コラム/関西発

「連帯」を求めた炭鉱労働者たち

その記憶と遺産─三池炭鉱閉山20年関西展

ジャーナリスト 池田 知隆

働く人たちにとって「連帯」はとっくに死語と化しているようだ。グローバル化によって産業構造が変わり、リストラの嵐が吹き荒れ、非正規労働が激増している。働く人たちの経済格差が拡大し、階層管理も強化されている。いまでは「働き方改革」が語られても、「連帯」という言葉を耳にすることはない。日本最大規模の炭鉱、三井三池炭鉱が閉山して今年3月、20年の歳月が流れた。三池炭鉱関連施設は一昨年、世界文化遺産に登録されたが、かつて「総資本対総労働」と叫ばれ、労働者の団結を求めた闘いは遠い記憶のなかに消えつつある。大阪では5月5日から「炭鉱の記憶と関西―三池炭鉱閉山20年関西展―」が開かれ、炭鉱労働をめぐる暮らしの記憶を取り戻す試みが始まっている(同展は6月6日からは関西大学博物館でも開かれる)。

炭鉱労働と関西

日本の近代化に向けて産業振興を底支えし、戦後復興に大きな役割を果たした石炭産業。特に三井鉱山三池鉱業所(いわゆる三池炭鉱)は、福岡県大牟田市と熊本県荒尾市にまたがる日本最大の出炭量を誇った炭鉱だった。1959年12月の労組員1278人の指名解雇に始まる1年近くに及んだ三池争議は、財界や全国の労組を巻き込み「総資本対総労働」の闘いと呼ばれた。最終的には会社側の切り崩しで、労組は分断され敗北、解雇を受け入れた。

その3年後の1963年11月9日。地下深い坑道にいた458人の命を奪う戦後最大の炭鉱事故が起きた。大量の解雇者を出し、無理な増産体制の下で安全管理がおろそかになった末の大惨事だった。生き残った人の中にも、一酸化炭素中毒で脳に損傷を負い、激しい頭痛、記憶障害などの後遺症に苦しめられ、中毒者と認定された人だけでも800人を超えた。十分な救済は図られず、家族にも重い負担がのしかかり、被災者の苦しみはいまも続いている。

そして石油へのエネルギー需要の転換、割安な輸入炭との価格競争に国内生産炭が打ち勝つことができず、石炭産業は衰退していった。炭鉱は次々と消え、三池炭鉱も1997(平成9)年3月30日に閉山した。かつて約1万1000戸を数えた炭鉱社宅(炭住)は消え、その跡には太陽光パネルが並んでいる。

関西地方には炭鉱が存在しないが、決して無縁ではない。三池炭鉱を始めとする九州の炭鉱からは60年代、多くの離職者が家族とともに関西に移住してきた。離職者の家族は、炭鉱労働者だけとは限らない。閉山によって大量の失業者が生まれ、店を閉めた商店の人々や生徒数が激減した学校の教員といった人々もいた。

特に炭鉱を解雇された人たちの再就職は茨の道だった。「生産阻害者」のレッテルを貼られた人たちを雇う会社は少なく、労組の力の強い企業や公務員職場に就職するか、組合活動家として組合書記に入る以外に就職口はなかった。そして三池炭鉱出身者であることを隠して生きると決めた人もいれば、三池争議を誇りとし、ことあるごとに三池で過ごしたことを語り続けた人もいた。

連帯感への郷愁

また三池争議は「家族ぐるみの闘い」といわれ、炭鉱で働く人たちはそれぞれの家族に支えられていた。離職者の子どもたちには、親たちの労働者の誇りとともに貧しい中で助け合って暮らした炭住での暮らしが大切な記憶として刻まれていた。

「炭鉱の記憶と関西―三池炭鉱閉山20年関西展―」の実行委員たちは、三池から関西に職をもとめてきた労働者の子どもたちが多い。といっても、すでに大半が60代だ。主催者の「関西・炭鉱と記憶の会」実行委員代表の前川俊行さんは、こう呼びかけている。

「私たちは、炭鉱があった町で生まれ育ちました。戦争が終わり、何もなかった時代、親たちは住む家と日々の糧を求めて炭鉱で働くようになったからです。厳しい労働の中、いつの頃からか、『団結』というキズナが生まれました。『仲間』と呼び合える友にも出会いました。貧しくとも、未来を見つめ、闘い続けました。時には大切な仲間たちを失ったこともありました。そして、いつしかヤマの灯は消えてしまいました。しかし、炭鉱の記憶は消えるどころか、よみがえってくるばかり。炭鉱であったことを忘れないでほしいと、親たちの声が聞こえる」

