特集 ● 社会の底が抜けるのか

許されない武力による領土拡張

孤立深まるネタニヤフ「大イスラエル主義」――主導権は米バイデン
政権に

国際問題ジャーナリスト 金子 敦郎

子どもや女性が多数を占めるガザ民間人の生命・生活の破壊を積み重ねてきた。すでに100日を超え、住民230万人のうち死者は2万6000人、生活の場を奪われ難民化したのは200万人。その映像に世界中が胸を締め付けられ、涙し、戦慄し、怒り、史上最悪の人道危機あるいは民族抹殺(ジェノサイド)と非難を浴びせている。それでもやめない。

ネタニヤフとバイデン

ネタニヤフ・イスラエル首相はいったい何を得ようとしているのだろう。パレスチナ紛争とは何なのか。ネタニヤフ氏の長年の頼りがいのある後ろ盾、バイデン米大統領にも隠されてきた亀裂が露呈した。ネタニヤフ氏の本心は「二国家共存」には絶対反対だった。パレスチナ紛争解決を阻んできたものが何かがそこに浮かび上がった。

現地からの報道によると、ネタニヤフ氏は記者会見でハマスを完全に破滅させた後のガザはイスラエルが占領下において、独立したパレスチナ国家の一部とすることを拒否すると発言(1 月18日)した。これはバイデン氏が「唯一の解決策」と繰り返してきた「二国家共存」の否定である。バイデン氏は翌日すぐに電話でネタニヤフ氏に真意をただし、ネタニヤフ氏は「いかなる形でもパレスチナ国家は拒否するという意味ではない」とあいまいな言い訳をしたとされる。

この10 年あまり長期政権を担ったネタニヤフ氏は「ニ国家共存」という国連総会決議に沿った「オスロ合意」を否定する強硬路線をパレスチナ側の「ハマス」とともに推し進めてきた(『現代の理論』36号拙稿「戦争75年、原点に返って永続和平を求めよ」)。

ネタニヤフ政権のこの強硬路線は米民主党オバマ政権(2009〜2016年)との関係を悪化させた。ネタニヤフはさらに長年支援を受けた民主党を離れて共和党依存への乗り換えを進めた。その中でオバマ政権副大統領バイデンは上院外交委員長のころからの付き合いのネタニヤフと親しい友人関係を維持、2021年大統領に就いた。

「ガザ戦争」が勃発するとバイデン大統領はホワイトハウス外交担当や国務省に対して「ネタニヤフを直接批判すると米国の支持を失ったとパニックになって暴走する恐れがあるから、彼のことは十数年の付き合いの自分に任せるように」と指示したという(ワシントン・ポスト紙電子版)。そのバイデンはネタニヤフの自衛権に基づく報復戦争断固支持を表明する一方、「人道危機」回避の努力も繰り返し要求したが、ほとんど無視された。

「紛争の種まいた」国連決議

米国は第2次世界大戦終結から2年後、パレスチナ分割決議と呼ばれる国連総会決議を成立させ、翌1948 年に誕生したイスラエル国家の後ろ盾になってきた。しかし、当時のトルーマン政権の首脳部は同決議推進派と消極派とに割れていた。パレスチナ現地ではユダヤ人の「ナショナル・ホーム」建設を認める英国の「バルフォア宣言」(1917年)で始まった世界各地からのユダヤ人の移住者と、自分たちの居住地が分割されてユダヤ人に分け与えられることに絶対反対のパレスチナ住民との間で衝突が激しさを加えていた。

慎重派はこの決議はさらなる紛争の種を蒔くと懸念した。大戦勝利直前の1945年急死したルーズベルト大統領を引き継いだトルーマンは経験も浅く、大統領選挙を翌年に控えて人気低迷に苦しんでいた。決議推進派は、ユダヤ人票は多くはないが取れれば越したことはないと進言。ホワイトハウスにもユダヤ系デモが押しかけて、その中にはトルーマンの郷里ミズーリ州の親しい友人がいた。トルーマンが決断して決議は成立した。

国連総会に提出された決議はパレスチナの56%をイスラエル、44%をパレスチナに割り振り、有力三宗教の聖地のある都市エルサレムは国際管理の下に置くことにしていた。しかし、当時の人口はパレスチナ人(アラブ系)124万人に対してユダヤ人61万人と比率では2対1。ユダヤ国家になる地域でもパレスチナ人45%、ユダヤ人55%だった。

