特集 ● どこへ行く“労働者保護”
労災保険制度の根幹を揺るがす事業主不服申立に反対する
厚労省は1月31日付け労働基準局長通達を撤回せよ
東京労働安全衛生センター事務局長 飯田 勝泰
1.寝耳に水の第1回検討会
2.全国安全センターの緊急反対声明
3.厚労省労災管理課との意見交換
4.事業主の原告適格性を認めた東京高裁判決
5.相次ぐ意見表明と検討会報告
6.今後の取り組みとメリット制度の検証
東京労働安全衛生センターは、働くもののいのちと健康を守り、労働災害・職業病を根絶することを目的に活動するNPOである。私たちは長年にわたり被災労働者、家族の相談活動を通じて労災認定や職場復帰を支援し、その権利と生活を守る活動に取り組んできた。
安全、健康で働き続けることは労働者のかけがえのない権利である。被災労働者が安心して療養生活を送り、再び職場(社会)復帰を図るために労災保険制度はかけがえのない制度である。
労災保険制度は、労働者が業務上の事由又は通勤により負傷、疾病、障害、死亡した場合、被災労働者、遺族に対して必要な保険給付を行い、あわせて被災労働者の社会復帰の促進等の事業を行う制度である。労災保険は、原則一人でも雇用している事業は、業種や規模にかかわらず全てに適用され、国が事業主から徴収する保険料により運営されている。
通常、事業場を管轄する労働基準監督署に労災請求の手続きを行い、業務上災害又は通勤災害として認定されれば、必要な労災保険給付が行われる。たとえ事業主が労災を認めなくても、労基署が労災認定すれば、被災労働者は必要な労災保険の給付が受けられる。当然、労基署の決定に事業主は不服を申し立てることはできない。
ところが昨年来、労災保険制度の事業主不服申立に関する動きが急浮上したのだ。
1.寝耳に水の第1回検討会
2022年10月26日、厚生労働省は、「労働保険徴収法第12条第3項の適用事業主の不服の取扱いに関する検討会」を開催した。不覚にも私たちがそれを知ったのは、翌日の10月27日、朝日新聞の報道だった。「労災 事業主『不服』可能に/認定は取り消さず/民事裁判にも影響」との見出しで、「労働災害が起きた事業場で労災保険料が引き上げられる制度をめぐり、事業主が『労災認定は違法だ』として国に不服を申し立てられるようになることが固まった。・・・」と報じていた。この検討会では、労災保険料認定決定に対する行政不服審査等において、事業主が労災保険支給決定の支給要件該当性を争うことができるようにする案が厚労省より示された。この案は検討会において「大筋で認められ、早ければ年内にも通達を出し、運用を改めるという」とも同紙は報じた。
労災保険制度では、「事業主の保険料負担の公平の確保や災害防止努力の促進を図る」ためとして、「メリット制」が設けられている。労災発生の多寡によって労災保険料率または労災保険料を増減させる仕組みだ。検討会では、事業主に対して労災支給要件に該当しないという主張による不服申立てを可能にし、労災保険給付をメリット制適用の収支計算から除外させることによって、労災保険料の負担軽減を認めることが検討されていた
2.全国安全センターの緊急反対声明
私たちのネットワーク組織である全国労働安全衛生センター連絡会議では、拙速な議論で労災保険制度の根幹を揺るがす事業主不服申立制度が導入されることに強い危機感を持ち、早急な意思表示が必要と判断した。
そして10月31日、「労災保険制度における事業主不服申立制度の導入に反対する緊急声明」を発表し、厚生労働大臣及び検討会の委員に対して送付した。私たちの緊急声明の骨子は次のとおりだ。
