「現代の理論」 論文アーカイブデジタル21号より

自国第一主義はナショナリズムか?

今は権力亡者達が国家を食いつぶす時代になった

神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠

政治家の発言が失言になる訳

近頃、二人の政治家の発言が、社会の批判を浴び、二人は発言の撤回・謝罪に追い込まれた。一人は萩生田文科大臣、もう一人は河野防衛大臣である。

萩生田文科大臣は、文科省が導入しようとしている大学入試共通テスト英語の民間試験利用問題について、七種類もの民間業者試験で大学入試を代行させるというようなやり方で、試験の公平性が保たれるのかという質問に対して、「身の丈に合わせてがんばってもらえば」と答えて、格差を容認しているのではないかと批判を浴びた。文科省が導入しようとしている制度の欠陥については、すでに種々報道されているので省略するが(本論文執筆中に実施延期になった。念のため)、この発言には入試制度の問題を超えたもっと根の深い問題が潜んでいることを見逃すわけにはいかない。

「身の丈に合わせて」という言い方は、「分相応に」という封建的身分制下で使われた言葉を今風に言い換えたに過ぎない。それは、身分・差別・格差を当然のものと認める発想から出てくる言葉である。もちろん封建的身分制はすでに存在するはずもないから、その発想は別のところから出てくる。要するに、あの発言は、自己責任論を伴う新自由主義から出ているのである。自由競争は勝者と敗者を生み出す。競争に敗けた者は能力や努力が足りないからで、それは自己責任である。社会の活力を生み出すのは自由競争だから、格差が生じるのは当然のこととして受け入れなければならない、というわけである。文科大臣も、おそらくそういう発想の持ち主であろうから、あの発言は本音にちがいない。

しかし、自由競争は、競争に参加する、あるいはさせられる者の条件が平等であってはじめて公正な競争となり、活力を生むはずではなかったのか。自己責任論によって格差を是認することは、公正性や活力を奪うことになる。自由主義は、個人個人が自由に活動することを大前提とする。したがって、格差を是認することは、その自由を格差の中に閉じ込めることを意味する。自己責任論を伴う新自由主義が内包する自己矛盾とは、自由を強調すればするほど、競争条件の平等への関心を高め、結果として生じる格差・不平等と初発の条件の平等性の要求との間に矛盾を生じるということに他ならない。その自己矛盾への自覚を欠いた文科相の発言が「失言」として厳しい批判にさらされるのは当然であろう。

次に、河野防衛大臣の場合である。彼は、それ自身問題のある自分の選挙資金パーティで、「私はよく地元で雨男と言われました。私が防衛大臣になってからすでに台風が三つ」と発言して問題となった。テレビ報道を見るとその発言に会場からかなり大きな笑いが起こっているから笑った人々も同罪ということになるが、その三つの台風が関東・信越から東北地方という広範な地域に風害・水害で甚大な被害をもたらし、復旧もままならず、何十万という人々が苦しみ続けている現状への配慮を欠いていると批判された。まして、予想外の災害とはいえ、行政の対応の不十分さが次から次へと明らかになっている状況で、身内だけのパーティという気安さのためであろうか被災者への配慮を全く欠いた「冗談」は不謹慎極まりないと言う他はない。

防衛大臣は、復旧に当たっている自衛隊の努力を讃えようとしてつい口が滑ったというような弁解をしているが、そうであればもっと問題である。政治家として考えるべきは、第一に被災者のことであって、大臣にとって「身内」である自衛隊員のことではないはずである。今時の政治家は災害のたびに「被災者に寄り添って」などというが、これでは「自衛隊に寄り添う」ことにしかならないではないか。河野防衛大臣は、外務大臣在任中、最近の日韓関係をめぐる問題で、強硬な発言を繰り返し、それが安倍総理大臣のお眼鏡にかなったのか内閣改造で防衛大臣に横滑りした。外務・防衛(外交・軍事)という伝統的国家観にたてば国家の最重要な任務を歴任していることで、国家を背負っているかのように錯覚してしまったのであろうか。被災者という人間、日々安全に暮らしたいと願っている一人一人の人間への想像力を失ってしまっているようにしか見えない。

