コラム/若者と希望

複数の〈わたし〉を生きるということ

個人の限界と分人主義の可能性

大学非常勤講師 米田 祐介

「人間は、生きていくためには、どうしても自分を肯定しなければならない。自分を愛せなくなれば、生きていくのが辛くなってしまう。しかしですよ、自分を全面的に肯定する、まるごと愛するというのは、なかなか出来ないことです。よほどのナルシストじゃない限り、色々嫌なところが目についてしまう。しかし、誰かといる時の自分は好きだ、と言うことは、そんなに難しくない。その人の前での自分は、自然と快活になれる。明るくなれる。生きてて心地が良い。全部じゃなくても、少なくとも、その自分は愛せる。だとしたら、その分人を足場に生きていけばいい。もしそういう相手が、二、三人いるなら、足場は二つになり、三つになる。」(平野啓一郎『空白を満たしなさい』より)

 

ある学生の言葉が忘れられない。「わたしは、友人や家族、学校やバイト先で対応が違っています。これはおかしいことなのでしょうか」。人は、そんなことで何を悩んでいるのだろう、と言うかも知れない。だが、それがどんな理由でも、命に換わるほどの重い絶望になるときがある。

どうしても、この問いかけに「あなたは、間違っていない」と応えたい。権力とはたえず、それとなく人びとに負い目や罪悪感をうえつけ私たちをコントロールする。けっして自責の念にかられてはいけない。あるいは真摯に、そして誠実に自らの〈生〉にむきあっているがゆえの、問いかけだと思う。多くの若い人が感じている苦悩だ。「あなたは、間違っていない」。でも、どうやって。そんなことを考えていた数年前、ある一冊の本に出会った。作家・平野啓一郎さんの『私とは何か――「個人」から「分人」へ』(講談社、2012年)である。これだ、と思った。そう。分人主義。文学的想像力とは、いつの時代も、炭鉱のカナリヤであり続けてきたはずだ。

本稿では、そのエッセンスにほんの少しだけふれてみたい。1990年代以降、自分探し、「本当の自分」にかんする自己啓発系の刊行ラッシュが続いたことは記憶に新しい。だが、同書は類書とは一線を画す。それではまず、人間の基礎的単位とされてきた「個人」の概念について紐解いてみよう。

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同書によれば、「個人」とは、individualの訳語であり(in+dividual )、divide(分ける)という動詞に由来するdividualに、否定の接頭辞inがついた単語だ。individualを直訳するならば「不可分」。つまり「(もうこれ以上)分けられない」という意味であり、それが今日の個人という意味になるのは、ようやく近代に入ってからのことである。明治になって日本に輸入された様々な概念の中でも、「個人individual」というのは、最初、とくによくわからないものだったという。その理由は、日本が近代化に遅れていたからというよりも、この概念自体が西洋文化に独特のものだったからである。二つのことを考えてみよう。

一つは、一神教であるキリスト教の信仰である。「誰も、二つの主人に仕えることは出来ない」というのがイエスの教えだった。人間には、幾つもの顔があってはならない。常にただ一つの「本当の自分」で、一なる神を信仰していなければならない。だからこそ、元々は「分けられない」という意味しかなかったindividualという言葉に、「個人」という意味が生じることとなる。もう一つは、論理学である。椅子と机があるとする。それらは、それぞれ椅子と机とに分けられる。しかし、机は机で、もうそれ以上は分けられず、椅子は椅子で分けられない。つまり、分けられない最小単位こそが「個体」だというのが、基本的な考え方である。

もうこれ以上は分けようがない、一個の肉体を備えた存在が、「個体」としての人間、つまりは「個人」だ。国家があり、都市があり、何丁目何番地の家族があり、親があり、子があり、もうそれ以上細かくは分けられないようなのが、〈あなた〉という「個人」である。逆に考えるなら、個人というものを束ねていった先に、組織があり、社会がある。個人という概念は、何か大きな存在との関係を、対置して大掴みに捉える際には、たしかに有意義だった。――社会に対して個人、つまり、国家と国民、会社と一社員、クラスと一生徒……といった具合に。