(1)今回の提案は、事業主に労災認定を否定する新たな根拠を与え、被災労働者の安心安全な療養と生活、そして権利を根本から破壊するものである。事業主による労災保険支給決定の要件該当性に関する不服が認められた場合、事業主はその決定を根拠として、社会や被災労働者に対して労災認定そのものを全否定する主張を公然と行うことが想定される。事業主の圧力や攻撃の武器を国が公的に与えることになり、労災認定されても被災労働者が安心して療養できる状況ではなくなる。また労働者の労災請求する権利行使を一層困難にするものである。
(2)全国の労働基準監督署での労災調査についても深刻な悪影響を与える。労基署の調査官が、事業主による不服申立てによって労災認定(支給要件該当性)が後から否定されることを懸念して委縮し、より事業主の主張に沿った対応や検討に流れる危険性が高まる。事業主の主張を忖度した判断がより強まることが懸念される。
(3)このような制度の重大な変更について、手続きがあまりに拙速。検討過程に重大な瑕疵がある。労災問題に関する被災労働者、労働組合、労働団体などの意見を聞くこともなく、充分な検討の時間も取らないまま、このような重大な制度変更を行うことは許されるのか。しかも、検討会の委員はほぼ全員が法学者であり、今回の制度変更がもたらす労働現場での多面的な悪影響を適切に検討できる構成ではない。
以上のとおり、全国労働安全衛生センター連絡会議は緊急声明を出し、今回の改悪に強く反対するとともに、厚生労働省に対しただちにこの提案を撤回するよう要請した。
3.厚労省労災管理課との意見交換
私たちは阿部とも子衆議院議員を通じて、この問題を所掌する厚労省労災管理課との意見交換会の設定を準備した。そして11月30日、「労災保険制度事業主不服申立て制度 厚生労働省(労災管理課)との意見交換会」が開かれ、緊急な呼びかけにもかかわらず安全センター関係者だけでなく、被災労働者・遺族、労働組合、メディア関係者が参加した。厚生労働省からは労災管理課の課長補佐、企画法令係が出席した。
厚生労働省は、「労災保険給付がなされた場合に、メリット制適用事業主は、労災保険料の負担が増大する可能性がある。現在は、メリット制適用事業主は、労災保険給付支給決定に関する争いの当事者となる資格がない、とわれわれは考えている。また労災保険料決定の適否を争う際に、労災保険給付の要件該当性に関する主張もできない、というのが現在の国の立場である。」と述べながら、「『労働保険徴収法第12条第3項の適用事業主の不服の取扱いに関する検討会』では、労災保険給付支給決定については事業主が争いの当事者にならないようにしつつ、労働保険料については事業主が争うことを認めることを両立できないか、法律上の論点について検討させていただいているものである。」と説明した。
根本的な対応としてメリット制を廃止すべきだという議論に対しては、「メリット制自体は労災保険制度のほぼ最初の頃からある制度で、その頃はメリット制導入によってかなり大幅に労災の事故が減ったということは、われわれの記録にはそういう記述が見受けられる。メリット制があることによる労働災害防止のインセンティブというものはあるのだと思っている。」と回答した。
4.事業主の原告適格性を認めた東京高裁判決
厚生労働省との意見交換会前日の11月29日、東京高等裁判所で今回の問題に関連する極めて重大な判決が示された。検討会でも「一般社団法人Y財団事件」として検討されているケースである。「あんしん財団」では東京管理職ユニオンの組合員に対する不当労働行為、ハラスメントによって2名の労働者が精神障害を発症し労災認定された。これに対し同財団は国の労災認定(労災保険給付支給決定)を不服とし、その決定取り消しを求めて行政訴訟を提訴していた。2022年4月15日の東京地裁判決では、事業主に原告適格性はないとして事業主の訴えを退けたものの、保険料の算出において考慮される労災認定の違法性(業務起因性を欠くこと等)を取消事由として主張することが許される余地があることを示唆した。この判決によって、厚生労働省は事業主の不服申立制度の検討を迫られることにもなっていた。
