特集 ●混迷する時代への視座

混迷の時代、諸策の原点は人命尊重にあり

世界も日本も、第二次大戦後の出発点を思い起こし、もう一度出直せ

神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠

マジックワードと化した「経済を回す」

コロナウィルス感染症のパンデミックが宣言されて二年半、日本の感染者数は、週単位の直近移動集計値で世界一になってしまった。オミクロン株BA.5の置き換わりによる第七波は、これまでのどの変異株による感染よりも、はるかに速い速度で感染を拡大させている。日に20万を越える感染者数は、ウィルスが弱毒化した可能性があるとしても、その数は、必ず医療をひっ迫させ、重症患者の増加とあいまって深刻な医療崩壊を引き起こし、死亡者も増える懸念を高める水準を超えている。

この急速な感染者数の増加は、ほとんどこの一週間に起こったことであるが、それはこの一週間の特異現象ではないことにも注意しておかなければならない。ジョンズホプキンス大学の4週単位の移動集計は、より長期的な傾向を示していると考えられるが、それによると、1位はアメリカ合州国で、感染者/死亡者は4週(28日)でそれぞれ、3,455,958/11,958でとびぬけており、2位が日本で3,390,949/1,295となっている(8月1日現在)。それに続くのがフランスとドイツで、それぞれ感染者2,500,000前後、死亡者2,500前後で拮抗しているという状況である。

とびぬけているアメリカ合州国は別として、フランスやドイツ、イタリア(イギリスは、全数調査を停止してしまったので正確な数字は不明だが、死者数は約3,500で、5位のイタリアとほぼ等しい)と近い状況に日本もなりつつある。死者数はまだ少ないものの、その数は感染者数に遅れて増加し始め、その傾向は現在進行形で現れ始めている。細かい分析はおくが、日本の状況は、「欧米並み」になったと言っても過言ではない。

パンデミックの初期段階で、検査・隔離・医療体制の整備の必要性が高まるたびに、欧米諸国と比べて日本の感染者数の少なさ、重症化・死亡率の低さをあげつらい、十分な対策を取ることを阻害し続けてきた「専門家」や評論家は、この現状をどう見るのか。結核予防接種の普及や遺伝子要因による免疫あるいは確定はできないが何か特殊な要因「ファクターX」の存在を仮定する主張もあった。ワクチンも開発され、その接種もそれなりに急速に進められたにもかかわらず、感染は拡大しているかに見える。ワクチン接種がかえって感染を容易にし、拡大しているという陰謀論まがいの議論すら一部の週刊誌などで公然と取り上げられている。

こういうコロナウィルス感染症のパンデミック第七波の状況に対して、政府は、遅ればせながらワクチン接種対象の拡大を言い出したが、それ以外は、経済社会活動との両立・ウイズコロナへの転換というお題目を唱えるだけで、実質的には後手に回るどころか、まったくの無策に等しい状況に陥っている。二年半もの時間が経過したにもかかわらず、第七波に至っても保健所業務は逼迫し、医療崩壊の危機が迫ると、医療資源を必要なところに集中するためと称して、感染者全数把握の放棄、検査の抑制、軽症・無症状者への自宅療養の推奨など対策を諦めたかのような「方針ならざる方針」が出される。そのうえ、政府の専門家会議の会長が、行動規制は、「無理」あるいは「無駄」であるとして実施を要請しない、自己判断による感染予防が重要だ、などとのたまう。

政府も専門家会議も様子見に終始している間に、マスコミやインターネット上では、コロナウィルス感染症の感染法上の扱いを、2類相当から5類相当に引き下げ、季節性インフルエンザと同じにすべきだという主張が、またぞろ声高に叫ばれはじめてきた。またぞろと言うのは、この主張は、パンデミックが始まった直後から、理由付けの重点を変えながら繰り返し現れ続けてきたからである。

