特集●混迷する世界を読む

教育勅語と教育基本法―断絶と通底

タブーと強制では「道徳」は育たない

前こども教育宝仙大学学長 池田 祥子

はじめに―「森友学園」問題と教育勅語

安倍晋三首相が、かつてはその教育方針を称賛し、また安倍昭恵首相夫人が名誉校長だった森友学園は、豊中市の木村真市議が「国有地の格安購入」を突きとめたことがきっかけで、いわゆる「森友学園」問題として浮上した。そして、100万円の寄付金や籠池泰典理事長の証人喚問など、今年の2月、3月大いにマスコミや世情を賑わせていた。

しかし、昭恵首相夫人の証人喚問は実現しないまま、「忖度」によって便宜を図ったであろう財務省理財局長や、松井一郎大阪府知事その他名前の挙がった人物の責任は棚に上げられ、籠池理事長および森友学園の不正(詐欺行為)や虚偽発言(偽証罪)に矛先が向けられているが、安倍内閣としては少しでも早く幕引きしたい、というのが見え見えである。今でも、野党によって求められている森友学園への国有地売却問題に関する資料の開示に対して、国交省や財務省は、「与党の許可が得られない」と拒んでいるという。(4.21朝日新聞)

ただ、この森友学園問題で、園の経営する塚本幼稚園で、園児たちが教育勅語を暗誦している場面や、「安倍首相、ガンバレ!安保法制国会通過よかったです!」と声を合わせる子どもたちの映像が、多くの人々にショックを与えたのも事実である。

ただ、冷静に考えれば、戦前の教育勅語を中心とする構造的な教育体制から切り離して、単に、「チンオモウニワガコウソコウソウクニヲハジムルコトコウエンニ、トクヲタツルコトシンコウナリ・・・」という、漢文の訓読調の古い文章を、しかも現在の、園児に、暗誦させるというのは、あまりにも滑稽なことである。もちろん、戦前には、小学校生徒に、祝日の儀式などで教育勅語の暗誦がうやうやしく強いられていたのは事実であるが、この「暗誦」だけを見るなら、最後の「御名御璽」(ぎょめいぎょじ。天皇の名と印鑑のこと)のところで生徒たちが一斉に鼻水を啜った、と懐かしがられはしても、それ自体は笑い話であった。

にもかかわらず、「教育勅語」にスポットが当てられたのを好機と見たのか、安倍内閣は3月31日、「憲法や教育基本法等に反しないような形で教材として用いることまでは否定されることではない」という答弁書を閣議決定したという。信じられない成り行きである。 問題にすべきは、この事態こそであろう。

一方、予定されていた「瑞穂の國記念小學院」の創設・開始を断念せざるをえなくなった森友学園は、3月30日、長女の町浪(ちなみ)氏が新理事長に就任し、しかも「右翼的教育」を一切止めると表明したという。つまり、「何よりも生命と人権の尊重を基本におき、特定の思想信条に拘束されない文科省幼稚園教育要領に明示された幼稚園教育の原点に立ち返る」というのである(伊藤智永「サンデー毎日」4.23号所収)。安倍首相という権力の後ろ盾を失った以上、保身のためには「法の規定と文科省という官僚組織」に忠実にならざるをえなかったのであろうか。それにしても、生き残りに必死の様子である。

この「森友学園」問題の顛末をめぐって、安倍首相の関わる(もちろん籠池泰典前理事長も幹部として関わっていた)日本会議および日本会議国会議員懇談会では、この教育勅語に関する答弁書の閣議決定を、「けがの功名」と喜ぶ懇談会メンバー(衆議院議員)もいれば、「世間に悪印象を与えた」と苛立つメンバーもいるという。(4.12朝日新聞)

「憲法や教育基本法等に反しないような形での教育勅語の活用」とは、いったいどのような歴史認識に立っているのだろうか。戦後の憲法や教育基本法は、戦前の教育勅語を超国家主義的軍国主義的、と否定したのではなかったのだろうか。閣議決定のあと、連日、菅義偉官房長官、松野博一文科相、義家弘介文科省副大臣などによって、「教育基本法に反しない限り」「教育勅語を道徳教材に用いることを肯定したものでも否定したものでもない」という、あまりにも曖昧な答弁が繰り返されている。だが、彼らは、はたして「教育勅語」とは何だったのか、歴史の事実として学習しているのか、失礼ながらそのような基礎的なことすら疑わしくなってしまう。

