コラム/沖縄発

小さな声に寄り添う

平良孝七展から考える

琉球新報記者 宮城 隆尋

「農民はいつの世も切り捨てられる」「住み着いた私たちの責任ですか」。

写真家の平良孝七(1939~94年)がかつて琉球新報のコラム「落ち穂」で紹介したのは、西表島の移住地に住む人の言葉だ。平良が小学5年の頃、故郷の大宜味村喜如嘉から琉球政府の掛け声に応じて多くの「開拓移民」が西表に移り住んだという。それから約20年。相次ぐ台風の襲来などを受けて困窮の末、多くが開墾した土地を手放して集落を離れていた。「机を並べた学友たち」との再会を楽しみに島を訪れた平良を待っていたのは、残酷な現実だった。

平良はこの連載コラムで、困窮する農家から糸満売り(イチマンウイ)、辻売り(ジュリウイ)された人々の声も丁寧に拾い、伝えている。弱い立場の人々に寄り添い、小さな声を拾う優しいまなざしがある。平良が当初、撮影の対象としていた「祖国復帰闘争」などの現場から、次第に視線を離島の人々の暮らしや沖縄戦体験の継承などへと転じていったことにも符合するように思う。

2022年は沖縄の施政権が日本に返還された「復帰」から50年となった。沖縄県立博物館・美術館は22年11月から翌23年1月にかけて、復帰前後の時代を克明に記録した平良孝七の企画展を開催した。展示作品には、1972年5月13日の琉球政府閉庁式で職員を前にあいさつする屋良朝苗行政主席の後ろ姿をとらえた写真など、印象的なものも多い。木村伊兵衛写真賞を受けた写真集『パイヌカジ』の作品も展示された。

しかしその第1章は、沖縄革新共闘会議が編集した「沖縄 百万県民の苦悩と抵抗」(1970年)から複写したパネルによる展示となった。この展示手法について、企画展の一環として12月中旬に開かれたギャラリートークで、登壇者の一人である島袋正敏元名護博物館長が苦言を呈した。「キャプションなど、写真集に平良がどれだけコミットしたかがよく見えない。初期の写真は重要な意味を持っている。きちんと新たにプリントすべきだった」と批判した。その上で島袋さんは「復帰50年を経ても、米国の占領下と変わらない状況がある。その中で孝七の写真を見て何を考えるかということが重要だ。そういう写真の見せ方をしてほしかった」と強調した。同館側は複写展示したことについて「写真集としての表現のあり方が一つの時代性を持つ」と説明した。

12月下旬になって、県内外の写真家らでつくる「平良孝七展の修正を求める会」が記者会見を開き、複写パネルの中に「売春婦」「混血児」などのキャプションとともに、本人の顔が分かる写真が含まれていることについて「人権上の問題がある」と同館に抗議した。同会はこれらの写真を含む複写展示を全て新たにネガから焼いたプリントに改めるよう求めた。第1章全体の変更を求めたのは、島袋さんの主張と同様に、複写された写真集は撮影者が「平良孝七ほか」と記載されていることや、編集が平良によるものではないことからキャプションに平良がどの程度関わっていたのかが不明であることなどが理由だ。

同館は「売春婦」「混血児」の言葉があるキャプションを短冊で覆う措置を講じたが、パネル自体は取り下げず、プリントへの展示替えも行わなかった。申し入れに対して同館側は「(複写展示は)復帰前夜の緊張感を来場者に感じてもらうための判断だ。展示替えはしないが、貴重な意見として厳粛に受け止める。持ち帰って検討すべきところはあると考えている」などと応えていた。

企画展終盤の1月に入ると、同会の記者会見に平良の妻・芳子さんも同席し、「被写体となった方の人権を侵害する形での展示となったことは残念」と述べてパネルの取り下げを求めた。

同館はその後、人権上の指摘を受けた2枚の複写パネルと、別の写真1枚(写真タイトルに「混血児」とあった)を会期中に展示会場から撤去した。パネルがあった場所には「それぞれの人々が生まれながらにして尊重されるべき権利が危ういものとなる恐れがあった」「議論を鑑み、写真を取り下げることとしました」などと説明文を貼り付けた。

ただ、取り下げられた3点の展示物のうち、同会から指摘を受けた複写パネルではない写真は、平良の写真集「カンカラ三線」に掲載された作品だった。写真のタイトルに「混血児」という言葉はあったが、平良自身の手による写真集に掲載された作品だ。タイトルも平良が被写体とのコミュニケーションに基づいてつけたものだとされている。全く文脈の違う写真がともに撤去されてしまったことについて、「修正を求める会」は、この作品を「複写パネルと同様に扱ったことは重大な誤り」と指摘し、同館だけでなく県にも説明を求めて文書で申し入れた。企画展は1月15日で終了したが、同会は引き続き県に文書で回答するよう求めている。

平良の意思を確認することができない中で、作品をどのように見せるべきか。半世紀前と現在では、人権を取り巻く状況も激変している。被写体の人権を守り、作家への敬意も保つにはどのように展示すべきだったのか。忘れてはならないのは、冒頭に引用した「落ち穂」の筆致にあらわれるように、平良の視線は常に弱い者の小さな声に寄り添っていたということではないだろうか。

また、これらの動向を逐一報じた一方で、本来行われるべきだった平良孝七の作品、平良という作家に向き合う通常の美術報道に取り組む余裕が持てなかったことは痛恨の極みだ。

みやぎ・たかひろ

1980年沖縄県生まれ。2004年から琉球新報記者。2018年に「連載『民族の炎』をはじめとする沖縄の自己決定権を巡る報道」で、新聞労連第12回疋田桂一郎賞。

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