初期には、インフルエンザ程度の感染症だから、感染症は経済活動の拡大にともなって必然的に発生するが必ず弱毒化するから多少の犠牲は甘受しなければならない、重大感染症扱いは経済・社会活動を停止・停滞させその犠牲の方が大きくなるから、などと言われていた。その後、covid-19の危険性の認識が進んでくると、保健所の過重負担を軽減し、医療崩壊を防ぐという点が強調され、感染症診断・治療に消極的な医師・病院への批判へと重点が移った。さらに、ウィルスの変異が進み、ワクチン接種率の上昇、対症療法とはいえ治療方法向上によって死亡率・重症化率が若年層でかなり低下してくると、若年層の活動の活発化の容認、入国制限の緩和・撤廃と感染対策の重点化とセットで5類相当への引き下げ要求は広く社会的に浸透する状況が生まれてきた。

2類か5類かという議論自体は、あまり意義があるとは思えないが、2類をはずしさえすればたちどころに医療の崩壊は免れるかのような口振り、2類に固執することは不安を煽り過剰な規制による社会・経済の萎縮を招く、というような主張は、濃厚接触者調査や全数調査の廃止、検査縮小、自宅療養要請などと連結されている場合には、もはや実態を把握する事すら放棄させることを意味することになる。まして、どこかの知事の「65歳以上の高齢者は外出等の行動自粛のお願い」などは、お願いしたのに感染したとすればその責任は高齢者自身にあると言っているようにしか聞こえない。責任逃れのために出されているとしか思えない「落石注意」の看板のようなものでしかない。

それはともかく、手を変え品を変えて現れる2類はずしやウイズコロナの主張には、どうやら多様に見える主張の底流に共通した発想が見え隠れしている。「経済を回す」「経済・社会活動の維持」という場合、経済や社会という言葉は、一人一人の人間を超えた一つの集合体ないしその活動の総体を指して使われている。個人を社会や国家という集団に従属させようという全体主義的発想をとっているわけではないが、経済という個人をからめとる網の目状に制度化されたシステムの維持を優先させる発想がそれである。

そういう発想を基底に持ちながら、感染症の実態把握をおろそかにし、自己責任論的対応を強めていけば、具体的内容が明確ではない経済優先という言葉が、マジックワードとして社会の雰囲気をさらに国家優先の方向に転換させる可能性を否定できない。経済は現在のところ、依然として国家という単位で組織化されているからである。

集合表象によって主体としての個人が抹殺される

一人一人の人間を超えた何らかの「全体」を想定し、その「全体」の中でのみ人間はその存在を維持し得るとし、個人としての人格の独立性を認めない発想は、思想としては、人が政治や社会を論じ始めたころから見られる古い発想である。特に、社会を有機体になぞらえ、個人をその細胞の一つとし、生命の本体は有機体にあり、細胞はその有機体の構成要素としてのみ存在し得るという社会有機体論は、中世の君主を頭脳とし民衆を手足とする身分制社会を正当化する論理から、現代の全体主義・ファシズムの独裁政治の論理にいたるまで、変態を重ねつつ生き延びてきた。

近代以後の思想史を大きく俯瞰して見れば、封建制を打破した思想的力は、フランス人権宣言に典型的に表現された、一人一人の人間が固有の価値と権利があることを認め、社会はその個人の自由な意志に基づく契約によって成立するという啓蒙思想にあった。それは、原子論的機械論的社会観として有機体論と対立し、政治的には民主主義の基礎にある世界像とされた。世界史は、そういう民主主義が世界に拡大し、勝利していく過程として説かれ、近代国民国家がその過程を担う入れ物と考えられた。

しかし、その国民国家は、民族・国家・国民という集合表象を実体化し、それを歴史の主体とするナショナリズムの論理を生み出し、それが進化論を新しい基礎とする有機体論と結合して全体主義という民主主義を食らい尽くす怪物を誕生させた。その怪物は、第二次世界大戦で徹底的に打倒され、世界はその怪物が2度と立ち上がれないようにがんじがらめにする装置を作り上げてきたはずであった。

ところが、第二次世界大戦後77年の今日、突然そのがんじがらめにするはずの装置が全く作動しない現実が突き付けられた。ロシアのウクライナ侵攻は、第二次世界大戦後、地球上のどこかで絶え間なく繰り返されてきた「地域紛争」とは異なるレベルの衝撃を世界に与えたのは、その現実の重大さにある。第二次世界大戦の「戦勝国」として、戦後世界体制を支える役割を担ってきたはずの国際連合安全保障理事会常任理事国の一角を占めてきたロシアが、世界第二位の軍事力を動員して隣国を直接的支配下に取り込むべく戦争を仕掛けたのである。