こうした「失言」をしてしまった大臣には、受験者やその家族の個々の事情や多様な被災者の困難な生活状況などを見ることはできない。彼らが見ようとしているのは、国家や国家的制度であって一人一人の人間ではないことだけははっきりしている。

さらに、政治家の不祥事ということでいえば、経済産業大臣と法務大臣の相次ぐ辞任も見逃せない。この両者は、公職選挙法違反というよくある事件がきっかけであるが、それを上述の二大臣の件と並べてみると意外なことが見えてくる。

経済産業・防衛軍事・教育・法務という四つの分野は、殖産興業・富国強兵・国民教化・近代的法制度整備という明治維新以来、日本における近代国家形成過程で最も力を注いできた政策課題であった。その分野を担当する大臣が、そろいもそろって問題を起こした。それは、歴史を研究する者の目からは、歴史の大きな転換を象徴する出来事のように見える。一言でいえば国家の時代から人間の時代へという変化とそれに気づかない政治家とのギャップということである。

自国第一主義は権力亡者の隠れ蓑

ここで、目を世界に転じてみよう。世界でも政治家の不祥事は後を絶たないが、最近の特徴は自国第一主義を掲げる政治家の不祥事が目立つことである。勢力を拡大し、政権を取ったり、政権に近づいてくれば社会の目も厳しくなり、スキャンダルが暴露される数が増えるのは当然であろう。それにしてもスキャンダルが政権をも危うくさせかねない状況になると、政治家の本当の姿が隠しおおせなくなってくる。今、その岐路に立たされているのが、アメリカファーストを掲げ、ポピュリズム的政治手法を駆使して登場したアメリカ合州国大統領トランプである。

トランプは、大統領選挙の時からロシア疑惑が指摘され、追及を受けてきたが、今度のウクライナ疑惑は政権内部からも大統領に不利な証言が出てくるなど、弾劾手続きに入る可能性がロシア疑惑よりもはるかに高くなっているようである。トランプは、次の大統領選挙で有力な対抗馬になると目されていたバイデン元副大統領の疑惑調査を、援助を餌にウクライナ大統領に依頼したとされる。自分の再選のために外国の大統領に対立候補になりうる人物の調査を依頼するなどという前代未聞の行為が本当であれば、弾劾・罷免をまぬがれることは限りなく難しい。そこまでしてトランプが大統領の地位にこだわる理由は何なのか凡人には全く分からない。分かるのは、トランプが権力の座に異常ともいえるほど執着しているということだけである。

実際、トランプがやることなすこと著しく一貫性に欠け、意表を突いて世界中に混乱をまき散らしているようにしか見えない。一貫しているのは、たとえ失敗したとしても反省のそぶりも見せず、責任を批判者に転嫁し、側近と言われていた人物をも次々に更迭し、最後は前オバマ政権を貶め、自分の成果を誇示するというやり方だけである。たとえば、シリア・トルコ国境地帯から米軍を撤退させ、トルコ軍の侵攻を招き、対IS戦争で利用してきたクルド人を見捨て、トルコに制裁を科すと言いながら、裏でトルコと手を結び、特殊部隊を派遣してISの指導者バグダディを暗殺し、オバマ政権によるビンラディン暗殺よりも自分の方が大きな手柄だと自慢する。

さらに、トランプが、特に外交面でやっていることは、大統領選における自分の堅い支持層向けばかりと言われるが、その結果は、世界の不安定要因を増やすものでしかない。大統領就任直後の2017年6月には、気候変動枠組条約いわゆるパリ協定からの離脱を表明し、翌18年5月には、イラン核開発をめぐる米仏独中露とイランとの核合意から離脱を宣言、さらに19年2月には、ロシアとの中距離核戦力全廃条約を破棄した。地球温暖化による環境問題の深刻化に背を向け、思うようにならない国をテロ国家と決めつけ軍事的圧力をかけ、核軍拡競争に再び火をつけるような行為は、ビッグな合州国の力を見せつけようとする意図から出たとしても、グレートな国家として世界から信頼を集めることはできない。これは、長期的には合州国にはけっして利益にはならない。

また、国内的には、その移民排斥、およびトランプと彼の支持層が夢想する「アメリカ的」ではない者を排除し、差別的対応をすることは、国内に分断をもたらしているが、トランプはそれを意に介する風は一向に見えない。それどころか、分断をことさらに煽り、反対者への攻撃を強めることによって自分への支持を固めることに努めているようである。

