この一冊
『グローバル警察国家―人類的な危機と「21世紀型ファシズム」』(ウィリアム・I・ロビンソン著・松下冽監訳/花伝社/2021.10/2750円)
商業精神(Handelsgeist)のゆくえ
立命館大学国際関係学部准教授 川村 仁子
「商業精神(Handelsgeist)は、戦争とは両立できないが、おそかれ早かれあらゆる民族を支配するようになるのは、この商業精神である」(『永遠平和のために』宇都宮芳明訳、岩波書房、1985年、pp.70-71)。ウィリアム・I・ロビンソンの『グローバル警察国家――人類的な危機と「21世紀型ファシズム」』を読んでいる間、イマニュエル・カントのこの言葉がたびたび頭をよぎった。確かに商業精神は国境を越えて広がっている。しかしロビンソンは、彼がトランスナショナル資本家階級(Transnational Capitalist Class: TCC)と呼ぶ国境を越えて過度な利潤追求を行う巨大なトランスナショナル企業、またはそのオーナーと経営者、グローバル経済を推進する金融機関による支配、いわば、商業精神の成れの果てともいえるものが、戦争どころか現在我々が抱える諸問題の元凶であると告発する。
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もちろんカントもこのような状況を予見していなかったわけではない。カントも、ロビンソンが現在のTCCによる支配との共通点をあげる当時のヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸やアジアでの軍事力を用いた商業活動によって「原住民を圧迫し、その地の諸国家を煽動して、広汎な範囲におよぶ戦争を起こし、飢え、反乱、裏切り、その他の人類を苦しめるあらゆる災厄を歎く声が数え立てるような悪事」(同上、p.49)を持ち込んだ植民地政策を痛烈に批判している。
このような国境を越えた労働搾取や人権侵害は、主体が多国籍企業に代わった後も続き、特に1970年代以降たびたび国連などで議論されてきた。2000年にはアントニオ・ネグリとマイケル・ハートが『帝国(Empire)』において、国民国家の主権ではなく単一の支配理論のもとに統合された超国家的組織体であり、脱中心的で脱領土的な支配装置となって常にグローバルな領域全体を取り込んでいるグローバル主権としての〈帝国empire〉すなわちグローバルな資本主義体制を批判し、それに抗う国境を越えた人々のネットワークによって形成される多様性と差異性を持ち合わせた〈マルチチュードmultitude(多数、群衆、大衆)〉の可能性を模索して話題となった。
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ロビンソンは本書で、ネグリとハートによって〈帝国〉と名づけられたものの仮面を剥がし正体を露わにする。ロビンソンによると、情報技術の発達によりますます止まることを知らないグローバル化のなかで、トランスナショナルな資本が台頭し、TCCによってナショナルな経済システムはグローバルに統合された金融システムに組み込まれる。その結果、グローバルな労働過程に取り込まれた不安定で不確実な条件下で働く「プレカリアート(precariat)」やトランスナショナル資本にとって直接的な利用価値はなく周辺化された「余剰人類(surplus humanity)」が大量に生まれる。この傾向は、社会のデジタル化やAI化によってさらに加速している。他方で、TCCとこれらの間に未曽有の経済格差が生じたことで、グローバル資本主義に対する反発が起こり、TCCのヘゲモニーが危機に瀕している。しかし同時に、この危機は再びTCCの利潤追求のチャンスとなっているとロビンソンは指摘する。
TCCのヘゲモニーのもと、国家はTCCの利益を代表し彼らの利益を再生産するための道具となってグローバル資本主義への反発に対抗し、余剰人類を排除するための社会統制と抑圧を行う。ここにパノプティコン的監視社会であるグローバル警察国家が現れるのだ。そして、社会統制や抑圧、戦争に関わる事業が民営化されることで、この危機もまたTCCの資本蓄積の契機となる。このように、グローバル資本主義は常に内部にパラドクスを抱えつつ、TCCはそのパラドクスさえも利益獲得の手段としているというのである。
