論壇

みどりやと「サブカルチャー」(中)

シリーズ⸺ちんどん屋・みどりやの「仕事帖」から

フリーランスちんどん屋・ライター 大場 ひろみ

映画に出演

前回はTVとの関係を取り上げたが、映画にもよくちんどん屋は出没する。そのうち、ちんどん屋を主題にした、或いは何らかのキャラクターとしてちんどん屋が登場するフィクションではほとんど俳優が演じるが、ちんどん屋自身が出演する場合は『泥の河』(1981年)、『地下鉄に乗って』(2006年)などのように、舞台になった時代や場所を象徴するイメージカットとして使われることが多い(『泥の河』は1956年、『地下鉄に乗って』はタイムスリップした設定で1964年が舞台)。TVではよくNHKの朝ドラが戦前の繁華街のシーンなどでこういった使い方をする。古いところでは『おしん』(1983年)で乙和信子演じるおしんが田倉商店を開店するシーンで、瀧の家一二三らが店頭で宣伝していた。

みどりやの『仕事帖』には「松竹テレビ」の撮影の記録が1970、77、80年、映画かTVか区別がつかない「松竹大船撮影」及び「大船松竹撮影下高井戸ロケ」の記録が76年10月に、そして映画と確認出来る「松竹映画(大船)」が83年6月16日、「松竹撮影(寅さん)」が88年11月26日の記録にある。83年は『男はつらいよ 旅と女と寅次郎』(8月公開)、88年は『男はつらいよ 寅次郎サラダ記念日』(12月公開)の撮影で、83年は寅次郎(渥美清)の実家の団子屋前を通過するシーンだ。つまりイメージカット的な使われ方なのだが、映画の冒頭で関敬六扮するちんどん屋が夢を見ている寅さんを起こすシーンがあるので、登場には韻を踏むようなつながりがある。

88年の方は、マドンナ(三田佳子)の姪(三田寛子)が通う早稲田大学を寅次郎が訪ねるのだが、その後付近の雑踏をみどりや一行が通り過ぎ、テロップで「小春日の早稲田通りのちんどん屋見ルナ見ルナというように行く」が引用される(俵万智の短歌だが姪が読んだ設定になっている)。俵万智はこの歌について「学生時代、東京で見かけたちんどん屋さんは、街から浮いてしまって、とても辛そうに見えた。」と叙述(ALL REVIEWS『ちんどん屋です。』(思想の科学社))しているが、映画のみどりやは遠目から背中だけ映っているだけなのにそうは見えなかった。そもそも前後の脈絡と無関係なこの歌が引用されたのは、寅次郎が大学という空間から浮いているのを象徴しているのだろうか。興味のある方には確認していただきたいのだが、どちらの映画でも、ただ通り過ぎるだけなのに、みどりやは異様な存在感を発揮して、山田洋次監督の意図を体現した上に乗り越えてしまったと私には見えた。

ちなみにこれも私見だが、映画でのちんどん屋の一瞬の登場でも、これまで見た中で最も鮮やかな印象を残したのは『セーラー服と機関銃』(1981年)だ。機関銃をぶっ放して修羅場を後にした薬師丸ひろ子と死体を背負った渡瀬恒彦は、いきなり新宿の路地に出て、そこをちんどん屋(都家やっちゃん)が通り過ぎる。非日常と日常、死と生、フィクションと現実の狭間をちんどん屋が象徴的に区切っていくのだ。この「狭間」、境目が、大道の日常にありながら「異形」で「宣伝(情報を受け渡す)」行為をするちんどん屋の居場所であり、本質であることを見抜いて、作り手(監督・相米慎二、脚本・田中陽造)は採用し、重層的な場面作りをして映画に奥行きを与えた。他の映画では「日常の風景」としてちんどん屋を使うのがほとんどだが、実は「日常」でも「風景」でもない「ちんどん屋の存在」そのものに意味を持たせた稀有な例だ。

