特集 ●混迷する時代への視座

国政版自公民路線の成立を画策する

国民民主党と玉木雄一郎代表のゆくえ

松山大学教授 市川 虎彦

1 三者三様だった四国の参院選

参院選挙が終わった。四国の3つの選挙区は、いずれも自民党候補が圧勝した。結果はともかく、そこに至る野党系候補者の擁立状況は三者三様であった。

愛媛選挙区は、元国家公安委員長の山本順三に対抗馬として、野党統一候補を擁立することができた。これは、3年前の参院選で野党統一候補として当選した永江孝子という現職参議院議員がいたことが大きかったのであろう。候補者となったのは、元アイドルタレントの高見知佳である。歌手でもあり俳優でもあった高見は、1982年公開の深作欣二監督「蒲田行進曲」に出演したことで知られている。しかし、芸能界の表舞台から遠ざかってから久しく、元アイドルと言われても、50歳以下の人になると知らない人がほとんどであった。

徳島・高知選挙区は、総務副大臣の中西祐介に対して、国民民主党(前田強)、共産党(松本顕治)の候補者が立候補した。野党共闘が形づくられる以前によくみられた図式に戻った形である。

さて、香川選挙区である。前年の総選挙では、香川1区で野党共闘が功を奏し、立憲民主党の小川淳也が初代デジタル大臣の平井卓也に競り勝って当選している。今度の参院選では共闘がどうなるか、立憲民主党政調会長となった小川と国民民主党代表の玉木雄一郎(衆院香川2区選出)との間で、どのような話し合いがなされるかが注目された。水面下で統一候補の名前が出されることもあったやに聞く。しかし、まとまらないうちに時間だけが過ぎていき、共産党は独自候補(石田真優)擁立に踏み切る。3月末になって、立憲民主党(茂木邦夫)、国民民主党(三谷祥子)がそれぞれ候補者を発表した。日本維新の会は、昨年の衆院選に立候補した町川順子を立てた。結局、1人区に野党4党の候補者が乱立する選挙区となってしまった。選挙は、現職の官房副長官である磯崎仁彦が次点の三谷の3倍以上の得票で悠々と当選を果たした。野党の有力議員がいる県で、最も自民党を利する構図をつくってしまったことになる(注1)

そもそも国民民主党は、昨年の衆院選後、野党間の連携を目指すのではなく、自公連立政権寄りの姿勢を露わにするようになった。その極めつけが、2022年度政府予算案の賛成に回ったことである。「対決より解決」を掲げる国民民主党は、結局与党入りを狙っているのではないか、玉木代表自身が自民党入りを希望しているのではないか等々、様々な憶測を呼ぶことになった。こうしたことも、参院香川選挙区で野党統一候補が擁立できなかった原因の1つであろう。

野党共闘については、前回の衆院選の結果が出た後、野党共闘は失敗だった、立憲民主党は共産党と共闘したがゆえに比例区で票が逃げた、という種類の報道や分析が一斉に出回った。これは、野党を分断するための何かの陰謀であったのだろうか。今回の参院選からみると、むしろ比例の票が立憲民主党の実力で、野党共闘の結果、小選挙区における接戦区を勝ち切って議席を上積みできた、と表現した方が適切だったように思えてならない。自公政権にとっては、野党候補が複数立つよりも、野党候補一本化の方が脅威であるのはまちがいない。しかし、玉木はマスコミ報道の尻馬に乗り、野党共闘に対して非協力的な態度を貫き、野党間の分断を深めた。ゆえに、玉木代表は、参院選における自民党議席伸長の「影の功労者」と言ってもさしつかえないだろう。

2 玉木雄一郎の軌跡

ここで、あらためて国民民主党代表・玉木雄一郎の歩みをふりかえってみよう。生まれは、東部(いわゆる東讃)の(現・さぬき市)である。実家は、兼業農家だったという。香川県随一の進学校である高松高校から東京大学法学部へ進学し、1993年に大蔵省へ入省している。その後、2002年から内閣府へ出向して、行政改革担当大臣の秘書専門官に就くことになる。

