特集 ● 混迷に"当たり前"を
「朴烈の妻」から「独立運動家」へ
没後100年、金子文子の名を呼ぶ
韓国・聖公会大学研究教授 李昤京(リ・リョンギョン)
2026年7月韓国で金子文子没後100年追悼式
日本で生まれて朝鮮で無戸籍者として目撃した様々な権力による差別と暴力
朝鮮の独立運動家 朴烈と共に闘い自分を貫く
「大韓民国を愛した日本人独立運動家 愛国志士 金子文子」と銘打った追悼式
日韓の市民が残して繋いだ 人間・金子文子
2026年、100年後に我々が金子文子を呼び起こす
2026年7月韓国で金子文子没後100年追悼式
1926年9月3日、中国の上海で発行されている『独立新聞』の16面に「鳴呼文子」と題する詩が掲載された。『独立新聞』とは、日本植民地統治時代に大韓民国臨時政府が亡命先である上海で発行した機関紙だ。朝鮮内外の同胞へ独立運動の動向を知らせ、民族の意識を高めることを目的とする。このような『独立新聞』にノミアビという人が、同年7月23日栃木の刑務所で23歳の生涯を閉じた金子文子を「朴夫人文子」と呼びながら「丈夫の国のために併せて⼤義のために / 主張のために」自ら死を選択した文子の死を嘆き惜しんだのだ。ノミアビは、文子が朝鮮人独⽴運動家でかつアナキストである朴烈(パク・ヨル、1902.02.03〜1974.01.17)と出会い、彼の妻となり、共に「天皇を爆殺しようと」して獄苦を味わうことになった事実をしっかり伝えている。さらに、日本人でありながら日本帝国主義と天皇制に抵抗し、朝鮮人の独立に連帯した女性として高く評価している。その強烈な詩を以下、引用する。
<国立大韓民国臨時政府記念館>のアーカイブに所蔵されている独立新聞 上海 国漢文版 1926年9月3日 (第192号)より引用)
鳴呼文子 (ノミアビ)
박부인(朴夫人) 문자(文子)가 敵獄中에서 자정(自靖)하였다한다
(朴夫⼈⽂⼦が敵の獄中で⾃靖したという)
열열(烈烈)하다 (烈烈たるものがある) /
문자는 본이 왜녀(倭女)다 (⽂⼦はもともと倭⼥である)
부모가 왜요 생장이 왜였다
(両親は日本人であり生まれ育ったのも日本であった)
그러나 그는 왜가 아니오 사람이었다(しかし彼⼥は倭ではなく一人の人間であった) /
그는 능히 불령선인(不逞鮮人)? 박열을 따라 안해되고
(彼女は「不逞鮮人」と呼ばれた朴烈の妻となり )
또 그는 능히 저의 천황을 박살하려다가(また彼女は、自国の天皇を打ち倒そうとして)/
대역을 범하고 사수(死囚)로 옥에 들엇다
(⼤逆を犯し死囚として獄に⼊った) /
그는 丈夫를 爲하야 (彼⼥は丈夫のために)
丈夫의 나라를 爲하야 (丈夫の国のために)
아울너 大義를 爲하야 (併せて⼤義のために)
主張을 爲하야 信條를 爲하야 (主張のために信条のために)/
能히 발강피 한 모금을…선사하엿다 (自らの血の一滴を…捧げた) /
아!그가 희고 말근 韓나라 며누리의 옷을 입고
(ああ!彼女が白く清らかな韓国の嫁の衣装を身にまとい)
오慢거慢한 그 남편과 함께 (傲慢で尊大なその夫とともに)
大日本王의 法庭에서 (⼤⽇本王の法廷で)
더할 수 업는 戲劇的 嘲笑를 (これ上ないほど喜劇的嘲笑を)
神聖不可侵에 퍼부어씨울 때(神聖不可侵』なる存在に浴びせかけたとき)
그의 색기 五千萬이 얼마나 心痛하고 안타까워쓸가 /
(その五千万の同胞が、いったいどれほど胸を痛め、心を苦しめたことであろう)
아!그는 그만 짐지 아너졋다(ああ!彼女はついにこの世を去ってしまった)/
일하지 못할 바에 작난은 더하랴 하지 아니하엿다 /
(働くことができないからといって、いたずらに何かをしようとはしなかった)
그는 마츰내 七月二十一日 아츰 새빗 미태서(彼⼥はついに7⽉21⽇の朝、夜明けの光の中で)
