コラム/想うがままに

戦後日本の「結婚制度」とは何だったのか

宗像充『結婚がヤバい』を読んで

本誌編集委員 池田 祥子

私が小学生の頃(1940年代終わりから1950年代半ば)、童謡の「雨降りお月さん」(蕗谷虹児作詞、杉山長谷夫作曲)や「花嫁人形」(野口雨情作詞、中山晋平作曲)の歌を歌いながら、「なぜ花嫁さんは悲しそうなのだろう?」と不思議に思っていた。とりわけ「花嫁人形」は、「金襴緞子の帯締めながら、花嫁御寮はなぜ泣くのだろ…」と歌詞も曲も湿っぽかった。

それから、いつ、どこで、「戦後の明るい結婚!」を見知ったのか定かではないが、いつしか私の中でも、戦前の暗い結婚 → 戦後の明るい結婚……という図式が定着していった。

戦前の結婚:「家」のための結婚、したがって、女は「家」のために嫁ぐ=「嫁」。子を産めない女は「石女(うまずめ)」、したがって、「石女」は離縁条件のトップ(「子無きは去る」)。嫁の「姦通=不倫」は重罪。男の性欲は「男の甲斐性=子沢山」に繋がり、「家の繫盛」となる。「妾」OK。「妾」の子(庶子)も場合によっては「家」の「跡取り」となりうる。男の娼婦遊びには寛大=財力・精力旺盛。「家長」の権限は強大、時に妻子に対する「勘当」もありうる。

戦後の結婚:一夫一婦婚、ただし「夫婦・家族は同姓」

戦後の結婚を「明るさ」に彩っていたものは、一つには「男女平等」の思想だろうか。ただし、この「男女平等」については、戦後一貫して争論的であり、今もなお「男女平等とは?」をめぐっての論争は続いている。

同じく、その「明るさ」を支えたもう一つの要因は、戦前的「家制度」の廃止により、次第に増えて行った「夫婦・親子」だけの「核家族」という形態も大きかっただろう。

そこでは、男たちは、たとえ出自が三男、四男、五男であっても、結婚すれば必ず「世帯主」となり、たとえ単位は小さくとも「城主」の気分を味わうことができる。一方女たちは、「主婦」として、「家庭内での主(あるじ)」として采配を揮うことができるようになった。

さらにもう一つ、「明るさ」を添えたのは、「恋愛結婚」というカッコつきフレーズだったように思う。

戦後のスタート時点から、それまでの仲人や世話焼きおばさんなどを介する「見合い結婚」から、一応(!)当人同士の意思による「恋愛結婚」が、素朴な「手鍋提げても!」などを含め、徐々に広まり、それはやがて、1960年代半ばから70年前後、ついに戦後社会の多数派に転じることになった。その「恋愛結婚」の内実自身が問題ではあるが、ともあれ、子どもながらに、「あなたの親は、恋愛?お見合い?」と聞き合って、「うちは恋愛!」と言える子は、何やら子どもながらに晴れがましかったのを覚えている。

しかし、この明るく見えた戦後の「結婚制度」も、実は「夫婦・家族同姓」であり、「姓を同じくする」とはすなわち「氏を同じくする」と同義であり、たとえ最小ではあれ、一つの「家制度=同族集団」という形の存続であったのだ。

いま一つは、「一夫一婦の核家族」であるゆえに、「男は外、女は内」という社会的かつ家庭内分業としての「性別役割」を当然のように受け入れるものになってしまった。

以上の二つの要因が、「明るく」見えた戦後の結婚制度を、次第しだいに蝕んでいったとは……戦後の人間たちの「迂闊さ」だったとしても、やはり悔やまれる事である。

いまだから言える「結婚」の重たさ―男の側から

今回、参考に上げた宗像充『結婚がヤバい』(社会評論社)の「はじめに」の初っ端は、次のような文章で始まっている。

――「結婚って一生おごり続けるってことでしょ」/知り合いの女性から息子がそう言っていると聞いたのは10年以上前のことだ。彼女には成人した息子さんがいて、独身なので何気なく彼に結婚のことを聞いたのだと思う。(『結婚がヤバい』p.4)――

この息子さんの、何やら苦々しそうな結婚観に、私たちは一瞬首を傾げるかもしれない。なぜなら、戦後のこの性による役割分業は、どちらかと言えば、女を男の経済力に従属させ、結局は女の自立を阻害した制度である、という側面からの批判がメインだったように思われるからである。男は、「亭主」として、良かれ悪しかれ、威張っていられたのではないか……とも思われるのに……。