映画の宣伝―『犬神家の一族』

『セーラー服と機関銃』は角川映画だが、その角川映画第一弾『犬神家の一族』の宣伝にちんどん屋が関わっていた。

1976年10月16日、角川春樹事務所製作、東宝系配給の『犬神家の一族』(監督・市川崑、原作・横溝正史)が日比谷映画劇場で公開されたが、その日ちんどんみどりやは総勢30名で同映画を宣伝する仕事に参加している。30名だから3人1組として10組のちんどん屋が日比谷を練り歩く計算だ。

前日15日の朝日新聞夕刊には、明日公開の映画の広告がテレビ欄の下に連なっている。東宝系日比谷映画で先行公開の『犬神家の一族』はその中心に据えられているが、同じ東宝系で23日公開の三浦友和主演『星と嵐』と秋吉久美子・草刈正雄主演の『あにいもうと』のアイドル路線の方がその3倍のスペースを使って掲載されている。東宝は『犬神家』のヒットに対して危ぶんでいたことが窺える。

東映は『夜明けの旗-松本治一郎伝』で「部落解放の父」と呼ばれた松本治一郎の伝記映画を都内の3館で公開、しかしその隣に掲載のやはり東映系『やくざ残酷秘録-片腕切断』『猟奇・残虐の大陸』『蛇と女奴隷』の3本立ての方がどうもメインのよう。

松竹系は京マチ子主演の『妖婆』と松田優作主演の『ひとごろし』で、前者は芥川龍之介、後者は山本周五郎が原作なので一応文芸路線なのだろうが、タイトルがおどろおどろしい。『妖婆』のキャッチコピーは「日本映画オカルト決定版!」である。この各社ラインナップ、当時斜陽の映画界における、やけくそ加減の踏ん張りがさく裂して、全部見たくなる。この中での『犬神家』の公開である。

エロ・グロ・ナンセンス感は、前号で書いたちょうど同時代の、TVの“キワモノ”趣味とも通じ合う。角川春樹は、自伝『わが闘争』(ハルキ文庫)で、横溝正史のミステリーを一連の文庫として復活させた理由として、当時、「週刊少年マガジン」で『八つ墓村』(漫画・影丸譲也)が連載されていたことで、「横溝さんのおどろおどろしい世界が、若者に受け入れられると確信した」。また、電通が仕掛けた「ディスカバー・ジャパン」(日本再発見)というキャンペーンで「国内旅行ブームが起こり、日本の古くさいもの、伝統的なものを見直し、しかもそれがかえって新しいものに感じる(中略)横溝さんはそういう日本的な土俗的なものを背景にしているので、その当時のブームに乗ると直感した」と、時代の空気を的確に捉えたことを述べている。横溝の文庫シリーズの表紙や『犬神家』の映画ポスターにも杉本一文のイラストを使い、土俗的で妖しげな雰囲気を演出した。

朝日新聞の映画公開日16日の紙面には、角川文庫の『犬神家』の宣伝が大きく掲載されている。映画とさらにテーマ曲『愛のバラード・憎しみのテーマ』のレコード(ビクター)も合わせての広告であり、このような『犬神家』をはじめとする角川の文庫、映画や音楽などを今でいう「メディアミックス」して売り出す(しかも宣伝媒体としてTVCMを活用する)手法は、一つの文化の優位性を乗り越えて横断していく「サブカルチャー」がその後の文化現象を席巻していく呼び水となったが、その一端に「異装」で「音楽」を奏でながら「宣伝」するという、古きメディアミックスの潮流を伝えるちんどん屋も絡んでいた。

映画の宣伝は昭和30年代まで、ちんどん屋にとって主要な仕事の一つだった。映画の宣伝のため登場人物の扮装で練り歩いたりもするから、その扮装が普段の商店等の宣伝でも使われ、路上に映画スターが来たかのように子供の人気を集めたりもした。その一時代前のちんどん屋と映画の結びつきが、突然1976年の日比谷に復活したのだ、それも30人という大人数で。ちんどん屋が「ミックス」された「メディア(媒体)」であるというあり方と、否応なく抱える古くさい“キワモノ”というスティグマが、共通項を持つ『犬神家』の宣伝を担うという仕事を、必然的に引き寄せたのではなかろうか。