前川さんは、三池炭鉱への郷愁に満ちたホームページを開いている。名づけて「異風者からの通信」。異風者(いひゅうもん)とは、熊本弁でいう風変わりな人という意味だ。「いまどき、炭鉱の暮らしを懐かしむなんて変わり者というしかない。それでも三池にこだわりたい」と自ら認めている。

いま、滋賀県彦根市に住んでいるが、1952(昭和27)年、熊本県荒尾市にあった三井鉱山緑ヶ丘若葉社宅で生まれ育った。三池争議の結果、父親が炭鉱を解雇され、一家で三池を去った。小学校2年の終わりのころだった。

だから炭鉱のまち、大牟田・荒尾のことは断片的にしか記憶がない。それでも「炭鉱住宅、緑ヶ丘小学校、炭鉱電車、 三池闘争、炭掘る仲間、そしてそれらとの別れ。その断片的な記憶を一つに完成させたいという思いが募った」という。

「遠い昔の出来事でも、三池に生きた父や母たちが私たちに語り残したかったこと、大切なものがあるはずだと、私は ふるさと三池の中にこりもせず今もなお探しものをしています」

貧しいながらも助け合った炭住の暮らし、働く人たちをつないだ深い共同性・・。前川さんの心にはいまもなお、実直に生きた労働者たちの思いがしっかりと息づいている。そんな前川さんのもとに日本中に離散した産炭地出身の人々から炭鉱関連のモノが熱い望郷の念を託して送られている。

炭住生活という「コミューン」

「閉山記念日」の3月30日、関西展本展に向けた「プレ関西展」が大阪市淀川区の交流スペース「みつや交流亭」で開かれた(=写真)。笑福亭仁勇師匠が「あの日の炭坑節」と題した新作落語を披露した。三池炭鉱を支えた労働者が生活した炭鉱社宅をテーマにした異色の炭住落語だ。その呼び込みの文にこうある。

「時は高度経済成長時代。行け行け!の日本。その光と影を集約した「三池炭鉱」。歴史が与えてくれた教訓は、今、活かされているのか? 主役は、東京オリンピック、三池炭鉱、千里万博で現場作業した七十代の雀荘のマスター。物語は釜ヶ崎夏祭りから始まる─」(さて、どんな話にあいなっていますやら。本番は「関西展」会場でお楽しみください)。

続いて実行委員で京都市在住の東川絹子さん(68)が炭鉱社宅で暮らした思い出を語った。大牟田市の炭鉱社宅で育ち、地元の高校を卒業後、集団就職で京都にきて、同志社大学生協などで働いてきた。「なぜ、いま、三池炭鉱にこだわるのか」と聞かれて、東川さんは「炭住での暮らしには、人間の共生、絆、地域のコミュニティを考える上でのヒントがあります」と熱弁をふるった。

「炭住生活には、子ども会、学習会、家族会議、サークル活動、地域運動会と祭りなど楽しいことがたくさんあり、子どもにとって民主主義の創造と研鑽の場でした。争議のさなか、全国から支援にかけつけた大学生の人たちに勉強を教えてもらったことも懐かしい。そこで暮らす人たちは信頼の絆で結ばれていました。しかし、『リムジン河』の歌詞に『誰が祖国を分けてしまったの』とありますが、私には『誰が第一組合と第二組合に分断したの』と言いたくなります」

東川さんにとって炭住暮らしは、いわば「炭住コミューン」とでもいえる理想の共同体だった。「共生共死」という地底の過酷な労働に支えられた人々の深いつながりが息づいていた。そこで働く父は子どもたちにとって誇りであり、主婦会で活動する母の姿もまぶしく見えた。自らが親の世代になり、年を重ねていくごとに、父や母のこと、子どものころの暮らしがより鮮やかに甦っているようだった。三池争議という日本の労働運動史上最大の闘いを担った人たちの矜持。仲間が集れば最後は「炭掘る仲間」を歌って涙にくれた親たちの悔恨の念。それらの思いは子どもたちの世代にしっかりと受け継がれている。

原発と炭鉱

炭鉱が刻んだ歴史と文化。いま、それらをどのように受け止めていけばいいのだろうか。

石炭は、東日本大震災による福島原発事故をきっかけに天然ガスとともに再び注目を集めつつある。原発稼働停止を受け、緊急代替措置として火力発電所の稼働率の上昇もあり、その需要は伸びている。安定した電力供給には欠かせない燃料となり、石炭火力発電は依然としてベースロード電源の中核をなす存在となっている。