少数のユダヤ人により広い土地を割り振ったのは、イスラエルにはユダヤ人が多数移住してくることを想定してのものだった。また、パレスチナ領にはヨルダン川西岸の肥沃な地域と南端の狭い飛び地ではあるが地中海に面したガザを残し、イスラエル領にはシリアに接する北部から地中海沿い回廊のガザを除いた地域のほか、面積の半分以上は遊牧民の生活圏ネゲブ砂漠が占めるーというバランスが図られていた。

この決議案を作成した特別委員会は米欧先進諸国で構成されていた。採決では冷戦がまだ始まっていなかったソ連圏諸国や中南米の親米国の支持を得て3分の2の多数、33カ国の賛成を得たものの、パレスチナを取り巻く周辺のアラブ諸国とインド、パキスタンなど13国がそろって反対、中南米で米国と距離をとる国など10カ国が棄権した。

パレスチナの中心都市エルサレムはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖地で、いくつかの民族の歴史、宗教、文化の誇りがかっている。その地に二つの国家を創設するには分割しか手はなかったのかもしれない。だが拙速の感はぬぐえない。「背景には現地の情勢の緊迫に加えて、大戦終結でアウシュウビッツ強制収容所の存在がわかるなどナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺(ホロコースト)が明るみに出された衝撃で、ユダヤ人への同情心と内なる自責の念があったといわれる。

独立戦争・ナクバ・PLO

国連総会決議を得たユダヤ人側は1948年5月イスラエル独立を宣言、アラブ諸国はこれを拒否、戦争が始まった。準備十分のイスラエルはすでに軍事組織や自衛組織を持っていたし、米欧の支援も受けてエジプト、シリア、ヨルダンなど寄せ集めのアラブ軍を圧倒、パレスチナ住民の半数を越える70〜75万人が戦火を避けて避難した。イスラエル軍は国連決議がパレスチナに割り振った領地のほぼ半分を占領、新しく生まれたイスラエル国はパレスチナの77%を支配下に置いた。イスラエル領とされた居住地に残り、そのままイスラエル国民になった人たちもいた。

戦火を避けて周辺国に避難していたパレスチナ人が帰宅すると、自宅にはユダヤ人が住み着いていて追い出され難民化した。周辺のアラブ諸国も引き取ってはくれなかった。難民の数は100万人とされる。彼らは国連が急ぎ設けた難民キャンプに身を寄せた。今なお難民キャンプ生活を送る避難者とその家族が少なくない。これが第1次中東戦争。イスラエルには誇らしい独立戦争は、パレスチナ人には「ナクバ」(大惨事)となった。

国を持たない難民となって周辺諸国に離散したパレスチナ人は1964年、パレスチナの武力解放を目指すパレスチナ解放機構(PLO、アラファト議長)を結成した。アラブ諸国の支援で3旅団、1700人のパレスチナ解放軍を編成、エジプト、シリア、イラクに配備した。PLOのもとには政党と武闘闘争(ゲリラ戦やテロ)にかかわる10を超える組織も加わった。PLOには加わらない独立ゲリラ組織も生まれた。

パレスチナ・ゲリラは1968年イスラエル航空機を地中海上空で乗っ取ったのを手始めに世界各地で旅客機ハイジャック、テルアビブ空港での銃乱射、シンガポール石油施設占領、列国の大使館占拠などのテロ事件を引き起こした(日本赤軍など日本の過激派組織も加わった)。ミュンヘン五輪ではイスラエル選手を拉致、殺害する事件も起こした。その後の中東動乱で世界に広がった「イスラム・テロ」の契機にもなった。

PLOは1973年のアラブ首脳会議でパレスチナ人の唯一正統な代表と認められて1974年国連総会でアラファト議長が演説、国連オブザーバーの地位を得た。しかし、アラブ諸国はイスラエルと何回戦っても勝てない。「パレスチナ国家」実現が遠のくなかで、PLOも武闘組織も過激化の道をたどっていった。

サダト戦略転換―パレスチナ孤立

第3次中東戦争は1967年の「6日戦争」。エジプトがイスラエルの紅海への出口アカバ湾ティラン海峡を封鎖、イスラエル軍が空爆と地上戦でアラブ軍を押しまくり、エジプトのシナイ半島、パレスチナのガザ、西岸、東エルサレム、シリアのゴラン高原を占領するなどわずか6日で圧勝。占領地を大きく広げた。

イスラエルは占領した西岸でイスラエル人の入植を開始した。米政府(ジョンソン大統領)は国連安保理事会をリードして、戦争によって領土を広げることは許されないとする「国連憲章の規範」に則ってイスラエルに占領地の返還を求める決議242 を採択した。安保理決議は強制力を持っている。