「ロシアとウクライナは共通の祖先を持つ兄弟であり、一つになる運命にある」とか、「ウクライナのNATO加盟は、地政学的に許容範囲を超えている」とか、神話的歴史や地政学の論理を振り回しての侵攻の正当化は、そのあまりの古臭さにあきれるばかりである。また、戦争を戦争と言わず、「特別作戦」と称し、ウクライナのネオナチから同胞・市民を守る警察行動とし、その軍事行動を戦争と呼ぶことすら国益を損ない、外国勢力に通謀する行為として処罰するという厳しい言論弾圧体制を敷く。民族や国家の論理を正面に押し出すその統治体制は、第二次世界大戦で打倒の対象としてきた全体主義に限りなく近い。

いうまでもなく戦争は、個人と個人の喧嘩ではなく、国家や民族という巨大な集団と集団の闘争である。集団は、勝利のためには、集団としての凝集力を高め、構成員の命がけの「献身」を要請・要求する。日常的には個人の集合体を表象するにすぎなかった民族や国家が、突然、圧倒的な強制力を持った実体として個人を呑み込む。状況を認識し、問題を論じる場合の主語は、国家・国民・民族という集合表象に独占され、個人を主語とする言説は極小化され、時にはそれ自体が否定され、抹消される。

このような戦争による個人と集団の関係をめぐる意識のあり様の変化は、戦争の当事国のみならず、周辺の諸国にも大きな影響を与える。国の安全、国家の防衛という言葉が、そこでは幅を利かせることになる。安全や防衛は、軍事力・軍事費の問題を中心に据えるだけではなく、食料やエネルギーという生活に直結する問題をも国家の安全保障という問題領域に引き込み、国家という単位を基礎とする発想様式を人々の精神に浸透させる。そのようにして世界は、引き裂かれ、いくつもの対立関係を作りだしてゆくことになる。

考えてみれば、第二次世界大戦後、世界は、勢力を競い合うブロック間の対立を解消して、相互の交流、信頼関係の構築の重要性の認識を強めようとしてきた。もちろん、資本主義陣営対社会主義という2大陣営の深刻な東西の対立関係はあった。また、先進諸国と発展途上諸国との南北の対立関係もあった。しかし、それぞれが主張する交流や信頼関係の内容は明らかに和解しがたいほど異なっても、それを構築することの重要性の認識の点では共通するものがあった。

実際、巨視的に見れば、東西対立を解消に向かわせた背景には、南の諸国の発展によって、世界的格差問題を新たな段階に導いたのも、20世紀後半の経済を中心とした世界的規模の交流関係の拡大・深化があったことは間違いない。生産・流通・消費のみならず、金融・投資から労働力・人材の移動まで、人々の経済活動は、国家の境界を越え、全地球的規模で展開されるようになってきた。いまや、どんな超大国も、貿易・金融関係において相互に依存しあっている。互いに最大の貿易相手国で、一方は他方の発行する国債の最大の保有国であれば、発行国の財政・経済が破綻すると保有する国債が紙切れ同然になることを好むはずがない、だから表面的にどれほど対立が厳しく見えても、どこかで妥協を探り合い、戦争などという破局的事態は避けられるに違いない。相互関係の拡大・深化こそ最大の戦争抑止力ではないか。

また、経済関係だけではなく、交通・通信手段の発達も世界を限りなく小さくし、個人と個人の国境を越えた直接的交流の機会を無限に拡大した。出稼ぎ・移民・転勤・留学・亡命・避難・旅行など短期・長期の人々の移動は、人類史上何度も見られた「民族大移動」をはるかに超える規模と速さで行われている。直接的な人間の移動の活発化もさることながら、飛び交う情報の量の増大と速度の上昇は想像を絶するほどのレベルに達し、現在でもその影響を評価することは困難と言わざるを得ない状況である。