しかし、現実には石炭が日常の人々の暮らしから消えて久しい。石炭を目にしたことも触れたこともない若い人が増えている。そのような中でこの関西展では、いまはなき炭鉱への郷愁をそそる展示物だけではなく、豊かな労働者の文化を生んだ炭鉱の歴史と現在を立体的に構成していく予定だ。実行委員たちは「炭鉱の明暗、正負、両面を描き、炭鉱の歴史を次世代に伝え、現在のまちづくりと未来のエネルギー政策を見据える一助となる展示」を目指している。

かつて「黒いダイヤ」と呼ばれた石炭を掘る仕事は過酷を極め、炭鉱は時代と社会から排除された人たちが流れ込んだ場であり、「日本社会の裏面史」でもあった。土地を追われ、職を奪われた農民、漁労民、部落民、引揚者、復員兵士、戦災市民……さまざまな人々が坑内に入り、多くの災害が生じた。囚人労働、与論島からの集団移住、朝鮮人の強制連行、中国人・アメリカ人捕虜労働もある。じん肺、CO中毒などの労災問題など社会問題の縮図としても見ることができる。

エネルギー政策に左右され、離職した炭鉱労働者の多くが「原発ジプシー」と呼ばれる原発作業員となり、いまの原発問題にもつながっている。放射線管理手帳の存在すら知らず “ 原発ぶらぶら病 ” となって使い捨てられ、ひっそりと郷里に舞い戻った人も少なくない。そして原発労働者たちは元請、下請、孫請、ひ孫請、臨時工・・とより複雑な階層管理のもとに置かれている。

「今さらではなく、今だから炭鉱なのです」

そう語るのは映像ジャーナリストの熊谷博子さんだ。著書「むかし原発いま炭鉱 炭都<三池>から日本を掘る」(中央公論新社)のタイトルで掲げているように、「むかし炭鉱、いま原発」ではなく、今こそ「炭鉱」という過去の歴史を凝視すべきだというのである。三池炭鉱の歴史、物語を描いたドキュメンタリー映画「『三池 終わらない炭鉱の物語』(2005)の制作過程を綴りながら、東日本大震災と福島第一原発事故を踏まえての指摘だ。

日本の近代化や戦後の復興を支えた国内最大の炭鉱、三池炭鉱の歩みは、社会の片隅で生きる人たちを押しつぶしてきた国のエネルギー政策と資本の論理をくっきりと映し出している。「働く人たちの権利が軽んじられ、過労による死や自殺が後を絶たない社会はいまも続いている。三池はいまなお『終わらない物語』なのです」と熊谷さんは問いかけている。

炭鉱の労働は、暗くて過酷なだけではなかった。東川さんが語っているように、人々は笑い、炭坑節を歌い、炭鉱住宅では主婦たちが助け合って生活していた。「炭鉱は文化を生み出したが、原発は文化を生み出さなかった。炭坑節はあっても原発節はない。ついでに石油音頭もない」とも熊谷さんはいう。世界文化遺産となった炭鉱跡を“廃墟ブーム”にのっかった空虚な異空間として見るのではなく、そこで生活していた人々の声に耳をじっと傾けたい。

未来へ向かう「坑道」

福島原発の水素爆発で、原子炉建屋が吹き飛び、白煙が上がる光景。それは半世紀前の三池炭鉱の炭塵爆発事故と重なり合って私には見えた。荒尾市で生まれ育ち、中学3年生だった。「ドーン」というすさまじい音が響き渡り、自宅が揺れ、外に飛び出したときのあの濛々と空に広がった巨大な黒煙は忘れられない。

三池争議で労働組合の激しい闘いが繰り広げられたときは小学校6年生だった。「第一組合」と「第二組合」の対立が子どもの世界に持ち込まれ、遊び仲間が分かれていった。争議終息後の9月、三池労組などが配布したビラに載っていた詩「やがてくる日に」は、いまも時折、記憶の底からよみがえってくる。