第4次戦争は1973年にアラブ側が「6日戦争」の雪辱を期してユダヤ教の休日を狙って急襲、これが成功してイスラエルを大慌てさせたが徐々に巻き返されて危うかったが、米国(キッシンジャー国務高官)の仲介で引き分けに終わった。アラブ側の被占領地奪回はならなかったが、米国は安保理で242決議を再確認する決議338採択に持ち込んだ。

アラブの盟主として第4次戦争を率いたサダト大統領は、国連総会決議と二つ国連安保理決議によってパレスチナ問題は解決できると考えた。イスラエルに戦争で勝つことは断念、外交も前任者ナセル(1970年急死)時代の親ソ路線から親米路線に切り替えて、1997年に登場した米民主党カーター政権に接近を試みた。

しかし、パレスチナ解放機構(PLO)もアラブ諸国もサダトの路線転換を受け入れなかった。アラブの対イスラエル統一戦線は崩壊、パレスチナは孤立無援ともいえる状態に陥った。サダトは「アラブの大義」に対する「裏切り者」と非難されて1981年「イスラム聖戦派」兵士のグループに暗殺された。

入植拡大、米国は「沈黙」

イスラエルでは1977 年5月総選挙で右派リクード党 が勝利し、ベギン党首を首相に国家宗教党と連立、さらに中小の宗教政党の閣外協力も得る「大イスラエル主義者」の政権が生まれていた。カーター米大統領は1978年サダト、ベギン両氏を大統領山荘キャンプ・デービッドに招いて延々13 日に及ぶ缶詰め会談の末、国連決議「242/338」に沿って和平へのプロセスを進める「キャンプ・デービッド合意」を取り付けた。カーターはさらにエジプト・イスラエル両国を平和条約の調印に持ち込んだ。

アラブ諸国とパレスチナ解放機構(PLO)は参加していない話、として受け入れなかった。ベギン政権は大手を振って入植地拡大に乗り出し、隣国レバノンに侵攻、首都ベイルートに置かれたPLO本部を追い出し、シリア国境の占領地ゴラン高原を併合した。

イスラエルは占領地への入植開始の理由として、当初は安全保障のための軍事的ポストと説明した。その後、イスラエル有力紙による政府秘密文書スクープによって、はじめから占領地の領土化を狙った既成事実作りだったと暴露された。イスラエル政府は二つの安保理決議をかわす論理として、パレスチナ問題はいずれ交渉で解決されるので入植問題もそこで決まるーと苦しい説明をしながら、占領地を係争地と呼び替えて入植を継続した。

その数は現在144カ所、入植者数は西岸が45万人、東エルサレムが22万人で合計67万人(ガザの入植地は2005年撤収)、総人口903万人の7.4%に膨れている。

「インティファーダ」とオスロ合意

アラブ世界において孤影を深めたパレスチナでは1987年、西岸とガザでイスラエル軍の占領支配に対する一般市民の自然発生的な不服従や抗議の運動(インティファーダ―)が始まり、イスラエル軍との衝突を繰り返しながらも息長くほぼ4年続いた。パレスチナ住民側に1551人、イスラエル軍に422人の死者が出た。

1992年リクード主導政権に代わってラビン労働党首(元国防相)を首相に中道・左派連合、宗教政党の連立政権が復活、1993パレスチナ解放機構(PLO)との間で「二国家共存」の最終目標に向けて、イスラエルが占領を続けているヨルダン川西岸とガザを段階的にパレスチナ自治政府の統治下に移行させることに合意(オスロ合意)、クリントン大統領招待のホワイトハウスで「パレスチナ自治暫定合意」が調印された。

パレスチナ分割を決めた国連決議と軍事力によって領土を拡大することは認めないという国際法を基礎に、譲歩し合ってようやく希望が生まれた。「民衆の戦い」が合意を押し出したといわれた。しかし、双方にはこの合意を絶対に受け入れない原理主義勢力があった。イスラエル側にはネタニヤフ氏のリクード党首が率いる「大イスラエル主義」。パレスチナ側ではパレスチナはパレスチナ人のものとする「パレスチナの大義」を掲げる「ハマス」。ハマスはエジプトのイスラム主義団体「イスラム同胞団」(穏健派)のガザ支部として生まれPLOの傘下に入っていたが、「二国家共存」から「パレスチナの大義」傾斜を強めていく。

