特集 ● どこへ行く“労働者保護”

かくて「棄老伝説」は現実になった

三つの ” E ” から考えるコロナパンデミックの教訓―2

神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠

データ無し、エビデンス無視の政策転換の犠牲になるのは誰か

前号で三つのE(エビデンス・エッセンシャル・エコノミー)の内エビデンスについて書き上げ、編集部にメールで送付したのが11月4日、その後、世界でも日本でもコロナに関する状況について大きな変化があり、若干の補足が必要になった。まず、中国である。中国では、11月に入ると、公式発表の数字は日本に比べれば問題にするレベルには到底達していないが、感染者の数が急上昇し始めた。それに危機感を強めた当局は、またしても厳しい規制を実施しようとした。しかし、当局の厳しい「ゼロコロナ政策」は、その実施の不手際、強引さもあって、中国民衆の激しい反発にあい、都市部を中心に混乱が生じた。それは、コロナ政策のみならず民衆の自由な活動への抑圧に対する抵抗、さらには政権批判へと展開する様相さえ示し始めた。

そうした中で、12月初旬、中国当局は、突然規制の全面的緩和を発表し、事実上「ゼロコロナ政策」の放棄を宣言した。同時に、当局は、それまで不完全ながらも発表していた感染者数や死者数も発表しないと宣言した。テレビなどで伝えられる映像では、当初不信感からか人出も一挙に増大したようには見えなかったが、次第に人々の動きも活発になり、年を越して春節の時期に入ると洪水のような人々の動きも伝えられてきた。

こうなるとコロナウィルスの動きを抑えるすべはない。感染は一気に拡大し、中国当局の感染症対策担当者の情報として、一日数百万単位で増加し、1 月初旬にはすでに人口の60パーセント以上が感染したと伝えられた。さらに、感染者が11億を越えた現在では一日数万単位に減少し、これ以上の感染爆発は考えられないという中国の専門家の見解すら流布されている。また、死者に関して、当局は、政策転換直後一日数人としていたが、国内外の批判を受けるや、基準を変えたなどと理由にならない言い訳をしつつ、病院でなくなったコロナ関連死者は約六万と訂正した。しかし、その数字も到底信じるに足るものでないことは言うまでもあるまい。

あれだけ厳しい「ゼロコロナ政策」の中で、当局は、国民一人一人の動静を把握する緻密な監視システムを構築してきた。それならば、感染者も死亡者も簡単に把握できるはずであろう。にもかかわらず、当局が発表する数字は信頼すべき根拠があるようには見えない。事態の正確な認識を諦めてしまったのか、意図的に隠蔽しているのか分からないが、少なくとも明確なエビデンスに基づいた状況把握と対策・政策決定、説得によるその実施という態度は完全に放棄されたというほかはない。どれほどの犠牲者が出ても、大躍進政策の失敗、文化大革命、天安門事件などどれほどの犠牲者がいたのかいまだに明らかではない。コロナパンデミックの犠牲者もそういう「闇」の中に葬り去られることになるのであろうか。

14億の人口を有する中国で起きている事態の衝撃に比べれば、それほどとは感じられないかもしれないが、世界中のほとんどの国家で、正確なエビデンスを獲得しようとする動きは確実に弱まっている。日本でも、医療逼迫や保健所業務の軽減などを理由としてPCR検査の抑制や自己検査、無症状又は重症化リスクが低い場合の自宅療養推奨など、感染状況の正確な把握を困難にする処置が、昨年後半から次々に決定された。しかし、感染者数も人口比で見た死者数も、最近一か月では世界一という。

統計の取り方が正確さを減衰させている世界的動向においてその順位にどれほどの意味があるか問題だが、日本国内に限ってみれば、パンデミック下の三年間で最も深刻な数字になっていることはまちがいない。にもかかわらず、政府は、コロナ感染症の扱いを二類から五類に引き下げると決定した。決定した後に専門家会議に諮るという逆転した手続きは、その決定の政治性を物語ってあまりある。

すでにマスコミ上では、マスクをはずしてもよくなるとか、自由に動き回れるとか、それで欧米並みになった、世界標準に近づいたという発言が出始めている。しかし、コロナパンデミックの三年間の経過を振り返ってみると、感染状況がもっともひどかったのは、欧米諸国であった。統計数字の確度の問題はあるが、パンデミックの犠牲者は、人口規模を考慮して比べてみると、日本の数倍以上になる国も少なくない。英米仏独伊、どこも日本を大きく上回っている。その欧米並みになることが、そんなによいことなのか。

