特集 ● 社会の底が抜けるのか

1970年代障碍者解放運動の私的総括(上)

“わたしと障碍者と差別”

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

1.学園闘争から諸課題へ

2.京大難聴問題研究会の結成

3.全国障害者解放運動連絡会議第3回全国大会(以上本号)

4.関西テレビ「橋のない川の世界」(以下次号)

5.「誇り」とは何か 

6.障碍者であることは誇り得るのか

本稿は、2021年2月13日、茨城県つくば市所在の「つくば自立生活センター ほにゃら」が主催した職員研修「自立支援を自分ごとにするための連続レキシ講座」の第2回として実施されたものに、大幅に加筆修正したものである。「ほにゃら」は千本が筑波大学で学生諸君とともに30年近く継続した「筑波大学部落差別問題研究自主ゼミナール」の初期の参加者が、知人たちとともに設立し、現在、NPO法人として手広く、堅実に障碍者の自立生活の後ろ盾として活動している。若いスタッフが多く、彼らは障碍者とかかわることを賃金労働と捉えているが、ある学生スタッフが、1970年代に「健全者手足論」が唱えられたことに関心を持った。

「ほにゃら」設立スタッフは50歳代にさしかかり、かつての障碍者解放運動と現在の賃労働としての介助の双方を知っているが、若者たちにとって、障碍者解放運動は想像力の外にある。そのため、「ほにゃら」開設メンバーが、わたしに1970年代の経験を語れと企画を持ち込んだのである。そのため、1970年代の京都の運動の総括どころか、スケッチにさえなっていないが、障碍者の自立生活をめぐる状況は大きく変化しており、当時の一活動家が何を考えていたのかが、若者たちの参考になればと引き受けた次第である。なお当日は6日、13日の2回とも、zoomで数十名が参加した。(筆者)

自分と障碍者との関係を自分ごととして考えるということが、今回設定されたテーマです。そこで、タイトルを「わたしと障碍者と差別」としました。「わたし」、「障碍者」、「差別」という三つの言葉について、ひとことずつふれておきます。

「自分ごと」ということは、理屈だけではなくて 自分自身のことをさらけ出 すということになりますから、そこのところは、 ご容赦いただきたいと思います。

「障碍者」の「碍」、この字を書いているのは、 平仮名で書くよりも意味が通るのかなと思ったり、ただ、「障碍」が「健全者」に近づくことを妨害しているということになって、この「碍」を書くと発達保障理論になってしまうのかなと思ったり、迷ってはおります。

差別ということばは、さまざまな意味で使われます。どの使い方が正しいということはないのですが、多様であることによって、開き直りや茶化すことに使われたりもします。 差別とは何かということの捉え方が、人によっておおきく違うということでもあります。たとえば、老人差別。実際に、老人差別はあるのですが、議論をする場合や差別の原因を探究する場合には、前提としてことばの意味を限定しなくてはなりません。差別を「本人の責に帰さない属性を理由に特定の人物や集団が生涯にわたって不利益を受け続けること」とすれば、不幸なことがなければ、誰でも老人になるからここで限定する差別には当てはまらない。

いじめはその責任が全面的にいじめる側にあるという面は差別と共通していますが、転居や、いじめる側の恣意によって、突然いじめの対象でなくなる場合があるので、差別とは異なっています。いじめの「きっかけ」をいじめの原因と混同して、「いじめの原因はいじめられる側にもある」という人もいますが、どのようなきっかけであったとしても、それを理由にいじめることは許されません。「いじめのきっかけ」と「差別の原因」の違いについては、深い考察が必要でしょう。

抑圧や収奪も差別とは関連しますが、別の概念です。資本家による労働者の搾取も差別とはいいません。あえていえば、弱肉強食は差別ではありません。個人や集団が持っている資質を、別の不当な理由で評価されないことが差別です。もちろん、弱肉強食が良いといっているわけではありません。だから反差別と反抑圧のふたつの闘いが必要なのです。