もっとも、戦後の結婚を枠づけた性別役割分業とは、「男は稼ぐ」ことを当然とされ(強いられ)、その稼ぎで家族全員が生活する(つまり、男が妻・家族を養う、ということ)であった。この「稼ぐ男」の立場は、当初こそ、「お前ら、一体誰に飯食わせてもらってると思ってンだ~」という亭主の権力誇示・生き甲斐になってもいたが、徐々に妻や家族の手当てを含んだ「生活給」として社会的に保障されるに応じて、それは、男個人への報酬という側面よりは、家族丸ごとの生活保障という性格を色濃くしていった。

しかも、給与の「現金手渡し」はまもなく銀行口座振り込みに代わり、口座名義は世帯主であったとしても、引き落とすのは大抵「妻」。そして、男たちは、妻から改めて自らの「小遣い」を手渡されるケースも稀ではなく、次第に主流になっていったようだ。

また、とりわけ高度経済成長期には、男たちは「働け、働け」で、残業も恒常化し、仕事が終わると、大抵は「ちょっと一杯!」で付き合い……家に帰るのは往々にして「夜遅く」、時には深夜や朝帰りも稀ではなかった。中には、日曜日や休日も、「つきあい(仕事)」と称して、ゴルフその他で出かけることも少なくはなかった。

こうして、この頃の男たちは、自他ともに「働きバチ」と称し称され、「月給の運び屋」とも言われ、事実、家の中では、ゴロゴロするか、テレビ三昧か……要するに家事には疎く、「役立たず」の「邪魔なだけの存在」と化してしまう。誰が言い始めたのか、「亭主、元気で留守がいい!」……女たちの多くは、ソウダ、ソウダと拍手を送っていた。

ところが、その後バブルが弾け、1900年代、さらに2000年代に入ると、男たちにもまた、派遣労働や非正規労働も増え、男たちの経済格差も顕著になっていった。にもかかわらず、女たちの多くは、セックスの相手・恋人さらに結婚相手となると、男たちの「お金=経済力」を評定し当てにすることを忘れない。なぜなら、多くの結婚や家庭が、この「性役割」に則って営まれてきたのだから……こうして、最初の若い男の結婚観……結婚って、一生、おごり続けることでしょ!に繋がっていくのである。最初のデートから、男は、「割り勘」はダサイと嫌われると警戒し、気前よく「おごってあげる」ことになる。なぜなら、もしかすると「結婚」に結びつくかもしれず、そのためには「割り勘」ではなく、男の経済力をともかくも示しておかなければならない。

……いつの間に、かつては「男の経済力」は、結婚後の男の「努め」「晴れある男役割」だったはずなのに、今では、結婚前の女たちも、「経済力(稼ぎ)」の乏しい男には、友人としてすら近づいて来ることもないようだ。「セックス」も「恋愛」ですら、「稼ぎの悪い男」たちは、スルーされる。……戦後の「結婚制度」が、エリート以外の男たちにとって、これほどにシビアで残酷なものになってしまっていたとは……。

女たちは知っていた?―「結婚制度」のシンドサと孤独

男たちが、当初は戦前の大家族の下での結婚と比較していたように、女たちもまた戦前の、姑・小姑や妾、庶子などとのトラブルの多い戦前の「嫁入り」と比べて、戦後の「一夫一婦の核家族」が、どれほど安泰で平和な暮らしを保障するものか……安心し期待して戦後の結婚生活に踏み切って行ったのだろうと思われる。

しかし、当初こそ、バラ色に彩られていたはずの結婚も、いざ蓋を開ければ、何ということはない、結局は「夫婦別々の暮らし」が併存しているだけだったことが分かってくる。……ということは、結婚前の「恋愛」で、一体、お互いに何を認め合い、何に惹かれ合っていたのだろうか。端的にいえば、女は「男の勤め先と稼ぎ」が一番のチェックポイントだったのだ。それに対して、男は、「女の器量よし(特別の美人でなくてもいいが、まあまあの見栄え)、そしてできれば家事力?」辺りがチェックポイントだったのだろうか。この程度で「恋愛結婚」と自他ともに認められるとは、何とオメデタイご時世だったことだろう。

