特集 ● どこへ行く“労働者保護”

新自由主義的な人への投資から、労働の尊厳回復への転換が急務

連合など労働組合は、すべての働く者に希望をもたらす運動をめざせ

労働運動アナリスト 早川 行雄

このところ政労使を問わず、「人への投資」という言い方を見聞きする機会が増えている。筆者はこの「人への投資」という言葉の乱用、とりわけ労働界に属する組織が好んで用いていることに深い違和感を覚えてきた。時下、労働組合は春闘要求提出のころ合いを迎えているが、ここで労使関係(本稿の趣旨からは労資関係と言った方が正確かも知れない)の原点に立ち返って、この違和感の背景にある諸要因を改めて検討することにより、今日の労働運動が陥っている長い混迷から抜け出し、再活性化するための方途を探ることが本校の目論見である。本来はもっと時間をかけて丁寧に考察すべきテーマではあるが、今回はその覚書的な素案ということでご寛恕願いたい。

1.労働の尊厳とは何か

ジョン・ロックの労働所有権

労働の尊厳という理念を近代史の中に位置づけるとすれば、少なくともジョン・ロックの「労働所有権」まで遡る必要があろう。ここで最初に検討すべきことは、人の人たる所以でもある自然権としての基本的人権との関りである。ロックは自然権としての基本的人権を「生存権」「自由権」「財産権」の三要素で構成し、これらを広義の「プロパティ」として論じた。財産権についてはアメリカ独立宣言や日本国憲法では「幸福追求権」として継承されている。ロックが財産つまり私的所有を不可侵の人権とした根拠は労働にある。自らの身体を用いた労働の成果物は専ら労働した本人に帰属するもので、何人たりともこれを侵害することはできないというのが労働所有権の思想だ。プルードンは「財産は盗みである」としたが、ロックの財産権は、誰にも盗まれることのない権利である。ロックは狩猟・採取を構想の基礎に置き、私的所有の限度には一定の制約を設けたが、農民や職人の労働にも労働所有権の概念を当てはめた。あらゆる労働はその生み出す成果(価値)によって、自己及び他者の生存を確保するという自然法上の責務を全うし、それをもって自己の幸福を追求するものであるが故に、生産物に対する正当な所有権の根拠となる。この労働所有権に労働の尊厳の起源ないしは原型を見出すことができる。

産業革命を未だ経験しない17世紀の人であるロックには賃労働と資本という概念はないため、産業化社会で自らの労働力を経営者たる資本家に売ることによってのみ生計を維持することができる賃金労働者の惨状は射程に入らない(土地の希少化から日雇い労働者となる農民はいたが)。また市場経済の下では貨幣の貯蔵可能性を重視して、貨幣の蓄積については自然権を侵害しない範囲で容認した。

ロックにおける労働所有権の概念を産業化社会における賃金労働者に置き換えれば、それは搾取されない権利として確立されるべきものである。その権利が賃労働と資本の関係の中で蹂躙されているのが現状であると把握することもできる。すなわち、賃労働と資本の世界では、労働の成果は資本による搾取で簒奪され、同時に労働所有権の概念はブルジョワ的財産権の概念によって簒奪されるのである。

搾取されない権利と革命権

産業革命の進展により工場労働が広く行き渡るようになると、憲法が保障するところのブルジョワ的財産権から何も得るものがない新しい階級が台頭してくる。ここでの文脈に従えば、労働の尊厳を奪われ、幸福追求への道を閉ざされた階級の登場である。英国のチャーチスト運動や欧州大陸における2月革命などは、その本質において生命、自由、および労働の尊厳の保障を求める、新興階級による異議申し立てであった。

カール・マルクスはこの階級をプロレタリアートと名付けた。プロレタリア階級の労働の尊厳はどのように損なわれたのか。マルクスは人間労働の本質を、人間を含む有機体が生命を維持するために行う合成や分解である代謝活動になぞらえて「自然との物質代謝」と称した。労働がそのように人間存在の基盤をなすものであり、自然との有機的結合と循環によって人類の持続可能性を担保するものであるがゆえに、労働の尊厳がそこに存することとなる。