「夫婦仲良く、兄弟仲良くなど、良い部分もある」という認識や、「教育勅語は天皇陛下が象徴するところの日本、民族全体のために命をかけるということだから、最後の一行も含めて教育勅語の精神は取り戻すべき」と確信的に語る稲田朋美防衛相の信条など、改めて、戦後の歴史の中で検証してみる必要があるだろう。

1 復習その1― 教育勅語の成立過程

いまさらではあるが、教育勅語に関しての復習を少しばかりやっておこう。

黒船来航によって、開国を迫られた日本は、大急ぎで近代的な国家体制づくりに追われた。やがて、欧米の先進国との不平等条約を撤廃するためにも、憲法の制定が不可欠となり、1889(明治22)年大日本帝国憲法が発布される。明治の為政者たちによって創りだされた「天皇」を中心とする国家体制である。

にもかかわらず、主権在君の大日本帝国憲法それ自体、欧米的な「法治」体制との妥協であると任じていた為政者は、法による秩序維持とは異質な、日本国の伝統的な「和の精神」による「国づくり」、すなわち、臣民の心の統治を別途考案すること、つまり「教育で始末をつける」ことを課題とした。こうして「教育に関する勅令」が準備されるのであるが、「教学聖旨」を起草した元田永孚(儒教的仁義忠孝を徳育の根本に置く)の協力をとりつけながら、天皇を中心とする日本的な近代国家づくりを先導した伊藤博文の下、実際には井上毅が中心になって作成したとされている。

翌1890(明治23)年10月30日、山縣有朋総理大臣の下、「教育ニ関スル勅語」(天皇のお言葉)として芳川顕正文部大臣を介して下賜された。そしてすぐさま、この勅語の謄本が各学校に下され、学校では奉読式がなされるようになる。さらに翌年6月、「小学校祝日大祭日儀式規定」が出され、祝日・大祭日での儀式と教育勅語奉読・訓話、さらには天皇・皇后の「御真影」を安置する奉安殿への敬礼などが、セットとして定着していくこととなる。

また、同じくこの1891(明治24)年11月に出された「小学校教則大綱」では、重要教科である「修身」は、この「教育ニ関スル勅語ノ旨趣ニ基」づくこと、と定められた。しかも、それまでは毎週1時間半だった修身の時間が、これ以降、尋常小学校では3時間、高等小学校では2時間に増やされている。ただ、それにしても教育勅語の字面・言葉は当時の小学生にとっても難解であっただろうが、「修身」の教科書で分かりやすく解説されていた。とりわけ難しいとされる最後の一節、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」は、それまでは「一身をささげて」だったものが、1941(昭和16)年の国民学校初等科「修身四」からは、「勇気をふるいおこして命をささげ、君國のためにつくさなければなりません」と書き改められている。天皇すなわちお国のために「命」を捧げることは、もっとも潔く美しい「徳」とされていたのである。

2 復習その2― 教育勅語の全文通釈

「漢文の訓読調」であった教育勅語は、小学校生徒は論外、普通の大人にとっても決してやさしい文章ではなかった。もっとも、「難解なゆえに尊い」という逆説も真実だったのかもしれない。教育勅語の解説書としては、井上哲次郎の『勅語衍義』(えんぎ)があるが、これとても決して容易いものではなかった。

今回、安倍内閣が教育勅語に関わる答弁書を閣議決定した、ということから、にわかに教育勅語に絡む記事が新聞紙上を賑わしている。偶々、文部省の「聖訓ノ述義ニ関スル協議会報告」(1940年2月)による教育勅語「全文通釈」が新聞に掲載されたので、それをここでも参照しよう。