しかるに、である。平野さんは疑問を投げかける。私たちの日常の対人関係を緻密に見るならば、この「分けられない」、首尾一貫した個人概念(=「本当の自分」)は、あまりにも大雑把で、硬直的で、実感から解離しているのではないだろうか、と。信仰の有無を別としても、私たちが日常生活で向き合っているのは、一なる神ではなく、多種多様な人びとである。たとえば社会と個人の関係を、どれほど頭の中で抽象的に描いてみても、朝起きて寝るまでに現実に接するのは、会社の上司や同僚、友人、恋人やコンビニの店員さんなど、やはり具体的な多種多様な人びとだ。

そもそも「個人」という単位は、近代国民国家の統合原理や、あるいは非人称の権力が私たちをはっきりと対象化し統治・支配するうえでも非常に都合がよかったわけである。それとなく権力に絡めとられ、支配されてはいけない。「本当の自分」。そう。一点を中心として高度に統合された自己像(=近代西欧型自己)を前提にしたとたんに否応なく「いまの自分は偽りの自分だろうか?」という不安が立ち上がる。ホント/ウソといった過剰な二分法は〈わたし〉をぎりぎりと絞め上げる。こうした「個人」の概念に対して平野さんが提唱するのが「分人」の概念である。それは時代の感度に寄り添うとともに、しんどい〈いま〉を生き延びるヒントを教えてくれる。

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「分人」とは、dividual(「分けられる存在」)であり、対人関係ごとの様々な〈わたし〉を意味する。相手との反復的なコミュニケーション(=相互行為)の中で自分の中に形成されるもので、――両親との分人、恋人との分人、親友との分人。否、人のみならず、ネット、小説、音楽、芸術、自然との分人といった形で、出会い、ないしは関係性〈において〉立ち上がる、あるいは立ち上がってしまう、文脈と言ってもいいかもしれない。

ときに私たちは、日常を生きている複数の人格とは別に、どこかに中心となる「自我」が存在しているかのように考えてしまう。あるいは、結局、それらの複数の人格は表面的な「キャラ」や「仮面」に過ぎず、「本当の自分」は、その奥に存在しているのだと理解しようとする。この矛盾のために、私たちは思い悩み、苦しんできた。だが、それは大きなストレスであり、誰といても警戒を解くことができないだろう。そもそも、私たちはそんなに意識的にキャラを演じ分けたり仮面をつけかえたりできるものだろうか。言い換えれば、感情を意識的に操作できるのか。

じつはそれは難しく、きわめて自然にそういう〈わたし=分人〉になっているのである。たとえば、道ばたでばったり友人に出会って、あわてて仮面をつけかえたりキャラを演じているわけではない。オートマティックにその人向けの分人が立ち上がっているのだ。かりに「本当の自分」という言葉を使うならば、対人関係ごとに見せる複数の顔は、すべて「本当の自分」である。だから、冒頭の学生の問いに戻るならば、「あなたは、間違っていない」。

平野さんによれば、人間は、多種多様な分人の集合体であり、個人が整数であるとすれば分人は分数のイメージとひとまず捉えられる。すなわち、一人の人間は、複数の分人のネットワークでできており、「本当の自分」という中心は存在しない。相手によって異なる複数の文脈を生きる〈わたし〉を肯定するのが、分人主義であり、複数の分人を生きているからこそ私たちはまた精神のバランスを保つことができるのだ。

たとえば、〈あなた〉の〈わたし〉に対する否定の言葉が届くのは、〈わたし〉の〈あなた〉向けの分人までであって、原理的に〈わたし〉を全否定することはできない。全否定は個人を前提にする。むしろ、そうした相対性のなかで、その人といるときの〈わたし〉は好きな自分でいられる、肯定しうる分人のウェイトにまなざしを向け、そこを〈足場〉にして生き延びる戦略と言ってもいいかもしれない。このような世界を「生活表の一区画」としてもつことで、〈生〉にエッジが効いてくる。思い切って言葉を届けられる。

たしかに自分を全面的に肯定することはなかなか難しい。だが、こうした形でなら肯定することはそれほどハードルは高くないだろう。そこを生きる〈足場〉にすれば、きっとひらけてくる世界があるはずだ。他方、否定したい自分があったとする。だが、間違っても自分の「全体」を消す必要はないといえる。それは、あくまでも〈わたし〉のなかにある別の一つの分人にすぎないし、分人主義の立場に立つならば、そもそも自分の「全体」を否定することは原理的にはできない。

