コラム/沖縄発
植民地支配への抵抗――比屋根照夫さんを悼む
米軍基地の島・沖縄から「非戦」追求
歴史研究者・ライター 与那嶺 功
沖縄近現代思想史研究の第一人者・比屋根照夫さん(琉球大学名誉教授)が8月2日、心不全で亡くなった。86歳。沖縄出身の両親の下、名古屋で生まれ、敗戦翌年6歳の時に美里村(現沖縄市)に引き揚げた。「鉄の暴風」が吹き荒れた沖縄戦は終結したが、そのまま異民族支配下に。沖縄各地で荒れ狂う米兵らが略奪や暴行を繰り返す。比屋根の住む集落近くに「フィリピン部隊」があった。戦勝国側フィリピン人は、侵略者だった日本軍への復讐のごとく、沖縄人を執拗に襲撃したという。「幼な友達の姉は宵闇の裏庭で刺殺され、瞳の美しかった中学生のT子さんは米兵に輪姦され、殺された。声を上げることさえできず村を離れた女性、それが原因で精神のバランスを失った女性、数え切れない程の事件があった」(「沖縄にとって戦後とは何だったか」)。小学校の遠足の途中、比屋根の列に米軍ジープが突っ込み、目の前の同級生が跳ね飛ばされた。ハーグ陸戦条約で私有財産没収は禁止されているが、米軍は「銃剣とブルドーザー」による暴力で広大な私有地を接収し、「基地だらけの島」を造り上げた。琉球諸島は冷戦の最中、「キーストーン・オブ・ザ・パシフィック(太平洋の要石)」とも表記された。
入学した琉球政府立コザ高校(コザ市)は、極東最大の米軍基地と称された嘉手納飛行場に近い。ここからベトナム爆撃へB52が飛び立った。嘉手納が存在しなければベトナム戦争は戦えなかったといわれる。コザの歓楽街には、沖縄全域から米兵が集った。派手なネオンが不夜城のごとく煌めき、ドル札が舞う。米軍絡みの事故や事件が多発し、死傷者や性被害は珍しくない。体育の授業の際、米兵が襲い掛かることがあるので、運動場の外側を男子生徒が囲み、内側の女生徒を守った。殺人や暴行を犯した米兵らは、米軍トップ(高等弁務官)が全権を握るがゆえに公正な法の裁きを免れる。
酒に酔った米兵の運転する車が女学生の列に突っ込み、下級生の女生徒が亡くなった。全校生徒で葬儀に参列し、比屋根も涙した。同時期のコザ高校には、一人芝居「島口説」(文化庁芸術祭優秀賞)で知られる謝名元慶福(戯曲家)、演劇集団「創造」を率いた幸喜良秀、戯曲「人類館」を書いて岸田戯曲賞を受けた知念正真らがいた。「オキナワの少年」(芥川賞)の東峰夫は中退組。やや上のOBには「反復帰論」で知られる新川明(元沖縄タイムス社長)がいる。名の知れた音楽家や芸人、写真家も多い。ジェット機の爆音が轟く下で繰り広げられた青春群像。フランスのレジスタンス運動、アジア・アフリカの民族解放といったナショナリズムの勃興に深い共感を寄せていたという。互いに刺激し合った彼らが戦後沖縄の思想史・文芸界を担っていく。
巨大な軍事力と経済力を誇る米国。魅惑的なアメリカンカルチャーと土着文化。支配者と結びつくことで得られる現世的な利益は、住民の間に亀裂を生む。「ヤンキー・ゴー・ホーム」の声が響く中、琉球と米国の親善がピーアールされた。白人兵と黒人兵は、それぞれ縄張りの特飲街にたむろ。公民権運動が太平洋を越えて沖縄にも押し寄せ、リンチや銃撃戦も繰り広げられた。「カオス」とも「ソドム」とも称されたこの街が、比屋根照夫を育んだことは間違いない。
鬱屈とした大学時代 日米政府の対応に絶望感
