特集 ●歴史の分岐点か2022年

沖縄の「日本復帰」50年に思う

視点を沖縄にとって、日本とは何かに変えて自己決定権を行使すべき

沖縄国際大学非常勤講師 渡名喜 守太

「復帰」40年からの転換

新しく年が明け2022年を迎えた。今年は「復帰」50年に当たる。最近の沖縄の状況は日本「復帰」を祝える状況にはないのは大方の一致した意見だろう。

10年前の「復帰」40年のときは故大田昌秀元沖縄県知事が存命で「日本にとって復帰とは何だったのか」「日本にとって沖縄とは何だったのか」という問いの立て方がまだ主流であった。つまり視点が日本側に立ち、日本にとって沖縄は同胞であり同情されるべき存在という日本に対して期待を抱く主張が多かった。これは大田元知事をはじめとする、戦中世代、「復帰」運動世代が日本人になることを疑わず、その「目標」に対して全力を注いできた世代だったからというのが大きいと思う。しかし、前にも述べたように昨今の沖縄に対する日本の政策、特に軍事、安全保障の面を見ると、沖縄を再び戦場にする気満々であり、その意図を隠そうとする様子もない。これが日本にとっての沖縄への答えである。

このことに関連して思い出すエピソードがある。元沖縄タイムス記者でジャーナリストの太田良博氏の手記に、「復帰」直前に日本内地から関西の学生と称する四人の青年が訪ねてきたときのやりとりがある。その学生はいきなり「われわれ本土の人間が日本を祖国と思うのは当然のことだが、沖縄の人たちが日本を祖国というのは、どういう根拠があってのことですか」と質問してきた。それに対して太田氏は、「それでは、あなたがたは沖縄は独立した方がよいという意見ですか」と問い返すと、その学生は「そうは思いません」「沖縄の領土は欲しい。だが住民は要らない」と答えたとの回想がある(太田良博著作集③『戦争への反省』)。

また、小熊英二氏の著書にも「復帰」直前、琉球新報の読者欄に栃木県の医師から、元々日本ではなく、別の国家だった沖縄人が日本に「復帰」して日本の参政権を得て日本の政治に口出しするなという趣旨の投稿をしたことが紹介されている。その医師は日本が沖縄に対して行った仕打ち、特に沖縄戦について「台風に出合ったとでも思って忘れろ」という趣旨のことを書き、朝鮮・台湾と同様に独立することを促している。そして観光とトバクの歓楽の国にして財政をまかなえとも書いている(小熊英二『日本人の境界』)。現在の沖縄に対するヘイトと同じ心理である。これが多くの日本人の沖縄に対する本音だろう。

小熊氏は著書のなかで、旧植民地、被支配者に対する日本の行動原理を「包摂と排除」と表現している。要するに、外に対しては日本が排他的に支配し、植民地の住民を日本の支配からは絶対に逃さないが、日本国内においては決して日本人と対等には扱わず差別するというものである。

もちろんそうでない良心的な日本人も存在することは理解しているが、その良心的な日本人は日本社会の中でもごく少数だろう。このような日本に対して沖縄の抵抗運動にかかわる人たちのなかには、あれは本当の「復帰」ではなかったなどという人も未だにいるが、そのような夢物語りは無意味であり、むしろ有害ですらあると思う。これからは沖縄が日本になって沖縄人が日本人になるということはどういうことか真剣に考えるべきだと思う。そして視点を変えて沖縄にとって日本とは何かという、沖縄人主体の視点に変えていくべきだと思う。

近世琉球の地位

それでは沖縄(琉球)が日本になった経緯を振り返ることで、日本は沖縄にとって本当に祖国なのか、「復帰」すべき場所なのかということを考えてみたい。薩摩の侵入以降、近世の琉球の地位について日中「両属」とか「薩摩の支配下」という表現がなされるが、そのことを手掛かりに近世の琉球の地位を日本の身分制度に照らして考えてみたい。筆者がこのことに関心を持ったのは高校を卒業したばかりの頃だった。関心を持った理由は、琉球が「薩摩の支配下にあった」という言説に違和感を覚えたのがきっかけだった。独立国である琉球が、日本の一大名である薩摩藩より地位が低いということがあるのかという疑問からだった。中国に対しては朝貢国だったとしても、アジアやその他の諸外国とは独立国家として対等に交流しており、法制度上の正式な琉球の地位について調べたいと考えていた。これが筆者の原点である。