ハルキとセイジとセイジ

『チン・ドン・ジャン』

みどりやの「仕事帖」には84年10月4,5日の2日間、「有楽町西武」、派遣メンバー(4日進、いく、久子+長井、幸子、糸井 5日進、清、久子+長井、幸子、糸井)の記述がある。記録としてはたったこれだけなのだが、『現代の理論』34号の拙稿でも触れた通り、6日は複合商業施設「有楽町マリオン(正式名・有楽町センタービル)」のオープン日であり、その前宣伝だったことが分かる。

実は、この時の様子をまるごと活写したような小説がある。奈良裕明の『チン・ドン・ジャン』(1990年集英社)、1989年、第13回「すばる文学賞」を受賞している作品だ。勿論フィクションなので、すべてがその通りとはいわないが、<広報堂>が10月6日の<有楽町アリオン>オープンの宣伝を請け負い、4,5日の2日間にわたってキャンペーンを繰り広げる。「最新の生活情報型デパートと、レトロ趣味あふれるチンドン屋とのミス・マッチ感覚」を“コンセプト”として、「全国各地から二十組のチンドン屋を呼び集め、各々学生の仮装グループと対にして、銀座の街路という街路を練り歩く」という内容は、「博報堂」による「有楽町マリオン」のオープニングキャンペーンであり、みどりやも参加した仕事と見て間違いない。

「大江戸チンドン・パレード」と称して、プロとアルバイト合わせて総勢120名、40チームが、「祝 有楽町アリオン 10月6日 OPEN」のショイビラを背負ってチラシを配りつつ、銀座を隈なく練り歩くのだが、主人公の引率アルバイトの青年が驚くのは、集まった面々の扮装、「緋色の髪を逆立てた鏡獅子、段だら羽織の新撰組、ウルトラマン、町火消しの纏持ち」(…)、特に「南洋のクロちゃん」に「ちゃぐちゃぐ馬コ」。「ちゃぐちゃぐ馬コ」は馬の張りぼてと人間が一体化した、ちんどん屋が「乗り物」と呼ぶところの仕掛けである(「現代の理論」第23号拙稿『大会ちんどん』の項参照のこと)。「南洋のクロちゃん」は、おそらく“モモちゃん”と呼ばれていた金町のちんどん屋がモデルで、背が小さく頭の毛を真ん中だけ残して剃って結い、「顔面・総身はもとより、足の甲までチョコレイト色」、「素足に腰蓑」で、「侵略者たちが仕立て上げた『南洋のクロちゃん』以外の何者でもなかった」。現在のコンプライアンスに照らすと完全にアウトであるが、多分その通りであっただろうと思われるのは、これに近い扮装のモモちゃんを私も仕事で目撃しているからである。

さらに彼に生じる「違和感の原因」は「(みんな、年寄りばっかりだ!)」ということだった。つまり主人公の青年は、前号で私が括ったちんどん屋に対するメディアの視線(老人でキワモノ)と同様な感想を抱いていたということだ。無理もない、一面はその通りだから。

彼はその後、「クロちゃん」の、肌に塗った塗料を気にして土間で飯を食うなどの繊細さや、大阪から来た「白波」の「『こんな凄いの見たことないわ』っちゅう声が、聞きたいんや!」という気概など、彼らの意外な人間味とプロ意識(これもメディアが見たがる“人情”だが)に触れて、決して境界線は飛び越えないが、共感を抱くに到る。いや、共感までいかなくとも、彼の上司が発する言葉、「馬鹿ばかしいことを、馬鹿ばかしいと判っていて仕事をするとな、(中略)ものの見方が違ってくるんだ」という新たな視点を得る。この小説は基本的に恋愛がテーマなので、実はちんどん屋の生態は背景に過ぎないが、そのあり様が彼の恋へ飛び込む背中を押す力になるという、実にさわやかな物語になっている。ちんどん屋なのに。