琉球大学に入るも、島外への渡航は制限されており閉塞感が募った。韓国の民主革命が李承晩政権を崩壊させた熱波が伝わると、キャンパス内の民主化運動も熱気を帯びた。1960年にアイゼンハワーが現職大統領として初めて沖縄の土地を踏んだ際、琉大生1500人らとともに抗議デモ隊を組織し、銃剣を持った警護の米兵らと衝突。路地裏を逃げながら、デモ隊に向かって手を振るアイゼンハワーを目撃する。世界最強国家の最高権力者が目の前を通り過ぎていく―その彼我の権力関係を直に目にした時の敗北感は大きく、のちにこう振り返っている。「いかにわれわれが参集してデモ行動を展開してもあるいは、抗議の声をあげても、沖縄の意思・希望、自己決定の願いは全く反映されないという厳然たる事実であります。それは戦後一貫して日米両政府が沖縄に見せた強権的な姿勢でもありました。我々の絶望感は深いものでした」(『越境広場』第10号)。
新聞部に籍を置き、『琉大学生新聞』で筆を振るった。軍政下、学生新聞でさえ届け出制である。反米活動に目を光らせるMPが学内をパトロールする中、抵抗の意を示す「伏せ字の新聞」を出したこともある。米軍ジェット機が墜落した宮森小学校(当時石川市)の現場にも足を運んだ。民家数十軒を巻き込んだ惨事で、死者18人・重軽傷者210人。琉球大の学友中屋幸吉は、幼い姪の通うその学校に駆け付け、阿鼻叫喚の生き地獄の中で「棒切れのような焼死体」となった姪を見つけた。憔悴しきった中屋は、やがて先鋭的な政治活動に身を投じて休学や復学を繰り返す。立法院(住民選出議員による議会)議場占拠で逮捕・起訴され、はからずも社会的に疎外されていき、城跡の鬱蒼とした森の中で梅雨に打たれ自死する。比屋根さんが中心となって残された日記や詩・エッセーなどを編集、日本復帰(日本再併合)と時を同じく1972年6月に『名前よ立って歩け 中屋幸吉遺稿集』を東京の出版社から出した。比屋根さんが『解題』を手掛けており、実質的に彼が世に問うた最初の書物となった。絶望の淵を彷徨った沖縄青年の情念と懊悩が込められたこの遺稿集は、沖縄返還運動・ベトナム反戦運動・学園闘争に関わった世代に深い共感を持って迎えられ、20種類の新聞や雑誌に書評が載った。その後も小説のモデルや評論、エッセーに取り上げられたという。
大学卒業後入社していた琉球新報を辞め、東京教育大大学院へ。復帰運動の高揚していた時期、本土日本人は平和憲法の庇護の下で高度経済成長を謳歌していた。本土で暮らす沖縄出身者らは、異民族支配で苦しむ沖縄への無理解に深い失望感を抱いていた。評論家・英文学者の中野好夫が設立した「沖縄資料センター」(現在の法政大学沖縄文化研究所)で、新崎盛暉(元沖縄大学学長)や我部政男(山梨学院大名誉教授)らと沖縄に関する公文書や新聞記事などを集め、比屋根らが解説も書いて『戦後沖縄資料』を刊行。沖縄問題に関する初めての系統的な資料集として、北緯27度線で切り離された沖縄の実情を伝える貴重な文献となった。
近現代アジアと歴史共有 思想史を紡ぐ
1974年から母校・琉球大の教壇に立ち、伊波普猷ら近代沖縄の知識人に関する研究をリードした。自由民権思想と沖縄との関係、近代アジアの民族運動など幅広い分野で足跡を残した。インドネシア大学客員教授やシカゴ大学東アジアセンター客員研究員も歴任。伊波普猷賞や東恩納寛惇賞・沖縄協会賞など受賞多数。著書に『戦後沖縄の精神と思想』、『近代日本と伊波普猷』『自由民権思想と沖縄』『アジアへの架橋』など。季刊『現代の理論』(2010年春号)に「沖縄の歴史意識が生んだ非戦反戦の思想」を寄せている。
その研究の根源的なテーマは「植民地支配に対する抵抗精神」だったと思う。近代に入り琉球が日本支配下に組み込まれ同化していく同時期のアジアでは、フィリピンのホセ・リサール、中国の魯迅、ベトナムのファン・ボイ・チャウら、欧米の植民地政策を鋭く批判した知識人らが生まれた。列強の支配を脱し、民族の尊厳をどう取り戻すか―。沖縄の思想的な系譜を東アジアの知的潮流に結び付けていった。
