特集 ●歴史の分岐点か2022年
追悼・過剰な歴史家・色川大吉――1970年前後までのその営為
みずからの主体を現わしつつ歴史に向き合い、そのことによって、歴史の主体としての「民衆」を描き出す歴史を提供
日本女子大学名誉教授 成田 龍一
はじめに
歴史家とは、ふつう自らの固有性を背後に秘して歴史を記すことを、長いあいだの作法としてきた。そのひとつの証左として、誰も歴史教科書の執筆者を知らないままに、学校で歴史を学習してきている。執筆者の固有名が前面に出ないこと―出さないこと、そして誰もその執筆者に言及しないことが、歴史家の歴史叙述をめぐる環境であった。司馬遼太郎に対し「司馬史観」というように、「〇〇史観」とは、もっぱら歴史小説家に対して与えられる言い方であった。
だがそうしたとき、歴史家にして「○○史観」と呼ばれる歴史家が、戦後日本の歴史学界では二人だけ、例外的にいる。そのひとりは、中世史家の網野善彦であり、いまひとりは近代史家の色川大吉である。歴史学のなかでは、網野は日本のなかに社会史研究を展開し、色川は民衆史研究の創始者として位置づけられているが、狭い歴史学界をこえて網野と色川は活動し、「網野史観」と「色川史観」はひろい読者に影響力を有している。
その色川大吉が、2021年に亡くなった。ある時期から、学会とは距離を置いていた色川だが、その死は歴史家としては異例に大きく報道された。
1.色川大吉とは
色川大吉が持つ魅力は、なんであろうか。このことを、私は、歴史に正面から主体的に向き合う姿勢が共感を呼んだと把握したい。A:みずからの「主体」を現わしつつ歴史に向き合い、そのことによって、B:歴史の主体としての「民衆」を描き出す歴史を提供したということである。
まずは、A にかかわり、「1960年の6月は私の人生の画期となった」(「6月には重い霖雨が降る」『明治の精神』1968年9月)と書きだされる論を開いてみよう。ときは、1960年6月、安保闘争のただなかである。連日の反対運動に参加する色川は、すでに戦時―戦後の動員と運動で傷ついていたが、この安保闘争に直面し、決意をあらたにする。
「私は真の意味で「行動」し、決定的瞬間に歴史に働きかけ、そして目の前で国家権力が狼狽し、疑似前衛が崩れてゆく姿を見とどけた。その間、なによりも歴史家としての眼を見開いていた。
私に歴史における人間の「行動」とはどういうものかという難問が心底からなっとくされた。この体験がなかったら、私の歴史学というものは成り立たなかっただろう。十五年前の私の戦争の痛恨もこのときを境にふたたびよみがえらなかったであろう」
だが、安保闘争は敗北する。色川は、主体的に歴史にかかわり行動したが、戦時とともに、再度の挫折を経験することが語られる。
「私の思想史の原質は、1945年八月十五日と1960年六月十五日を貫くところに形成されたものであるということだ。8·15で私は「転向」した。だが、6·15では深まりこそすれ揺らぐことはなかった」
だが、そのことが、色川を歴史学へと赴かせる。B としての歴史像である。だが、そこにたどり着くためには、いまひとつの葛藤を経験しなければならない。歴史学―学問がもつ位相である。学問は、実人生―生活―現実に根ざし、そこから出発しつつも、その総体を相対化しなければならない。そこからの飛躍、ないしは飛翔が求められる。この点は、歴史学も同様である。人の生きざま―出来事の生々しさを対象とするのだが、そのことを相対化して意味づけることによって歴史のなかのひとこまとしていく。
この営みは、人生や出来事のもつ「大切なあるなにか」を損なってしまうような感慨と表裏している。歴史学においては、その大切なものは「資料」とされ、「収集」の対象となり、さまざまな手続きの下におかれることとなる。色川は、このことを率直に
「片方で異常な研究・調査活動、他方で泥まみれな“賭け”が孤独のうちに続けられた。私は二重の生活を生きる人間となり、思想的には抵抗と頽廃を同居させ、深部でせめぎあわせた。緊張した静かな激闘の日々がつづき、自己放棄と自己試練の潜行がくり返された」
