連載●池明観日記─第1回

韓国の現代史とは何か─終末に向けての政治ノート

池 明観 (チ・ミョンクヮン)

2008年
ドストエフスキーから

1979年に出した『韓国文化史』の再版を出すというので朱を入れた本を明石書店に廻した。ページごと修正を入れた。いくらか前には『韓国現代史』の原稿を廻したのだから、これで私が本を書くという作業はすべて終わったといえよう。だいぶ前に小花出版社(韓国)に『私の政治日記』の原稿を渡したが、今度明石書店に渡したのは日本語の原稿である。

ここに新たに断想を書き残すことにした。実に困難な時代で時には国会にアピールの手紙でも書かねばならないのかと考えるこの頃である。この年齢ではこのような時代に新聞にものを書くというのも難しいのではないか。

私は今日をただ単に金融危機であるとだけ考えるのではない。ことさら名づけるとすれば資本主義の危機、さらに民主主義の危機と呼びたい。もう少し深めて考えれば民主主義体制下における人間の危機と呼ばざるをえないような気がする。正しい人間と制度を求めるが一体それが可能であろうか。選挙を見ればその行方はわかるではないか。だからといって社会主義をあげるかもしれないが、それはすでに実験ずみといえるかもしれない。今アメリカでも改革を試みるとはいっているが、可能かどうか、夢のような気がしてならない。

人間が善意志を喪失するならば、そしてそのようになった人間が力を持つようになれば、一体民主的な市民たちの牽制する力がどれほど有効であるといえるのだろうか。それに北の地(北朝鮮)とは支配者個人の社会といわなければならないのではなかろうか。ほんとうに現代の危機を反芻せざるをえない。私の年ではすでに世を去っている人が多いのであるが、私の思考が停止する日まで時代の証言でも書き続けたい。私の残された人生を支えるためにも。(2008年 12月 1日)

ドストエフスキーの『未成年』(新潮文庫、上巻)にはヴェルシーロフが息子ドルゴルーキーに向かって“よくもきみが、この腐敗した時代に自分の心の中にある‘自分の理想’を育てることができると思う”のできみを尊敬する、ということばがある。“神を信じなきゃいけないよ”ともいう。神を信じなければ無意味な人生に耐えられないのではないかというのである。“人々から悪いことをされても、できるだけ腹をたてずに‘彼も人間なのだ’ということを思い出して、こらえることだよ”ともいう。そして“人間というものは隣人を愛するということが生理的にできないように創られているんだよ……だから‘人間に対する愛’という言葉は、きみ自身が自分の心に中につくりあげた人類だけに対する愛……決して実際に存在することのない人類に対する愛と解釈すべきだよ”といった。これがドストエフスキーの人生観であったであろう。なんと悲壮なことばであろうかと虚空を見上げながら考えざるをえない。(2008年12月9日)

『未成年』第三部に出てくる老人マカール・イワーノヴィッチのことばである。“人間とはなにかを拝まずにはいられないものだ。そういうものをもたなければ、どんな人間だってもちこたえられるものではないのだよ。だから神をしりぞければ偶像を拝むことになる”

いかに多くの偶像崇拝者を見なければならないのか。人間はある価値を設定しないでは生きていけない。時には真の神を信じているという場合も偶像といわざるをえない時が多いのではないか。真の神をいただいて生きている人とはごく稀ではなかろうかと思わざるをえない。