こうしたトランプのやり方を、企業経営者として身に沁みついた「取引」の論理で説明できるという政治評論家の見解があるが、それは大筋のところ当たっているかもしれない。トランプにとっては、自分の富・地位・権力・名誉という価値を最大化することが本当の目的であって、国民全体を含んだ国家のことなど関心がないのではないかとすら思われる。したがって、国家は、トランプ個人の願望を実現するために必要な枠組みでしかない。しかし、国家という枠組みが無ければ、地位も権力も存在しない。そして、国家が提供する地位や権力を確実に握り続けることが富や名誉を手に入れる近道になる。その国家の枠組みを使って仕掛ける壮大な「取引」、それがトランプに快感を与えているのであろう。

だから、アメリカファーストだとか、グレートアメリカアゲインというようなスローガンを掲げ、国家の将来を担っている風を装うことが必要になる。しかし、長期的に見れば、トランプの掲げる自国第一主義は、国家の道義性を低下させ、国家への求心力を弱める方向にしか作用しないのである。実際、トランプは歴代大統領に比べて、国家の理想や人類史に関わる理念を語ることが極めて少ない。出てくる話は、経済(金)と軍事(兵器)という低次元の話ばかりである。こういう政治家が権力の座に就いているということ自体が、近代に出現したネーションステートと呼ばれる国家とその諸国家が構成する国際社会というシステムの限界を露呈させているのである。

それはともかく、自分の権力を確保するために分断を煽るような政治は、もはやナショナリズムとは呼べない代物であることだけははっきりしている。ナショナリズムとは、国民を統合し、国家のために団結させることを目指すイデオロギーであり、分断こそもっとも厭うべき事態に他ならないからである。

混迷する国家の時代を見据える

現在、世界にはトランプ流の自国第一主義が蔓延している。その状況を、ナショナリズムが暴走し、植民地支配と国家間戦争で膨大な犠牲を生み出した20世紀前半の再来かと危惧する声があがっている。たしかに、冷戦終結以後、世界の各地で民族紛争が頻発し、戦争は絶えることなく、諸大国は自己の権益・影響力の拡大にしのぎを削っている。第二次大戦後に作り上げられた国際協調の枠組みも食い破られ、いつ国家間の大規模な戦争が始まってもおかしくないような状況にあるかのように見える。

しかし、国家を取り巻く内外の状況を子細に観察するならば、20世紀前半とはまったく異なる光景が浮かび上がってくる。すでに多くの指摘があるが、第一に国家を超えた相互依存関係の網の目が広く深く浸透していることである。いかなる大国といえども、その網の目から逃れることは不可能である。米中は対立しながら互いが最大の貿易相手国である現状を否定することはできない。資本も人の交流も様々な技術開発も切り離しがたく結びついている。対立と見えることも、相互関係の維持を暗黙に認めた上での分け前の多寡をめぐっての争いにすぎない。また、激しい言葉の応酬も、対立を煽ることによってそれぞれの権力者が自国内での権力基盤の強化のために発しているという側面があることも見逃してはならないだろう。国家は、もはや自給自足的に自立することもできなければ、閉鎖的な経済圏を築くこともできない。

第二に、社会の構成が多様化し、複雑化するに伴って、国家には極めて細かく、繊細な配慮が求められるようになってきた。その背後には、人々の権利意識の高まりがあることはまちがいない。さらに、主張すべきと考える権利の内容が、人間一般の自由・平等というような大雑把なくくりではとらえることができないほど多様化し、豊富化し、具体化してきていることに注目しなければならない。女性には女性の、LGBTにはLGBTの、障碍者には障碍者の、子供には子供の、老人には老人の、移民には移民の、労働者には労働者のなどなど、それぞれの立場に応じて自由・平等の権利の具体的あり方があるという考え方が浸透しつつある。そして、この多様性は階級や階層という集団の観念ではとらえ尽すことができない。一人の人間が、その多様性を一身に負っているのが現実である。