と述懐している。「「痛覚を耐える」、こうした言葉がぴったりする長い時間が流れた」とまで記していく。初発には、α 「「歴史学」を、やり甲斐のある第一義のものかもしれないとおもうようになった」ということである――「ようやく一切のものから離れ、自由に「自分」に還っていった。はじめて、ひとりの「私」に帰った」と、色川自身が記す。
「重い心ひきずって、自分を専門家として確立する道にと入っていった」のだが、β 「同時に、まったく翳の世界、頽廃の渦中に足を突込みもした」という意識と表裏している。
いうなれば、α とβ との葛藤である。①「歴史学という作法」―そこからはみ出して行くものという次元、さらに②「学問という作法」―「外部」にたつこと、すなわち、かけがえのない出来事や体験を「他者化」してしまうという次元での葛藤である。
ことばを換えていえば、歴史学という学問世界、歴史家という第三者性にたつにはあまりに過剰な内面を抱えていたということである。このことは、認識論的な議論を色川が抱え込み、歴史の叙述に、いまひとつの照準をあてることと連動していよう。
それにしても、「主体」の背後にある「暗闇」「不定形なるもの」をここまで明らかにし、歴史に向き合う歴史家は稀有である。この葛藤はそれぞれの歴史家の内奥に潜められ、それらを切り捨てて叙述に向かうのが通例である。
色川史学の魅力といったとき、こうした「活字の向こうの暗闇」が語られ、それを「文体」としても表現し語っていくことにあろう。
2.色川大吉の原風景
色川大吉の歴史家としての過剰な思いは、二つの体験を原風景としている。ひとつは、学徒出陣にはじまる戦争体験とその直後の活動であり、いまひとつがさきに紹介した、安保闘争の経験である。前者は、色川・芳賀登・斉藤博『鼎談 民衆史の発掘』(つくばね舎、2006年、『我孫子市史』第12号、1988年が初出)で印象深いエピソードを披露している。
1946年夏頃、民主主義科学者協会(民科)の集まりが、色川が在住する千葉県佐原で開かれ、「近代文学」の同人たちが講演会を行い、その懇親会でのこと。評論家・荒正人が、(戦時に)ソ連軍がドイツ軍をやぶったとき、うれしくなって(仲間たちと密かに)下宿で乾杯をしたと述べたと話したとき、色川が激怒する。
「自分たちは何もしないで、戦争中に日本の負けることだけ待って、祝杯をあげていたなんて・・・。俺たちが血の涙を流して戦っていた時にお前たちはそんなことやっていたのか!って〔怒鳴りつけた―註〕。思想もクソもあったものではない。これは日本の人民に対する態度の問題だ。近代文学がそんなものの上に成立しているんなら俺は近代文学など認めないって・・・(ママ)」
色川の戦争経験は、まずは戦争批判に向かう以上に、戦後における姿勢と態度に向けられたのである。
ことは、歴史研究においても同様である。さきの鼎談において、民科の歴史研究に対し、
「百姓一揆だとか暴動とか激化事件とかそういうものばかりで、愚昧で時代に翻弄されて流れの中に引きずられた庶民は、すべて抽象されちゃう。みんなマイナス価値になっちゃうんですね」
とのべていく。
1980年代後半の色川は、戦後直後の歴史学の光景を、「民科のマルクス主義」と「近代主義者のエリート主義があの頃はほとんどくっついていた時代」と総括している。東京大学国史学科で学んだ色川は、学徒出陣のあと復学し、戦後にも歴史学の周辺にこそいたが、そこに全面的に没入することは回避していた。
実際、この時期の色川は、よく知られているように、東京大学卒業後はただちに栃木県足尾の山村にはいり、盟友・青村真明とともに、その地域の改革に乗り出している。この戦時―戦後の経験が、戦争体験として色川の原体験となっている。いくらかひろく色川を見渡せば、「戦中派」としての心情ということになろう。戦争とともに青春をおくった「戦中派」のひとりとして、色川大吉がいるということである。