そのように差別の意味を限定すると、差別に含まれるものは、民族差別、部落差別(わたしは「部落間差別」と言っています)、女性やセクシュアルマイノリティに対する性差別、そして障碍者差別が主なものです。 人種差別ということばがありますが、学問的には、今、人種という概念が存在しませんから、とりあえず民族差別にふくめておきます。

他にもたとえば、HIVウイルスキャリアに対する差別のように新しく生まれる差別もありますが、科学の発展によって解消する場合もあります。

もうひとつ、区別と差別の問題です。江戸時代には、区別と差別のことばの意味の違いは、ほとんどありませんでした。区別と差別ということばが別の意味を持ってきたのは明治維新以降です。江戸時代の身分制と明治維新以降の差別は同じなのか、違うものなのかという議論も続いてきました。江戸時代は、平人(武士や公家でも、「賤民」でもない人びと)と被差別民は異なった身分として差別的に共存してきましたが、明治維新の、いわゆる「解放令」、賤民廃止令によって「身分、職業とも同一」だとされたことによって、一般の人々が「自分たちをあいつらと一緒にするな」と差別するようになったのが 明治以降の差別です。

現在でも区別することが差別を生むんだという 趣旨の発言をする若い人たちがたくさんいるんですけれども、区別というのは絶対に必要なことです。まず、赤ん坊が自分と母親とは別個の存在だという認識をする、これは最初の区別ですよね。区別というものがないと、一人ひとりの主体性というのは確立できない。そういう意味で区別と差別は全く違う。

1.学園闘争から諸課題へ

わたしは障碍者運動と部落解放運動の両方から、たくさん考える材料をいただきました。 わたしは、高校生の頃から、ベトナム反戦運動には関わっていたわけですが、京都大学に入学した1969年には、そこにはもうすでにバリケードがありました。 学園闘争に没入し、そし当時の、3つの大きな課題と言われていた、狭山、三里塚、沖縄闘争にも参加しました。三里塚(成田空港建設反対闘争)にも何度も行きましたが、わたしが一番考えさせられたのは、狭山闘争と沖縄闘争でした。全国的には、学園闘争と70年安保闘争の敗北後、学生たちは、地域闘争、反差別闘争へと運動を移していきます。

京大はガラパゴスといわれたぐらい、70年代、80年代になっても学園闘争が続きますし、わたしも学内課題にこだわりますが、仲間たちは外にも出ていきました。たとえば工学部闘争委員会の人たちが、伊方原発へ行って支援を始めたというのが、 外部の人間が反原発運動の地域闘争に参加していくスタイルの最初でした。 それが全国に広がっていくわけです。農学部闘争委員会の人たちが中心になって『地域闘争』という雑誌を出して、 現在でも、タイトルを変えて続いています。

もうひとつの分野が反差別闘争です。ウーマンリブといわれるフェミニズムの前の段階の運動が起こったり、狭山闘争も1969年から非常に大衆的になっていきました。わたしは69年から入管闘争に参加していましたが、1970年の7月7日、盧溝橋事件が起こった日の東京の集会で、華僑青年闘争委員会(華青闘)が、新左翼も入管闘争やってるというけれども、本当に差別の問題をわかっているのかという告発をしました。これが非常に大きな影響を新左翼に与えたわけです。そのなかから、被差別者以外は全部差別者なんだという発想が広がってきます。これは、後で出てくる「健全者」は障碍者にとって敵である いうこととも、共通してくる問題でもあります。

同じ1970年、日本脳性マヒ者協会青い芝の会が、 5項目の行動綱領を発表しました。

1.われらは、自らが脳性まひ者であることを自覚する。
われらは、現代社会にあって「本来あってはならない存在」とされつつある自らの位置を確認し、そこに一切の運動の原点を置かなければならないと信じ、且つ行動する。