この秘書専門官時代に、本格的に政界進出を考え始めたようである。玉木は、当初、自民党からの立候補を考えたとされる。事情通の話によると、この時、衆院ので自民党候補の空白区が北海道にしかなく、あまりにも縁もゆかりもなさすぎるため、これを辞退したという。

玉木は、別の道を探ることになる。玉木は大臣秘書専門官として、2004年9月に発足した第2次小泉改造内閣の内閣府特命担当大臣(規制改革・産業再生機構担当)・村上誠一郎の知遇を得ていた。ちなみに村上は、玉木と同じ四国の愛媛2区選出で、この時当選6回であった。その後、当選回数は連続12回まで伸ばしている。一方で、『自民党ひとり良識派』(講談社現代新書)等を著している村上は、安倍晋三元総理の政権運営に批判的な言辞を向けた数少ない自民党政治家として知られている。それゆえか、入閣はこの1回だけで、党のめぼしい役職にも就いていない。安倍1強体制で最も割を食った自民党政治家の1人といっていいだろう。その村上誠一郎の妹は、民主党代表を務めた岡田克也の妻である。そうしたつながりから、玉木は村上を介して2005年の衆院選に民主党公認で地元の香川2区から立候補する運びになったという。

「郵政選挙」と呼ばれた2005年の衆院選は、準備期間が短すぎ、自民党現職の木村義雄に敗れて比例復活にも届かなかった。2009年のの「政権交代選挙」で初当選を飾り、2012年の民主党が大敗した総選挙でも小選挙区を勝ち抜いた。2014年総選挙は、危なげなく3選を果たす。そして、はや3回生で2016年9月の民進党代表選挙に、蓮舫、前原誠司と並んで立候補する。この時は3位で落選するも、選挙後は幹事長代理に就任した。

2017年の「希望の党」騒動の総選挙では、希望の党公認で4選目を飾る。総選挙後の希望の党共同代表選挙で当選を果たし、直後に小池百合子が共同代表を辞任したため、単独の党代表となった。当選4回で、一党を率いる立場となったのである。

その後、民進党と希望の党が合流してできた国民民主党においても、党代表の座に就く。2020年になって、立憲民主党や国民民主党などの野党勢力の結集が試みられた。その際、玉木は合流しない道を選び、他の非合流組の議員で設立した新「国民民主党」の代表となった。大きな塊の一部となって自民党と対峙するよりも、小政党といえども代表として自由にふるまえる立場の方が好ましかったということであろう。これ以降、自民党への接近が図られるようになって、今日に至っている。

3 香川2区における玉木雄一郎

玉木雄一郎が党内の要職に早くから就き、党代表にも就任している理由は、当人の有能さはもちろんのこととして、選挙での強さも1つの大きな要因であろう。かつての民主党政権の首相や閣僚経験者である野田佳彦、菅直人、海江田万里、前原誠司、馬淵澄夫、原口一博、枝野幸男、玄葉光一郎、長妻昭、大畠章宏、松原仁や、立憲民主党の現在の役職者である泉健太、西村智奈美、小川淳也、逢坂誠二でも、初当選以降に落選もしくは小選挙区落選比例復活の経験がある。ところが玉木は、どんなに逆風が吹こうと小選挙区を勝ち抜いている。玉木が選出されている香川2区は、高松市を取り巻く地域で形成されていて、農村部も広く含み、本来は保守地盤が厚いとされている選挙区である。それにもかかわらず、選挙での強さが際立つのである。

玉木の選挙での強さは、その保守層を取り込んでいるところにあると指摘されている。原動力となったのが、香川県出身の大平正芳元総理大臣の一族の支援を受けたことである。玉木自身、大平元首相の遠い親族にあたるという。大平元首相の娘婿で地盤を受け継いで衆院議員となった森田一は、坂出市出身である。坂出市は中讃地方の工業都市で、東讃出身の玉木とは縁の薄い地域なので、力強い支援となったことであろう。とりわけ、大平元首相の孫にあたる渡辺満子という女性が、熱心に玉木の応援をしたという(注2)