「われら戦中世代は、8月15日がめぐってくると心の奥がうずく」(『ある昭和史』、中央公論社、1975年)「自分の肉体に刻まれた歴史の痛覚」を手がかりにという姿勢は、色川とともに、三島由紀夫、橋川文三、あるいは鶴見俊輔や司馬遼太郎にいたるまで、「戦中派」に共通している。
そして、このことに安保闘争の経験が重畳した。戦争体験は、被主体的に戦争に巻き込まれ、敗戦ののち主体的に変革に取り組んだが挫折となった。いまひとつの安保闘争は、主体的に運動に参加するがここでも敗北し、挫折経験をもたらした。このふたつの原体験は、戦時の歴史に翻弄された経験を、戦後に主体的に歴史を取りもどすことが、再びの挫折にいたるということになる。
その色川の営みが、再び歴史学へと凝縮させられていったことは、奇跡のようなものではなかろうか。「原風景」から、現在を照らし出す営みを、歴史家として実践し、ひとつの歴史像へと結晶していったことには、色川のあまりに過剰な思いがあった。
3.歴史家としての色川大吉の出発
B 歴史の主体としての「民衆」を描き出す歴史を提供したという点は、歴史家・色川大吉の根幹をなす。歴史家としての色川が出発するのは、論文「困民党と自由党」(『歴史学研究』1960年11月)と、「自由民権運動の地下水を汲むもの」(『歴史学研究』1961年11月)の二編である。ともに、在野の雑誌『歴史学研究』への投稿論文である。いったん歴史家として身を立てようとしたときには、その手続きをきちんと踏んでいく色川が、投稿雑誌にもうかがえる。
前者は、「わが国にも武装蜂起の歴史があった」と書きだされ、秩父事件を念頭に置きながら、「武相の困民党の騒擾の過程」を探る。
「秩父の民衆は、強力な地下指導部のもと、長期にわたる執拗な準備過程をへて、ついに経済闘争から越えがたい一線をこえ、革命闘争へと飛躍した」
他方、後者は、
「自由民権運動の伝統は思想の地下水として、どこか見えない深層に流れていて、その後の日本の歴史の発展に機能しているにちがいない」
と記す。自由民権運動敗北のその後を探り、四つの伏流の可能性を指摘する。第一は「敗色にみちた底流」、第二は対照的に「明るい局面」への転流である。
「権力参加の欲望」であり、ナショナリズムの賛歌である。第三は、敗北を「痛覚」をもって受け止め、民権思想を「内面化」していく「細流」、そして、第四の伏流は「不屈の系譜」―「反体制」―中江兆民から幸徳秋水への流れとしている。このとき色川は「頂点的な浮標的な思想家の系譜」ではなく、「こうした高いレベルでの思想の継受を、どこか下の方で、ある種の底辺の人びとが、あやまりなく汲みとり、汲みあげている思想的営為の存在の探求」に、「流れの意味」を見出し、伏流を汲む「民衆」を見据えている。
後者の論文は、第三の伏流の考察で、東京多摩の自由民権運動に参加した、北村透谷の活動が考察される。「透谷はこのころ非合法手段決行への加盟を求められ、髪を落とすという憔悴した姿となって、「ホープの故郷」多摩へ訣別を告げていた」―「運命の年・明治17年」の透谷を軸に記す。
「民衆」を見据えながら「社会」の深部を照らし出すような「歴史」を、歴史家としての色川は紡いで見せた。「自由民権の地下水」「底辺の思想」という歴史の把握は、華麗な文体と相まって、権力者の歴史とは異なる光景をみせつけるのである。
さきの「6月には重い霖雨が降る」を読む目には、あまりに生々しい自己体験の投影ということになる。60年安保への過剰な魂と、それを鎮めようとする歴史家としての作法とが、色川のなかに同居しているが、そのことは「人民の戦いの真の敗北とは、人民が戦ったこと自体に対して自負と正当性の信頼を失った時、すなわち、倫理的、思想的に敗北した時、真の決定的敗北となるのである」(「困民党と自由党」)という認識と結びついている。
埋葬された思想に、「魂を吹きこみ」「かたい口を開かせ」「あたらしい生命の流れにつなげようとする仕事」は、「歴史家の協力と、後世人民の思想的自覚」以外にはない、とするのである。