賃労働と資本の関係においては労働の産物の一部が搾取されることにより、ロックの言う労働所有権が侵害される。しかもこの労働は物質代謝に向けた主体的な構想と切り離された、半強制的な実践としての労働である。資本との使用従属関係においては、こうして二重の意味で労働の尊厳が棄損される。マルクスはこれを疎外された労働と呼んだ。疎外された労働とは文字通り尊厳なき労働であり、家事労働のような性別役割分担によって、欲求と必要を満たすための無償労働として取り残された領域によって補完されている。疎外された労働の下では自然との物質代謝にも亀裂が入り、結果として「自然の尊厳」もまた損なわれることとなる。マルクスは労働の生産物が労働者と対立し、労働者を支配するに至るこの過程を物象化と呼んだ。

プロレタリアートは失われた労働の尊厳の復権を目指し、労働力の供給独占を力の基盤とする労働組合を結成し、労働条件改善と労働基本権の確立を、使用者との労働協約および労働者保護と労働組合権確立を定める、政府による立法措置として要求した。こうした闘いは主として二つの領域で一定の成果を見た。ひとつは、疎外された労働への拘束を漸次縮減するための、一定の賃金上昇を伴った労働時間短縮(自由時間の拡大)として。いまひとつは、諸個人が必要とするベーシックなサービスに応じて算定され、政府財政により賄われる公的な給付=社会保障の充実としてである。

労働における尊厳回復の要求は、再びロックに立ち戻れば、彼の「プロパティ」保全の要求と重なり、社会契約を履行しない政府への抵抗権や履行を確実にする政府樹立に向けた革命権を承認した、政治に対する人間優位の思想と必然的に結びつく。革命権の回路を閉ざした政治体制は、民主主義を標榜する洗練された全体主義に過ぎないのである。

次項では洗練された全体主義としての新自由主義について考察し、それに対抗する労働運動の役割は第3項で検討する。

2.新自由主義と人への投資

新自由主義の酷薄な人間観

人への投資の前提となるのは人的資本の概念である。昨今は日経新聞をはじめさまざまなメディアで人的資本経営に関する報道がかまびすしく飛び交っており、ISOの国際認証ともなっているが、元をたどれば新自由主義経済学の総本山であったシカゴ学派のゲーリー・ベッカーやセオドア・シュルツが唱えた「人的資本」の概念だ。土地や設備のような固定資本と同様に、人にも投資して収益性の向上を図るのが人的資本経営である。単なる工数とも解されがちな人材に「人財」という文字を充てて、人もまた会社の経営資源であるとする思想にも相通じる。因みに人財の英訳はhuman capital で、人的資本の訳語と同じである。

ベッカーらの理論に基づく人への投資は大きく三つの要素からなる。すなわち、①学校・教育機関(政府)②リカレント教育訓練(企業)③自己研鑽(個人)であり、いずれも教育に重点が置かれている。しかしその内実は、人の経済行為はすべて貨幣所得および精神的所得としての消費に影響するとの観点から、成長戦略などの経済政策あるいは競争力強化などの経営戦略の従属変数に堕してしまっており、公助、共助を軽視した自助努力を推奨する言説となっている。そこでは社会教育が本来の任務とすべき、基本的人権の主体たる人格形成に対する視点が完全に等閑に付されることで、労働の尊厳を顧みない新自由主義の酷薄な人間観が典型的に示されている。

人的資本のイデオロギーは今日の日本においてどのように流通しているのか。2020年に経産省が発表した「人材版伊藤レポート」は持続的な企業価値の向上に向けた人的資本戦略をまとめたものだが、この報告は持続的成長への競争力とインセンティブを提唱した2014年の「伊藤レポート」の続編と位置付けられている。最近の有識者らによる論調をみても「企業の教育訓練投資は、投資収益に換算すると設備投資よりもはるかに高い」であるとか「従業員のパフォーマンスを向上させるのは人的資本の稼働率向上だ」といった主張が蔓延している。岸田首相が掲げる「新しい資本主義」における「人への投資」戦略も、こうした文脈で理解しておく必要がある。

ひとり企業家としてのホモ・エコノミクス

新自由主義的経済思想における人間観の根底にはホモ・エコノミクス(経済人)というモデルが存在する。その原型は、古典的自由主義経済の教科書ともいうべき、アダム・スミス『国富論』の経済人に求められる。スミスの経済人は、自らの利益の最大化という利己的な経済合理性に基づいて行動し、市場において「見えざる手」により予定調和的に調整される抽象化された人物像であり実在する人間ではない。一方でアダム・スミスは『道徳感情論』の中で、社会的存在として実在する生身の人間には、「公平なる観察者」という第三者の視点を通して自らを客観化し、相互のシンパシー(共感)によって社会道徳の一般法則を形成してゆくべきものという、共生の原理としての倫理観を唱えた。ここには間違いなく、働く者としての人間の尊厳に対する深い思慮がある。

