論壇

虚栄の祭典を映像で記念碑化

河瀬直美監督の『東京2020オリンピックSIDE:A/SIDE:B』

関東学院大学客員研究員 神谷 光信

オリンピック公式記録映画

東京オリンピックは、新型コロナ感染症の影響から1年延期され、2021年7月から8月にかけて、異例の無観客で開催された。それから1年、河瀬直美監督の東京五輪公式記録映画が公開された。2部構成となっており、競技者の側を描いた『SIDE:A』が6月3日に、運営側を描いた『SIDE:B』が6月24日に、それぞれ封切られた。いずれも上映時間は2時間あり、合わせて4時間の大作である。3年半、750日、5000時間分の映像を編集したものという。

前回の東京オリンピックでは、市川崑監督が公式記録映画を撮っている。河瀨直美が監督に就任したのは2018年10月のことだ。公式記録映画を撮った年齢が同じと述べるなど、河瀬は市川を意識していた。国際オリンピック委員会(IOC)からは「独自のまなざしでオリンピックを撮ってもらいたい」と要望されたという(『NIKKEI  STYLE』2019年5月14 日)。単なる映像記録ではなく、映画すなわち「作品」でなければならないと河瀬はこれを受け止めた。

河瀬の監督就任を報道で知ったとき、筆者は興味をそそられた。石原愼太郎元都知事が発案し、安倍晋三元首相が強く開催を後押しした東京五輪は、招致の段階からさまざまな批判があった。その中で河瀬が引き受けたことに驚きを覚えたからである。考えてみれば、彼女はカンヌ映画祭をはじめ、海外で多数の受賞歴があったから、国際的イベントの記録映画監督として白羽の矢が立ったのも当然だった。1964年の東京大会公式記録映画でも、海外で著名な黒澤明が依頼されていた。もっとも黒澤は一旦受諾したものの、その後に依頼を断り、市川がメガホンをとることになったという経緯がある。

一抹の危惧を筆者が抱いたことも事実だ。1936年のベルリンオリンピック公式記録映画の女性監督レニー・リーフェンシュタールが即座に脳裏に浮かんだからである。ナチスドイツが国家宣伝に利用した五輪大会。公式映画もその芸術性から高い評価を得たが、第二次大戦後、彼女はナチスの協力者として長らく批判され、映画監督としての活動をそれまでのように続けることができなかったからである。

安倍晋三も石原愼太郎も強烈なナショナリストだった。それゆえ、政界に大きな影響力を持つ彼らが期待する公式記録映画は、市川崑のような競技者の人間ドラマというよりは、映像を通して日本を永遠に輝かせるような国威発揚の記念碑的作品ではないかと想像された。つまり、河瀬が芸術家としての欲望を、国家の欲望とどのように折り合わせるかに関心を抱いたのである。

無観客の映画館

『SIDE:A』を川崎市内の映画館で観たのは公開から1週間後、6月10日の金曜である。8時半からの最終上映だったが、観客は筆者しかいなかった。しばらくして中年男女が入ってきて合計3人になった。『SIDE:B』を同じ映画館で観たのは公開初日の6月24日、やはり金曜の最終上映で、このときは筆者を含めて6人だった。こうした状況は、東京をはじめ、全国200の映画館でも同様だったらしい。

『SIDE:A』は、日本公開に先立ち、5月26日(現地では25日)に、カンヌ国際映画祭で公式上映された。エンドロールで拍手が沸き起こり始め、上映後にそれは喝采になったという。海外でのこうした高評価と反対に、日本国内での観客動員は、公開当初から低迷し続けていた。大会そのものと同様「無観客上映」と一部のメディアは揶揄した。これは一体、どういうことなのだろうか。

悪評の前宣伝

5月23日に都内で行われた『SIDE:A』完成試写会には森喜朗、橋本聖子、山下泰裕ら大会関係者も出席したが、会場前では公開反対を叫ぶ人々が集まり警察が出動したと報じられた。そもそも内容以前に、映画の公開自体を反対する声があった。そこには、東京オリンピック開催にまつわるさまざまなスキャンダルへの人々の嫌悪が影響していたことに疑いはない。

汚職疑惑を受けた竹田恒和日本オリンピック委員会(JOC)会長の退任、新国立競技場計画の白紙撤回、エンブレムデザインの盗作疑惑、森JOC会長の女性差別発言による辞任、閉会式関係者の過去の障碍者差別問題、そして何よりも新型コロナ感染症のパンデミック下での強行開催に対する批判が公式記録映画批判にそのままスライドしたのも無理はないからである。