その上で、個人票が上乗せされているのも見逃せない。2009年総選挙時、地方テレビ局の報道記者をしていた人物の回顧談によると、玉木の演説場所では、ご婦人層が「男前がくるんだってえ」と、玉木が到着する前から浮き立っていたそうである。「木村義雄(自民党)とは、盛り上がり方が全く異なっていた」という。顔で入れているという妙齢の女性は、「玉木が自民党に行っても共産党に行っても、玉木に入れる」との妄言をのたまわっているそうだ。私自身、永江孝子参院議員に「自称イケメンの玉木は…」と話しかけたところ、間髪入れず「自称じゃないですよ、ほんとうにイケメンですよお」と返された経験がある。他人の顔をとやかく言えた義理ではないが、たしかに対立候補の瀬戸隆一(自民党)よりは整った顔立ちにみえる。いずれにせよ、玉木個人に対する人気は、政党を移り変わっても選挙で当選を続けられる理由の1つである。

玉木の支援者は、「香川2区は自民党から共産党まで玉木支持だ」との弁で、「玉木党だから」と述べていた。玉木個人はともかく、国民民主党が自民党にすり寄り、予算案に賛成したこととかに対する批判はないのかという問いに対して、元総評の闘士ですら「地元では一切ない」と言い切っていた。「国民民主党がどうなろうと、(玉木は)今後10年は香川2区で勝ち続けられる」とのことであった。恐るべし、玉木人気である。

さすがに香川1区になると、玉木批判の声が聞こえてくる。「民主党時代の自民党批判の先頭に立っていたときはよかったけれど」というものである。

4 国民民主党のゆくえ

今回参院選で玉木代表率いる国民民主党はどのような結果を残したであろうか。 国民民主党の最大の支持基盤は民間労組である。国民民主党の比例区候補として、UAゼンセン(川合孝典)、自動車総連(浜口誠)、電力総連(竹詰仁)、電気連合(矢田稚子)と、4人の組織内候補が立候補していた。基幹労連(村田享子)は、本来、国民民主党の支持母体である。しかし、前回参院選で組織内候補を落としており、今回は絶対に落選させられないとして、立憲民主党から候補者を擁立していた。国民民主党としては、比例区4議席獲得が至上命題であった。選挙結果は、基幹労連は思惑通り村田を当選させることができた。一方、国民民主党の比例区獲得議席は3議席にとどまり、電機連合の現職・矢田が落選してしまった。当選した村田の個人名での得票は125340票、一方の矢田は159929票で、逆転現象が生じている。国民民主党にとっては頭の痛いところであろう。選挙区では、維新候補と接戦になった愛知で、現職の議席を確保できたことが大きかった。報道をみるかぎり、今のところ玉木代表に対して、党内から議席減の責任を問う声は出ていないようである。

さて、この先、国民民主党と玉木代表はどのような道を選択するのであろうか。玉木は、今回の参院選前に『朝日新聞』(2022年5月12日付)から「与党寄り」の政治行動を問いただすインタビューをされている。その締めくくりで「とにかく、いまは生き残りをかけて参院選を戦うということだけ。私が自民に行くことはない」と述べて終わっている。わざわざ「自民に行くことはない」と強調するところをみると、疑惑の眼で見られているという自覚はあるようだ。そこで支持者に話を聞いてみると、やはり玉木の自民党入りはないとのことであった。それは、自民党二階派入りした細野豪志に対する反発や処遇をみているからだという。もし玉木が自民党入りしたら、細野以上の反発を受けることは必至であり、そのような行動には出ないとのことであった。一方で、香川2区では「玉木が自民党だったら、こんなにやりやすいことはないのに」という愚痴めいたものを、あちらこちらで聞くという。

玉木自身の自民党入りは難しいとして、国民民主党の立ち位置は今後どうなるのであろうか。その点で、自民党と国民民主党の関係を示す出来事が、参院選公示に先立って行われた日本記者クラブ主催の9党首討論会であったという。この討論会の第1部は、各党首が2回ずつ討論相手を指名する仕組みで行われた。岸田文雄首相は、第1回目の討論相手に国民民主党の玉木代表を指名している。支援者に言わせると、これは岸田首相の玉木に対する配慮なのだそうである。言われてみれば、たしかに野党第1党の立憲民主党・泉健太代表と論戦を交わすのが、政権担当者の通常のふるまいである。同じ与党公明党・山口那津男代表は、1回目の質問を立憲民主党に向けて放っている。岸田首相の異例のご指名は、玉木からしてみれば、ありがたくも見せ場をつくってもらったということになる。