『未成年』においてアンドレイ・ヴェルシーロフが亡命しようとしてヨーロッパに行っていた時に感じたことが描写されている。フランス人はフランスを信じ、ドイツ人はドイツを信じていてヨーロッパを信じるヨーロッパ人は一人もいなかった。そこにおいては亡命者である自分のみが“その当時ヨーロッパにあったただ一人のヨーロッパ人”であったという箇所がある。亡命人とはそのような特権を持っているといえるかもしれない。その国にいた異国人のみが普遍的な人間でありうるということではなかろうか。このような体験をしたとすれば祖国に帰って来ても祖国にいた人とは異ならざるをえないといえよう。孤独にさいなまれるのである。テオ・アンゲロプロス(ギリシャの監督)の映画にあったことが思い出される。亡命から祖国に帰ってきた主人公が再び国を離れるが、祖国に残っていた妻のみが彼と行動をともにする。このような亡命の時代にヴェルシーロフはロシアの過去に対していかなる未練も持たなかった。しかし“わしが単にロシア人であったときよりも、はるかに多く祖国につくした”という。このような亡命人は単純な“フランス人、イギリス人、ドイツ人”よりもずっと自由な人ではなかっただろうか。だからヴェルシーロフは“そのころのヨーロッパでは一人だけが、ロシアの憂愁を胸にいだいて自由な人間だったのだよ”といったのであった。これを“万人の苦悩を背おう世界苦のタイプ”と表現しながら、ヴェルシーロフはロシアにおけるこのような1000名の中に一人という少数者の歴史的意味を考えたのであった。

私はここにひとつつけ加えたい。これはロシア革命への道をたどる革命的人間の像であるとはいえないだろうか。しかし革命が現実となった時には革命的思想、革命的人間は堕落して行くということである。革命はその人間や思想を追放しながら、その理念のみを口頭禅のようにそらんずる堕落したソヴィエトが支配する。これが革命がたどる常道であるともいえようか。そのような脱線を引きつぐことを拒否するといいながらである。実際はそのような革命なしにはその程度の民主主義も不可能であったというのであろうか。ソヴィエトはそのような革命を継承するといいながらかえってその革命を否定したのであった。革命の継承とはこのような革命否定の道を越えて行かねばならない。

李明博政府また韓国の現実が4・19(1960年の学生革命)、そして1987年の6月革命(1987年)の日も沈黙のまま過ごし、軍事政権の反革命5・16(1961年の朴正煕クーデター)、12・12(1979 年の全斗煥のクーデター)の日もまた沈黙で過ごしたことに注目する必要がある。そして彼らはいま‘実用の時代’であるという。いままでの歴史をそのような新しい名まえで消去しなければならないと思うのか。これからこの国の統治、この国の歴史はどのような道を歩もうとするのであろうか。ヴェルシーロフは語っている。

“ロシア人にとってはヨーロッパは、ロシアと同じくらい貴重なのだ。そのひとつひとつの石が愛しく、貴いものだ。ヨーロッパは、ロシアとまったく同じにわしらの祖国だった”。ロシア人はロシア人自身のためのみではなく、‘思想’のために生きているのだった。そのようなことを夢見ながら‘恐ろしい苦悩’の運命を生きていた、と。

北東アジアの歴史においてわれわれが中国や日本に対してヴェルシーロフの語ったように生きてきたといえばどうであろうか。少なくとも日本統治下の先人たちはそのように考えたのではなかろうか。ヨーロッパにおけるロシアと北東アジアにおける朝鮮という運命を比較してみる必要があるような気がしてならない。(08年12月15日)

ドストエフスキーは『未成年』の終わりの後援者の手紙において今日をえがき出すよりは歴史的描写をせざるをえないとつぎのようにのべた。

“彼は歴史小説以外の形で小説を書くことができません。なぜなら美しいタイプが現在はもはや存在しないからです。仮にその名残がわずかにのこっていたとしても、今日の支配的な観念からすれば、とても美をもちこたえることはできないでしょう”。

そのために“ロシアの文学にというよりはロシアの歴史に属するもの”といわねばならないのではなかろうかといった。それは“芸術的に完成されたロシアの幻影の絵”であると考えたのであった。

彼はそれが長編小説であるのにもかかわらずほんとうにごく短い期間を扱った。しかしながらロシアのぼう大な社会と長い時代を対象にしたような印象を与えてくれる。その短い期間のなかにロシアのイメージを十分くみ上げているからである。ロシアの広大なイメージを浮かばせてくれるのである。昨日と今日と明日が圧縮されて時間を感じさせないように結晶している。昨日と今日のロシアの生きざまが、その歴史が生々しく凝結されているのである。(2008年12月17日)