ミシェル・フーコーによれば新自由主義とは、古典的自由主義体制の危機、すなわち独占の形成、貧困や格差の増大そして繰り返される恐慌などに対する反作用(リアクション)である。新自由主義経済では古典的自由主義が経済主体としたホモ・エコノミクスという人物像も根本的に更新される。フーコーは「(新自由主義における)経済人とは企業体であり、ひとり企業家なのです」と述べている。企業は生産設備に投資すれば固定資本となり、人に投資すれば人的資本となる。人的資本は労働者自身にとっては「能力資本」であり、「能力資本」は自然人としての労働者個人と分離できない。従って労働者は「能力資本」で所得を得る個人事業主のようなものとみなされる。新自由主義により更新されたホモ・エコノミクスとは、スミスの道徳哲学を捨象したまま、企業家の収益動機を埋め込まれた実在の人物像として血肉を与えられたものと言うことができよう。再びマルクスに立ち戻れば、ホモ・エコノミクスとは究極の物象化の産物である。

AIと洗練された全体主義

今日では、「強権発動による暴政」を不可視化した新手の全体主義というデジタル監視社会特有の脅威と並んで、AI(人工知能)の発達がシンギュラリティ(AIが人間を超える特異点)に達して、せっかく血肉を得たホモ・エコノミクスの「能力資本」を陳腐化させ、その職を奪うのではないかとの懸念も生じている。しかし、株式会社形態の私的営利企業が担う資本の自己増殖という制約に縛られているから、投入労働量を極限まで削減するというAIの効率化機能が脅威となるのであって、利潤動機の呪縛から解放され、人間が主体的な目的をもってAIを活用する限りにおいて、AIは労働の尊厳回復=労働者解放の手段ともなりうると想定すべきであろう。

現状では、ひとり企業家とみなされた労働者は、自ら関与しないところで目まぐるしく変化する制度や技術に合わせて、自らの「能力資本」の仕様をバージョンアップすることに追われるはめになる。これは本質において疎外された労働だが、そのことに気づいたとしても新自由主義の制度内には、ひとり企業家が異議を申し立てる術がない。その意味で新自由主義とは洗練された全体主義とみなしうるのである。

フィラデルフィア宣言が掲げる通り労働は商品ではない。そして尊厳ある労働者は投資の対象ではない。「人への投資」が働く者に幸福をもたらすと考えるのは、大きな、そして致命的な誤りと言わねばならない。資本主義市場経済の下で利潤動機に対するカウンター・パワーとして登場してきた労働組合運動こそが、酷薄な新自由主義の人間観を克服し、労働の尊厳回復に向けた大転換の担い手たりうる。

3.新自由主義を克服する労働運動

危機の下の新自由主義

新自由主義は2008年に発生したリーマンショックを契機に、その破綻が言われたものだが、各国政府や中央銀行が公費(税)を大量投入することで大手金融機関が救済され、外見上経済の再生がなされたかに見えるや否や、アベノミクスに代表されるような露骨なリフレ政策(量的緩和とゼロ金利)の形を取って、世界各国でゾンビのように復活してきた。近年は、地球温暖化による気候変動がもたらした大規模自然災害の頻発、新型コロナパンデミックが顕在化させた医療・公衆衛生の脆弱性やエッセンシャルワーカー、特に女性非正規労働者の苦境、ウクライナ戦争など国際紛争の勃発などがもたらしたサプライチェーンの分断や食料・資源エネルギー価格の高騰など、幾重にも折り重なった新たな危機に遭遇している。

このような深刻な危機に直面して、日本の支配層は「人への投資」という美名の下に、労働者を「能力資本」の運用によって投資リターンを求めるひとり企業家として扱い、働く者の魂そのものを取り込むことを企図した戦略(働きがい搾取)を打ち出している。企業の利潤追求(資本の自己増殖)はかつて成長のインセンティブであったが、成長が止まった中で、なお利潤追求に固執することは、労働の尊厳が確立された持続可能社会に対する阻害要因に転化している。