끼친 몸을 시나라 太白山기 슭에 무치기로 하고(残されたその身を夫の国の太白山の麓に葬ることとし)
남편을 꿈꾸고 이승을 버렷다 (夫を夢見ながら、この世を去った) /
아!烈烈한 文子 (ああ! 烈烈たる⽂⼦)
(筆者による翻訳)
それから100年が過ぎた2026年7月23日に金子文子が眠っている韓国の聞慶(ムンギョン)で没後100年の記念行事が実施された。韓国の国家報勲部が主催し、社団法人「朴烈義士記念事業会」が主管した追悼式には、権五乙(クォン・オウル)国家報勲部長官をはじめ、各界の関係者や独立有功者の遺族など、およそ200人が出席した。また、翌日の24日には世宗(セジョン)市の芙江 (プガン) 面にできた「金子文子茶室」の前で「金子文子宣揚事業会」と「世宗研究院地域学センター」が主催する追悼式が行われた。
なぜ、日本人の金子文子の没後100年の記念行事が韓国の聞慶で開かれ、芙江に金子文子を顕彰する「金子文子茶室」があるのか、不思議に思う人もいるだろう。その答えは、アナキスト金子文子の生涯にある。
日本で生まれて朝鮮で無戸籍者として目撃した様々な権力による差別と暴力
金子文子は1903年(生まれについては諸説あり)に、神奈川県の横浜で父・佐伯文一と母・金子きくのの間に生まれた。駆け落ちした二人は入籍しなかったため金子文子の出生届を出してない。父は決まった仕事に落ち着くことがなく、夫婦仲も悪くなり、別れて暮らすことになった。文子は勉強好きで優秀だったが、無戸籍者だったため学校に通えず私塾に通うなど、両親のせいで生活も学業も翻弄されていた。1912年に突然父方の祖母と叔母が、文子を引き取りたいと申し出て、9歳から植民地下の朝鮮の芙江(現在の世宗府江面に相当する忠北道清州郡府用面)叔⺟の夫の家で、約7年間暮らすことになる。小学校に行く以外は女中として家事全般をさせられるというもので、少しでも間違いがあると体罰を受け、病死した友人の形見の裁縫箱を祖母に奪われることもあるなど、家庭内で虐待を受けていた。毎日のように家から遠くない川べりで山を眺めながら涙を流していた。他方、叔⺟の夫から⾼利貸しとアヘンの密売により搾取されている朝鮮の農⺠に接して、⾃分の境遇と似ている植⺠地の朝鮮⼈に対して深い理解と共感を持つようになった。⼤⽇本帝国の植民地朝鮮に対する武断統治への反感と権⼒に対する抵抗意識は、16歳である1919年3⽉31⽇と4⽉1⽇に、芙江駅広場と野⼭で起きた「三・一独立万歳運動」を目撃しそれに共感する中でさらに大きくなった。
2026年7月24日に韓国の芙江の「大韓民国獨立有功者 金子文子茶室」前で行われた金子文子没後100年追悼式(筆者撮影)
このような縁があって2024年、文子が幼年期を過ごした芙江に没後100年の追悼のための「金子文子宣揚事業会」が作られたのだ(「セゾンのソリ」2024/03/03)。宣揚事業会は2025年6月5日に金子文子の志と受け継ぎ宣揚するための「大韓民国獨立有功者 金子文子茶室」をオープンして(「セゾンポスト」2025/06/11)、今年の7月24日に茶室の前で100周忌追悼式を取り行い、参加者や住民たちに茶室のうどんを振る舞った。そして、宣揚事業会は日本から追悼式に参加した人に、文子の生家、通った小学校や万歳運動があった駅前の広場、そして涙を流しながら眺めていた山などを案内し、金子文子に生涯と志について語り合った。
朝鮮の独立運動家 朴烈と共に闘い自分を貫く
