連載●池明観日記─第22回

韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート

池 明観 (チ・ミョンクヮン)

≫2013年―再び歴史とは何かと考えながらー続き≪

世界史を考える時、近代に現れた世界支配の思想をどのように考えるべきであろうか。ヨーロッパの帝国主義とはポルトガル、スペイン、オランダそしてイギリスのような国に始まって全世界をおおうようになる経済的収奪の歴史であった。それは時代に従ってその主体と展開の様相を異にしたといえるであろう。後には新興資本主義国家といわれたドイツとイタリアそして日本の場合があり、それからソ連という社会主義国家の侵略もあったが、今日はアメリカ中心のいわゆる「パックス・アメリカーナ」があるといえよう。そのような帝国主義的歴史の間にはかなり変化があると見なければならないと私は考える。今日のアメリカの場合は民主主義的な対外関係といえるのではないか。それは第2次世界大戦後アメリカの経済的援助から始まり今日の世界史的な関係となっている。たとえ帝国主義であるといってもその歴史に対して今日の目で意味づけをする必要があるであろう。

私は歴史に対して常に楽観的であるといえよう。いうまでもないが、今日のアメリカが主導する世界支配には領土的野心はなく、力の均衡、相互的交流と経済発展そして人類の平和と繁栄という理念が根底にあると考える。ここから私は単なる歴史の反復ではなく、やはり歴史の進歩を想定するのである。このような観点からわれわれは今までの歴史、いわゆる大国が恣意的な支配を夢見てきた帝国主義的世界史を悲しい思いで批判的に記録しなければならないであろう。

今日、日本はドイツのような国とは違って自己反省を回避したまま北東アジアに再び参与しようとして苦悩していると思う。日本は過ぎ去った日のことを反省することなく、安易な気持ちで北東アジアの現代史に参加しようとして難関にぶつかっているような気がしてならない。日本は長いこと困難がやってくるとそれを回避してどうにか怜悧に生きて行こうとした。このことは彼らにおいてほとんど歴史的に体質化しているのではなかろうかと思われる。彼らが使っている用語を借りるとすれば戦後「知」、特に彼らが身につけているアジアに対する「知」に対する深い自己批判が必要であるというべきではなかろうか。戦後アジアの混乱と困難から目をそらしたままアジアを離れて世界を廻りながら富を求めた姿勢に対する自己批判のことである。戦争の時代のことだけが問題になるのではない。戦後においても一時日本はアジアに属しているかと自らに問うた反知性的姿勢に対する批判が必要である。このような要請は日本とアジアの明日のために提起せざるをえないことだと私は考えている。

ソ連はイデオロギー的な優位を盾にしてあまりにも性急に完全支配を追求した帝国主義国家であった。これに比べるとアメリカは占領した土地において自由と独立と民主主義をすすめながら、だんだんとその支配の手綱を弛めてきたといえるであろう。このような比較政治学的考察をしながら、われわれ自身も批判しなければならないかもしれないが、アメリカをもっと激励してやるべきではなかろうか。アメリカがとってきた漸進的で互恵的な姿勢は世界史的なものではないかと考えるのである。 

それでわれわれが描いてきた歴史的な革命という意味がだいぶ違ってきたと思う。このような時代において日本はいわば今まで対アジア関係を回避して来たがために投げかけられたネメシスの前で当惑するようになったとはいえないだろうか。歴史は我々が作っていくものといえるのであるが、同時にそれはできてくるもの、または私たちに与えられるものであるといわねばなるまい。われわれ人間自らが作って行こうとするものが、歴史が自ら進んでいこうとする道でなければならないのだ。今日における革命とはそのように漸進的なものであるといわねばなるまい。これが何よりもかつてのソ連の崩壊において我々がかちえた歴史の教訓ではないか。それで革命という用語ではなくやはり発展という用語を使わなければならないのだろうかと思うのである。(2013年1月30日)

≫排除の論理を超えて≪

Angelique kidjo and Friendsというビデオを見た。アフリカを回想する黒人奴隷の歌を歌うのである。しかし今は黒人も白人もいっしょにやっている音楽グループである。背景の音楽グループには東洋の女性も入っていた。そして聴衆の中には白人たちもいて拍手喝采を送るのであった。このような風景がアメリカではなくヨーロッパにもありうるのであろうか。今日においてはまずヨーロッパにはこのような風景はないのかもしれない。

『「韓国からの通信」の時代』(影書房、2017年)