一般的に「警察国家(Polizeistaat)」とは、権威主義的な政府のもとで警察と軍隊によって市民の自由と人権が抑圧される国家のことを指す。
ロビンソンはこの概念を①グローバルな労働階級と余剰人類の現実的・潜在的反乱を封じ込める支配層によって推し進められる大規模な社会統制と抑圧、戦争のシステム、②グローバル資本主義が利益を確保するために資本蓄積を継続する手段として、国家の代わりに社会統制や抑圧、戦争に関わる事業を展開し、国際および国内の対立を醸成する、③グローバル化するにつれナショナルな統制から自由になったTCCは大衆圧力に動じなくなり、トランスナショナルな資本と反動的および抑圧的政治権力との融合としての21世紀型ファシズムと呼ばれる、広義の全体主義と特徴付けられる政治システムへの動きが高まる、という特徴をもつグローバル警察国家として発展させる。しかも、本来警察国家は、フェルデナント・ラッサールが「夜警国家(Nachtwächterstaat)」と批判した、リベラリズムに基づいて軍事と治安維持などの必要最低限の役割しか担わない国家とは対峙する概念である。しかし、ロビンソンがいうグローバル警察国家は軍事や治安維持さえも民営化する。
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このような、カントのいう商業精神からはかけ離れた、徳からもプロテスタンティズムの倫理からも解放され利益を貪る資本主義の成れの果てとしてのTCCの支配から逃れる方法として、ロビンソンは左翼の再生に期待する。しかし、ロビンソンもアントニオ・グラムシの言葉を引用して指摘しているように、ヘゲモニーとは被支配のシステムに被支配層が「積極的な同意」を与える社会支配の特定の関係を意味する。20世紀に階級や国民概念から切り離されアトム化した個人は、現在のCOVID-19のパンデミックによって親しい人との関係からも切り離されつつある。
一方で、多くがインターネット上での会議やショッピング、ゲーム、SNSなど、日常的にTCCの恩恵に預かっている。このような状況のなか、ロビンソンのいう左翼の再生による支配からの解放は起こりうるのだろうか。ロビンソンは啓蒙TCCとも呼ぶべきTCCの上層部やパワー・エリートによる、彼/彼女ら自身が引き起こしたグローバルな課題への取組みに対して批判的だが、そちらが功を奏するのと左翼再生とではどちらが可能性が高いのであろうか。もちろん、サン・ピエールのように啓蒙君主に頼ってばかりもいられず、また、マキャベッリのように事態を打開してくれるカリスマを望んだとしても、出てくるのは21世紀型ファシズムの先鋒である可能性も高い。
しかし、かつてジャン・ジョレスも指摘したように、もはや資本家対労働者という二項対立でこの課題を解決に導くには限界があるといえる。我々は社会における「市民」や「労働者」だけでなく、「消費者」や「利用者」のように多層的な人格の総体として存在している。したがって、我々がTCCの支配に対して声を上げる際に「市民」や「労働者」という人格に縛られる必要はない。TCC相手であれば、「消費者」や「利用者」としての立場の方が強く主張できることもある。幸い、TCCは一枚岩のように見えて一枚岩ではなく、彼/彼女らが武器とする情報技術は、我々にとっての武器でもある。重要なのは、我々が彼らが提示した選択肢を選ぶ側に甘んじることなく、彼/彼女らとのコミュニケーションを続けるなかで、新たな選択肢を創造していくことなのではないだろうか。
かわむら・さとこ
立命館大学国際関係学部准教授 立命館大学大学院国際関係研究科博士課程後期課程修了 博士(国際関係学)。 専門は国際関係学(先端科学技術のガバナンス、国際関係思想)、国際行政学、国際関係法。主要業績:『グローバル・ガバナンスと共和主義:オートポイエーシス理論による国際社会の分析』(法律文化社 2016)、 共著『グローバル秩序論:国境を越えた思想・制度・規範の共鳴』(晃洋書房、2022.3月出版予定)。
この一冊
- 商業精神(Handelsgeist)のゆくえ立命館大学国際関係学部准教授・川村 仁子
- 欧州「左派」の「観念的理想論」への痛撃本誌編集委員・池田 祥子