二本の論文は、その営みに他ならないが、論文「自由民権運動の地下水を汲むもの」(以下、「地下水」論文)に探ってみると、「ひと」と「地域」、そこで培われた「精神」への着目として論じられていると知りうる。「思想」として整序され、論理だてられたものではなく、ひとりの人間のなかの奥底に踏みこみ、そこにその人物が獲得したものを、読みとっていくのである。
「地下水」論文の主人公は、さきに記したように、北村透谷である。北村透谷への情熱が、色川の歴史家としての出発点をなしている。文学者として名を成す以前の透谷、1884〜85年の「三多摩自由党青年グループ内における透谷の位置」を探り、そこに着目する。おりから展開される「自由党の激化事件」と、それをめぐる透谷の逡巡を軸に、政治と文学、運動の挫折と転向という問題を考察していく。
このとき、7〜8行の断片である「哀願書」の執筆時期の確定をはじめ、たんねんな実証―分析―解釈の手続きによって、透谷が直面していたのが加波山事件であることを導き出していく手続きは、歴史学の作法に則り精緻を極めている。透谷に内在する読み解きのため、他方での実証的な手続きが施されている。
色川の「精神史」を論ずるとき、そこで綿密な実証の手続き―歴史学の作法が踏まえられていることは、強調しておく必要がある。一連の三多摩地域の豪農の資料調査をはじめとする、歴史家としての作法の実践が、色川を貫いている。型通りの歴史家からははみ出す「過剰な歴史家」であるが、歴史家としての手続きを、色川はきっちりと踏まえている。そうであればこそ、困民党による農民騒擾と透谷の関係にかかわる箇所で「今、知るべき直接の資料をもたない」と記していく。
以上を、安保闘争後の二つの論文をめぐる、第一の点とするとき、第二に色川が論点としたのは、組織と運動、および、(自由党という)前衛と(透谷ら)民衆、さらに、運動における指導と同盟といったことである。最後の点は、自由党と困民党との関係の考察であり、論文「困民党と自由党」の主題のひとつとなっている。
このことは、運動のなかの指導者類型を探るということであり、三多摩の豪農たちを類型化する営みともなる。三多摩の豪農たちの資料捜査は、かかる意識に支えられ、発掘された資料は豪農の類型として整理されることとなった。
このとき軸となるのは、豪農にして、困民党指導者となった須長漣造である。須長は、1852年に武蔵国南多摩郡谷野(やの:現在の八王子市)に生れ、1884〜85年の運動を指揮したが、生家は20町歩を有する豪農で、農業経営とともに養蚕・製糸を営み、「精農型の豪農須長家」であった、と色川は規定する。しかし、不況のなかで没落し、借入れをおこない土地を失い、小作人となり負債農民騒擾を指揮する須長を、
「その思想のはばたきは、かれの常識の枠をこえて新しい可能性をかれの前にひらくかに思われた(その時、民衆の思想史は新たな質の展望をもちえたであろう)(ママ)」
と、色川は記していく。『朝野新聞』雑報欄が、困民党を揶揄したことをとらえ「人民の運動のかかげるイデーは・・・汚され、“前衛党”(?)(ママ)の機関紙によってすら罪悪視されたのである」とした。
須長の日記や書簡を発掘し、色川はそこに「屈辱と苦渋と挫折感にみちた言葉」を読み取る――「運動に敗北した人間の、すなわち思想的にも倫理的にも敗北をよぎなくされた人間の、魂の遍歴が、生活上の放浪とダブル・イメージになってよみとれる」。そして、
「深い落伍感、敗北感、挫折感を曳きずり、幾重にも鬱屈した精神の遍歴の跡は、日本の民衆思想史の地下水をさぐるものにとって、まことに象徴的な一つの典例としてよみがえるのである」
と須長を歴史上に位置づける。この叙述こそが、B 歴史の主体としての「民衆」を描き出す営みに他ならない。須長漣造論は、色川の代表作『明治精神史』(黄河書房、1964年)に収録されたが、タイトルは「人民ニヒリズムの底流」とされている。
