は上海から満州の戦地を目まぐるしく駆け回った1年であった。さらに2年間、学芸部顧問のまま雇用延長となるが、その4日後、西村を大毎に迎えた本山彦一社長が死去した。享年79であった。

上海と満州での体験を経て、西村は、戦時下における子どもたちと教育という課題に向き合っていく。次回から、その歩みをたどることにしたい。

いけだ・ともたか

大阪自由大学主宰 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008~10年大阪市教育委員長。著書に『謀略の影法師-日中国交正常化の黒幕・小日向白朗の生涯』(宝島社)、『読書と教育―戦中派ライブラリアン棚町知彌の軌跡』(現代書館)、『ほんの昨日のこと─余録抄2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。

特集/混迷に"当たり前"を   

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