こうした、世界の文明史的規模の変化は、一人一人の人間に降りかかってくる問題、個人が受忍するしかないとされてきた問題に光をあて、世界的規模での反響を呼び起こすようになってきた。ジェンダーにかかわる問題が、一人一人の人間の多様な生き方を認めるか否かという問題として普遍化され、世界中から賛否の反応を引き起こす。あるいは、産業革命以来の生産・消費の増大がもたらした地球温暖化をはじめとする環境問題が、国家の枠を越えた問題として意識され、一人の少女の声が、世界中から支持の声を引き出す。

以上のような相互依存関係の拡大・深化と個人を主体とした移動・交流の拡大は、基本的には地球規模の問題の自覚と対立の核心となってきた集合的表象を解体し、直ちに平和と安定をもたらさないにしても、それを破壊しようとする動きを抑止する力になることが期待された。しかし、ロシアのウクライナ侵攻は、その期待を粉砕し、時間を100年も巻き戻したかのようである。その展開は、集合的表象とその背後に隠れている「ならず者」の独裁を復活させ、世界中に国家主義の毒を振りまいているように見える。

それでも時間を巻き戻すことはできない

ロシアのウクライナ侵攻は、第二次世界大戦後の国際ルールを著しく逸脱し、軍事大国による横車であることは言うまでもなく、世界各国も程度の差はあれそのことは理解してように見える。そのことは、積極的にロシアを支持し、軍事的協力を惜しまない国家はほとんどないことで分かる。他方、ロシアの軍事力行使を非難し、ロシアへの制裁に参加し、ウクライナに軍事的支援を続けている側も、必ずしも完全に足並みをそろえているようには見えない。いずれにしても、どの国家の政権も、それぞれ国内に深刻な分断を抱え、かじ取りを誤れば政権の基盤を揺るがしかねない状況に迫られている故に、ウクライナ問題に慎重にならざるを得ないのであろう。

特に、NATO諸国の政権を悩ましているのが、社会の分断を助長し、それに便乗して影響力を増大させてきた右翼勢力の台頭であろう。たとえば、アメリカ合州国では、トランプ前大統領は、相変わらず虚偽情報を流し続け、レイシズムを煽り、キリスト教原理主義の堅い支持基盤を背景として、国政選挙への影響力を保持し続けている。コロナウィルス感染症パンデミック対策に対して、マスク着用やワクチン接種について個人の自由を掲げて反対し、銃規制についても憲法を盾に抵抗する。妊娠中絶について女性の選択権を否定し、移民の入国制限を強化し、女性やLGBTあるいは非白人の差別撤廃・多様性の承認要求には古い家族観や人種観を振りかざして反対するだけでなくポリコレ(ポリティカルコレクトネス)という批判の言葉を投げつける。自分の信じる伝統的アメリカ人イメージを固守し、それに反する主張や要求は非アメリカ的として拒否し、その上でグレートアメリカのノスタルジーをかき立て、アメリカファーストとナショナリズムを煽る。

このような分断を作り出し、伝統的イメージの中に退行して偽りの安心感を醸成する。そこへ闘う家長のマッチョなイメージを刷り込む。世界像・人間観の転換が要求される時代への不安感につけ込む情報戦略は、トランプのみならず、現代の独裁を志向する政治家に共通する政治手法である。試みに、そうした政治家達の家族観を検討してみよ。トランプ、プーチン、ボルソナーロ、ル・ペンさらに習近平、皆なんと古臭い家族観を持っていることか。また彼らが、どれほど国家や民族という集合表象を振りかざしていることか。

現在、世界で起こりつつある文明史的ともいうべき変化は、世界のあらゆる地域に浸透し始めているだけではなく、一人一人の人間の繰り返される日々の生活を無意識のうちに支えてきた習慣や価値観の転換を要求し始めている。無意識に慣れ親しんできた習慣・規範が批判にさらされた時、深刻な反発が引き起こされることは容易に想像できる。そしてそういう精神世界の転換は、一人一人個人の精神世界での自覚的な取り組みによってしか達成できないとすれば、その反発が集団的安心の世界に逃げ込む形になる可能性は一時的には大きくなるに違いない。しかし、世界中に広がっているトランプ現象とでも名付けたくなるそうした反応は、所詮は一時的反動に終わるはずである。