また、政府の専門家会議に出ている経済学者は、日本もパンデミックに慣れて危機感が薄くなり、国民の気分も変わり日常に復帰する条件が整ってきたので、五類への変更は当然の選択だという趣旨の発言をしていた。欧米並みだとか、気分だとか、コロナウィルス感染症についての「科学的」に明らかにしうるエビデンス以外の要素を対策変更の根拠にすることは、いかがなものか。そういう対応は、重症化リスクの高い災害弱者の犠牲を、やむをえざる犠牲として「甘受」せよというにひとしいことになりかねない。実際、昨年12月からの感染拡大第8波では、死者数がこれまでの水準を大きく越え、1か月で約1万人に達し、その90パーセント以上が70歳以上の高齢者だという。この事態にどう対応するのかを示さないまま、基本的な対策の大変更を決定することが何を意味するか、言わずして明らかであろう。

「エッセンシャル」の二つの意味

さて、前号の補足はひとまずおいて、二番目の「エッセンシャル」にいて考えてみよう。「エッセンシャル」という言葉は、いうでもなく英語である。辞書を引いてみると「本質の、本質的な、本性的な」と「不可欠な、必要不可欠な、欠くことのできない」という、相互に深く関連しているが、一応別々の言葉として使うことができる二つの訳語が与えられている。

普通、ある物事にとって本質的なものは同時に必要不可欠なものであるだろう。たとえば、「物差し」にとって、長さを測る目盛りがついていることは「物差し」の本質にかかわることであり、必要不可欠のことである。しかし、その目盛りの単位がメートル法であるか尺貫法であるかは「物差し」の本質にはかかわりがない。和裁の時には鯨尺という尺貫法で目盛りを刻まれた物差しが不可欠である。たとえが適切かどうか分からないが、本質的であるということと不可欠であることとは完全に一致するわけではないことは理解されるであろう。

コロナパンデミック下において、エッセンシャルという言葉がしきりに用いられたが、それはどういう意味で使われたのかは、必ずしもはっきりしない。最も多く使われたのは、「エッセンシャルワーク」という連語の場合として間違いないだろうが、その場合には、「エッセンシャル」は「必要不可欠な」という意味で使われていることははっきりしている。感染症という厄介な病気に対して、予防・治療・看護などの医療行為、医療を成り立たせるための保健関係業務などがまずあげられ、保育・介護なども含められるようになり、交通・通信手段の確保、物流を含む交通運輸、清掃・ゴミ処理などへと「エッセンシャルワーク」の範囲は拡大していった。

こうした「エッセンシャルワーク」に従事する者に対して、激励するとか感謝するというような人々の動きも世界中で起こってきた。日本でも自衛隊のブルーインパルス飛行隊が、医療従事者に感謝と激励の意志を示すためとして都市上空でアクロバット飛行を披露したりした。収集場所に出された家庭ゴミに、収集従事者へ労をねぎらう手紙が添えられていることがマスコミで大きく取り上げられたこともあった。しかし、こうした動きは、今ではすっかり影を潜め、「エッセンシャルワーク」という言葉さえどこかに消えてしまったかのようである。

もう一つ、必ずしも「エッセンシャル」という言葉で表現されたわけではないが、コロナパンデミックに対して行動制限が求められる場合、人間の社会的活動として何が欠かすことができないものであるか、ということが問われたことがあった。「本質的」という訳語がふさわしい問題が意識化されたといってもよい。たとえば、パンデミックのごく初期の頃であったが、イタリアのある思想家が、死にゆく者を看取ることも、葬儀を営むこともできない事態を、人間の存在に関わる重大な問題であると発言して論議を呼んだことがあった。葬式よりも生命が大事というような反発も強く、議論は深められることはなかった。

パンデミック下で、多くの行動の制限・規制を余儀なくされてきたが、その制限・規制がエビデンスに基づいた合理的なものであったかどうか、必要性と範囲や強度は妥当かどうかという問題を、その場その場の一時的対応の問題としてではなく、人間社会の本質は何かという問題と関連させて考えようとする試みもいくつかなされてきた。

以上のように、「エッセンシャル」という言葉に関連して、コロナパンデミックによって二つの問題領域が検討の対象として浮かび上がってきたといってよいであろう。以下、それぞれの領域がこの三年間でどのような問題を想起させ、社会や国家はどのようにその問題に取り組み、あるいは取り組まなかったかを検討してみよう。