独立国としての琉球の国際的地位は明に朝貢したことで公認され確定する。中国皇帝への朝貢資格は四夷しいの君長であり、人臣陪臣ばいしんには朝貢権はない。要するに国家元首など、人に仕えない身分の者に限られるということである。14世紀に中国で明が建国され、周辺国に朝貢を促した際、島津家の当主島津氏久も明に朝貢したが、朝貢の資格なしとして却下されている。

薩摩が琉球を武力で押さえつけて以降の琉球の国際的地位に関しては、明は琉球に対して警戒感を持ったが朝貢資格は剥奪しなかった。それでは日本国内での琉球の制度上の地位はどうだったのだろうか。

江戸時代の幕府の身分制度は基本的に、将軍を頂点として、将軍の直接の家来である直臣じきしんである大名、旗本、御家人と、その臣下である陪臣(又家来またげらい)に区別されていた。直臣は将軍に御目見おめみえできる御目見おめみえ以上の大名、旗本と御目見できない御目見以下の御家人に区別されていた。さらに御目見以上も、領地が一万石以上の大名と、一万石未満の旗本に分類される。大名と旗本間の序列や上下関係も単純ではなく、各家の家格や、江戸城での詰席つめせき殿席でんせき)、禄高、官位、役職等により複雑だった。その他、幕府の外の身分としては公家や朝鮮の官人(朝鮮通信使)、琉球の官人などがあった。これらさまざまな身分の序列が端的に現れるのは、殿中(江戸城本丸御殿)での詰席つめせき(殿席)や、儀礼などの際の殿中における待遇であった。結論から先に述べると、琉球の官人(琉球使節)たちは王子以下楽童子まで、各身分によって差異はあるが直臣の待遇であった。決して島津氏の家臣(陪臣)の待遇ではなかった。琉球の官人たちが殿中でどのような待遇を受けていたかを具体的にみたい。

琉球使節の構成は正使・副使・讃議官・楽正・儀衛正・掌翰使・圉使ぎょし・使讃・医師・楽師・楽童子である。身分は正使が王子、副使が親方うぇーかた、讃議官以下楽師までが親雲上べーちん、楽童子が里之子さとぬしである。正使以下楽童子までが江戸城に登城する場合、正使はきょうと呼ばれる輿に乗り、副使と医師は乗物に乗って登城した。乗物とは大名などが乗る高級な籠のことであり、乗物で江戸城に登城できるのは大名か上級の旗本のみだった。副使(親方)の乗物は国持大名の使用するものだったと松浦静山まつらせいざんは記している(「保辰琉聘録」『甲子夜話』)。讃議官以下楽童子は騎馬で登城したが、騎馬で登城できるのも旗本以上である。本来なら無城の大名も騎馬での登城だった(小野清『徳川制度史料』)。楽童子たちも乗物に乗ったという例があるが、これは本来、騎馬の身分である旗本たちにも期間を限定して駕籠に乗ることを許可した「月切駕籠」という幕府の制度を琉球の官人たちにも準用したものだろう。

轎、乗物、騎馬で登城した琉球官人たちは江戸城の本丸御殿の玄関から上り、殿上の間に列した。殿上の間は本来勅使や院使などの公家の詰席であるが、朝鮮通信使や琉球の官人たちもここに詰めた。このことは琉球の官人たちが幕府の外の身分であり、かつ、御目見以上の直臣としての待遇だったことを示している。そもそも薩摩藩士など陪臣身分であれば江戸城に登城する資格はなく、将軍に御目見もできない。

琉球使節に対する幕府の公式儀礼は進見しんけんの儀、と奏楽の儀、辞見じけんの儀と饗応である。この形式は外国からの使節に対する儀礼の基本である。徳川実紀に「外国の朝聘にその儀三あり。書と幣とを奉るを入見の儀といふ。(略)その使いを宴せらるるを錫宴の儀といふ。(略)帰国の時にいとまを申して答礼の書幣を給わるを朝辞といふ。(略)わが国の旧儀も進見といひ、賜饗といひ、辞見といふあり」とあり、琉球使節の儀礼もこれに対応している。要するに琉球使節の儀礼は外国使節に対する儀礼形式である。