6・25事変の時、1951年ではなかっただろうか、朝鮮戦争の時の話であるが、陸軍第3師団にはウエスト・ポイント出身の黒人少尉が一人いた。彼はいつも孤独であったし悲しい顔をしていた。一人の白人将校は自分はどうしても黒人が白人の間に混じっているアメリカの現実を理解することができないとほかの白人将校たちと語りあうのであった。

そのような状況であるから黒人の民権運動は起こらざるをえないのだと考えた。ところが今日においては黒人大統領の時代にまでなった。この長くて長い歴史、将来はアフリカが今日のアジアのように台頭する時代が来て、人種差別を越える時代がついにやってくるであろう。そうであれば米国史の先駆性を否認することはできないのではないか。パックス・アメリカーナが持っている歴史的意味を考えざるをえない。アメリカでの黒人、アメリカでのあの黒人音楽が持っている地位、それはわれわれアジアにとってはまだ耳慣れていないものである。アメリカが黒白を越えたということ、あるいは越えようと身悶えしていること、これは歴史の先駆を行こうとする者のそれではなかろうか。

 

朴景利の『土地』第8巻までを読み終えた。かつての満州の間島から故郷に帰って行くソヒを描きながらこのような一節が出てくる。闇の中を歩きながら夫のキルサン(キルサンは両班の大家であったソヒの家のかつて下僕であった)は妻の手を握った。

……夫婦の間柄であるけれども家の外で皮フが触れあったのは初めてであった。

「恥かしい、手をほどいて下さい。」 

「今晩は崔参判のお宅のお孫さんの崔ソヒではないですよ、私の妻だよ。妓生とだけこういうことができる、そんな両班のしきたりなど忘れて下さい。」(第8巻、p.378)

こういいながら遥か遠く澹津江(ソムジンガン:韓国の南西部を流れる川)を回想する。長男ファングクは父親なしに自分たちだけで故郷に帰るとは何事だと二階に隠れる。この子をさがし出して母のソヒは啜り泣きながら「馬車に乗りまた汽車に乗ったりしている間」、弟「ユングクひとりでどうするの」となだめすかすのである。そのような情景描写が実に感動的である。朴景利は筆太い修飾語でこういうところでは実に涙ぐましい。これは日本の小説においてはあまり見られない描写ではなかろうかと思った。亡国の哀しみがしみこんでいるといおうか。彼女の人生も孤独な身の上であったから、涙にむせびながらこういうところは書き進めて行ったに違いないと思った。

常民(サンミン:百姓)であった夫は独立軍の方に加わり、両班出身の妻は日本統治者たちとの関係を保ちながら故郷に帰って祖先伝来の土地を買い戻す。そのような過程で親日派といわれるかもしれないが、このような人びとをそのように簡単に断罪していいであろうかと作者は問いかけている。反日と親日の断絶を超えて切り開いて行こうとする民族の道であろうか。終戦、即ち解放後における反日と親日の葛藤を越えようとしたのかもしれない。この作品は韓国現代史におけるいわゆる班常(ハンサン:両班と常民)の問題そして親日派の問題を超えるのに、6・25の朝鮮戦争はアイロニカルにも肯定的な役割を果したではないかと問題を提起しているといえるのであろうか。人間の歴史を歳月の長いスペクトルで見るのであろう。(2013年2月22日)

 

考えてみるとわれわれは今や近代史に対する批判的、または否定的な検討をなさざるをえない時代に入ってきたのではなかろうかという思いにかられる。近代は人類史においてほんとうに残忍な時代ではなかっただろうか。それで今は核兵器を前にして苦悩せざるをえなくなったといえよう。文明が絶頂に達したと言いながらその文明とともに人類の破滅という運命の前に立たされているのではないか。これからも長い人類史の中でこの時代はどのように記されるというのであろうか。

近代はそれ以前の歴史とは断絶されているとは決していえない。歴史とともにこのような人類史の性格が拡大し、一層明白になってきたといえよう。東京から北京まで汽車ができても二日もかかったのが、今は3時間もあれば十分だという時代になったというだけのことであろうか。四色闘争(朝鮮朝における党派の争い、主な党派が四つであったからである)の時代から今日の政党政治の時代になったからといって人間の行動のパターンがどれほど変わったといえるのだろうか。今日は近代以降の歴史に対して辛辣な批判を試みてから未来を展望しなければならない時代ではなかろうかと思われる。

アメリカはシリアも北朝鮮も放置しておくというのだろうか。でなければその地域の問題を処理したとしても、その後の世界情勢についてアメリカが何ができるかと思うのであろうか。アメリカを必要とする世界にしておかねばならないのかもしれない。民主的政治秩序は維持していかなければならない。そのためにもある程度の問題は残して置いて、人々の歴史的関心がそこに注がれるようにしなければならないと考えるのだろうか。