さて、その『明治精神史』について、これまでの記述といくらかの重複もあるが、まとめを兼ねて言及しておこう。『明治精神史』は、卒業論文として、1947年秋から冬にかけて執筆されたのが最初という。「精神史」というタイトルを、戦後の卒業論文に付したことに驚く。単行本は、①原本(黄河書房、1964年)、②増補版(同、1968年)、そして③新編(中央公論社、1973年)と刊行されるが、衝撃を与えたのは、学生用のテキストとして出発した①と、その増補版としての②である。
黄河書房版『明治精神史』は、「第一部 国民適格性の時代」「第二部 国家進路の模索の時代」「第三部 方法論的序説」とし、増補版では、「第四部 問題の所在」を加えた。自ら解説するように、安保闘争の前後で色川の問題意識が大きく転換するものの、それを無視して、第一部と第二部とで、対象とする年代順に配置されているので、なかなか読み取りにくい構成となっている。
これまでたどってきた色川の軌跡からするとき、P豪農という階層と、Q東京三多摩という地域を軸に、「明治精神史」を構想する。だが、まずは序奏そして豪農の典型として徳冨蘇峰をとりあげ、豪農の可能性とその行く末の柱を描く。そのうえで、PとQとを結合させ、本体ともいうべき三多摩の豪農群像を描き出す。大矢蒼海、秋山国三郎、平野友輔、須長漣造ら、色川がたんねんな史料発掘によって明らかにした三多摩地域の豪農の姿が示され、『明治精神史』の本筋が示される(『新編 明治精神史』では、この点、豪農類型の静態的な整理となってしまっている)。
これは、P豪農の具体的な行動、具体的な思考がたどられたということであるとともに、豪農たちの諸類型が示されたということにほかならない。一人ひとりの豪農の内奥に入り込むことによって、自由民権運動への関わり方、さらにその敗北後の生き方を明らかにし、それをQ三多摩地域によって糾合し、豪農の類型の総合と共通性を示すのである。
このとき、見過ごせない軸が、S困民党との接触である。たびたび言及するさきの鼎談で、色川は
「安保闘争は、私の問題関心を転換させた。問題は豪農の下、底辺のほうにあるというふうに転回させられたわけですが、その前はやっぱり中間層研究だったのです」
と述べている。
徳冨蘇峰によって豪農―中間層の行動を考察するが、蘇峰論は安保闘争以前の考察であり、思想史分析としてまっとうである。別言すれば、「戦後歴史学」―アカデミズム研究のなかで自由民権運動は中核をなしており、その核心になったのは豪農の経済史的解明であった。安保闘争以前の色川も、そうしたアカデミズムの影響のもと、経済史を読み換える思想史の観点から、豪農に接近しようとしていたときの著作である。蘇峰の思想に生産主義・平民主義・平和主義を見て取り、それを基本矛盾とその萌芽とするが、アカデミズムに充足している。
その色川の議論が、安保闘争後に三多摩の豪農たちを論ずることによって、大きく旋回することになった。知識人―頂点思想家―蘇峰から、豪農―民衆―三多摩の面々への推移である。徳冨蘇峰論の方法と問題意識のままでは、アカデミズムの規準と枠組みにあり、『明治精神史』は不発に終わったであろう。学生反乱との共振も、観られなかったに違いない。
三多摩の豪農たちに巡り合うことによってあらたな境地が開かれたが、これはS困民党との接触が、いまひとつの軸になっている。この点で、さきに言及したように須長漣造が大きな役割を果たしている。
『明治精神史』では、これまで「人民」などと抽象的に語られていた人びとを、石坂公歴、平野友輔など固有名詞をもつものたちとし、その具体的な存在を「民衆」とした。歴史が、具体的な人びとの、具体的な地域での活動によるものとして描き出される。
だがつづけて、1970年に『明治の文化』(岩波書店)を刊行したあと、色川は、突然のようにユーラシア大陸横断旅行に旅立つ。色川の過剰さの爆発であろう。色川は、歴史家としての枠には収まり切れない。
むすびにかえて