奏楽の儀終了後には殿上の間に、正使以下楽童子までに対して老中たちが挨拶に訪れた。饗応のときには正使である王子は殿上の間で幕府の五番方で最も格式の高い書院番頭、小姓組番頭(両番頭)という上級旗本が相伴し、進物番という旗本たちが給仕した。副使以下楽童子までは柳の間で目付と小十人頭という旗本の役人が相伴し、小十人衆という旗本たちが給仕した。柳の間とは外様の小大名や高家、交代寄合、寄合席の旗本といった上級の旗本の詰席である。琉球官人に対する饗応が幕府の軍事組織である五番方(書院番、小姓組、大番、小十人、新番)の役割だったということも興味深い。

このように、琉球の官人たちは江戸幕府から外国の使節として幕府の外の身分でしかも直臣の扱いを受けており、江戸城内でも殿上の間が詰席だった。このことから徳川将軍と琉球王の間には政治的な力関係はあったが、法制度上の主従関係はなかったといえる。

それでは薩摩藩との関係はどう説明すればよいのだろうか。『海游録』という朝鮮通信使の史料がある。その中に対馬藩の領内において対馬藩主が朝鮮通信使一行に対して平伏の礼をとらせようとしたところ、朝鮮側から自分たちは対馬藩主より下位の地位ではない。対馬藩主のこのような処遇は私礼であり、幕府による待遇が公礼であるので私礼を拒否すると反論され、対馬藩主が折れたことが記されている。薩摩藩と琉球の関係もこれに該当するのではないかと考える。幕府や中国、その他の諸外国による待遇が公礼であり、薩摩藩との関係は私礼である。島津氏は琉球に関する公的な肩書は一切なかった。アジアの国際社会では琉球国王と朝鮮国王をはじめとする国王たちは敵礼関係(同格で対等な関係)であった。19世紀中ごろには琉球は独立国としてアメリカ、フランス、オランダと条約を結んでいる。幕末のパリ万博では島津氏は琉球王ではないと江戸幕府から明快に否定された。

このように、琉球の国際上の地位、法制度上の地位は独立国だったのである。これまで、琉球の地位に関して制度と政治(私的な力関係など)を区別せず混同して論じられてきたと痛感する。

琉球併合のプロセスと意味

独立国だった琉球が明治になって日本に編入され、「沖縄県」という日本の一県になった歴史的できごとを一般に「琉球処分」または「廃藩置県」と呼ぶが、これは日本の他県が県になったできごととは同じ次元で語られるべきことではない。韓国併合と同じく琉球併合と呼ぶのが妥当な事象である。このことを明確にするために琉球が併合されて沖縄県となるまでの過程を見ていきたい。

明治政府樹立後、明治新政府は江戸幕府と外交関係を持っていた琉球と朝鮮に対し、明治維新の慶賀使を送るように通知した。朝鮮は旧来の外交慣例に反すると拒否(書契問題、後に明治政府内に征韓論が起こる)、琉球は立場上拒否できず慶賀使を派遣した。

1872(明治5)年、琉球は明治政府に対して維新の慶賀使を派遣した。そこで琉球からの使節に対して明治政府から尚泰王を琉球藩王に封ずるという一方的な通知が言い渡され、琉球藩が設置された。そして尚泰王は華族とされた。しかし、この場合の藩とは、日本の他の大名の藩とは異なる。藩とは元々は中国の領域概念の一部で、中国の周辺部のことであり、中国を内と外に分け、外から内部を守る垣根(藩屏)のことである。中国の周辺部の民族は藩部とされ、琉球や朝鮮も中国の藩属国とされた。日本の江戸時代には正式に藩という呼称はなかった。明治政府による琉球藩もこの意味の藩であり、そのために他の大名は版籍奉還で知藩事に任命されたが、琉球王は知藩事ではなく藩王に任命されたのである。要するに明治政府による琉球国王の冊封である。