それに加えて、河瀬に関する不名誉な報道も映画公開前に相次いだ。2月10日の各紙は、前年12月に放送されたドキュメンタリー番組、NHKBS1スペシャル「河瀬直美が見つめた東京五輪」のなかで、五輪反対デモの取材を受けた匿名男性が「実はお金をもらって動員されていると打ち明けた」という字幕が取材内容と異なっていたことをNHKが認め、関係職員6人が懲戒処分されたと報じた。

4月13日『ハフポスト日本版』は、河瀬が東京大学入学式で祝辞を述べた際、ロシア・ウクライナ戦争に触れて「ロシアという国を悪者にするのは簡単」と発言したことが、複数の国際政治学者から強く批判されたと報道した。同記事は『Yahoo!ニュース』に転載された。4月28日発売の『週刊文春』は、2019年5月、映画『朝が来る』撮影中に河瀬から暴行されたカメラマンが降板したと報道、さらに25日発売号でも、2015年10月に河瀬が事務所スタッフの顔面を拳で殴打したと報道した。

こうした一連の報道が、いわば悪評の前宣伝として、公式記録映画『東京2020オリンピック』を映画館に観に行こうという人々の気持ちを削いだことは想像に難くない。不思議なことに、国家的大イベントであったにも関わらず、この映画について、派手な宣伝は行われなかった。また、学校を通じた児童生徒の動員もされていない。市川崑の映画「東京オリンピック」が空前のヒット作となった背景にはそうした動員もあったのだ。

映画を実際に劇場で観て、高く評価し、自ら宣伝役を買って出て、SNSで発信する人々、とりわけ評論家や大学教授、政治家もほとんどいなかった。東京大会に関係した人々が、上映期間が過ぎ去るのを静かに待ち続けているかのような状態なのである。

栄光を描かない『SIDE:A』

『SIDE:A』は雪が降りしきる、寒々しい東京の光景から始まる。陰々滅々とした奇妙な節回しの歌がそこに被さる。次第にそれが君が代であることがわかる。異様な始まり方というしかない。

当然のことながら、多くの競技選手たちが画面に登場する。しかし、河瀬が注目するのは、シリアからの難民水泳選手であり、イラン出身でモンゴル代表の柔道選手、出産のために日本代表を辞退する選手、そして試合に敗れる日本選手である。リレーのバトンを落とす日本人選手の姿も画面に映し出される。栄光ではなく敗北が、国家が生み出した英雄ではなく国家に嘲弄される個人の姿が描かれる。

映画全体として、競技者の身体を美的に映像化し、神話化して示そうという気持ちが河瀬にはない。現実を神話化し、国家が自らの権威を視覚的に示す壮麗な祝典として東京大会を描こうとしていないのである。

聖火リレー。コカ・コーラの赤い宣伝車が大音量をあげてノロノロと田舎道を走る。運営側の人物の顔が大写しになり、立派で空疎な言葉を吐く映像。それが、新型コロナ感染症で必死に働く医療現場の映像に切り替わる。五輪反対を叫ぶ人々とそれを見守る警察官たちの映像も差し込まれる。現実の神話化ではなく、むしろ五輪幻想を野蛮な現実に引き戻そうとする意志がここにはある。神話はどこにもない。国家宣伝もない。映像の美しさへの執着すらない。

イロニーに満ちた『SIDE:B』

『SIDE:B』は競技者側ではなく運営側を描いている。開催をめぐり、背広を着た年配の男たちが会議室で侃々諤々の議論を交わす場面が描かれる。森喜朗JOC会長、森の辞任後、新会長に就任した橋本聖子、柔道の山下泰裕、開閉会式企画演出チームのリーダーで降坂した狂言師野村萬斎、その後に式典統括者となるが辞任する電通の佐々木宏などが登場する。そうした幹部とともに、選手村食堂の現場を、死に物狂いで取り仕切るマネージャーの奮闘も描かれる。彼の姿と会議室で議論する男たちとの対比は鮮やかだ。