1.われらは強烈な自己主張を行う。
われらが脳性まひ者であることを自覚した時、そこに起るのは自らを守ろうとする意志である。 われらは強烈な自己主張こそ、それを成しうる唯一の路であると信じ、且つ行動する。

1.われらは愛と正義を否定する。
われらは愛と正義のもつエゴイズムを鋭く告発し、それを否定することによって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ真の共生であると信じ、且つ行動する。

1.われらは健全者文明を否定する。
われらは健全者の作り出してきた現代文明が、われらの脳性まひ者を弾きだすことによってのみ成り立ってきたことを認識し、運動及び日常生活の中からわれら独自の文化を創り出すことが現代文明への告発に通じることを信じ、且つ行動する。

1.われらは問題解決の路を選ばない。
われらは安易に問題解決を図ろうとすることが、いかに危険な妥協への出発であるか、身をもって知ってきた。 われらは次々と問題提起を行うことのみが、われらの行いうる運動であると信じ、且つ行動する。

われらは以上五項目の行動綱領に基き、脳性まひ者の自立と解放を掲げつつ、すべての差別と闘う。

ちょっと時間的なずれはあるんですけれども、合わせるとこの5項目です。愛と正義を否定するとか、問題解決の道を選ばないというような、いわゆる良識者から見ると、 なんだこれはと思われるような内容です。

1960年代に日本母親大会と、日教組教研全国集会障害児教育分科会を母体として、 全国障害者問題研究会が設立されていました。障碍児を養護学校などに分離して、専門家である教師や医者が障碍を取り除くことによって障碍者を健全者に近づけるという、発達保障理論を唱えました。専門家による障碍者のための運動に対し、自分たち障碍者こそが解放運動の主体なんだという宣言をしたということです。

わたしがこれを知ったのは1975年に 障碍者運動に参加するようになってからです。 健全者文明を否定するとか、自己主張を行なうというのは分かりやすいんですが、愛と正義を否定するとか問題解決の道を選ばないということは 自分ではわかったとしても、それを他の人に説明しきれるのかと言われると、自信がないというような状態でした。

それとほぼ同じ時期になるのですが、部落解放同盟の3つの命題、というのがあります。1960年代から1970年頃に確立しました。第1命題が部落差別の本質について、第2命題が部落差別の社会的存在意義、第3命題が社会意識としての部落民に対する差別観念です。第1命題と第2命題は、表現としても理論的にも不十分であると指摘されているのですが、 わたしは第3命題が非常に重要だと思っています。

社会意識ということばはちょっと難しいのですけれども、この中のことばを使って説明してしまうことになるんですが、本人が意識するとしないにかかわらず、空気を吸うように社会から持たされてしまっているものです。差別観念というのも難しい。よく差別意識ということばが使われますが、差別意識というのは、自分で意識しているものです。あいつらは 自分より劣った存在だという風に、意識してしまっているのが差別意識です。しかし、 自分は差別してない、自分は差別を許さない人間だと思っている人も、実は差別観念を持たされてしまっている。

これを若い人たちに気づいてもらうのは割と簡単なんです。 結婚差別のドラマを見たりすると、自分は部落民でなくてよかった と思ってしまう。その瞬間に、わたしも差別しているんだと気づいてくれる。差別意識を含め、自分が意識していないことも含めて差別観念というわけです。

第3命題の最初です。「部落民に対する社会意識としての差別観念は、その差別の本質に照応して、日常生活の中で伝統の力と教育によって、自己が意識するとしないにかかわらず、客観的には空気をすうように一般大衆の意識の中に入り込んでいる。 」空気を吸うように、意識するとしないに関わらずというところ、それから、伝統の力と教育によってというようなところが大事なわけです。

差別の問題について話をするときに、一人ひとりの意識の持ち方、気持ちの持ち方が大事なんだという発言をする人がよくいます。「一人ひとり全員」という意味なら分かるのですがひとりで自分の意識を変えようと思っても、そう簡単に変わりません。社会からそういう意識を強制されてしまっているので、そういう差別構造を持つ社会を変えないと、自分ひとりでは差別観念を克服することはできないのです。