このことは史料からもわかる。朝鮮が書契問題で明治政府との外交を拒否したのもそのためである。明治政府から朝鮮に対してもたらされた外交文書には「皇」「勅」という、中華秩序の中では中国の皇帝しか使用できない文字が含まれていた。これを朝鮮側は日本による朝鮮の冊封の意図があると警戒して拒否した。後に、1871年に日清修好条規が締結され、1876年に日朝修好条規が締結された。日朝修好条規は日本と朝鮮の不平等条約である。これは日本と清国が日清修好条規で対等な関係となったので、清国より格下の朝鮮は日本よりも格下の国になったという理屈からである。明治政府は琉球と朝鮮に対して冊封の意図があったのである。明治政府も当初は琉球国王を日本の華族にすることに問題があると考えていた。

大蔵省が尚泰王を華族にすることを建議して左院に諮問された際、華族とは日本人の身分的分類であり、琉球国王は日本人ではなく、琉球民族なので琉球国王を日本の華族とすることは不可との答申をしている。

他にも日本の廃藩置県と根本的に異なる点がある。それは、日本の廃藩置県が版籍奉還というプロセスを経て廃藩置県に至ったのに、琉球は版籍奉還を経ずに沖縄県が設置された点である。このことは、琉球の土地と住民が元々天皇のものでなかったことを意味する。

琉米修好条約の表紙(漢文表記である)

その後、明治政府は琉球との関係の一元化を図る。従来、薩摩藩が日本と琉球の仲介の役割りを果たしていた。薩摩藩から琉球に在番奉行が置かれ、琉球関係の事務を管掌していたが、明治政府は在番奉行を廃して外務省が管轄することにした。そして、琉球が西洋諸国と結んだ条約を没収し、明治政府は琉球に清国との朝貢関係を断つことを通知した。1874(明治7)年、明治政府は清国に琉球住民を「日本国民」と認めさせ、台湾に出兵するとともに、琉球を外務省の管轄から内務省の管轄に移管した。そして琉球の内政に干渉した。それに対して琉球側も抵抗した。

琉球は諸外国や中国に嘆願書(密書、密使)を送り助けを求める。これは後に韓国(大韓帝国)がハーグ密使事件を起こしたことと同じである。琉球が清国や西洋諸国に密使、密書を送って救済を求めたことが日本の怒りを買った。明治政府は沖縄県の設置を断行し、巷間でも「征琉論」とも呼ぶべき論調が起きた。新聞にも「琉奴つみすべし」という主張が掲載された。しかし、一方では自由民権運動の植木枝盛は『愛国新誌』に琉球を独立させるべきとの主張を展開した。

1854年(明治維新、琉球併合以前)に琉球王国と米国とのあいだで調印された「琉米修好条約」原本。当時、琉球王国が欧米に独立国家として認識されていたことが分かる。明治政府は琉球併合前にこの原本を没収し、現在は外交史料館に収蔵されている。クリックで拡大表示   (編集部)

沖縄県設置後も琉球問題は国際問題化し、清国と日本との間では決着がつかなかった。そこで、日本は清国との間に琉球を分割する「分島改約案」を提案した。これは清国が拒否して実現しなかった。これは、ロシアとの間での樺太・千島の交換や満韓交換論と同質のものである。

詳細は割愛するが、この一連の流れをみると、琉球が日本になったプロセスは後に韓国を併合した際にとられたプロセスと全く同じであり、さらに、昭和に入って満州国を建国した際にもとられた手法である。

一般的には「琉球処分」とか廃藩置県と呼ばれるが、前述の通り、日本の廃藩置県と琉球藩とは性格が違うので、これを日本の廃藩置県と同じ性質の出来事として扱うのは不適切であり、琉球が日本に組み入れられることは、一つの独立した主権国家が他国に呑み込まれることになるので、これは国際法上「併合」と呼ばれる性質のものである。したがって、琉球併合と称するのが妥当である。

日本人になることの意味

2008年、国連自由権規約委員会は日本政府に対し、琉球・沖縄の人々を先住民族と認め、その伝統文化と生活を保護するよう勧告した。

先住民族とはILO169号条約(1989年の原住民及び種族民条約)第一条に「独立国における人民で、征服、植民又は現在の国境の確立の時に当該国又は当該国が地理的に属する地域に居住していた住民の子孫であるため原住民とみなされ、かつ、法律上の地位のいかんを問わず、自己の社会的、経済的、文化的及び政治的制度の一部又は全部を保持しているもの」と定義しており、さらに「原住又は種族であるという自己認識は、この条約を適用する集団を決定する基本的な基準とみなされる」と規定している。琉球・沖縄人はまさにこの定義に合致する。