必要不可欠な仕事と不必要な仕事

新型コロナ感染症が、世界中に拡大し、深刻な危機として受け止められ始めた2020年の7月末、一冊の本が出版された。著者はデヴィッド・グレーバーというアメリカ合州国の人類学者で、『ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論』(原著は2018年刊行)の翻訳書である。著者のグレーバーは、2011年に起こった1%の富裕層に富が集中する状態に抗議してニューヨークの街頭を占拠した「ウォール街占拠事件」にも参加したアクティビストで、現代社会への鋭い批判者として注目されている研究者であった。同書は、400ページを越える大著であるが、半年で六刷するほどで、日本でもかなり読まれたといってよいだろう。

グレーバーによれば、現代世界では、「クソどうでもよい仕事」すなわちブルシットジョブが増殖し、人間生活にとって不可欠な仕事の多くは「シットジョブ」すなわち汚れ仕事とされ、ブルシットジョブに従事する者は安定した地位と高給を保障され、不可欠な仕事の従事者は不安定雇用と酷い労働条件に苦しめられ低収入にあえがされる。

彼は、「わたしたちの社会では、はっきりと他者に寄与する仕事であればあるほど、対価はより少なくなるという原則が存在するようである」と主張して、次のような対比をしてみせる。すなわち、「かりに看護師やゴミ収集人、あるいは整備工であれば、もしも、かれらが煙のごとく消えてしまったなら、だれがなんといおうが、その結果はただちに壊滅的なものとしてあらわれるであろう」、他方企業の売買で利益を得る「CEOやロビイスト、広報調査員、保険数理士、テレマーケター、裁判所の廷吏、リーガルコンサルタントが同じように消え去ったとして、わたしたちの人間性がどのような影響をこうむるのかは、わたしにはあまりはっきりしない」と。そして、「にもかかわらず、もてはやされる一握りの例外(医師)を除いて、その原則はおどろくほど当てはまっている」と結論付ける。

この原則が、実際、どこまで当てはまるのか、そもそもブルシットジョブとは何か、また、それがなぜ現代社会において増殖を続け、その結果としてどんな問題が生じるのかなどの問題は、この小論ではこれ以上紹介・検討することはできないが、コロナパンデミック下でしきりに言われたエッセンシャルワークの問題を考える上では、重要な視点を提供してくれていることはまちがいない。

まず、必要不可欠な仕事あるいは「他者に寄与する仕事」についてみてみよう。これは、先にみたように、保健・医療・介護・保育・教育など、人に直接かかわる仕事、清掃・交通・運輸など人々の活動を支える公共サービスなどが典型的であろう。特に、直接人にかかわる仕事は、人間の生命活動の維持というそれなしには一切の人間活動が成立しない最も基礎的な条件を守るための仕事である。その条件を危うくする感染症に対応するためには、感染の有無を調べる検査、感染している場合の隔離・入院・治療、感染拡大防止のための処置などの活動がまず必要になってくる。

そして、その活動は、まず、保健所がセンターとなって展開される。感染症対策に必要な保健所業務の具体的内容は、住民への呼びかけ・広報・検査による感染者の割り出し、問い合わせへの応答、感染者との連絡・支援・訪問、隔離・入院の手配、地域全体の状況把握、行政諸機関への情報の提供・報告など多岐にわたるが、それが日常業務に加算された。パンデミックに対する備えがまったくないところに感染が拡大すればあっという間に保健所の処理能力を越えてしまうのは、火を見るよりも明らかであった。

実際、三年前、パンデミックが始まった当初、最初に危機的状況に陥ったのは、全国各地の保健所であった。特に、行政改革の掛け声の下で、保健所の統廃合を進めた地域では機能不全は麻痺に近いところまで昂進した。その典型的例となったのは大阪であった。今でも感染者も多く、死者は人口比でみると全国で最も多い。大阪市や大阪府で、行政の「効率化」の旗を振った人物は、パンデミックの初期には、我々はやり過ぎたかもしれないなどと殊勝げに語っていたが、今ではそんなことはおくびにも出さなくなってしまった。この三年間で、保健所の充実・整備がどれ程進められたか、一時的雇用や配置転換による人員の増加の措置がとられたことはあっても、抜本的な強化は今でも行われている節はみられないのが実状だといわざるをえない。