西武有楽町店

とはいえ、素人を含め、40組のちんどん屋が銀座を練り歩くのは、『犬神家の一族』の10組をはるかに超える規模で驚く。どんな意図があったのだろう。

そこで小説ではあるが、この宣伝の“コンセプト”として「最新の生活情報型デパートと、レトロ趣味あふれるチンドン屋とのミス・マッチ感覚」があったということに着目してみると、まず、有楽町マリオン全体でなく「最新の生活情報型デパート」の意向が反映されたという点が気になる。「新しい百貨店は、モノからコトの時代の情報発信基地にならないといけないということで、『生活情報館』というコンセプトができあがりました」という、当時「開業に向けて、西武有楽町店の全体計画を練り上げる営業企画の部署にいた」橋本行秀の証言(『セゾン 堤清二が見た未来』鈴木哲也 日経BPマーケティング刊)からすると、明らかに2つ同時オープンのデパートの内、阪急ではなく、西武の意向であったということがわかる。宣伝に際し、どのような力バランスが働いたかは知る由もないが、「広報堂=博報堂」は西武の意向を汲んでいたと見える。或いは小説の記述とは違って、みどりやが「仕事帖」に記録した通り、宣伝主体が「有楽町マリオン」全体でなく、「西武有楽町店」単体だった可能性もある。

西武有楽町店開店において、実際に使われたポスターには、「ほどよい狭さの、大世界」(糸井重里)というコピーが躍り、なんと、子供向けながらシュールな作風で知られた漫画家・杉浦茂の奇天烈なキャラクター達(百鬼夜行の妖怪のような)が、「有楽町西武を見る会」の幟を掲げる少女と行列しているではないか!(『セゾンの活動 年表・資料集』セゾングループ史編纂委員会編 リブロポート刊)このポスターの世界観を受けてちんどん屋の大行進が企画されたといってもう間違いはない。

異形の大行列を出現させてしまった西武の戦略とはどのようなものだったのだろうか。

西武流通グループ(85年より西武セゾングループ)が、堤清二という一人の詩人・作家兼経営者というカリスマによって築かれたことはよく知られている。鉄道や百貨店などを抱える大資本家であり、政治家でもあった父・康次郎から西武池袋店への入店を命じられた時点からスタートした、清二の流通実業家としての歩みは、周囲から「ラーメンデパート」(ラーメンを食べるついでに寄る百貨店)と揶揄されていた池袋店に、フランスのブランド(エルメスやイヴ・サンローランなど)を導入して高級化を図った側面と、現代美術や民族学的なコレクションの展示をデパートで始めたという文化戦略的側面がある。

60年代前半には早くも、アフリカ芸術、パウル・クレー、ジャン・コクトー、アイヌ文化、ドイツ表現派、岡本太郎などの展覧会を池袋店の催事場で実施しているのには驚くし、68年には「マンガ100年展」を開催、既に「サブカルチャー」へも目が届いている。75年には池袋店増床時に「西武美術館(のちセゾン美術館)」をオープン、「西武美術館は、1970年代から1980年代にかけて、西武百貨店の『自己否定型イノベーション』、すなわち『脱小売業』戦略の象徴的な存在だった。」(鈴木哲也前掲書)

『脱小売業』戦略とは、「生活の要求の多様性、意義のある生活を送りたいという願望、生活の知恵を得たいという願い、そういう人びとの要求に応えるように売場が作られ、商品が提供されているということ」(75年の広報掲載の堤の言葉を鈴木が引用)、すなわち82年の有名なキャッチコピー、「おいしい生活。」に象徴されるような、高度成長期後の成熟した消費者に対し、単なる商品=モノ、でなく、付加価値のついたコト的商品、或いは情報やサービスを提供することを指した。今では当たり前のように聞こえるかも知れないが、このような方針で様々な施設や売り場を展開していったのは西武が先進である。書店リブロ、アート売り場アール・ヴィヴァン、音楽・映像専門店の六本木WAVE、映画館シネ・ヴィヴァン六本木、演劇の西武劇場(後のパルコ劇場)、ライヴ会場のスタジオ200等々、あらゆる文化を横断して、堤が用意したこれらのハコや売り場は、高級ブランド路線の富裕層でなく、大衆層、なかでも若者を取り込み、彼らを「知」の消費者に変革した。「セゾングループが演出したのは、『大衆にも文化の香りがする豊かな生活が手に入る』というイメージだった。」(鈴木)