その後、山梨に帰されることになった文子は1920年に、苦学する覚悟で大叔父を頼りに上京して英語や数学を学ぶが、新聞の売り子や露店商人などで日銭を稼ぐ生活との両立は厳しかった。「嫁に行け」という大叔父の元で家事手伝いをしながら学校へ通う中、共産主義者や無政府主義者たちと交流し、運命の人、朴烈と会う。同棲生活を始めた二人は、1922年5月に社会主義運動団体である黒濤会に加入し、翌年1923年4月には無政府主義活動家を集めて「不逞社」を組織し、『太い鮮人』『現社会』を発刊。東京に爆弾を持ち込み、天皇らを暗殺しようとする計画を話しあったこともあった。同じ年の9月に関東大震災が起こると、この機に乗じて警察や軍隊が社会運動家などへの弾圧を行い、文子と朴烈は関東大震災2日後、警察に連行される。1926年3月に皇太子暗殺の意図があったとして大逆罪で、物的証拠も無しに死刑が言い渡される。韓国の新聞は写真付きで公判の様子を伝え、3月3日に金子文子の最終陳述が行われる。23歳の無戸籍者である宗主国の⼥性、金子文子は天皇制帝国主義⽇本の⾚裸々な素顔を暴露した。
二人の裁判様子を伝えている1926年の「東亜日報」報道。
(左)1月21日、(右)3月2日(https://newslibrary.naver.com/より引用)

「朝鮮日報」は3月8日から「注目の焦点になった金子文子の半生」という企画連載を始めた。⽇本の法廷で吐き出された⼆⼈の大日本帝国による植⺠統治と天皇制に対する怒りの抗争に多くの人が熱狂していた。冒頭に紹介した「鳴呼文子」のノミアビもその詩を掲載した独立運動側も、文子を単に朴烈に付き従う女性ではなく、国家と天皇制に対する自らの思想を表明して自分自身の言葉で抵抗した姿に注目していたのだ。
1926年3月8日付き「朝鮮日報」(https://newslibrary.naver.com/より引用)
翌月の4月に天皇の名による恩赦で無期懲役になるが、文子は受け取った減刑状を破り捨て、1926年7月23日に自ら死を選択した。金子文子、23歳だった。
拘留中に朴烈と結婚した文子は、夫の朴烈の故郷である聞慶に眠りたいと望んだため、彼女のお墓は現在朴烈義士記念館の敷地内にある。
金子文子と朴烈の闘いは、韓国義烈闘争史における最⼤の快挙と評価されて、韓国政府は2018年に金子文子に建国勲章愛国章を授与した。韓国政府が、韓国の独⽴を越えて⼈類普遍の正義と⾃由のために戦った真の独⽴運動家として認めているという証だ。このような流れで迎えた逝去100年だったので、韓国の国家報勲部が主催し、社団法人「朴烈義士記念事業会」が主管した追悼式が聞慶で開かれたのだ。
「大韓民国を愛した日本人独立運動家 愛国志士 金子文子」と銘打った追悼式
「金子文子」と聞いて、何を思い浮かべるだろうか。
日本では、「朴烈の妻」「アナキスト」「大逆事件の死刑囚」といった言葉がまず思い浮かぶかもしれない。
7月23日、100周忌追悼式が開かれた「聞慶文化院」はおそらく街で一番大きい建物だろう。参集者の車を案内するのは退職軍人会の年寄りで、隣の広い講堂で昼ごはんを準備していたのは婦人会のようだった。長官から住民や子どもまで同じテーブルで食べる昼ごはん。小さい田舎聞慶で長い時間、心を込めて準備したはずと思われた追悼式は、大きな祭りのようだった。
しかし、ずっと引っかかる言葉があった。
追悼式のタイトル「大韓民国を愛した日本人独立運動家 愛国志士 金子文子」。そして、来賓がことごとく口にする「朴烈烈士のご夫人」。「独立運動家」「独立有功者」「愛国志士」とは建国勲章愛国章を授与した政府主催だから仕方ないかもしれない。
韓国では、金子文子は長い間「朴烈の妻」という関係的な呼称を通じて一般に紹介されることが多かった。他方、独立運動家・アナキスト・天皇制批判者・女性革命家としての独自の活動も着実に取り上げられてきた。今回の追悼式で「光復会」のイ・ジョンチャン会長が述べた追悼の言葉からも、そのような理解を垣間見ることができる。李会長は、「私は金子文子先生を、朴烈先生の妻という名で呼びません」と追悼の言葉をはじめ、日本人でも韓国人でもない、世界人として人類のある1人として、そしてアナキストとして、自らの存在を生き抜いた時代の先覚者、金子文子の生を語った。