そのような多様性を持つ人間が、権利意識を高めていると同時に情報発信力を持ち始めていることも、国家を中心に展開されてきた政治のありように変化を要求している。インターネットでつながれた世界は、情報の伝達スピードを極度に上げ、情報共有の範囲も飛躍的に拡大した。一人の人間に対する人権抑圧もあっという間に一国家の社会全体に、そして世界中に拡散していく。まだ、人間の多様性を認識する感性を持ち、発信力を備えた者の数は多数派を占めるに至ってはいないが、確実に政治へのインパクトを強めている。

そういう状況に国家はどう対応できるのか。その問題に、国際連合の世界幸福度報告は重要な示唆を与えてくれる。その2016年版によれば、上位にはデンマーク、スイス、アイスランド、ノルウェー、フィンランドという小国ばかりが並んでいる(ちなみに日本は53位)。今日の人権問題が、細かく繊細な配慮を要求しているとすれば、規模の小さい国の方が適しているということを、このランキングが示していると見てまちがいないだろう。

現代の国家は、世界的相互依存関係の拡大深化という外側からの圧力と多様な人々に人間らしい生活を保障せよという内側からの要求に挟み撃ちにあっていると言ってもよい。かつての国家有機体説が主張したように、国家に人格があるとすれば、現代国家は苦悩の真っただ中にあるのである。この苦悩から抜け出すのは容易ではない。国家の規模が大きくなればなるほどその苦悩は深刻である。苦悩が深刻であるが故に、トランプのような富・地位・権力・名誉などという諸価値の極大化を目指す目立ちたがり屋が跋扈する。あるいは、強大な権力を独占して、現代の情報技術を駆使したとんでもない監視国家を作り上げようとする独裁者も現れる。

ひるがえって日本

日本も、苦悩する現代国家の一群に含まれることは言うまでもない。しかし、その問題を直視しない政治家達は、権力支配の強化と強硬外交の誇示にばかり関心を向けている。大日本帝国へのノスタルジアにとらわれた声は大きいが、実際にはそれほどでもない勢力に気を使い、憲法改正を声高に叫んでも、そのやり方は何が何でも、どんな小さな条文についてでもとにかく改正の実績を残せればよいというところにまで後退している。韓国には強硬姿勢を見せても、アメリカ合州国へは相変わらずへっぴり腰。古い国家観やパワーポリティクス論にとらわれて、人権問題つまり具体的で多様な人間の生活の問題に鈍感で、目立ちたがりで傲慢な政治家が失言を連発し、撤回と謝罪を繰り返す。その矮小さは、長期政権の驕りとか、緩みというレベルを越えてしまっている。ラグビーワールドカップに浮かれ、オリンピックに右往左往している状況を見ると、ローマ時代から言われている「パンと見世物」という愚民政策を思い出す。その「見世物」をめぐって、目立ちたがりの政治屋達の醜い内紛を見せつけられているが。

そんな日本でも、人間の問題に敏感な、国家を越えて外国との交流を広げようとする市民は確実に育っている。しかし、その力はまだ十分とは言えないのも事実である。なにしろ国家は、その長い歴史を通じて巨大な財力と暴力装置、情報操作の技術、そして何よりも幻想でしかない国家を実態であるかのように見せかけ、受け入れさせる力を持っている。だから、自国第一主義を掲げる政治家は、国家という枠組みにこだわる。しかし、その主張の結果は、国家が積み上げてきた成果、たとえば福祉や防災のような人間のためになる成果を食いつぶすことにしかならないことは先に指摘した通りである。

そういう政治家に対抗するには、彼らの自国第一主義という言辞に惑わされず、彼らの主張ややっていることのすべてをきびしい批判的検証にさらすことから始めなければならない。そのためには、彼らが権力の座にある場合には、その立場で行ったすべての行為についての情報を開示させることが最も重要となる。日本には、そのための制度すら十分に整っているとは言えない。制度だけではなく、マスコミも国民もその制度の重要性の認識の点で不十分と言わざるを得ないのが現状である。

どんな大きな堤防も蟻の一穴からくずれることがあるという。多様な人間の多様な日常生活で発生する問題も、それを徹底的に追究していけば国家という大きな装置の大きな問題を抉り出すことができるかもしれない。今は、その可能性に賭けるしかないというのが、筆者の率直な思いである。

(2019年11月5日)

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

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