2009年
ヨーロッパとアジアそして革命

ブローデルの『地中海』第2巻を読みながらアジアとは異なるヨーロッパの歴史を理解するようになる。そこではいかなる国、いかなる地域も自給自足の土地ではなかった。ポルトガルは小麦を求めてモロッコに向かったが、やがて北海へとその向きを変えた。このようにヨーロッパから中東まで合わせてたがいに輸出し輸入しあいながら、そこでは契約もあり、あつれきも起こった。そのような動きが近世に向けてインドや東洋に向かうようになる。政治勢力が輸出、輸入を統制しようとすれば、密航・密貿易は避けられなくなる。それで貿易や密貿易に掠奪を加えようとした海賊はどこでも活動していた。ヨーロッパはこのような貿易関係のなかにおかれていた。それに従って外交関係もあらわれた。このような関係を監視し、統制し時には協商や取引を引き出さなければならなかった。

これは北東アジアにおいて中国に向かう外交使節が物々交換をして貿易をなすような役割を果たしたのとは明らかに異なるものであった。これは官が行うものであり、民がなすものではなかった。鎖国がしかれるのだから民による貿易は考えられないものとなった。何よりもおたがいに遠く離れている日中韓は自足の国々であった。そのために近世になって大航海の時代になると、北東アジアの国々はこの新しい歴史に加わることができなかった。それはヨーロッパで長い歴史を通して訓練されてきた航海勢力がその活動範囲を広げてのさばることであったからであった。彼らの目は航海と貿易そして軍事的侵略においてのみ他者をながめるのであった。そのために後日東西の関係とは侵略とこれに対する抵抗という関係以上のものとなることができなかった。このような姿勢を日本はいち早く模倣することができた。武士社会であった日本においては強いことが直ちに善を意味していた。中国とか韓国における近代とはこの日本に学ぼうと喘いだ時代ではなかったであろうか。ようやくこの時代についてわかり始めて社会的に追いつくことができなくなっていて嘆息するほかなかったといえるのではなかろうか。(2009年 1月 22日)

エリック・ホブズボーム(Eric Hobsbawm)が‘興味ある時代’(Interesting Times)において共産主義の国を訪ねて行った知識人の運命を描いた文章は実に冷徹である。東ヨーロッパでくり広げられたこのような状況はどこでも同じものではなかったか。そのような事情が明らかになったのは1970年代の後半ではなかったであろうか。何よりも経済が生きのびることができなかったという。わが国の北方でも同じ状況であったのであろう。それでも東ドイツでは西ドイツのテレビは見られたという。そしてユダヤ人追放とか迫害はなかった。チェコでもハンガリーでもそうであったであろう。それは潮の引いた後に海岸に残った鯨のようであったという。聖杯が割れてしまった後に信頼しうる新しい聖杯はなかった。そこでホブズボームはそのようにたずねた。

“ヒューマニティは自由と正義という理念なしに、またそのような理念に献身する人なしに生き残ることができるであろうか……20世紀にそのように生きて行った人々に対する記憶なしに”。

そのような記憶なしに生きて行く共産主義であるとすれば、それは残忍な群ではなかろうか。族長金日成が存在するのみでそのような理念とか人物とはいかなる関係もないというのは北朝鮮の人びとの場合のみではなく南にもそのような残忍な人びとが存在しているというのであろうか。それだからといってそのような人びとを排撃する勢力といえば自由と正義に献身しているヒューマニティの人であるといえるのであろうか。ここにこそ問題があるのではないか。今日の金融危機とはそのような問題を浮彫りにして見せてくれることなのかもしれない。(2009年3月25日)

デイビット・ロッジ(David Lodge)は『バフチン以後、小説と批評に関するエッセイ』(After Bakhtin, Essays on Fiction and Criticism)において‘1960年革命の接近という雰囲気の中で’ということばを使った。革命ということばがなんと美しいことばとして使われた時代であったことか。ギリシャにおいても、スペインにおいても、パリにおいても、ベトナムにおいても、中国においてもそうであった。そのような革命の空気の中でわれわれも4・19革命(1960年)をなしとげた。貧しさと困難の中でも、多くの矛盾と残忍性の中でも、われわれは希望に燃えていたし、歴史に対してとても楽観的であった。それは今思い出せば、現実とはかけ離れていた幻覚ではなかったかと思われる。だからすぐ反動がやってきたではないか。