さいごに、1970年代半ばに提唱され、以降、色川の活動のいまひとつの柱となる「自分史」に言及しておこう。色川は、『ある昭和史 自分史の試み』(中央公論社、1975年)で「自分史」という叙述を提起し、2005年から4冊で「昭和自分史」を記す。功成り名を遂げた人物が記す「自伝」とは異なる、「自分史」という自己語りによって、多くの人びとの参入を促すのである。
歴史叙述としての『ある昭和史』は、舞台を同時代史―昭和史に移して、主体と歴史の考察―自己省察の実践として提供された。このとき、「自分史の試み」との副題によって、一人ひとりが歴史への主体的な参加の軌跡を書き留めることを誘う。「民衆」が自ら記す、自身の記録への呼びかけである。
『ある昭和史』では、色川自身の自分史とともに、自分史の先輩格にあたる「ふだん記」運動を展開する橋本義夫、そして昭和天皇の伝記を重ね合わせ「昭和史」を構成する。ここでは、「自分史」と対をなす「全体史」ということもあわせ言い、「国民的経験」としての「昭和」を描くことになった。1945年と1970年が、戦中と戦後、敗戦と安保、を包括する「昭和史」への関心となっていく。1970年前後も安保条約、公害反対運動、学生運動をはじめとする多くの運動が展開された時期であり、この時期に色川は、戦時の過誤と、高度経済成長のなかでの過誤をいう。
色川が、『ある昭和史』(および、さきの『明治の文化』)で、あらためて天皇制に正面から向き合ったことも付け加えておこう。色川は、天皇制の考察を生涯の課題とし、天皇制のもとでの「国民の精神構造」を、自らをも切開するように、以後も論じていくこととなる。
同時に、色川は自分史の叙述をふくらませる。『廃墟に立つ』〔1945〜49年〕、『カチューシャの青春』〔1950〜55年〕(ともに、小学館、2005年)、さらに版元を代えて、『若者が主役だったころ』〔1960年代〕(2008年)、『昭和へのレクイエム』〔1970〜89年〕(ともに、岩波書店、2010年)を刊行する。〔 〕で記したのは対象とした年代だが、最初の二巻には「昭和自分史」、第三巻目には「わが60年代」、そして最終巻は「自分史最終篇」と副題が付されている。
この四部作によって、色川の軌跡はかなり詳細にたどれるようになった。いずれも色川がしたためていた「日記」をもとに記したとされるが、とくに最初の二巻は「日記」からの引用があり、それに本文が付される。「日記そのままでも、史料そのものでもない。歴史のなかに自分を見、自分のなかに歴史を発見する同時代的な自分史叙述の、ささやかな試みである」(『廃墟に立つ』)という。
ただ、自分史と言いつつ、『廃墟に立つ』は「谷一郎」(1950年6月以前)『カチューシャの青春』は、「谷一郎」と「三木順一」が混在し、主人公となっている。自分史から想定される「私」を主語とせず、「谷」「三木」として、色川が記される。ちなみに、「谷一郎」とは、「谷間の一郎」の意味で、「「自分」と「歴史」との谷間」であり、「三木順一」は自身の演劇時代の芸名であるという。
なぜ、自分史の叙述において、一人称ではなく、三人称を用いたのか。この点について、色川は『カチューシャの青春』で、次のように説明する。―――「はじめは型のとおり「わたしは」「自分は」という第一人称で書きはじめた。すると、どう禁欲しても日記に出てくる自分をかばいたくなる。あるいは後知恵を入れて補いたくなる」。そのため、「「わたしは」をやめて、「かれは」「著者は」にかえてみたらどうだろう」。
すると、「他者との関係のなかに自分を置き、その関係のなかに日記を置き直してみるように感じられた。半世紀以上まえの自分を外から見る目をもてるようになるのが感じられた」。
しかし、「ただ困ったことが起きた。「若者」や「かれ」という表記では他の若者たちと区別できなくなる場合があった。これは読者を混乱させる。そこで一歩をすすめ「若者」に固有名詞をつけたらどうかと考えた」(「おわりに」)。