私は民主主義の世界を多数の決定に誰もが服従する体制だとしていた時代は遠ざかりつつあると考えている。ちょうど革命がソ連式の残忍な排除の歴史であることができなくなってしまったようにである。韓国の国会そして国民を見ても明らかではないか。今は民主主義の下で多数と少数が合意に達することができなければ社会の安定を期することができないのだ。

アメリカのように余裕をもっていなければ、いっそうそうであるといわなければなるまい。多数を占めれば勝利であるという近代的民主主義が修正されなければならない時代に歴史は進みつつあるのではなかろうか。多数とか力とかが権力を独占することが今は許容されない。歴史においては最終的な解放というものは存在しえない。ある課題において結論をさがし出すとすれば、その結論がやがては再び課題を生み出すのだ。とりわけ歴史的状況の変化があり、歴史における行為者の変化または転落があるではないか。歴史は生命体のように動揺するのだ。それに勝利者の変節とは歴史の鉄則であるかのように見える。

多数と少数の対立ではなく、常に合意をさがし出そうとしなければならない。合意を求める姿勢と知性、そのような知恵が成長することを期待しなければなるまい。そのためには現代的知性を所有している行為者が要求されるとすれば、それをさがし出して激励する国民の世論がなければならないであろう。これは満場一致を理想とする政治に対する要請といってもいいであろう。誰であろうと少数者だということで敗北を自認して、耐えて行こうとする時代ではないように見える。それで私は、革命においては点の政治であったとすれば、今日においては執権したあかつきには面の政治でなければならないと考えるのである。このような意味における自己革命がなければ、執権すればいかにおおい隠そうとしても、専制的な時代を招くことになるのではないか。専制的体制は世代を重ねれば重ねるほど転落の道をたどるということは、われわれが近現代史において経験してきたことではないか。私はこのような観点を離れてはいままでの南北、朝鮮の政治史を解釈し、これからを展望することができないと思っている。今はかつての対立と争闘をこととした時代とは異なる和合と平和の時代。ここに朝鮮半島の未来はかかっている。(2013年3月11日)

 

近代における恐ろしい排除の論理。それは今まで人類史を支配してきた論理ではないか。

それが近代に至って絶頂に達し、その極限において核兵器を産出するまでになった。これは近代的思考の恐ろしい破綻を示すものといわなければなるまい。人類はその袋小路に入ってさ迷うようになった。今までの歴史を拒むことなくしてどのように人類史のこれからを展望することができるというのであろうか。民主主義と革命の論理はともに排除の論理であり、それは近代的模索の結果であるといえよう。民主主義が革命の道よりは多少穏健な道を提案してきたといえるが、どちらも排除の論理を隠蔽修飾してきたものに過ぎないといえるのではないか。

勝者独占という論理が、どの場合にも支配的であった。だから今この民主主義という時代において、かつての民主主義を力あるものの勝利を擁護するものであり、多数を作り出した側の力の独占に過ぎないと、暴力的な革命と同じようなものとして拒否しましょうと言っているのだ。それでこれからは多数の民主主義ではなく真の合意の民主主義をさがし求めねばならないといいたい。

実際、近代民主主義を掲げた西欧国家は国内においては民主主義、対外的には軍事的侵略という二重性をあらわにしてきたではないか。その背後にある排除の論理は共通なものであり、それは長い人類史を貫いてきた思考であった。非暴力的な民主主義であろうと、暴力的な革命と侵略であろうと、すべてが同じく他者排除の論理に立っていた。それでソヴィエト革命も恐ろしい世界侵略へ向かった。そしてそれと戦うといって来た民主主義も世界いたるところで隠れた沈黙の暴力と疎外を生み出してきた。このような人類史によって捨てられた、数えきれない多くの怨恨が今歴史の底において涙ぐましく訴えているような気がしてならない。

それは今までの人類史を拒否する叫びであるといえるのではなかろうか。ここにこそ私はイエス・キリストの嘆きがあり訴えがあったと思う。それでイエスはそのような人類史の終焉を語り、そこで犠牲にされた人間たちの復活を渇望したではないか。その時になってこそ人間の恨みが晴れる歓喜の時がくるといったのだ。イエスが今までの人類史の終焉を語ったということは無実の死、アベルの訴えを代弁したものであった。それはほんとうに今日も続いている痛恨の歴史であり、いつか大きな終焉を迎えるべき歴史ではないだろうか。