事情は病院においても同様である。利益と効率化を基準としてベッド数や人員配置が抑制されてきたため、重症患者の受け入れ困難な病院が続出し、救急搬送先がなかなか見つけられない、コロナ以外の患者の受け入れ、治療ができないなどの事態が頻発した。失われなくてもよかった命が、どれほど失われたかそれすら明確には分からない。行政当局は、ベッド数確保のための補助金やコロナ治療に当たる医療者への特別手当などの措置をとったが、緊急時の臨時医療施設の設置など、感染症に対する長期的対応を考えた施策については消極的姿勢を崩さなかった。

行政当局は、感染者が急激な増加の傾向を示すたびに、医療逼迫の危機をいうが、出された対策は、逼迫を避けるために重症化リスクの低いものは病院での受診を控え、自己診断やリモート診断で感染したかどうかを確認するように指示し、あげくは自宅療養を推奨するという消極的な方向ばかりを提起する始末であった。

それどころか、最近では、マスコミ上で、コロナ用に確保したベッドの使用率の低さや補助金の不正受給などを追及する動きが出始めてきた。保健所や病院ばかりでなく、コロナパンデミックへの対応でエッセンシャルな仕事に対する十分な対応がなされていない状況で、一部の不正の追及に目を向けさせようとする論調は、かつて新自由主義的政策の導入に熱心であった時期に行われた教員叩き(教員は夏休みなどで楽をしているなど)や公務員叩き(接待交際費問題など)を想起させる。

パンデミックが炙り出したブルシットジョブ

コロナパンデミックへの対応で、人間が生命を維持していくために必要不可欠な仕事は何かがはっきり示され、それへの対応が未だに十分ではない現状の一部は示したが、そこで炙り出された不必要な仕事にも目を向けておこう。

パンデミックの初期に唱えられ、後にWHOにも称賛された日本発の標語に「三密回避」というのがあった。それ以外にも、「五つのお願い」とかなんとかもあったと記憶しているが、最も普及したのはこの「三密回避」であったことに間違いはない。確かに、これを守れば感染防止に役に立ったと評価してもよい。これが、発信者の創意になるものであれば、称賛すべきことかもしれない。

しかし、実態はどうか。行政当局の長や広報担当者だけであれば、たしかに何の問題もない、と言えるかもしれないが、これらの標語の作成に当たって、広告宣伝会社が絡んでいたとしたらどうだろうか。一時、全国の自治体の首長達が、競うようにクリップボードを掲げ、記者会見を行い、標語らしきものを連発していたことを思い出してみよう。まるで宣伝合戦のようだと感じたのは筆者だけではあるまい。記者会見の前に、広告宣伝会社の社員や広報課員、秘書などが頭を突き合わせて売り文句を考えている姿を想像しただけで、その仕事は本当に必要不可欠なものとは思われなくなる。これが、票が欲しい政治家の選挙を意識した宣伝活動の性格を持っていると考えたら、その標語作成作業に加わっている人々の中には、これこそブルシットジョブではないかと思う者もでてくるだろう。

不必要といえば、ゴーツートラベルやゴーツーイートという補助金にも疑問がある。感染症が収まれば、旅行や外食を我慢していた人々は、収まったということだけで喜んで出かけると思われるのに、わざわざ補助をする必要があるのか、という疑問である。旅行会社や宿泊業、飲食業を助けるという名目で実施されているが、そのために感染を広げることになったらかえってマイナスになることもありえるし、実際そうなったこともあった。それでもこれを実施した理由はどこにあるのか。クーポンやポイントというような仕組みを使って実施することになれば、旅行・飲食にかかわらないその仕組みを運用する企業の仕事が必要になる。旅行や飲食の代金の中に、その企業の経費・利益が組み込まれてくることになるが、そのことは巧妙に隠され、補助金政策を提起した政治家のサービスぶりだけがクローズアップされる。

ふるさと納税やクラウドファンディングなども、その制度や仕組みを紹介・仲介する企業ができ、そこの経費や利益に本来の寄付などの一部が吸い取られていくのと同じようなことが生まれる。自ら肉体や頭脳を駆使してモノやサービスを作り出すのではなく、そういう実際の仕事は他人にやらせて、仕事という情報・観念を右から左に回して利鞘を稼ぐ広告代理店のような商売がコロナパンデミック対策の中にもはびこっているといったら言い過ぎであろうか。コロナパンデミック下において強行されたオリンピック・パラリンピックでは、競技それ自身ではなく、行事・興業としてみた時に、まさにブルシットジョブの典型が観察された。電通などの広告代理店周辺の汚職事件はいうまでもなく、来日したオリンピック委員会関係者への接待など、その業務に当たった人々は自分の仕事が、いかにブルシットなものか痛感したに違いない。