国連が琉球を日本国内の先住民族と認めたということは、先に国連総会が採決した「先住民の権利に関する国連宣言」が琉球にも適用され、琉球人が「政治的地位を含め自己決定権を持つ」ことを国連が認めたことを意味する。「先住民族の権利に関する国連宣言」は、先住民が持つ生得の権利を認め、土地への権利、軍事活動の禁止等を規定している。これによりさまざまな沖縄問題が主体的に解決できる。琉球人が日本人となり、日本と同一法制度がしかれ、日本人と同一になるということは、日本が琉球の主権を奪い、土地と住民を他国から排他的に支配し、さらに日本(人)が琉球に対して権利を拡大し、琉球人の生得の権利を奪い得るということである。

明治初年、明治政府は台湾に漂着した琉球人が原住民に殺傷された事件を利用して、清国政府に台湾の原住民が「日本国民」である琉球人を殺害したとして抗議した。そして清国政府に琉球人を日本国民と認めさせ、琉球併合と台湾出兵の口実にした歴史が想起される。沖縄人が日本人になるという事は日本が沖縄の主権を奪うことであり、日本が外部に対しても沖縄を排他的に支配することでもある。そしてそれは紛争や戦争の原因にもなってきた。先述の台湾出兵もそうであるが、また、戦前の大日本帝国時代、日本国民とされた朝鮮の人たちが旧満州に入植し、中国の住民と対立し紛争がおきるという万宝山事件も起きた。戦前は邦人救出を理由に海外出兵がなされてきた。集団的自衛権が解禁された現在、日本がアメリカとともに軍事行動を起こせば日本を敵国と見なす国や勢力も出てくるだろう。そうなれば世界各地で日本人が標的とされ襲われることも予想される。戦前の歴史が繰り返される危険が現実のものとなってきた。

現在、外部企業が沖縄の土地を買い占め、海岸を囲い込み地元住民を締め出し富を収奪している。一方、「移住者」(植民者)も増加し、地元の職を奪い、わがもの顔で振る舞うものも多い。また、本土在住者が投資目的で軍用地を買いあさっている。これらの行為は法的には何の問題もない。しかし法的に問題ないということが問題なのである。現行法制度で、琉球人の生得の権利への侵害が合法的行為として正当化されているのである。将来沖縄の人口構成比率が逆転し、日本人が多数を占め、移住者が多数を占める事態が起きることもありうる。琉球人が日本人になるということは、琉球人に対する決定権、すなわち「生・殺・与・奪」の権を日本が握るということである。

「復帰」の総括

われわれは日本と同一法制度、同権獲得を地位向上と誤解してきた。従来の主張も「同じ日本人として差別するな」「本土並み」であり、自ら生得の権利を日本に渡し、日本人化するため沖縄的なものを否定し、日本ナショナリズムに統合されていった。

自然破壊、伝統文化の破壊消滅、琉球語の消滅、平和主義の衰退、強者にへつらい弱者に対して抑圧(特に行政)、拝金主義の横行、肥満率の高さ、長寿社会の崩壊、成人式で暴れる若者に象徴される人心の荒廃など、現在の沖縄社会の荒廃は、物欲と虚栄心のため自ら美点を捨てたためである。「日本復帰」とはわれわれが生得の権利と自己決定権を日本に渡し、倫理的退廃の道を歩むことだった。その先には沖縄人の消滅が待っているだろう。沖縄と日本の利益は一致しない。沖縄にとっての利益は日本にとっての不利益である。日本は沖縄の不利益の上に利益を築いている。

沖縄と日本は運命共同体ではない。沖縄人はこれを理解し、自分たちは何者であるのかというところから出発して琉球・沖縄人として覚醒するべきである。そして「復帰」を総括し、視点を沖縄にとって日本とは何かという視点に変えて自己決定権を行使すべきである。

となき・もりた

1964年那覇市生まれ。沖縄国際大学非常勤講師。東洋大学大学院博士後期課程中退(歴史学)。古川純編「『市民社会』と共生」に「琉球先住民族論」所収。

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