もしも歴史に対するこのような解釈を受け入れるとするならば、そのような厳しい状況が今も朝鮮半島の南北で続いている敵対関係であり、世界的にはアルカイダとアメリカ等の関係のように、いまだに方々でくすぶっている人類史の悲劇であるといえるのではなかろうか。支配する力とそれに抵抗する勢力がかつての地盤の上で相対立しているのであろう。そのような勢力は非人間的な対立関係においてのみ存在しうる相互補完的な勢力であるといわねばなるまい。このようなことに対して先鋭な認識を働かせざるをえないのは、われわれが特に近代以降今日に至るまでそのような歴史の中でいうにいわれない悲しみを経験しなければならなかったからである。

私はよく聖書の時代のことを思い浮かべる。イエスとパウロはこのような時代のもっとも非人間的な状況の中で復活と救援という宗教的発想に飛躍するのを避けられなかったのではなかろうか。復活の日に現れるであろうと思われる敗者たちの歓喜の姿を頭に描きながらである。そのようにキリスト教は人間世界の矛盾に直面して宗教的な幻影を吹き出したのであった。人間歴史の限界に立ってついに宗教的発想に飛躍せざるをえなかったのだといえよう。(2013年3月12日)

 

戦後における日本は脱亜と入亜の狭間で過ごしたといえるのではなかろうか。戦後中国や韓国が政治的に動揺していて経済的にみすぼらしい時、日本は脱亜の道を闊歩することができた。しかし今日、中国と韓国が復興して力をつけてくると、日本はアジアへの回帰を企てながら甚だしい陣痛に見まわれている。これは近代に入って名誉白人を自称しようとしていた日本が経験せざるを得ない運命であった。いまは日本がかつてアジアを占領しようとした時代など想像もできない。日本はその軌道を修正するためには敗戦のような巨大な痛みを経験しなければならなかった。恐ろしい歴史である。

北の金正恩がアメリカと韓国が合同軍事演習をするとすれば、韓国とアメリカに核兵器攻撃を加えると威嚇したという。金正日が権力を掌握するのには20年の歳月が必要であったといわれたが、金正恩の場合は一年もかからなかったというではないか。それは金日成の周辺には彼の弟たちを初めとして多くの人物がいたが、今はそのような候補となるべき人物が全く存在しなくなってきたからではないか。金正恩が西海(注:黄海)の基地を訪ねて帰った時、船に乗ると別れを惜しんで将校たちが軍服のまま海の中に入って、涙して手を振って叫び声をあげるあの体制、あのような境地にまで達した政治権力が、一体世界のどこにまたとあるのだろうか。

私はあの情景が今日の世界において異質的であるというよりは、何よりも今日の世界がアルカイダを生み出すようにあのような喜劇といおうか、悲劇といおうか、そういったものをどこかで生み出しているのだと思った。それは朝鮮半島における異質的な現象であるといえるであろうが、やはり今日の世界が生み出して育て上げたものではなかろうかと思うのである。第二次世界大戦前夜には、ドイツではヒトラーを、日本では現人神という天皇を生み出したではないか。

その狂気を戦後も日本は維持しようとしたし、アメリカはそれを支援したといわれるではないか。それが現代史ではないか。朴正煕の娘を大統領の座にあげる韓国の政治も私はこのようなコメディの一種であると考える。問題があると考えると人間は前に進むよりはそれほど憎悪していた過ぎし日に戻るのであろうか。数千万の命が失われるのに熱狂した日本国民、そしてその狂気にとどまることを求めた国民がどうして簡単に正気の政治に戻ると考えることができるであろうか。朴正煕の娘を頭上に立てて置いて果たしてこの国民が正気の政治を成し遂げることができるだろうかと思うのである。今彼らはその政治を決然とした姿勢で否定するのではなくほめたたえたいと思っているのであろうか。政治の乱気流がつぎつぎと表面化してくるのではなかろうかと気がかりである。

戦後にはアジアにおいても当然のこととして贖罪の歴史学そして免罪の歴史学が成立しなければならなかった。カー(E.H.Carr)がいった如く、歴史は現在から過去に向かって問いかけ現在に戻って来るものである。そのような歴史はヨーロッパにはあったがアジアにはなかった。糾弾の歴史学があったし、自己擁護と弁明の歴史学があっただけであった。それでアジアでは倫理不在であったし、自己拡大の欲望のみがのさばった。日本に対してもそうであったし、国内におけるイデオロギー的対立においてもそうであった。こうしてわれわれの傷口は広がり治癒の力と方法はほとんど存在しなかった。そこには倫理的な姿勢という実に人間的な心は存在しなかった。それでわれわれは戦後70年近い今日においてもこの重荷を背負って喘いでいるのだ。