このように、色川は述べている。本来ならば理論的次元での議論を、叙述の作法として論点化しているということになる。色川は、歴史家として理論以上に、歴史叙述に力点を置いていたということである。色川の華麗な文体はこのことと連関していようが、本稿ではその指摘にとどめておきたい。
さて、1970年代以降の色川の軌跡は、『昭和へのレクイエム』を五つの問題系に分け、叙述されている。「一、高度成長期の繁栄の陰、公害問題から水俣調査に力を注いだ十年(1975〜85)」「二、国立歴史民俗博物館をつくるという仕事(1978〜92)」「三、自由民権百年集会を成功させるための全国遊説(1979〜84)」「四、日本はこれでいいのか市民連合の活動(1979〜94)」「五、昭和の終焉―昭和天皇と共に生きた二十年(1970〜89)」である。
色川の1970年代以降があらためて総括され記されるが、ここにうかがわれるのは、色川の高度経済成長への苛立ちである。「日本はこれでいいのか市民連合」(1980年)という実践活動への関与はそのひとつの現われといえるが、色川の新たな問題意識となっている。
いまひとつの活動は、歴史学をアカデミズムから開放する営みであり、国立歴史民俗博物館の開館、「自由民権百年集会」への参画はそのことを示している。おりしも、1970年代後半は、歴史学界においても、社会史研究という潮流が世界的に登場し、旧来の歴史学の革新を試みていた。だが、そのことは決して単純ではない。歴史家としての色川は、社会史研究に対しては距離をおく姿勢を取ったのである。
私は「民衆」への溢れる思いが、社会史研究を頭でっかちで、理論が過剰の議論と受け取ったのであろうと推測しているが、冒頭の鼎談が書籍として刊行されるときに「民衆史への新しい視点」という一文を付している。2006年の段階で、社会史研究をアメリカや、(日本では)ヨーロッパ史における動向として把握し、歴史学におけるあらたな動向も「民衆史」の動きとして把握しようとしている。
民衆史と社会史研究を順接的に把握するか、そこに批判的な関係を強調するかは、歴史学のこの先を考えるうえで、見過ごすことのできない論点となっている。色川が、執念のようにして最後に刊行した著作も『水俣民衆史』のタイトルをもつ。『水俣民衆史』は、オーラル・ヒストリーの方法をも提供し、社会史研究と重なる点も見受けられる。色川の民衆史をめぐっては、まだ議論がつきない。
歴史学が、色川大吉の腕力によって風向きが変わったことは、あきらかである。「民衆史研究」という認識―方法―対象、そしてその叙述は、ひとつの大きなうねりとなった。それは、世界的な潮流とも重なりを見せていたが、その先を考察するにはまだ色川との対話が必要である。
なりた・りゅういち
1951年大阪市に生まれる。早稲田大学文学部、同大学院で日本の近現代史を学ぶ。民衆史研究のさかんな頃であった。大正デモクラシー期の考察が出発点であったが、次第に19世紀から20世紀にかけての文化、思想の考察に関心をひろげる。同時に、これまで農村の歴史が中心であったのに対し、都市の歴史の重要さを主張するようになる。近ごろは、戦後史についても考えている。東京外国語大学で日本史(日本事情)を教えるが、そこで社会史研究に接する。そのあと、日本女子大学で30年間、社会史を教えた。文学や映画を用いて、日本の近現代史を考える授業をおこなってきた。
主な著作
【テーマに即して】・『大正デモクラシー』(岩波新書、2007年)・『増補「戦争経験」の戦後史』(岩波現代文庫、2020年)
【戦後日本史として】・『戦後史入門』(河出文庫、2015年)・『「戦後」はいかに語られるか』(河出ブックス、2016年)
【通史として】・『近現代日本史との対話』【幕末・維新―戦前編】【戦中・戦後―現在編】(集英社新書、2019年)
特集/総選挙 結果と展望
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