自民党からの国民民主党に対する破格のサービスは、何を意味しているのであろうか。その背景にあるのは公明党だという。「下駄の雪」と揶揄されてきた公明党がここにきて独自の主張をする場面が目立つようになり、自民党としてはその牽制役を欲するようになったのだという。そういう段階で、宏池会出身の岸田首相が誕生したことは、宏池会の遺伝子(注3)を受け継ぐ玉木にとって「ツキにめぐまれた」というのである。こうなってくると、あとは国民民主党がどういう契機で与党入りするかになる。

5 自公民体制の歴史は繰り返すか

振り返ってみると、公明党が連立政権入りしたのは、1999年のことである。だが、地方ではその20年以上も前から、自公が協力関係を築いていたのは周知のとおりである。1960年代後半以降、都市部を中心に次々と革新自治体が成立した。この都道府県政・市政を奪還するために自民党が採った戦略が、公明党・民社党との相乗り候補の擁立である。結果的にこれが功を奏し、革新自治体は減少の一途を辿った。1970年代後半から地方政治の場では自公民の選挙協力が常態化し、与党化が進んだ。こうした前史があるがゆえ、「国民民主党内には自民党との連立にアレルギーはない」とのことであった。

その後、さらに地方選挙では、自公民に社会党も加わったオール与党体制が現出することになる。その際、社会党が言い訳に用いた理屈が、「外交・安全保障政策がない地方政治には保革の基本的な対立がない」というものであった。

オール与党体制は、何をもたらしたか。東京都や大阪府の知事選挙では、毎回、知名度の高い候補者が現れてにぎやかにおこなわれているので、大都市ではあまり気づかれていないのかもしれない。地方の首長選は、つとに形骸化が進んでいる。香川県では平井城一が初当選した1986年の知事選以降、投票率が40%を超えたことがない。直近の2018年知事選は、ついに30%を切った。かつて前川忠夫革新県政(注4)を成立させた香川県民にして、このていたらくである。高知県知事選挙にいたっては、2011年、2015年と2回連続して無投票である。

オール与党体制は、選挙における棄権の増大と有権者の政治への無関心化を招いている。仮に自公国連立政権が誕生して、与党へ与党へとなびく風潮が強まれば、国政においても有権者のとめどない政治離れが並行して生じるに違いない。後年、「22年体制」とよばれるのかどうか。もしそうした時代が招来したとすれば、時代を拓いた人物として玉木雄一郎は歴史に名をとどめるかもしれない。歴史に汚点を残すと表現すべきか。

【注】

(注1) 参院選に惜敗率という概念はないけれども、当選した自民候補に対する次点候補の得票の比率を計算してみると、愛媛54.3%、徳島・高知35.9%、香川29.9%であった。あたりまえのことだが、野党候補者が絞られるほど比率は上昇する。

(注2) 「2009年の夏頃から森田の娘が玉木の集会や個人演説会で応援弁士を務めるなど、選挙キャンペーンに加わっていたことである。彼女は、集会などで森田や大平を引き合いに出しながら、玉木への支持を訴えるとともに、かつての森田支援者らに挨拶にまわった」 堤英敬・森道哉「民主党候補者の選挙キャンペーンと競争環境」『政権交代選挙の政治学』ミネルヴァ書房P.52参照。今回の取材でも、このことはよく聞いた。

(注3) 言わずもがなながら、大平正芳元首相は宏池会の領袖であった。

(注4) 前川忠夫は、香川大学長を務めた農学者。1974年から3回、香川県知事に当選した。

*今回も、松山大学の井上正夫教授に、香川県の有権者の方々を紹介していただいた。この場を借りてお礼申し上げます。

いちかわ・とらひこ

1962年信州生まれ。一橋大学大学院社会学研究科を経て松山大学へ。現在人文学部教授。地域社会学、政治社会学専攻。主要著書に『保守優位県の都市政治』(晃洋書房)、共編著『大学的愛媛ガイド』(昭和堂)など。

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