集英社創業95周年記念企画『アジア人物史(全12巻)』(総監修・姜尚中)は、古代から21世紀に向けて疾走した有名無名のアジア人1万人の評伝を積み重ねて壮大なアジア史を描いている。斯界を代表する170人の研究者が集い、比屋根は「伊波月城」と「大田昌秀」の二人を担当した。
第10巻『民族解放の夢』の一編として「伊波月城―沖縄言論人とアジアの思想潮流」が収められている。ジャーナリスト・文学者として活躍した伊波月城は、沖縄学の父・伊波普猷の実弟であり、「月城なかりせば普猷は存在しない」と評された。この兄弟を民族解放という視点からアジア史に位置づけ直した。20世紀は、女性の覚醒、アジア・アフリカ植民地諸国の民族独立といった動きが顕在化。被抑圧者自身による権利獲得の「新しい戦い」が始まった―とする。その上で「伊波月城は、二〇世紀の世界情勢を被抑圧者から抑圧者への『新しい戦い』と展望する中で、アジアの中の琉球・沖縄の在り方を模索した」と記す。
第12巻『アジアの世紀へ』には「大田昌秀―戦後沖縄の抵抗と自治への模索」を収録。沖縄戦を学徒兵として生き延び、琉球大教授から政治家(県知事・参院議員)に転身した大田は、まさに沖縄の矛盾と苦悩を一身に背負った人物だ。琉大教授として先輩にあたる政治家大田を、地元大学の研究者らと共にブレーンとなってサポートした。知事選出馬に至る経緯、日米政府と米軍の存在を巡って対峙した代理署名裁判、普天間飛行場返還とそれに伴う辺野古移設案の拒否など、比屋根は現代史の現場に立ち会った。ちなみに大田昌秀・翁長雄志という二人の知事を軸に沖縄現代史を描いたドキュメンタリー映画「太陽(てぃだ)の運命」(佐古忠彦監督)でも、比屋根はキーパーソンとして登場し、歴史的な背景を語っている。この『アジア人物史』の論考2本が、まとまった書物としては比屋根最後の原稿となる(沖縄タイムスウェブ版で、総監修を務めた姜尚中と比屋根の特別対談が閲覧できる)。
暗黒史「琉大事件」 国立大法人化を危惧
比屋根照夫先生と面識を得たのは、筆者が沖縄タイムス記者時代、国立大学法人化を巡って取材していた2004年ごろだ。法人化初の学長選挙の際、学内事情などをうかがった。米占領時代、琉球大は米軍による監視が厳しく、スパイも跋扈。学外団体に入会するにも、大学の許可が必須。大学自治など存在しないも同然で「植民地大学」とも呼ばれた。反米活動を理由に多数の学生らが退学や休学に追い込まれた「琉大事件(第一次・第二次)」は、琉大の歴史に長く暗い影を落としてきた。比屋根さんが、法人化に反発するのは当然で、しかも思想史専門ゆえに、「学問の自由」「大学自治」が脅かされると危機感を募らせていた。法人化関連の記事に、口が悪いことで定評のある比屋根先生からあれこれ注文を付けられた。ならばと、筆者は琉球大学の元学長S氏に会い、インタビュー記事を掲載した(「沖縄タイムス」2005年2月16日付)。なにせS氏は京都大学法学部で、滝川幸辰(滝川事件で処分され戦後復職)の薫陶を受けた法学者。1955年から2年余、マッカーシー旋風と称された〝赤狩り〟の勢いが消えぬ米国の大学院に留学経験もある。日米の大学で学び、国立大学長も歴任した民法・国際私法の学者が、公然と法人化に苦言を呈したのである。学内外でかなり反響があり、比屋根さんからも褒めてもらった記憶がある。それ以来、いろいろ話を聞くことがあった。