繰り返しになるが、〈他なるもの〉との相互行為において立ち上がる〈わたし〉、文脈とは、自然とそうなっているのであって、中心がありそれがキャラを演じているわけでも、仮面をつけかえているわけでもない。人間が常に首尾一貫した、分けられない存在だとすると、現に色々な〈顔〉があるというその事実と矛盾する。それを解消させるためには、自我(=「本当の自分」/近代西欧型自己)は一つだけで、あとは表面的に使い分けられたキャラや仮面、ペルソナ等に過ぎないと、“属性”に基づき価値の序列をつける以外にはない。この“構え”すなわちたった一つの「本当の自分」という発想は人間を閉じこめる檻ですらあろう。これらをふまえ、さらに命題化するならば、

個人individualは、他者との関係においては、分割可能dividualである。
そして、分人dividualは、他者との関係においては、むしろ分割不可能individualである。

 

そう。個人は、内的には一体である(individual=分割できない)が、対外的には他者から切り離し得る(divideできる)存在である。他方、分人は内的には複数に分けられる(divideできる)が、対外的には絶えず相互に影響し合う一体(individual=分割できない)の存在である。つまり、私たちは誰もが複数の他者性を内的に抱えているのだ。

だから、「個人」とは、人間を個々に分断する単位であり、個人主義とはその思想である。他方、「分人」は人間を個々に分断させない単位でであり、分人主義とはその思想だ。それ(分人主義)は、個人を人種や国籍といった、より大きな単位によって粗雑に統合するのとは逆に、単位を小さくすることによって、きめ細かな繋がりを発見させる思想といえる。平野さんは、そっとやさしく言い放つ。

私たちは、隣人の成功を喜ぶべきである。
なぜなら、分人を通じて、私たち自身がその成功に与っているからだ。
私たちは隣人の失敗に優しく手を差し伸べるべきである。
なぜなら、分人を通じて、その失敗は私たち自身にも由来するものだからだ。

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ところで、コロナ禍における“息苦しさ”とは何だったのか。同書の刊行はコロナ以前であるが、非常に示唆的な記述がある。自身の近未来長篇小説『ドーン』を取り上げている箇所だ。『ドーン』では、2030年代の有人火星探査がテーマとして取り上げられている。平野さんは、その取材の過程で、人類が火星に行って戻ってくるのには、二年半から三年もの時間が必要だという事実を知り、そんなことが、果たして可能なのだろうかと、まず疑ったという。

当時のNASAの計画では、クルーの数は六人ほどとされていた。二年半もの間、彼らはろくにプライヴァシーもないような狭い宇宙船や火星の基地に閉じ込められることになる。航海などとは違って、息が詰まるからちょっと外の空気を吸ってくる、ということも出来ない。何がしかの不具合が発生すれば、ただちに死が待っている。よほど相性のいい人同士だとしても、そのストレスたるや、ほとんど拷問だろう、と。ミッションの最も大きな不安要素は、じつは宇宙船の技術よりもクルーたちの精神状態なのだ。

閉鎖的環境の過酷さとは、まさに多様な分人化の機会を奪われているからといってもいい。有人火星探査のクルーたちは、二年半もの間、いわば職場での分人以外を生きられない状態に身を置かれる。彼らはまさしく、たった一つの顔しかない「個人」として生きなければならないのだ。

このことは、コロナ禍のステイ・ホームにおいて、新しい他者との出会いの機会を失い、今抱えている分人の更新の機会も奪われた“息苦しさ”と相似形をなしている。それはとりもなおさず、「個人」としてしか生きられない“息苦しさ”だ。いつの時代も文学的想像力とは炭鉱のカナリヤであり続ける。

さて、それでは分人の構成は水彩絵の具のように混ざり合うのであろうか。あるいは異なる形の積み木が重ねられるように混ざり合わないものなのだろうか。また、人間の全体同士で愛し合うことは可能か。つづきは、ぜひ、同書『私とは何か――「個人」から「分人」へ』を手にとってほしい。

そして、なんどでも繰り返そう。「あなたは、間違っていない」。

 

【参考文献】 平野啓一郎 『私とは何か――「個人」から「分人」へ』(講談社現代新書、2012年)/『自由のこれから』(ベスト新書、2017年)/『ドーン』(講談社文庫、2012年)/『空白を満たしなさい〔上・下〕』(講談社文庫、2015年)。なお、本稿では、引用・参考頁数は省略させていただきました。

 

まいた・ゆうすけ

1980年青森県生まれ。大学非常勤講師。本誌編集委員。

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