世界的相互依存関係と気候変動など国境を越えた問題の発生と、情報の共有と人自身の交流の拡大は、とどめようがない。そして、その現実を踏まえた社会を変え、政治を変えようという動きが、個人を主体として、生活に根差した場で、国家の境界に分断されない形で始まっている。もちろん、これほどの大きな変化は、短期間に実現されることはない。何回もの行きつ戻りつを繰り返すであろうが、100年かかろうともその変化は、不可逆的に進行するのでなければ、人類と地球には未来はないからである。

迷走する日本政治に未来はあるか

いうまでもなく、日本も前述のようなトランプ現象と無縁でいられたわけではない。ここ数年の政治の保守化とポピュリズム的勢力の台頭は、その証左である。ただ、日本は、良くも悪しくも第二次世界大戦後の世界を敗戦国として過ごしてきた。そのことが、「グレートアメリカアゲイン」とか「アメリカファースト」にならったスローガンを掲げることをためらわせてきた。「美しい日本」とか「日本を取り戻す」とか、どことなくおずおずしたキャッチフレーズを唱えるのがせいぜいであった。

それでもここ数年の政治の変化は、着実に憲法改正・強権国家化の方向に歩を進めるのを許してきた。コロナウィルス感染症パンデミックへの対応の失敗も、欧米諸国ほどの犠牲を払わずに済みそうな気配が強まり、オリンピックの喧騒の中で印象をうすれさせるという「幸運」に恵まれ、野党の分裂・弱体化によって、自民党政権は参院選の優勢を確保した。さらに、自民党保守派は、ロシアのウクライナ侵攻を奇貨として軍事費の大幅増額、核共有、敵基地攻撃能力の反撃能力への拡大、そして憲法改正による自衛隊の国軍化を公然と主張し始めた。

ところが、退陣後も日本政界にキングメーカーとして隠然たる影響力を残そうとしていた安倍前首相が、選挙の応援演説の最中に手製の銃で襲撃され、落命するという重大な事件が発生した。犯人の動機や背景、犯行の態様などはマスコミ報道で大分明らかにされてきたが、その過程で統一原理教会およびその関連団体である勝共連合などと自民党保守派を中心とした政治家との繋がりの問題が浮上してきた。そして、その繋がりが、戦後保守政治の暗部とでもいうべき問題に深く関わっているらしいことも明らかにされそうな状況である。

事態は現在進行中のことでもあり、その全体を論評することはできないが、現在までに分かっていることで戦後政治上の問題点を考えると、統一教会と保守政治家とのつながりは想像以上に広く、深いようで、その結節点は反共産主義の一点に絞られると言ってよいであろう。アメリカ合州国を盟主とした資本主義・自由主義の反共体制こそ、戦後レジームそのものと言ってよいが、日本では、フィクサーと呼ばれた右翼の黒幕・大立者や首相経験者を含む保守政治家や反共論客が勝共連合や世界平和教授アカデミーなどという組織を介して、欧米諸国の保守政治家・反共論客と連携が図られ、戦後レジームの一角を担っていたことになる。

統一教会の原理・教理の中で日本は植民地支配の原罪を負っており、その贖罪無くしては救われないなどと説かれていることについて、日本の保守勢力がどのように折り合いをつけていたのか分からない。その関係は、金と人脈のみで利用しあうだけの関係だったかもしれない。その解明は今後にまつしかないが、勝共連合結成にかかわった祖父の跡を継いで政治家となり、政権保持の最長記録をもち、自民党最大派閥を率いていた政治家が、「戦後レジームからの脱却」を呼号していたとは、一体どういうことか。脱却すべきは反共親米・対米従属のレジームそのものではなかったのか。

現在、世界的に戦後体制の枠組みが危機にさらされている時に、戦後体制が掲げた「理想」すなわち平和と世界的人権保障の確立という目標を振り返り、その実現を妨げてきた要因を深く分析することが求められている。敗戦国として、戦争そのものとそれを阻止できなかったことへの反省に立脚した憲法を持つ日本が、自らそうした課題を担う気概を示すならば、混迷した現代世界において確かな位置を占めることが可能になる。おごった勝者は歴史を忘れ、教訓を学ぼうとしないが、反省する敗者は歴史を深く学び、そこから未来への教訓を引き出そうとする。戦後史の転換点に立って、その思いが強まるばかりである。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

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