革命とは、火花のように起きるのであるが、それはやがては消えるあだ花といえるかもしれない。ロシア革命において目にしたように、その革命的理念が残忍な暴力に瞬時にして異化してしまう。悪霊に化してしまうのである。韓国で1980年代に成功したといわれた勢力が盧武鉉(ノムヒョン)とあの民主党の勢力に転落してしまったようにである。それにもかかわらず革命勢力として偽装するのであるが、偽装するためにはまず自己欺瞞から始めるものであるといわざるをえないであろう。

歴史においては革命から反革命へ急進行するのであろうか。しかしそのような人間の群をおし除ける革命―歴史の進歩は進行する。革命勢力も反革命勢力と化して行くのにもかかわらず、いやそのような歴史の根底において真の革命即ち歴史の進歩が徐々に進展して行くのである。これが歴史の発展というものである。わが国の歴史における1960年代と今日とを比較して見るならば、誰がこのような歴史の変遷を否定しうるであろうか。歴史的現実から反動として追放された者、もともと反動的利己主義にとらわれて生きてきた者、このすべてを振り捨てて、いやこれを越えて歴史はそれ自体の道を歩んできたし、歩んでゆくものと考えざるをえないのではなかろうか。こうした中で反動に加担した勢力は地団駄を踏んでいるのかもしれない。彼らはそのような境遇のなかで今日をのろうべき時代であるとわめきながら歴史を暗い目でながめているのかもしれない。

歴史は徐々にそれ自体の道を、すべての時代とその状況その人々を利用しながら進んで行く。だから彼らは反動のわめき声で、進行中の汽車の前でよろめいている虚像であると見なされなければならない。未来を志向するとすれば、そのような姿は時たまちらちらと見すえて参考にはするが、歴史の軌道をそのまま走って行かざるをえないと思うのである。

今日の現実についてこのことはとりわけあてはまるのではないか。世界的に没落していく政治勢力。アメリカにおいてもオバマの支持率は50パーセントを割っていると伝えられる。就任6ヵ月が過ぎているからであろう。国民は強くなり、政治勢力は没落しているのみといわれる。これは世界的現象であるといえることではないか。政治勢力をかこんでいるオーラ(aura)、その後光などはありえない。そのようにすべてがあらわになり、市民が強くなった時代である。

ロッジがレナード・ J ・デイビス(Lennard J. Davis)の『事実的虚構、イギリス小説の起源』(Fictions; The Origins of the English Novel, New York,1983)という本から引用したというつぎのようなことばは現代文学に関することばとしてよりは歴史そのものに関することばであるような気がしてならない。著者の意図とは異なるものかもしれないが。

“変革がすでに歴史の領域から除外されているように今やそれが個人・心理の領域においても除外された”。それで‘変革は純粋に美的カテゴリー’に接近するようになったというのである。現実の歴史ではもちろんのことであるが、個人の心理をたどる文学においてもそうであるというのである。変革というのは観念の世界にのみ存在し現実には存在しない。しかしそのような歴史的事実をわれわれの観念はたやすく受け入れようとしない。われわれの観念にはわれわれの欲望が加担するものだからであろう。

たとえば、われわれの目の前ではコンピュータの変化という歴史が進行する。コンピュータの営みというのは実際新しい内容を産出するように見えるが、それは単なる反復に過ぎないのではないか。それはまるで流れる川のように反復することに違いないのではないか。しかし歴史はとても大きな波長で波立てながら流れて行く。それは変化に違いないが地球の歴史や人類の歴史に比べると同語反復の如きものといえる。歴史の起伏というものは永遠を前にしては無であり空であるというのであろう。(2009年7月31日)