そしてその先に堤が目指したのは、富裕層の牙城のような銀座に乗り込み、「最新の生活情報型デパート」を出現させること、それが西武有楽町店である。そもそも店名が「銀座」でなく「有楽町」なのは、地元商業者の強い抵抗を受けてのことだ。池袋の「ラーメンデパート」なんかに「銀座」を名乗らせるなという、富裕層向けの高級商業地の意地。小説『チン・ドン・ジャン』にもあるが、銀座のメイン通りである晴海通り、中央通り沿いは「当局のお達しにより」一切の宣伝行為が禁止されている。そこを避けて平行した通りに、まるでゲリラ隊の如くちんどん屋一行が神出鬼没するのであれば、すまし込んだ銀座にとってはまるで殴り込みであろう。堤清二がどこまで掌握していたかは知る由もないが、おかげでちんどん屋が大衆と若者の願望の権化となって暴れ回るという、私にとっては快哉を叫びたくなるような光景が現実化したのだ、白昼の銀座で。

ハルキとセイジ

『犬神家の一族』を製作した角川春樹と「西武有楽町店」を開店した堤清二。二人とも勿論宣伝にちんどん屋を使ったことなんか一切語っても書いてもいない。知りもしなかったかも知れないが、この二人の巻き起こした現象の果てにそれぞれちんどん屋が引っかかっていることについては、必然性を感じる。実際の事業において、最も二人に共通するのは「メディアミックス」と「広告」の重視であろう。ハルキは文庫を売るために映画、音楽を連動させ、全国キャンペーンやTVCMを活用して、横溝正史や森村誠一などのブームを巻き起こした。セイジは60年代初めにアメリカで見聞して、既に限界の見えたデパートを先のある事業にするために、外国ブランドや文化事業、セゾンカード(クレジット)などを導入し、パルコ(個性的なテナント集合施設)や雑誌『ビックリハウス』も生み出した。特にパルコから始まった大胆かつ新鮮なTVCMやポスターは、大衆の度肝を抜かせ、80年代のセゾン文化快進撃を花開かせた。

勿論二人の姿勢には違うところもある。ハルキはアメリカのペーパーバックのように、文庫本は読み捨てるものとしてTVCMで本をぶん投げ、本=知の特権性も投げ捨ててみせた。一方、セイジは現代美術に代表されるような、一見高尚な「ハイ・カルチャー」的なものを紹介するなど、文化の面においても高級ブランドを売るようにエリート志向に見える。しかし本や映画、音楽、演劇とクロスし、普段の「生活の楽しみ」を充実させる雑貨や食品などの質を引き上げる(「無印良品」や有楽町店の「酒蔵」、池袋ハビタ館などの)ことによって、大衆、特に若者に「生活・文化の知」をアピールして見せた。つまり共に向いているのは消費者としての「大衆」なのである。

しかしさっきから「大衆」「大衆」って、それ何よ、そもそも。って疑問も湧き上がっては来ないか?ここでもう一人のセイジに登場してもらおう。講談社(大日本雄弁会講談社)の創業者で雑誌王、宣伝狂とも呼ばれた野間清治は、「メディアミックス」と「広告」を駆使する先駆であり、何と草創期のちんどん屋も使っていた。 (次号に続く)

おおば・ひろみ

1964年東京生まれ。サブカル系アンティークショップ、レンタルレコード店共同経営や、フリーターの傍らロックバンドのボーカルも経験、92年2代目瀧廼家五朗八に入門。東京の数々の老舗ちんどん屋に派遣されて修行。96年独立。著書『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ、2009)

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