しかし、生活が始まると、カッコつき「恋愛」も出番はない。男たちは「釣った魚に餌はやらない!」とばかり、目も関心も大抵は外=大半は職場、に向けられていた。

妻はやがて、子どもが生まれると、途端に「母」となり、夫もまた「カアチャン、ママ、あるいはオイ!だけ」で妻を呼ぶようになる。結婚後の生活の中で、さらに二人の人間理解が深まる……というようなことには、両者とも、端から期待もしないし、問題意識すらなかっただろう。

こうして、生活に不安のない大抵の家庭では、主婦は当たり前に「母」となる。そして、「個人」として、社会的な仕事も収入もない女は、自らの子どもを前にして、「賢母」としての力量を発揮しようと頑張ってしまうのだ。若さもエネルギーも満ち満ちているのだから……。さらに、「いい子」に育て上げれば、まさしく「立派な賢母」として、社会的にも評価されるのだから!

しかし、生まれて来る子どもは、たとえ「乳児」からでも、「社会的な生きもの」である。同月零、同年齢、同世代の仲間も必要だし、母や父や家族とは異なる外部の多様な人との関わりもまた必要なものだ。だが残念ながら、このような「子どもの育ち」に関する認識は、当の母や、また父にも、そしてさらに社会全体でも希薄だった。むしろ、「母と子」が、始終ともに見つめ合い、慈しむ合う姿こそ、「幸せ」のシンボルであり、目指されるべき関係世界とされていたのだった。

結婚はしても、経済力が伴わない家庭や、夫の病気、事故、さらには不幸にしての死去、離婚などに遭遇した家庭や母に対しては、社会福祉的施策としての「保育所」が、やむを得ず設置されていくが、「家庭内の母子」に対しては、称賛されモデル化されるばかりで、長い間、社会的には放置されたままであった。

「妻たちの思秋期」「キッチンドリンカー」「育児ノイローゼ」「コインロッカーへの子捨て」「子殺し」そして「児童虐待」……1980年代から指摘されてはきたが、社会では「ウソでしょ!」と本気にされず、結局、閉ざされた世界での「子育て世界」の困難、苦しみは、2000年以降、現在にまでも持ち越されている。

他方、自分の仕事や世界を保持し続けたいと望む女たちは、結婚し出産しても、あえて「結婚と仕事」を両立させようと頑張ってはきた。しかし、それも、子どもが丈夫で元気であれば、また夫以外の身内の手助けが可能である場合、等々、ラッキーな条件に恵まれた場合のみ続けられてきたのだった。もっとも、保育所制度が次第に整備され拡充されるのに応じて、「子育てと仕事の両立」も珍しくはなくなってきたが、子どもが幼い時、病気の時等々、かなりの「綱渡り」に耐えなければならなかったのも事実である。

また、子どもが小学校半ばを過ぎると、「家計の補充」「子どもの教育費」あるいは「持ち家のローン」などのために、少しでも「現金」を……と、働きに出るのだったが、どうしても「子どもが学校から帰るまでの時間」、あるいは「なるべく夕方早い時間まで」という条件付きの働きを望んでしまう。こうして、「主婦パート」という短時間の安い労働提供者として使われることにもなっていった。

以上、少々長々と「明るいはずだった」戦後の結婚の赤裸々な内実を述べてきたが、宗像充氏もまた、次のように苦々しく述べている。

――愛し合っている2人のパートナーシップという意味よりも、結婚は「子を産み育てる場=家庭」を維持するものとして国が保護と得点を与えてきた……/これによって国は介護が必要な人や子どもなど、ケアの機能を家庭に押しつけ、女性がそれを無給で賄い、男性を経済戦争という戦場に送り出してきた。戸籍制度のもとの富国強兵策を戦後も基本的に受け継いで経済成長を成し遂げた。(『結婚がヤバい』p.50)――

確かに、「生涯未婚率」(45~54歳の未婚率の平均値)の推移を見ると、

1970年 男性 1.7%  女性 3.3%
1980年 男性 2.6%  女性 4.5% 
1990年 男性 5.6%  女性 4.3%
2000年 男性 12.6%  女性 5.8%
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2020年 男性 28.3%  女性 17.8%

このような、2000年辺りから急に増えてきている「生涯未婚率」の上昇が、これから先、どこまで伸びて行くのか……確かに「結婚がヤバい!」

しかし、改めて「結婚とは何か?」をいま少し真面目に考え始める契機になれば、その「ヤバさ」も満更捨てた物ではないのかもしれない。

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。お茶の水女子大学から東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。元こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、『歌集 三匹の羊』(稲妻社)、『歌集 続三匹の羊』(現代短歌社、2015年10月)など。

 

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