11月29日、高裁判決は事業主に対し労災認定取り消し訴訟の原告適格性を認め、原判決を東京地裁に差し戻すことを判示した。ただし、事業主一般に原告適格が認められるわけではなく、メリット制適用事業主(特定事業主)で、労災保険の支給処分で労災保険料がアップし不利益を被る事業主に限定している。
厚生労働省は、事業主の労災保険料の認定処分に限定して労災認定の違法性を主張し不服申立てできる制度改悪の検討を進めていたが、「あんしん財団」事件の高裁判決では、そもそも労災認定自体の違法性を事業主が争えることを認めてしまったのである。
ある意味、厚生労働省の思惑を乗り越えて、労災保険法改悪の法的判断が示される状況になっており、いずれにしても、どちらに対しても立ち向かい、これを阻止しなければならない事態を迎えている。
5.相次ぐ意見表明と検討会報告
第1回検討会開催以後、厚生労働省の事業主不服申立て制度の導入案に対し、過労死弁護団や過労死家族の会をはじめ労働団体等から相次いで意見表明、要請が出された。
〇11月18日 全労働省労働組合「メリット制適用事業主の不服申立の取り扱いに関する検討について」
〇12月5日 過労死弁護団全国連絡会議「労災保険支給決定に対する事業主による異議申立てを認めた令和4年(2022年)11月29日東京高裁に対して、国は上告(上告受理申立て)することを求める緊急要請書」
〇12月5日 全国過労死を考える家族の会「労災保険支給決定に対する事業者による異議申し立てを認めた東京高裁判決に対して、国は上告(上告受理申立て)することを強く求めます。」
〇12月7日 働くもののいのちと健康を守る全国センター「メリット制適用事業主の不服申立の取り扱いに関する検討に対する意見」
〇12月13日 連合「労働保険徴収法第12条第3項の適用事業主の不服の取扱いに関する検討会報告書についての事務局長談話」
〇12月15日 全労連「労災保険制度における事業主不服申立に反対する意見」
厚生労働省は、12月7日、第2回検討会を開催し、12月13日、報告書を公表し、次のように提案した。
(1)労災保険給付支給決定に関して、事業主については不服申立適格等を認めるべきではない。
(2)事業主が労働保険料認定に不服を持つ場合の対応として、当該決定の不服申立等に関して、以下の措置を講じる。
ア)労災保険給付の支給要件非該当性に関する主張を認める。
イ)労災保険給付の支給要件非該当性が認められた場合には、その労災保険給付が労働保険料に影響しないよう、労働保険料を再決定するなど必要な対応を行う。
ウ)労災保険給付の支給要件非該当性が認められたとしても、そのことを理由に労災保険給付を取り消すことはしない。
そして12月16日、労働政策審議会労働条件分科会労災保険部会で検討会の報告書が提案されることになった。私たちは緊急行動を提起し、労政審開催の会場前での緊急アピール行動を取組み、厚生労働省内で記者会見を行ったが、姑息にも厚生労働省は当日、会議をオンラインのみとし、私たちのアピール行動を委員の目に触れさせないようにした。
厚生労働省は労災保険部会に検討会の報告書を報告し、「準備が整い次第、関係通達を発出することを考えている」と説明した。
公益代表の中野妙子委員(名古屋大学大学院法学研究科教授)は、被災労働者の法的地位の安定と保険料を負担する事業主の手続保障の間のバランスをとったものと報告書の内容を評価した。労働側の冨髙裕子委員(連合総合政策局総合政策推進局長)は、厚生労働省が労災認定を争うことを認めない従来の立場を維持することを支持。東京高裁判決は極めて遺憾であり、行方を注視している、問題のあるメリット制について、経済構造等も変化しており労災低減効果があるのか検討する必要がある、と述べた。