左右を越える発想

散歩をしながらこの頃はよく道端に咲いている無窮花(むくげ、韓国の国花)と出あう。桜の花を思い出さざるをえない。桜の花は一時に美しく華麗に咲いたかと思うと、はらはら落ちてしまう。そのために日本人は武士の花といって桜の花を愛した。夭折を賛美する花といえようか。われわれ韓国人はむくげの花を国花とした。むくげの花はいまさかんに咲いているかと思うと、多数が芽吹いたまま花と咲く順番を待っている。咲いては散り散ってはまた咲くのである。それで無窮花といわれてきた。華麗な花ではない。目につかない庶民の花といえるかもしれない。長寿をまっとうしなければならない。父母に先立つ死は不孝の極みである。それは武の社会とは異なる文の社会の論理、儒教的な人生観であった。  

1987年民主抗争によって軍部独裁は終幕を告げた。それから民主化の道が開け民主化が進行する途上にあるといっても2008年にはかつての与党、ハンナラ党が再び権力を握るようになった。2009年にはアメリカは民主党政権を生み出し、とりわけ今度は黒人大統領をおし出した。日本では民主党が圧勝した。このように成立した民主政権が反動の流れに打ち勝つことができるだろうか。みんなが共同の課題をせおっているように見える。

民主主義においては、選挙において多数を得たものが権力を握るものであると考えられてきた。私は、現代においては多数を通してある一つの政党の候補が執権するものであるが、一旦執権に成功すればどうすれば野党とも協力しあえる超党的な執権勢力になりうるかと悩み苦しむ権力とならねばならないといってきた。多数票を獲得して権力を占めるのであるが、権力の座につけばどのようにして国民全体を包みこむ権力となりうるかに苦しまなければならない。アメリカも日本も韓国も民主体制の下でこのような課題に直面しているのではないか。実際多数の国民は政党的対立を超えている。そのためにその多数が投票の結果にあまり関心を示さないといおうか、最初から投票に参加しようともしない。多少言い過ぎかもしれないが、彼らは与党であろうと野党であろうと同じものであると決めつけているのである。  

今度臨津江(イムジンガン:南北の休戦ラインを流れる河)の放流(北のダムからの放流)によって生命を失った6名のことについて、私はこれは北朝鮮が故意に引き起こした事故であると考える。国際的な孤立のため経済的困難を南の韓国に訴えながら、その一方で南に脅迫を加えているのであろう。そこでは人間の生命が犠牲になるというようなことはほとんど考慮されない。普遍的なヒューマニティなど考えられないのであろう。彼らはヒューマニティなどはブルジョアジーの反動的な思考が生み出した隠ぺいされた反動思想であり、一種の幻想であると考える。この恐るべき自己正当化の奇怪な論理をいつまで保っていこうと思うのであろうか。

これは解放(1945年の終戦)後、共産主義の名において強要してきた思想である。今はそれがいかなる肯定的な側面も包みこんでいない全くイデオロギー化されたものであると私は考える。専制的に硬化した体制下ではすべての思想、すべての生き方は悪化一路の道をたどらざるをえない。敵とはなくしてしまわねばならないものであり、南とはそのような敵であり、否定されるべき現実であるが、いまだに残っているものに過ぎないと考える。これが彼らの政治権力が抱いている論理であり思想であるというのになんと応えようとするであろうか。

しかしその一方でそのような考え方はわれわれにもあるのではなかろうか。私が廬武鉉政権(2003-2008年)を批判していた頃、インターネットなどを通して私に呪いのように迫ってきた、まったく対話などありえない雰囲気があった。私は時には身を避けねばならなかった。しかしそのような傾向は私にもあるのではなかろうかと思いながらだんだんと人間嫌悪の気持に陥った。それでも多数に対する信頼で自身を守り抜こうと考えた。