全編を通して最も多く登場するのは森喜朗会長とトーマス・バッハIOC会長である。かれらを主役と見ることもできる。あるフリーライターはそのように受け止め、両者に対する批判的視座がないとしている(『週刊文春』電子版6月26日)。しかしこれは短見ではなかろうか。河瀬の人物の映し方には特徴がある。クローズアップは、一般には俳優の美貌を強調する役目を果たすが、83歳の森、68歳のバッハ、つまり老人男性の身体、衰えた肉体の強調は、その人物の身体的魅力を強調することにはならない。彼らの肉体は、『SIDE:A』に登場する競技者たち、すなわち国家が生み出した英雄たちの、若く鍛えられた肉体と極めて対照的だ。老人を魅力的に映像にすることはいくらでもできよう。しかし河瀬はそうしない。ここには裏返されたボディ・ポリティクスがある。バッハについては、輝かしい競技者時代の映像すら対比的に挿入するのである。

バッハ会長が広島平和記念公園で献花する場面では、デモ隊のシュプレヒコールが聞こえている。バッハが五輪開催反対をメガホンで叫ぶ女性に近づいて、メガホンを下ろして私と話しましょうと接近する場面がある。広島平和記念館を見学しながら首を振る映像もある。これらは確かにバッハの善良さを演出している。「ぼったくり男爵」(ワシントンポスト紙のコラムの言葉を共同通信社が和訳した言葉。2021流行語大賞)と呼ばれた「悪役」からの「人間」化が窺われる。しかしそれは美化には程遠いというべきである。

演出家宮本亜門が五輪開催を正面から批判する映像もある。開催反対を叫ぶデモ隊の姿も映し出される。その一方で、無邪気な子ども、それから逆光に揺れる木洩れ日などが、時折映画に挿入される。その映像には、ささやかで儚い、それでいてどこか永遠を感じさせるような「詩」がある。詩があることで、東京五輪開催になりふり構わず突き進む無残な現実が引き立つ。河瀬は現実を美化せず、現実の野蛮を描く。

『SIDE:B』が完成したのは公開10日前だったという。想像を逞しくすれば、河瀬は安倍晋三元首相の映像をすべて削除する決断をぎりぎりまで迷ったのかもしれない。安倍は、2013年9月、IOC総会の東京五輪招致演説で、原子力発電所事故の状況は「アンダーコントロール」と述べた。日本は東日本大震災からの「復興のシンボル」として大会を位置づけ、世界にアピールしていたのである。安倍はまた、2016年、リオデジャネイロオリンピック閉会式でマリオに扮して登場し、東京開催をアピールした。開催が1年延期されたときには「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証」として大会を開催すると述べた。

このように、東京開催に向けて大きな力があった安倍が、この映画には一度も登場しないのである。『SIDE:B』に安倍の映像が組み込まれれば、それは森やバッハと同様、彼を美化するものにはならなかったはずだ。ちなみに、2021年7月、「やめることは、いちばん簡単なこと、楽なことだ。挑戦するのが政府の役割だ」と述べて大会を強行した菅義偉首相(当時)は登場する。

映画館で販売されている『SIDE:B』のパンフレットには、河瀬のインタビューが収録されている。このなかで彼女は森喜朗、バッハについて彼らの人間性を賞賛している。だがこれはどう考えても挨拶であって、額面通りには受け取れない。公式記録映画の監督が、JOC会長やIOC会長を悪く言うことができようか。両者の映像が量的に多いのは事実だが、森の会長辞任劇も記録されており、前述のとおり、クローズアップされた画面それ自体がイロニーに満ちているからである。

公開はせざるを得ない

この映画が公開されたこと自体に筆者は驚く。権威主義国家では公開されたとは思えないフィルムだからだ。もっとも、IOCもJOCも、日本で開催された国家的イベントの公式記録映画を世界に公開しないわけにはいかない。河瀬は芸術家として政府筋が期待するフィルムを作らなかったが、河瀬に監督を依頼した以上、彼らは彼女の作品に表立って口出しするわけにはいかない。市川崑も、日本選手の活躍が少ないという圧力を受けて、完成までに再編集を行っている。河瀬には、そうした類の圧力がまったくなかったとは考えられない。『SIDE:B』完成が公開10日前までずれ込んだのも、芸術的抵抗と政治的妥協のせめぎあいが河瀬のなかであったからかもしれない。