オスロ合意達成から3年余りの1995年ラビン首相がユダヤ教過激派青年の銃撃を受けて死去。1996年初の首相公選で「大イスラエル主義」の保守リクード党首ネタニヤフが勝利し、右派やユダヤ教勢力との連立政権。オスロ合意による占領地のパレスチナ自治区への段階的移行は継続された。1999年首相公選で労働党首バラク首班の左派政権が生まれ、PLOとの和平交渉が進展するが最後の詰めで失敗。その後リクード党の政権が続き、西岸とガザの入植地をパレスチナ側から分離して囲い込む分離壁を在り廻らせた。

ネタニヤフ長期政権とハマス

リクード党優位が続いた2009年ネタニヤフ氏が首相に復活、12年の長期政権が始まった。2021年選挙で反ネタニヤフ8党による政権が誕生。しかし1年半後の2022年末政権同政権はパレスチナ問題で行き詰まって解散・総選挙、ネタニヤフ首相復活となったのが現政権。

この間にパレスチナ自治政府の段階的拡大は形は継続されたが、イスラエルの占領地への入植地拡大や分離壁建設などで骨抜きが進められた。一方のハマスは2007年クーデター的にガザを支配下に治めた。これで自治政府は片翼を失った。ネタニヤフ派勢力とハマスは「オスロ合意」を潰してそれぞれの陣営の「ニ国家共存」勢力にとって代わるという共通の目的を持っていた。ネタニヤフにとってハマスがPLOの多数を占める「ニ国家共存」派に代わることが好ましい。ハマスの勢力拡大、ガザ乗っ取りの活動資金はネタニヤフが密かに提供したと複数のメディアが報じている。

その一方でハマスとネタニヤフは、ガザあるいは西岸の占領地の周辺で起こる住民の衝突事件をきっかけに、激しい 戦闘を繰り返した。ネタニヤフは武力によるハマス封じ込めを強化、ガザは「天井のない監獄」と化していた。

ネタニヤフの大誤算?

米トランプ政権はこうしたネタニヤフのイスラエルを全面支援、占領地東エルサレムを含めたエルサレムをイスラエルの首都と承認、テルアビブの米国大使館をエルサレムに移転した。これを受けてアラブ首長国、バーレン、スーダン、モロッコと国交正常化が進んだ。バイデン政権もイスラエルとサウジアラビアなど穏健派諸国との関係改善の後押しをしてきた。中東関係者の一部ではパレスチナ紛争はこのまま「自然鎮静」していくのではないかという声も聞かれるようになっていた。

こうした情勢の進展がハマスの危機感をあおり、それがハマスのイスラエル農村共同体への奇襲攻撃に駆り立てたという見方がある。だが、「陰謀論」が盛んな時代だ。逆にこの戦争を仕組んだのはネタニヤフとする「陰謀論」も広く流れている。ネタニヤフ氏が長期政権の末に支持を失い、汚職を暴かれ追い込まれて、ハマスを一気に壊滅させて「二国家共存」の芽を完全に摘み取り、全パレスチナにユダヤ国家を広げ歴史の英雄になろうーとしたというのだ。イスラエル軍がハマスの奇襲攻撃を全く察知せずに無防備だったというのはおかしいというのがこの説の始まりになっている。

ネタニヤフ氏は長期政権の最後に収賄などの腐敗・汚職容疑で起訴され、裁判中の身。政権に返り咲くといきなり最高裁が過大な司法権を持っているとしてその権限を取り上げる司法改革を持ち出した。世論はまず自分の訴追を無効にするのが狙いと受け取る。辞職を求める大規模な反対デモが起こり、「政治不介入」の軍部にも反対運動が浸透している。バイデン氏も民主主義の破壊と直接批判、激しくやり合ったと報じられた。

そして今、ガザ市民への無差別攻撃で国際的非難にさらされながら、国民からは民間人虐殺続けるのをやめて人質救出優先を突き付けられ、世論調査では70%が辞任を求めている。(1月26日記)

 

かねこ・あつお

東京大学文学部卒。共同通信サイゴン支局長、ワシントン支局長、国際局長、常務理事歴任。大阪国際大学教授・学長を務める。専攻は米国外交、国際関係論、メディア論。著書に『国際報道最前線』(リベルタ出版)、『世界を不幸にする原爆カード』(明石書店)、『核と反核の70年―恐怖と幻影のゲームの終焉』(リベルタ出版、2015.8)など。現在、カンボジア教育支援基金会長。

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