今度KBS(韓国放送公社)理事長任命の人事を見ながら、時代の変遷、変化を痛感した。その人は大統領とはごく親しいようであるが、私は時代の移り変りを考えざるをえなかった。経済界出身だということだが、経済優位の時代が本格的に始まった。李明博時代から経済絶対優位、経済界主導の歴史が始まり、従って知識人の全面退去の時代が表面化したといわねばなるまい。知識人優位とは困難な時代の象徴であり、これからは知識人という用語すら消えて行く。2008年は金融危機の年であり、この時代を知識人退去の時といっていいであろう。  

最近金大中が李明博に対して独裁者であるといった時、そこには時代感覚のずれがあるのではないかと思った。金大中が考えていた時代は過ぎ去ったのだ。東亜日報にそういう時代に対する知識人の論評があってもいいではないかといっても、みな馬耳東風である。そのような論議が価値あるものとは考えない時代であろう。いわゆる知識人の政治的発言など価値あるものとは考えない、知識人が消滅していく時代であるのだ。アメリカの社会学者リーズマン(David Riesman)のことばを引用すれば多くがアカデミシャンにはなっても、インテレクチアュルになることは求めないという時代であるといえよう。マスコミが政治的批判者として知識人を求めていた時代は過ぎ去り、再びそのような時代がもどってくることがないであろうというべきかもしれない。需要がなければ供給のための準備もなくなるのではないか。

このような時代をどのように生きて行くべきであろうか。ほんとうにこういう時代のために知的活動を刺激しうる政策でも立てなければならないのに、庶民の叫びには恐れをなしても、そのような対策に気をくばる余裕はないということではなかろうか。発言する場もなくなっている。「ハンギョレ」(一つの民)のような新聞がもっと質的に向上し公正な姿勢を強めて韓国の「ル・モンド」を自認してみたらと思った。高度な知性が求められる時代なのにと私は執念深く思い続けている。(2009年9月11日)

ロシアの知識人たちが現した‘ロシアの真の近代化のために’という提言書において、彼らは現代においては左右双方の陣営がたがいに政治スローガンの奪い合いをしているといった。そのために先般のドイツ選挙ではまた左派が敗北したのであろう。今日の執権勢力は国民に対してとても低姿勢であるといえる。大統領といってもその権威をかざすことがほとんどできない。戦争がない時代であるから、一層そうであろうかと思うのである。 

このような時代における政治形態、政治体制のようなものを考えてみる必要があろうか。わが国においても民主化以降、このような道を歩んで来た。それで私は先般『私の政治日記』(韓国語版、2009年)において“私は進歩とか保守とかという用語はもう古く、それこそ今日の現実には合わない空疎なことばである”といった。(2009年10月11日)

ドイツから亡命したシカゴ大学教授レオ・シュトラウス(Leo Strauss)が1963年にデトロイト大学でおこなった講演“現代の危機と政治哲学の危機”を読んでいる。2008年10月号の『思想』に出ている文章である。まず‘現代の危機’に出ている共産主義に対する言及を写してみよう

“死の危機に当面していた時を除けば、共産主義が兄弟のあいさつに答えたのは軽蔑の念を持ってであって、それもせいぜい飾りものであることが明白な友情のジェスチュアを持ってであった。そして死の危機にあった時には西洋からの助力を熱心に求めたが、それに対する答えとして感謝するということばは決していわないという決心もそれと同じように強かった”(311頁)

以上はソ連を見つめていた一人の哲学者のことばである。このことは我々も今日、北朝鮮に対して繰り返して考えなければならないことではなかろうか。李明博は今日もしも北朝鮮が形式的に会談を求めるのであればそれを受け入れることはできないと言明した。そして核を放棄すれば会うことを受け入れるだろうといったという。正しい姿勢といわざるをえない。(2009年10月18日)

改めて考えるのであるが、革命であるといえば、反民主主義的であり、暴力的であっても容認するというのであろうか。その姿勢の中に非人間的なことがしみこみがちであるということを彼らは知らないのであろうか。今は平凡で日常的な人間的姿勢で他人をかえり見、彼らに深く感謝する人間性が求められるということを彼らは知らないのであろうか。そのような日常的なことをいかなる革命的姿勢も拒むことができない。悪を行いながら自己正当化をはかることはもっとも受け入れ難い悪といわねばならない。それにもかかわらずまだこの国においてそのような非現代的な政治的姿勢がいまだに至る所に残っているとは、驚くべきことではないか。