公開後のインタビューで、映画公開について河瀬は次のように語った。「組織委もハラをくくってるんだと思います。この映画が公開されるということは、自分たちの失敗を認めるということ。」(『ひとシネマ』2022年6月28日)。ここには河瀬の本音が語られている。彼女は複数のインタビューで、未来の観客に見てもらいたいと述べている。「今は見てもらえなくても、50年後、100年後、私が死んだ後にも見られる映画になっている」(前掲『ひとシネマ』)。同時代の人々に見てもらえないことを、河瀬は制作中から予期していたのかもしれない。彼女が守ろうとしたものは芸術家としての矜持だと思われる。

市川崑の『東京オリンピック』も、日本公開に先立ち、カンヌ映画祭で招待作品として上映され絶賛されている。日本国内では公開初日から大入りで、公開から40日間で1711万人を動員した。もっとも、この映画を失敗作とする意見も組織委員会内部にはあり、第2作『世紀の感動』が制作されたことは思い出されてよい。批判の口火を切ったのは当時のオリンピック担当大臣河野一郎で、彼は試写会後にケチをつけ、映画の評価と公開の是非について、関係者の間で一波乱あったのである(吉見俊哉『五輪と戦後』)。

映画の公開をめぐり「組織委もハラをくくってるんだと思います」という河瀬の発言は、市川作品をめぐる、当時の組織委員会の迷走を踏まえたものと思われる。前大会での政府筋による批判もまた、世間での記録映画への注目を呼び起こす効果があったことを踏まえるならば、河瀬の映画に対する政治家たちの不可解な沈黙が、より一層きわだつ。

市川作品のときには、記録映画をめぐる報道が各紙でなされ、作品を擁護する人々もいた。そこが河瀬の場合と違う点である。河瀬の『東京2020オリンピック』について語ることに、メディアもまた不熱心なのである。

『週刊文春電子版』は『SIDE:A』公開直後の6月7日に、初日舞台挨拶がなかったこと、驚くほど人が入っていないことを記事にしている。7月5日には、『SIDE:B』を観た同じ著者による記事で「楽しみにしていたのが、森喜朗氏やバッハIOC会長をどう描くかという点。面白かったのは、被写体としての森喜朗に夢中な感じすら滲み出ていた」「果敢にムラ〔社会〕の中に入った河瀬監督らスタッフが森氏に魅入られていく様子も見ていて面白い」とある。筆者がそのようには捉えなかったのは前述のとおりである。「五輪反対派を描くシーンで、反対派の人たちがまるで異物のように映されていると感じた」とも記されているが、これも筆者の見解と異なる。

前述のように、『週刊文春』は、映画公開前には河瀬の過去のハラスメントを記事にし、公開後は映画の評判を落とす記事を掲載した。同誌電子版7月6日は、『SIDE:A』で音楽を担当した藤井風が『SIDE:B』では公開直前に降坂したとも報じた。藤井が同映画の音楽を担当することについては、河瀬への悪評がメディアに出たことにより、ファンの間で落胆の声もあがっていた。SNSやユーチューブにも、河瀬と五輪映画への批判があふれた。河瀬と『東京2020オリンピック』に対するネガティブなイメージが拡散されたのである。

利益を得たのは誰か

メディアによるこうした「キャンペーン」で最大の利益を得たのは、JOCと政府筋である。日本政府は「民主主義国家」として、河瀬の映画を検閲することはできない。劇場公開もさせざるを得ない。しかし、「自分たちの失敗を認める」ことになる映画を多くの国民に見せたくはなかったはずだからである。濡れ手に粟とはこのことであろう。

河瀬は映画監督としての評価を日本国内で大きく傷つけられる結果となった。『東京2020オリンピックSIDE:A/SIDE:B』は、東京大会を「平和の祭典」として美化した作品ではない。「虚栄の祭典」だったことを証したフィルムである。権力に近づいた芸術家が、権力の意に添わぬ作品を制作した代償がこれだった。言論人、表現者は、河瀨直美の身に起きた今回の出来事について、高みの見物をきめこむべきではない。明日のわが身に降りかかる災厄と受け止めるべきである。

 

かみや・みつのぶ

1960年横浜生まれ。日本近代文学研究者、博士(学術)。著書に『評伝鷲巣繁男』(小沢書店、1998)、『須賀敦子と9人のレリギオ』(日外アソシエーツ、2007)、『ポストコロニアル的視座より見た遠藤周作文学の研究』(関西学院大学出版会、2017)ほか。

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