使用者代表の坂下多身委員(経団連労働法制本部上席主幹)は、最近は精神障害や脳・心臓疾患など業務に起因するものか微妙なものもあり、何らかのかたちで争うことが望ましいという意見。さらに労働側の田久悟委員(全建総連労働対策部長)は、拙速ではなく慎重な検討を引き続きすることが必要、メリット制の存廃自体も含めた検討をしていくべきだと述べた。
しかし厚生労働省は、この労災保険部会で委員から反対意見はなかったとして、準備が整い次第、制度導入を進めていく考えを示した。
6.今後の取り組みとメリット制度の検証
2023年1月31日、厚生労働省は労働基準局長名による「メリット制の対象となる特定事業主の労働保険料に関する訴訟における今後の対応について」(基発0131第2号)を都道府県労働局長宛に発出した。
この通達で、検討会報告書の内容が労政審労働条件分科会労災保険部会で報告されたことをうけて、次の事項への留意を指示した。
1.特定事業主による労働保険料認定決定取消等訴訟
特定事業主は労災保険料認定取消訴訟において労災支給処分の支給要件非該当性を主張することが可能。特定事業主の主張及び提出する証拠に基づき、メリット収支率算定基礎対象となる労災支給処分の支給要件非該当性を理由として、労働保険料認定を取り消す等の判決が確定することがあることについて、留意すること。
2.労働保険料認定決定取消等請求訴訟判決後の都道府県労働局における対応
労働保険料認定決定を取り消す等の判決が確定した場合には、当該判決の趣旨に沿って速やかに、当該判決の理由中で労災支給処分の支給要件非該当性が認められた事案にかかる労災給付額をメリット収支率算定基礎対象から除外してメリット収支率を算定した上で労働保険料の額を算定し直し、必要な対応を行うこと。
3.労働保険料認定決定取消等請求訴訟判決後の労働基準監督署における労災支給処分の取扱い
メリット収支率算定基礎対象となる労災支給処分の支給要件非該当性を理由として、労災保険料認定決定を取り消す判決が確定したとしても、そのことを理由に当該判決の理由中で支給要件非該当性が認められた労災支給処分を行った労働基準監督署が同処分を取り消すことはしないこと。
この通達をもって、労災保険制度の事業主不服申立てを認める措置がとられることになった。昨年来、緊急声明を発表し、これに対する反対の取り組みをしてきたが、厚生労働省は拙速な議論のままこの制度を強行したことになる。
事業主に対し労災支給処分の不服申立て及び訴訟の適格性を認めた今回の措置がもたらす影響は計り知れない。一旦労働基準監督署が決定した被災労働者に対する労災支給は取り消すことはないというが、労災保険制度の根幹にかかわる問題が払しょくされたとは到底考えられない。
今回の改悪は、直接的にはメリット制適用事業主の労災保険料の負担を巡っての争いを回避し、一定の歯止めを意図したものだが、そもそも労働保険料のメリット制自体が労災低減に効果をあげているのか。それを実証する資料も提供されず、検証する議論も行われていない。挙句の果てに、「あんしん財団事件」の高裁判決では、事業主の労災支給処分自体を争う適格性が容認されている。事態は厚生労働省の思惑を乗り越えて、労災保険制度のさらなる改悪に向かおうとしている。
私たちは今後、この通達を撤回させ、事業主不服申立て制度反対の声と行動を広げていかなければならない。さらに労災保険におけるメリット制度の徹底的な検証を求め、メリット制度の廃止をも射程にいれた議論を巻き起こしていかねばならないと考える。
※参考:全国労働安全衛生センター連絡会議発行「安全センター情報」2023年1月・2月号、3月号
いいだ・かつやす
1959年生まれ。岐阜県出身。NPO法人東京労働安全衛生センター常務理事・事務局長。中小企業の薬品製造会社勤務を経て、1987年に前身組織である東部労災職業病センターの専従職員となり、以後、労災職業病の被災者、家族の相談活動、労働組合の安全衛生活動、アスベスト被害の補償・救済・根絶、原発被ばく労働問題に取り組む。