北東アジアにおいては相手に対する糾弾と自己絶対化という極限的な対立の歴史が今日においても続いている。そこで正常な関係の回復は今日まで不可能なままであるといえるのであろう。このような状況の克服なしには北東アジアの協力と平和の時代は望めない。このような状況に対する謙虚な接近ではなく、まだ反動的な政治に陥っているのではなかろうか。ヨーロッパに比べて半世紀以上も遅れている歴史といえそうである。贖罪の歴史学があるとすればそれを慰め、そして新しい姿勢を受け止めて激励する共感に満ちた免罪の歴史学が可能であるはずではないか。ドイツの贖罪が統合ヨーロッパの始発ではなかったか。

東アジアにおいても日本の贖罪がアジア共同体の始発となるのではなかろうか。それでこそ過ぎ去った歴史が北東アジア史として共有されるようになるのだ。相手を責め立て自己を正当化する歴史ではなくすべてを東アジア共同のものとして引き受け、その上で共同の歴史教育が成立してこなければならない。その上に立ってこそ北東アジア共同体の新しい時代が可能になって来るのではなかろうか。

歴史観と政治はこのように密接に関係するものであろう。北東アジアの歴史的後進性、哲学の不在はいつまで続くことであろうか。北東アジアの三国の反動的な政治の時代がいつまで続くのかと憂えざるをえない。このような意味で今日の社会においても知識人はその役割を果たさなければならないと考える。簡単に知識人の消滅とか後退などを主張する空気の中で自らの責任を回避してはなるまい。知識人の責任を免除してはならない。再び知識人論を提起して整理していかなければならないと考える。われわれは今日の砂漠のような政治風土を分析し、それを克服する道をさがし求めなければならないであろう。まず彼らの間において北東アジア連帯の問題を深く論じあわねばなるまい。彼らの間における古い国家主義が克服されねばならない。かつての政治に依存していた知識人、いわゆる御用知識人の枠を超えて行くべきだと思うのである。

かつて民族主義が求められた時代には、知識人は先駆的な役割を果した。しかし、国家主義的な時代となり侵略に進んで行く頃になると、そこにとどまっていたとするならば知識人はすでに反動的御用知識人となったといわれるかもしれない。北東アジア時代に先立って知識人はどのような役割を担うべきであろうか。ヨーロッパ共同体とかアメリカの場合を考えながらアジアの知性が占めるべき位置を求めねばなるまい。もしも現代の大衆社会で知識人が存在しなくなっているとすれば、そのことは今日の社会がかかえている危機とでもいえるのではなかろうか。目に見えるあかりは華やかであってもそれはすでに闇の中に一条のあかりもない時代だと私は思っている。新しい知識人論が求められるといわざるをえない。

政治という領域は社会においてもっとも後進的な領域ではなかろうかと思われる。それはほとんど合理性が欠如している利益の角遂場である。そのような政治が支配的である社会であるならば耐えがたいものであろう。政治的革命はそのような危険性を伴ないがちである。いまだに韓国もそのような状態に置かれているといえそうだが、北はその点においてまさに言うに言われない状況に置かれているのではないか。北は政治が全的に支配する社会である。しかし南の社会もそれとは違った意味で知識人が消滅しつつある社会ではなかろうかと憂えざるをえない。世界的にわれわれは知識人追放の社会となる可能性を前にして、どのように批判的な知識人を確保するかという問題で悩まねばなるまい。(2013年3月14日)

 

池明観さん逝去

本誌に連載中の「池明観日記―終末に向けての政治ノート」の筆者、池明観さんが2022年1月1日、韓国京畿道南楊州市の病院で死去された。97歳。

池明観(チ・ミョンクワン)

1924年平安北道定州(現北朝鮮)生まれ。ソウル大学で宗教哲学を専攻。朴正煕政権下で言論面から独裁に抵抗した月刊誌『思想界』編集主幹をつとめた。1972年来日。74年から東京女子大客員教授、その後同大現代文化学部教授をつとめるかたわら、『韓国からの通信』を執筆。93年に韓国に帰国し、翰林大学日本学研究所所長をつとめる。98年から金大中政権の下で韓日文化交流の礎を築く。主要著作『TK生の時代と「いま」―東アジアの平和と共存への道』(一葉社)、『韓国と韓国人―哲学者の歴史文化ノート』(アドニス書房)、『池明観自伝―境界線を超える旅』(岩波書店)、『韓国現代史―1905年から現代まで』『韓国文化史』(いずれも明石書店)、『「韓国からの通信」の時代―「危機の15年」を日韓のジャーナリズムはいかに戦ったか』(影書房)。2022年1月1日、死去。

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