部落解放運動が、狭山闘争を軸にして広がってきますと、部落解放同盟の活動家の皆さんがいろんなところで講演をする ということがありました。その中で必ずというほど使われることばが、 自分たちは五体満足なのになんで差別されるんだという発言でした。これが、当然障碍者運動の側から批判を受けるわけです。 1975年ごろ、京大へ解放同盟の方が来て講演をされた時に、全くそれと同じ発言がありました。 その時はわたしから問題提起をさせてもらいましたけれども、障碍者運動からの批判によって、見事にぴたりと部落解放運動の中でのそのセリフ、 五体満足なのになぜ差別されないといけないのかという発言は止まりました。

部落解放運動のなかで、そういえば被差別部落には障碍者が多いぞ。劣悪な生活環境だから障碍者がふえるのかということに気がついて部落解放運動が障碍者運動に合流してくるのが1970年代後半の動きでした。その中で部落解放同盟は、被差別統一戦線、差別されたものが 自らの解放を勝ち取ろうとする運動の統一戦線というようなことを提唱するんですけれども、それはもう非常に短期間で終わります。 そして反差別共同闘争という展開のしかたに変わりました。この違いは非常に重要だとわたしは思います。被差別統一戦線というと、差別される人たちだけの統一戦線です。反差別共同闘争というのは、差別と戦う 人たちみんなの共同闘争で、差別する側に置かれている人たちも参加できるわけです。ここのところが今回の 健全者手足論の問題とも関わってくることでもあります。

2.京大難聴問題研究会の結成

そういうなか、1975年ごろ、難聴問題研究会というのを作ることになりました。わたしが大学院生として所属していた文学部の現代史学研究室に、難聴の学生が3回生として進学してきたのです。そこで彼の授業参加の保障を勝ち取ろうということになりました。こういう、日常生活における 要求闘争は、わたしたちはあんまりしたことがなく、教育研究の内容についての問いかけや、政治的な課題ばかりやってたものですから、 お金で解決することならというのが文学部当局の本音だったのかもしれません。ひとつの教室の天井に、アンテナを張りめぐらせて、マイクや アンプなどいろんな機器を購入し、彼が参加する授業は、できるだけその部屋に固定するとか、いろんな配慮を勝ち取りました。

そのうちに、哲学の大学院生にも難聴者がいるという 情報が入ってき ました。現代史の学生は、伝音性難聴で音を大きくすれば理解できる。ところが、哲学の院生は、感音性難聴で、音を大きくしても聞き取れない。だから彼女は口話法、口と顔の表情、その人物全体の雰囲気で、相手の話を理解するという方法でやっていました。ところが、それはものすごく集中力が必要で、飲み会へ行くともうダメなんです。集中力が途切れてしまってコミュニケーションできない。じゃあ 手話をやってみようよということで、手話サークルもやりました。飲み会でも話せるようになったのです。

そういうなかでわたしが感じたのは、障碍者を知ることによって世界が2倍に広がったなということです。障碍者という存在を自分は今まで知らなかった、障碍者を数名知っただけで、世界が2倍に拡大したと感じました。

もうひとつは、 他者の発言が終わるまで発言しないということです。 難聴者の場合、集団で議論している時に、複数の人間が発言すると、まったく理解できません。ですから、ひとりの発言が終わるまでは、発言しないということを徹底しました。 わたしは、これは、民主主義の1番の基本だと思います。テレビで有名な討論番組では、 大きな声で他人の発言を封じると、その人のペースで議論が進んでいきます。いわば、最も非民主的な番組だと思いますが、ただこれが、わたしたち仲間の間でも、徹底してない。長話もいけないのですが。