それは金融資本主義、デジタル監視資本主義の下で労働者を尊厳なき「ひとり企業家」として分断する人的資本主義に逢着する。高校生に金融リテラシー教育を実施するなどはその典型だろう。NISA然り、iDeCo然り。大学進学やリカレント教育など人生時間の選択も「能力資本」への投資効率として判断される。政府、経済界のかかる新自由主義的諸施策は、自助努力・自己責任による呪縛で労働者を個々に分断して自らの「能力資本」のほかに頼るもののない存在に誘導するものだ。畢竟労働力を言い値で売ることでしか生存を維持できない境遇に押し戻す政策なのである。

経営側が裁量労働制の拡大や成果主義の焼き直しに過ぎない日本的ジョブ型雇用に執着するのは、賃金と労働時間を切り離し、自発性のベールに包まれた疎外された労働を労働者支配の梃とするためである。また経団連の「経労委報告」が労働移動による生産性向上に固執するのも、労働者を意のままに移転できる人的資本(投資対象)として支配したいとする願望の現われにほかならない。実際に転職後に賃金が上がるのは3人に1人に過ぎないのである。

春闘賃金交渉の意義と収奪問題

資本主義市場経済の深刻な危機が進行する中における労働運動の役割は、労働の尊厳回復に向けた闘いを組織することだ。労働の尊厳回復に向けた長い道のりの第一歩は、春闘賃金交渉で労働力を言い値で買いたたかれることへの反撃である。企業別に行われる労使の賃金交渉とは端的に言って労働(企業活動)が生み出した付加価値(売上高-中間投入)から賃金の取り分を決める分配交渉である。

中小企業(企業数の99%以上、従業員数の約70%を占める)における現実の賃金交渉においては、中間投入財の価格上昇分が大企業への販売価格に転嫁できず、分配の原資となるべき労働が生み出した付加価値が十分に確保できないという、黒瀬直宏が指摘する「収奪問題」が存在している。社会全体の労働分配率が傾向的に低下する中にあって、中小企業内の労働分配率が天井に張り付いていることのうちに、不公正取引を媒介とする大企業の収奪構造が端的に現れている。中小企業の付加価値生産性が低いのは大企業による収奪の所産というべきである。これは中小企業労働者に対する大企業の間接的搾取と解することもできよう。中小企業において実のある賃金交渉を実現するためには、中間投入財の値上がり分を販売価格に転嫁できることが前提となる。

公正取引委員会は中小企業が労務費、原材料費、エネルギーコストの上昇分を適切に転嫁できるよう指導しているが、「労務費」については、企業の利益計算上はコストの一部であっても、その本質は労働が生み出した付加価値の労働側の取り分である。「労務費」を適正に評価させることは大企業の収奪構造との闘いであって、単なる価格転嫁の問題ではない。小売・飲食などサービス産業においては、大企業・親企業の資金力を背景とした過当競争を排して、店頭で適切な価格で販売することによって付加価値を確保することが収奪構造への対応となる。大企業は中小企業の付加価値を適正に評価した結果として上昇した原価については、販売価格に転嫁するのではなく、超過利潤の圧縮で吸収すべきである。

企業規模間における賃金格差是正に向けては、賃金決定は個別企業の事情に左右されない企業横断的な産業別交渉によるべきであり、さらには男女間、雇用形態間を含むあらゆる賃金格差を解消するには、同一価値労働同一賃金の原則に立って、国民経済全体を通した産業横断的な総資本と総労働間の決定によるべきことが究極の目標になる。

生活の必要度に応じた分配へ

労働側において分配すべき総原資が確定した後は、この原資を労働者間でいかに適切に分配するのかという問題が生じる。アマルティア・センは、適切な所得分配に関して、生活のための必要度とよく働いた者の功績という二つの基本的な考え方を示し、不平等の概念など分配上の判断をするための基礎として、必要度は功績よりも高い優先度をもつべきだと述べている(センは後にこの考え方をケイパビリティの概念として定式化した)。

マルクスの搾取論や労働価値説をも含めて、賃金あるいは所得の分配が付加価値の分配を巡るものである限り、どこまで行っても功績に基づいた分配の範疇を超えるものではない(因みに言えばロックの労働所有権も功績に基づくものである)。ただし、センはマルクス『ゴータ綱領批判』を参照しながら、マルクスは明確に必要度と功績を区別しており、究極的には必要度原理が優先されるべきことを承認していたと述べている(各人はその能力に応じて、各人はその必要に応じて!)。必要度に応じた分配と目的意識的に実践される人間労働の尊厳は分かちがたい関係にあるのだ。現代社会において、この必要度に応じた分配を担うのは、育児・教育、医療・介護、年金、住宅などのベーシック・サービスを提供する公的な給付(間接賃金)ということになる。要約すれば現物給付を中心とした社会保障の充実である。