韓国で大衆的に金子文子が知られるようにきっかけは、李濬益(イ・ジュンイク)監督の映画『朴烈』だった。2017年に上映され、韓国で約235万人を動員したこの映画は、朴烈と金子文子の愛と闘いを描いた作品だ。日本公開時には『金子文子と朴烈』というタイトルで公開された。観客は朴烈より、「朴烈の妻」という枠を超えて「一人の女性、金子文子」にエールを送った。映画によって、それまで一部の研究者や市民運動の関係者にのみ知られていた金子文子が、韓国社会のより広い層に知られるようになった。
安易に「朴烈烈士のご夫人」と金子文子を呼ぶ人も少なくないが、2018年、金子文子に建国勲章愛国章を授与した韓国の独立記念館の「韓国独立運動人名辞典」と国家保勲部の「功勲電子資料館」の資料によると、韓国政府は、文子の出身を「外国・日本」とし、運動系列を「独立運動支援」、受勲年を2018年、勲格を「愛国章」と明記し、詳しく彼女の生涯を記述している。この「独立運動支援」という分類は重要である。つまり、韓国政府は日本人である文子が朴烈とともに日本帝国主義と天皇制に抵抗し、朝鮮人の独立運動に連帯した、その活動と功績を認めているのである。
日韓の市民が残して繋いだ 人間・金子文子
韓国において建国勲章愛国章の授与や2012年の朴烈烈士記念館の開館は突然できたわけではない。1973年韓国における金子文子の墓域の整備と記念碑建立から、1990年代の研究、2000年代の日韓市民交流、そして2017年の映画まで、すでに長い時間をかけて文子を記憶する人々が存在していたからこそできたのだ。
7月23日追悼式の後、午後に行われた学術会議に討論者として登壇した亀田博は、⾦⼦⽂⼦の死をめぐり韓国と⽇本のアナキストや⺠衆の連帯活動について報告した。文子の墓は朴烈の故郷である聞慶に残されたが、植民地支配の時代には十分に顧みられることができなかった。そこに再び人々が集まり始めるのは、1970年代に入ってからである。その報告資料によると、1973年、韓国の独立運動家やアナキスト、そして日本のかつての同志やアナキストらによって文子の墓が整備され、墓碑が建立された。1976年3⽉20⽇には、⾦⼦⽂⼦の⺟親の⽣家であり⾦⼦⽂⼦も育った⼭梨県牧丘町の⾦⼦宅前に歌碑が建⽴され除幕式が開かれる。このように、日本と韓国のアナキスト、研究者、市民たちが、自分たちの手で文子を「忘れられた人物」から再び記憶される人物へと戻していったのである。
1996年、歴史学者・山田昭次は『金子文子――自己・天皇制国家・朝鮮人』(影書房)を刊行した。この研究は、文子を単なる「朴烈の妻」や「大逆事件の女性被告」としてではなく、一人の人間として、その生育環境、貧困、家族関係、女性差別、植民地朝鮮での経験、そして天皇制国家への抵抗を結びつけて考えるものだった。ここで、文子を見る眼差しが、「朴烈の妻だった金子文子」から、「金子文子は何を考えていたのか」という問いへ大きく変わった。
2000年代に入ると、この変化は研究だけでなく、市民交流にも広がっていった。韓国では、聞慶市による「朴烈、⾦⼦⽂⼦記念館」の設⽴構想が本格化すると、⽇本の関係者たちも資料提供などをして協力し始めた。そして2003年、聞慶では記念館建設予定地に、⾦⼦⽂⼦の墓が改葬された。日本では2006年に山梨金子文子研究会が正式に発足し、講演会、研究会、追悼行事、韓国との交流などを続けた。こうした活動を通じて、文子は「朴烈の妻」から「朴烈の同志」へ、さらに「日本人アナキスト」「反帝国主義者」「一人の思想家」へと、少しずつ姿を変えていった。