実際彼らがそれほど人間的なことを無視するならば『ファウスト』にあるように“彼らが守護しなければならないこの帝国は略奪と荒廃にまかされています”といわなければならない。共産主義社会に向かうと称しつつ収奪と荒廃のみを生みだした。革命の名において収奪と荒廃そして虚像と欺瞞が容認され、それが称賛されさえしたといえるかもしれない。革命は人間を荒廃させて失敗してしまうものだといえるであろうか。『ファウスト』にはこのようなことばさえ見えている。“党派のようなものは賛同しようが、愛憎どちらも内実のないものになってしまいました”。実際党派心とはそれに賛成しようが、それに反対しようが、利己的心情によるもので、意味のないものであろう。それは今日わが国において戦われている政争のようなものだ。  

『ファウスト』に登場する悪魔メフィストフェレスは“いつも悪を願うのであるがいつも善をなしとげる”という。神の歴史のなかにおいては悪はそれほど積極性を持つものではあるまい。悪が悪を生み出すのではなくかえって善を生み出す。このように歴史はアイロニカルなものであるのではなかろうか。日本がアジアに対してなした悪がアジアの覚醒を促して、アジアにおける善なる協力に対する渇望を生み出したとはいえないか。

今度日本の鳩山首相が初めて‘東アジア共同体’に言及すると、そのようなことを主張してきた韓中はかえって沈黙してしまった。戦後60年の歴史はこのような時点にまできたといえるかもしれない。アメリカが南北戦争の痛みを癒すのに、黒人大統領が生まれるまで150年かかった。このような歴史に比べてわが国での南北そして嶺南(注;南東部の慶尚道地方)と湖南(注;南西部の全羅道地方)におけるこのような壁を乗り越えるのに、はたしてどれほど多くの時間がかかるのであろうか。(2009年10月21日)

池明観(チ・ミョンクワン)

1924年平安北道定州(現北朝鮮)生まれ。ソウル大学で宗教哲学を専攻。朴正煕政権下で言論面から独裁に抵抗した月刊誌『思想界』編集主幹をつとめた。1972年来日。74年から東京女子大客員教授、その後同大現代文化学部教授をつとめるかたわら、『韓国からの通信』を執筆。93年に韓国に帰国し、翰林大学日本学研究所所長をつとめる。98年から金大中政権の下で韓日文化交流の礎を築く。主要著作『TK生の時代と「いま」―東アジアの平和と共存への道』(一葉社)、『韓国と韓国人―哲学者の歴史文化ノート』(アドニス書房)、『池明観自伝―境界線を超える旅』(岩波書店)、『韓国現代史―1905年から現代まで』『韓国文化史』(いずれも明石書店)、『「韓国からの通信」の時代―「危機の15年」を日韓のジャーナリズムはいかに戦ったか』(近刊、影書房)

池明観さん日記連載にあたって 現代の理論編集委員会

このたび連載を開始する「韓国の現代史とは何か―終末に向けての政治ノート」は、池明観さんが2008年から2014年にかけて綴ったものです。TK生の筆名で池明観さんが1970年代~80年年代に書いた『韓国からの通信』は雑誌『世界』(岩波書店)に長期連載され、日本社会に大きな衝撃と影響を与えました。このノートは、折々の政治・社会情勢を片方に見ながら、他方でその時々、読みついだ文学作品、あるいは政治・歴史にかかわる書籍・論文を参照しながら、韓国の歴史や民主化、北朝鮮問題、東アジア共同体の可能性などを欧米の歴史・政治と比較しながら考察を加えています。

今回縁あって、本誌『現代の理論』は、著者・池明観さんからこの原稿の公表・出版についての依頼を受けました。今号から連載記事として公開してまいります。同時に出版の可能性を追求しています。この原稿の出版について関心のある出版社は、編集委員会までご連絡ください。

第12号 記事一覧

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