新自由主義を克服する労働運動の戦略として、すべての人は企業であるという新自由主義のテーゼを逆転し、人はみな労働者であるとみなして、経営層が自己の「能力資本」を運用したリターンをも自己の労働の産物として捉え、付加価値はすべての労働者の共同的所有に帰させるべきという要求を掲げること。この分配のあり方を目標に定めるならば、企業経営の共同決定や一人一票の意思決定を原則とする労働者協同組合などの過渡的システムを媒介しつつ、最終的には賃労働と資本の関係を止揚することによる労働の尊厳回復が射程に入る。それはマルクスが述べた人間労働と自然との物質代謝を回復させ、疎外された労働を目的意識的に自己の欲求を満たす労働本来の姿に立ち戻させる。

労働の尊厳回復に向け、危機に立ち向かう労働運動

物価高騰が働く者の暮らしを脅かし、労働組合の賃上げ獲得が社会的注目を集める中で、連合は2023春闘スローガンに「働くことを軸とする安心社会の実現向けて、格差是正と分配構造の転換に取り組もう」を掲げたが、今まさにそのことの実践が問われている。後藤経済財政・再生相は通常国会冒頭の経済演説で、「人への投資の抜本強化と労働移動の円滑化による構造的賃上げの実現をはかる」と表明したが、これと同じ土俵で議論していては話にならない。

かつて日本の労働組合は社会的不条理を憎み、虐げられた者の尊厳回復のために闘ってきたし、今日でも日本以外の国の労働組合はそのように闘っている。労働運動再生への道は、歴史上の先人たちが築き、継承してきた運動の原点に立ち返りつつ、今日的情勢の下でそれを再定義する以外に王道というようなものはないのである。

労働組合は労働力の供給独占を背景とした強力な闘争を推進することで諸要求を実現してゆかねばならない。労働組合が目的意識的かつ自発的結社であることのうちに、労働の尊厳回復に向けた闘いの主体であることの実践的な根拠がある。労働者・労働組合によって確立されたヘゲモニーが、労働の尊厳回復に向けた次のステップへの道を切り拓くのである。

高木郁朗は最晩年の論考で「自民党の幹部や企業経営者と会食して、内意を通じ合っておくというやり方が、日本を国際的に二流国にしてしまったのだという、自覚をもつ労働組合幹部はけっして少なくないと思う」と書いているが、筆者も同様に連合や労働界における自覚ある幹部および有為の活動家諸氏による奮闘に期待をつなぎたい。自らの賃金(労働条件)を自らの力で獲得する闘いができない労働組合は、迫りくる危機に対しても歴史的使命を果たすことなどできない。

危機の時代は、すべての働く者を巻き込む。戦争や陸地の水没や原発事故など大惨事が起きてしまったあとに“悔恨共同体”で懺悔するのでは遅いのだ。原発事故が起きてからエネルギー政策を変更するようなことを二度と繰り返してはならない(福島原発惨事の教訓さえ風化しつつある)。言うべき者が言うべき事を言うべき時に言う、この当たり前のことが問われている。いま声を上げ、行動を起こさずして、いつ起こすというのか。

ナショナルセンターや支持政党の違いをも超えて、広範な“統一戦線”を構築することが、現在の労働運動に歴史が与えた使命である。労働運動は格調高く、人間の尊厳としての労働の尊厳を回復させるための闘いを推進しなくてはいけない。そのことだけが平和と人権と民主主義を守る。危機と閉塞の時代にあって、労働組合はすべての働く者に夢と希望をもたらす運動を展開しよう。

はやかわ・ゆきお

1954年兵庫県生まれ。成蹊大学法学部卒。日産自動車調査部、総評全国金属日産自動車支部(旧プリンス自工支部)書記長、JAM副書記長、連合総研主任研究員などを経て現在、労働運動アナリスト・中央労福協幹事・日本労働ペンクラブ幹事・Labor Now運営委員。著書『人間を幸福にしない資本主義 ポスト働き方改革』(旬報社 2019)。

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