歴史が正しく書かれる
やがてくる日に
私たちは正しい道を
進んだといわれよう
私たちは正しく生きたと
いわれよう

私たちの肩は労働でよじれ
指は貧乏で節くれだっていたが
そのまなざしは
まっすぐで美しかったといわれよう
まっすぐに

美しい未来をゆるぎなく
みつめていたといわれよう
はたらくもののその未来のために
正しく生きたといわれよう

日本のはたらく者が怒りにもえ
たくさんの血が
三池に流されたのだと
いわれよう

この詩は、争議のさなか、会社が雇った暴力団によって刺殺された三池労組員、久保清さん(当時32歳)の碑にも刻まれている。「歴史に正しく書かれる」という言葉には、働く人たちのやりきれない思いが込められている。労働争議で限界まで闘い続けた末、「敗北した」と自らに納得させることはつらいことだ。「負けたくなかった」という悔恨がにじみ、「正しく生きたといわれよう」という声に胸をつかれる。

それから半世紀が過ぎた。殺害現場に近い四山社宅内に置かれていた久保さんの墓は、社宅の解体、撤去とともに転々とし、いまは遊園地「三井グリーンランド」に隣接する有明成田山大勝寺(荒尾市)に「三池炭鉱災害犠牲者の碑」とともにある。だが、その歴史は「正しく書かれる」ことができているのだろうか。

産業近代遺産の三池宮浦坑跡

炭鉱跡は、産業近代化の遺産としてクローズアップされている。しかし、そこで働き、生活していた人々の思いも忘れてはならない。同時に、炭鉱労働者の闘いの歴史と文化を神話化していくことなく、検証されなければならない。

今春、国鉄分割民営化によってJRが発足して30年になる。「国鉄一家」といわれた組織が解体され、JRとして誕生したことは経済的に大成功だったと評価されつつある。しかし、光があれば影もあり、光の側からは闇は見えない。日本列島の東京一極集中化が進んだが、その一方で衰退した地域はどのように再生できるのか。私たちの暮らしのなかで忘れ去り、失われたものを記憶の底からすくいだすこともまた必要だ。

三池労組の闘いについていえば、美化して懐かしがるだけではすまない。時代的な制約もあるが、あの大争議のなかで、本工と下請け、日雇い労働者の関係がなかなか見えてこない。三池で「総資本」と対峙した「総労働」には、日雇い労働者は入ってはいなかった。久保清さんの虐殺は絶対に許すことができないが、襲いかかったのは三井鉱山の関連下請会社の日雇い労働者たちで、長期間のストライキで仕事からあぶれていた作業員だったのも事実だ。労働組合に組織されることもなく、会社に雇われていたのだ(写真は、産業近代遺産の三池宮浦坑跡)。

このことは、パート、派遣、下請け労働者と正規社員との関係という労働組合の現在的課題として今も残されている。炭鉱の暮らしに郷愁を寄せるだけでなく、働く人たちの団結力、炭鉱の文化を再興していくことの意味は消えない。いまどき、働く人たちの「連帯」を語ることは、いうだけ野暮なのかもしれない。しかし、現在の「働き方改革」もまた、炭鉱労働者たちの記憶とその遺産を通して見つめ直さなければならない。

「歴史とは、現在と過去のたゆまぬ対話である」と歴史家、E・H・カーがいうように、この関西展は炭鉱をめぐって「現在と過去の、異なる人々の間の、記憶・記録・モノに依拠した、未来に向けてのたゆまぬ対話」の場となっている。 

日本一の炭鉱だった三池炭鉱は現在に至る日本社会の来た道がつまっている。「三池を掘る」ことは、「日本を掘る」ことでもある。深く眠っている事実を掘り出し、未来に何をどう伝えていくのか、そのことを関西展は改めて考えさせてくれる。三池は、日本の未来を見つめるための「坑道」でもある。

いけだ・ともたか

一般社団法人大阪自由大学理事長 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008年~10年大阪市教育委員長。著書に『ほんの昨日のこと─余録抄 2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。

「炭鉱の記憶と関西―三池炭鉱閉山20年関西展―」

2017年5月5日~9日 10時~19時
大阪市中央区、エル・おおさか(大阪府立労働センター)9階ギャラリー(主催:エル・ライブラリー、関西・炭鉱と記憶の会)

6月6日~30日(休館日あり)
関西大学博物館 (主催:関西大学経済・政治研究所、エル・ライブラリー)

● 入場無料
● 後援:福岡県、大牟田市、荒尾市
● 協力:大牟田市石炭産業科学館、大牟田市立図書館、田川市石炭・歴史博物館、法政大学大原社会問題研究所ほか

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関西展の案内ホームページ
http://shaunkyo.jp/events/34/

異風者からの通信
http://www.miike-coalmine.org/

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