3.全国障害者解放運動連絡会議第3回全国大会

1976年に結成された全国障害者解放運動連絡会議(全障連)の第3回全国大会が京都で開かれることになりました。京大を会場にしたのでわたしがその現地実行委員会の 委員長と言いますか、責任者の役回りを承わることになったので、多くの障碍者との付き合いが広がりました。京都視覚障害者の教育と労働を考える会との交流が始まって、点字を覚えて、 かなり長い文章を点訳したりもしました。

全国精神病者集団も全障連大会には参加しました。障碍者同士の差別も課題になります。身体障碍者同士でも軽度の障碍者と重度の障碍者の間で差別があったり、それ以上に深刻だったのは、精神障碍者と身体障碍者の間での相互差別です。当時非常に重要なテーマでした。

わたしにも親しい精神病者集団の友人がいて、よく一緒に遊んだりもしてたんですが、大学の中でわたしが自転車で走っている時に、彼が2人乗りさせろといってきて、何言ってんだ、お前、体は元気じゃねえかっていうような発言をした後でわたしはドキッとしましたね。あ、こういう風に、まったく意識せずに差別的なことを言ってしまうんだと、自分の中の差別性、差別観念の問題として 意識しました。

わたしはこの全障連大会ではまったく裏方だったので、青い芝が全障連から脱退するということも、後で聞いて知ることになります。青い芝のメンバーを介助していた健全者組織の「ゴリラ」を青い芝が解散させたということもあとで聞きました。京都にもゴリラのメンバーはいました。

それと同時に、京都青い芝の、在宅、あるいは施設にいる会員たちが、 自宅や施設から出て自立生活を始めたいということが相次ぎました。 ゴリラの人びとがほとんど動けない状態のなかで、京大の難聴問題研究会や、それに繋がる人々に介護要請が来ます。そこでわたしも、複数の青い芝の会員の自立生活を実現するための活動に参加しました。

青い芝の全障連脱退やゴリラ解散は、障碍者自身の主体性を回復するためだったと理解しています。介助のために参加している「健全者」が運動の運営に参加すれば運動は効率的に進みますが、それでは障碍者の運動ではない。障碍者のペースで運動を展開して、それで毎年の全国大会が2年に1回しか開けなくても、それでいいではないかということです。そのためには、介助の「健全者」は、障碍者の手足となって、障碍者に言われたことだけをやっていればよいということです。これが「健全者」手足論です。障碍者の主体性を回復するために、健全者の主体性は一切認めません。

わたしは「健全者」手足論には与しませんでしたが、現在の障碍者介助の原則である、介助は障碍者の意思に基づいて行なうという基本姿勢は、ここに出発したといえます。

わたしは介助でかかわる青い芝をはじめとした障碍者に、「喧嘩しようよ」といいました。お互いに理解し合わないと、障碍者と「健全者」の相互理解は進まない、わたしは差別的なことをいってしまうかもしれない、やってしまうかもしれない。それを指摘してほしい。 わたしのなかの差別性というものが表に出ないと指摘してもらえないわけですから、わたしは思ったことをいいます、 という話をしました。 千本は障碍者といつも喧嘩していたのかと受け取られたら困るのですが、実際に喧嘩した記憶はありません。要するに心構えの問題です。

わたしが、喧嘩しようよといえたのは、わたしが付き合っていた青い芝の人たちとの信頼関係と、もうひとつは、彼らが優しく、非常に強い人たちだったからでしょう。どの障碍者にも喧嘩しようといったわけではありません。わたしには、障碍者のために運動に参加しているのではなく、障碍者に対する差別構造に貫かれた社会から、差別観念にとらわれたみずからを解放して差別のない社会をめざすという意識が強かったのです(このあと、日常的な介助の様子や、自立生活実現のための親や福祉事務所との交渉について、紙数の関係で省略する)。 (以下次号)

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。

特集/社会の底が抜けるのか

第37号 記事一覧

ページの
トップへ