その蓄積の上に、2018年の国家的顕彰があったのである。この意味で、韓国政府が2018年に金子文子を「独立有功者」として認めたことは、記憶をゼロから作ったというより、民間で積み重ねられてきた記憶を国家の歴史のなかに組み込んだ出来事と考えることができる。
2026年、100年後に我々が金子文子を呼び起こす
山梨や東京など日本側にも、文子を研究し、墓を守り、韓国の人々と交流してきた市民や研究者がいた。つまり金子文子の記憶は、最初から「韓国側の記憶」対「日本側の記憶」という単純な二項対立ではなかった。むしろ、国境を越えた小さな市民的ネットワークのなかで育ってきた記憶だったのである。
そして2026年、文子の死から100年を迎えた。
聞慶での追悼式に続き、午後に開催されたシンポジウムでは、「金子文子 反逆の思想」「映画制作で出逢い直す金子文子の叛逆精神」など、彼女の思想や文学、映画表現そのものを問い直す発表が行われた。これは、現在の金子文子の記憶が、再び変化していることを示している。
彼女はもはや「朴烈の妻」だけではない。しかし同時に、「韓国独立運動の協力者」「抵抗する女性」という一つの肩書きだけでもない。アナキストであり、天皇制批判者であり、女性として社会の不平等に抵抗した思想家でもある。そして、日本帝国の内部からその帝国を拒否した日本人でもあった。100年の歴史を振り返ると、文子の呼び名は少しずつ変化してきた。
1926年には「朴夫人文子」。その後は「朴烈の妻」。
やがて「朴烈の同志」「日本人アナキスト」。
そして2018年には、(大韓民国)国家から「独立有功者」として認められた。
2026年には、「大韓民国を愛した日本人独立運動家」「愛国志士」という言葉まで付けられている。
しかし、これは一つの肩書きが古いものから新しいものへと単純に置き換わった歴史ではない。むしろ、金子文子を記憶する人々が増え、そこに研究、文学、映画、市民運動、そして国家の顕彰が重なってきた歴史なのである。
日本人女性・金子文子は、日本帝国主義の支配に反抗し、朝鮮人の独立に連帯した。そして韓国社会は、そのことを100年にわたって記憶し続け、最終的には国家もそれを独立運動の歴史の一部として認めた。そこに、金子文子という人物の特別な意味がある。
「総ての⼈間は完全に平等であり、従つて総ての⼈間は⼈間であると云ふ、只⼀つの資格に依つて⼈間としての⽣活の権利を完全に且つ平等に享受すべき筈のものであると信じております。 」 (『朴烈、⾦⼦⽂⼦裁判記録』より)
なぜ彼女は日本帝国の内部から、その帝国を拒否するようになったのか。なぜ国家、天皇制、性別、貧困、民族という境界を越えて、「人間の絶対平等」を求めたのか。その問いを考えることこそ、没後100年を迎えた金子文子を、今日の日本で記憶する意味なのではないだろうか。1926年に彼女を「朴夫人文子」と呼んだ人々から、2026年に「日本人独立運動家」と呼ぶ人々まで。その100年の間に変わったのは、金子文子そのものではない。変わってきたのは、彼女を見る私たちの側なのである。
り・りょんぎょん
韓国・聖公会大学研究教授。立教大学平和・コミュニティ研究機構特別任用研究員、非常勤講師を経て現職。2011年2月から2024年まで韓国国家記録院海外記録調査委員。政治学専攻、現代韓国の人権、済州島と日本をつなぐ生活圏と人の移動などを研究。共著に進藤榮一編著『中国・北朝鮮脅威論を超えて東アジア不戦共同体の構築』(耕文社、2017)、訳書に『草 日本軍「慰安婦」のリビング・ヒストリー』(キム・ジェンドリ・グムスク著、ころから、2020)、『在日韓国人スパイ捏造事件――政治犯11人の再審無罪への道程』(金祜廷著、明石書店、2023)など。
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