比屋根さんは、知事選や国政選挙・米軍基地の是非を問う住民投票など時代の節目では、必ずといっていいほどメディアから寄稿や談話を求められた。依頼を受けて筆を執ると、コザ高生時代から綴ってきた日記を繰りながらもの思いに耽ったと聞いた。なるほど、常に歴史的なスパンで物事を見る思索の基盤は、その日記にあったのだ。筆者が「『矢部貞治日記』と並ぶ歴史的な記録ですね」と申し上げたら、まんざらでもなさそうな返事があった。東大教授や拓殖大学総長などを歴任した矢部貞治(政治学者)は、第二次世界大戦前から現実政治に深く関わり、戦前は近衛文麿、戦後は中曾根康弘の政策ブレーンとして知られた。学界はもとより、政財界・軍人らとも交流があり、それを詳細に記した。『矢部貞治日記』(全4巻・約3400ページ)は、激動期日本の政策決定者ネットワークを内側から描いた記録だ。近現代史の研究者は『矢部貞治日記』と突き合わせることで、各界人物の発言や行動を裏付けることが可能になった。以来、比屋根さんは「比屋根照夫日記」の編集発刊を望むような口ぶりだった。
歴史を扱う学者としては、あまりにも社会問題に没入しすぎていたかもしれない。しかし生身の人々が暮らす社会に分け入っていき、喜怒哀楽を共にしなければ時代の空気感を感じることはできない。日本近現代史という枠内では、あまりにも沖縄に特化しすぎていたかもしれない。しかし沖縄を軸にアジア全域を見渡せば、視野が広がり史観も深まる。一般的に学者も実社会に暮らす一個人として、時代の価値観や風潮から有形無形の影響を受けるとすれば、「沖縄復帰」が国民の悲願とされていた時代と、「沖縄ヘイト」が蔓延する現代とでは、学者が沖縄を眼差す視線にも大きな差異があるだろう。その意味では、比屋根研究に対する注目度も変わるだろうし、評価もまた乱高下するに違いない。
後世のウチナーンチュに託された課題
筆者が沖縄タイムス社を早期退職した3年ほど前からは、月に2~3回よく電話で話をした。何かニュースがあると「君はどう思うか」と聞いてくる。沖縄メディアを取り巻く状況や沖縄独立論から、研究者界隈の実情、そして沖縄タイムスクーデターまで話題は多かった。余命を意識したのか、後世のウチナーンチュのために言っておきたい事があると話していた。若者たちと懇談して時代を語る企画開催を比屋根さんから所望されたので、ある公的機関と開催を交渉したこともある。
昨年12月に琉球新報で連載「ハワイ沖縄移民の精神史―比嘉靜観の宗教運動とその展開」が始まった直後も、電話が掛かってきて、「どうか?」と感想を求められた。筆者も非戦論に関連した文章(稲嶺一郎の世界連邦運動)を書いた縁もあって、あれこれ話が弾んだ。一色哲著『南島キリスト教史入門 奄美・沖縄・宮古・八重山の近代と福音主義信仰の交流と越境』は、比屋根論考を踏まえて「非戦の思想」について書いている。琉球新報連載の執筆に参考になると思ったので、ネットショップ「Amazon」に比屋根宛の宅配を頼んだ。電話が来て「いい贈り物をありがとう。自分の論文が参照されているこの本のことは知らなかった。ありがたく琉球新報の連載に活用させてもらう」とのお礼があった。「書きたいテーマがまだまだあって、書きかけの原稿がたくさんたまっている。当分は琉球新報の連載に集中する」と意気込んでいた。昨年12月14日、夜も遅い9時24分の着信だった。わずか半年後、筆を置くとは思ってもいなかっただろう。連載は中断したまま。戦火に覆われた現今の世界情勢を憂いつつ、アジア平和への道すじに思いを巡らせながら逝った。
よなみね・いさお
1966年、沖縄コザ市生まれ。歴史研究者・ライター
コラム
- 沖縄発/植民地支配への抵抗――比屋根照夫さんを悼む歴史研究者・ライター・与那嶺 功
- 発信/東京・杉並区政と区議会のいま杉並区議会議員・奥山 たえこ
- ある視角/ある幼稚園の園長だより「うふふのふ」(その4)本誌編集委員・池田 祥子