守るべきはエッセンシャルワークの現場である

以上のように、コロナパンデミックという人類史的危機ですらブルシットジョブの増殖を妨げられないとすれば、それを防ぐためには、何が人間とその社会にとってエセッシャルなのかを真剣に考え直すことが求められる。

人間は、生れ、成長し、働き、老化し、そして死をむかえる。その人間の一生は、誕生・保育・教育・労働・介護・葬儀という社会的活動として実現される。それは、一人の人間の中で完結するものではなく、社会的諸関係の中で展開され、どんな人間であれ、どんなにわずかな部分であれ、人間は、その諸関係の一部分を構成する。コロナパンデミックは、そういう人間の社会的活動の少なからざる部分を規制せざるを得ない状況を作り出した。したがって、コロナパンデミックを克服するということは、その社会的活動を再開させることに他ならない。

では、その社会的活動の何をどのようにどういう順序で再開させるのか。この問題は、拙速に結論を出そうとすると重大な間違いを犯しかねない。ウィルスはいずれ弱毒化し、集団免疫ができれば、すべては自由にしてよい、という議論もありうる。コロナの場合は、そもそも風邪に毛が生えたようなものだから特別の規制はいらない、という極論は論外としても、規制反対の声は最初から消えることはなかった。しかし、各国の公式発表の集計だけでも約七百万の死者(相当信頼できる推計ではこの二倍以上ともいわれる)という犠牲者を、いかなる意味でも無視し、単なる数字として扱ってはならないであろう。人間の社会的活動は、究極的には一人一人の人間によって支えられている以上、一人一人の人間の生命を大事にするということは人間を考える原点である。

たとえば、学校教育の場で、ある程度の犠牲は社会活動再開のためにはやむを得ないと教えるべきであろうか。現実に、そうなりかねない行動を許容・推奨すべきであろうか。もし、感染の危険があれば、その危険をできるだけ小さくしようとする努力がなければならないであろう。問題は、そのための努力が合理的で、過重な負担を誰かに強いるものであってはならないということである。

コロナパンデミック下で、学校という教育現場では、明らかに教員の負担は増加した。子供に「三密」を回避させ、動きたい盛りの子供の行動を制約し、なれないリモート授業の準備をし、教室や廊下、学校中の施設の消毒を行い、子供の健康状態を観察し、保護者との連絡をとり、自分自身の感染防止にも努める。そうした教員の負担の増加、過重労働を軽減するための措置はどれほどとられたのか。そういうことの検討すらなされているとは思われない中で、マスクをどうするかという議論ばかりがはなばなしい。それは、どこかおかしいだろう。

保育でも、介護でも、コロナパンデミックで業務の負担は限度を超えるほど過重になっている。その上、人手不足で保育士、介護士の確保もままならない。看護師についても同じ状況が指摘されている。

直接、コロナパンデミックにはかかわらないかもしれないが、政府や行政当局の対応について典型的な問題が現れた例がある。保育園児のバス置き去りについての問題である。政府が打ち出したのは、置き去り防止のための監視機器の導入とそのための補助金の交付ということであった。この置き去りという事態は、保育園・保育士が担当児童の動静について常に把握しているかいないかという点にかかわる問題である。特に、保育士が一人一人の児童の動静を十分に把握していることが求められているにもかかわらず、それができていない、否できないことにこそ問題がある。保育基準の見直し、保育士の増員、そのための保育士の待遇の大幅な改善、これこそが最善の置き去り防止策のはずである。

保育基準を見直し、保育士を増やし、待遇を改善する。これは人に「金をかける」ということであるが、これこそが政府や経営者が最も嫌がることである。監視機器の導入は、人に金をかけず、設備・機器に金をかけ、それに関係する企業・業者に利益を与えるという政策である。根本的な問題から目を背け、企業・業者の利益を守り、制度の根幹にかかわる問題を避け、ちょっとした「お得感」をくすぐり、補助金や手当をちらつかせる、コロナパンデミック下でこんな政治を蔓延させてしまっているのは誰か。ここは、じっくり考えてみたい。そうでなければ、われわれの生命を守るためのエッセンシャルワークの現場が危機に陥ることになりかねないからである。

欧米では、看護師や教師による待遇改善要求のストライキが行われているという。五類への変更を積極的に主張する者こそ、そういう動きを見習うべきではないか。後期高齢者になり、いつ社会的に見捨てられ、山中に送りこまれるか分からない身にとっては、切歯扼腕せざるを得ない思いである。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

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