朕(ちん)がおもふに、わが御祖先の方々が国をお肇(はじめ)になったことは極めて広遠であり、徳をお立てになったことは極めて深く厚くあらせられ、又、わが臣民はよく忠にはげみよく孝をつくし、国中のすべての者が皆心を一つにして代々美風をつくりあげて来た。これはわが国柄の精髄であって、教育の基づくところもまた実にここにある。汝臣民は、父母に孝行をつくし、兄弟姉妹仲よくし、夫婦互に睦び合ひ、朋友互に信義を以て交り、へりくだって気随気儘の振舞をせず、人々に対して慈愛を及すやうにして、学問を修め業務を習って知識才能を養ひ、善良有為の人物となり、進んで公共の利益を広め世のためになる仕事をおこし、常に皇室典範並びに憲法を始め諸々の法令を尊重遵守し、万一危急の大事が起こったならば、大儀に基づいて勇気をふるひ一身を捧げて皇室国家の為につくせ。かくして神勅のまにまに天地と共に窮(きわま)りなき宝祚(あまつひつぎ)の御栄をたすけ奉れ。かやうにすることは、ただに朕に対して忠良な臣民であるばかりでなく、それがとりもなほさず、汝らの祖先ののこした美風をはっきりあらはすことになる。  ここに示した道は、実に我が御祖先のおのこしになった御訓であって、皇祖皇宗の子孫たる者及び臣民たる者が共にしたがひ守るべきところである。この道は古今を貫ぬいて永久に間違がなく、又我が国はもとより外国でとり用ひても正しい道である。朕は汝臣民と一緒にこの道を大切に守って、皆この道を体得実践することを切に望む。(4.1朝日新聞)

原文は、先に記した通り、漢文の読み下し文で、濁点はなく、句読点もない。文字だけでは315文字。当時のように、暗誦してみれば、1分30秒ほどで終わる。

ここで明らかなのは、「朕惟フニ(チンオモフ)」に始まり「朕・・・庶幾フ(チン・・コイネガフ)」で終わる教育勅語が、天皇が臣民(国民)に向かっての訓示という形をとり、明治政府が創出した政治的装置としての天皇制国家を、さらに「臣民の心を一つにする」ための宗教的、文化的、かつ強力な教育的装置として機能したということである。「万世一系」「皇祖皇宗」「国体の精華」「天壌無窮の皇運」、つまり、天皇は臣民の親であり、主君である。したがって、武士(家臣)の徳であった「忠」はすべて天皇に向けられ、儒教思想の親孝行の徳(「孝」)もまた、天皇に向けられる。「克(よ)く忠に、克く孝に」である。つまり、これは、臣民たるものの君主に対する絶対服従の要請であり、臣民もまた進んでそれに従うことが(喜びであり徳でもあると)望まれている。また、「夫婦相和シ」も、麗しい徳ではないか、と度々持ち出されるが、これもまた家父長制的家制度における夫(主人)と妻は夫唱婦随、妻が夫(主人)に従っているからこその「和」(波風の立たない状態)を意味している。

「一糸乱れぬ」「一丸となって」「統制のとれた」・・・このような集団のあり様を良しとする心性=美意識こそ、教育勅語が要請したものであり、神話と国家神道による臣民教育が功を奏し、「八紘一宇」のスローガンとともに、中国・東南アジアへの戦線拡大を精神的に支えたことは、忘れてはならない歴史的事実である。

3 復習その3― 教育基本法と教育勅語

本土決戦を叫びつつ、「戦争を終わらせる」ことを本気で考えることのなかった当時の為政者は、ポツダム宣言受諾に際しても、「国体の護持」を最重要の条件として提示した。連合国同士の水面下での冷戦体制ゆえに、このあまりにも得手勝手な日本の要望が期せずして受け入れられるや、幣原喜重郎を初めとする政治家、および憲法学者や大学総長のほとんどは、「国体は護持された!」と安堵の胸を撫でおろしたという。したがって、「国体」とはこれまで通りの「天皇主権」であることを疑わず、8月15日以降も、戦前の帝国憲法を変える必要をいささかも感じていなかったと言われる。それゆえに、戦前の天皇主義、超国家主義、軍国主義を排した戦後憲法の制定は、否応なくGHQの強力な指導を必要とした。

そして、「民主主義」を取りも直さず受け入れざるを得ないこと、であれば「主権在君」の戦前の帝国憲法がそのまま生き延びることはありえない、と判明するや、日本側はすばやく「主権在民」の戦後憲法体制に切り替えた。しかし、裕仁天皇の戦争責任問題や退位、東京裁判による判決・処刑までもが取り沙汰されながらも、戦争責任は「国民の総懺悔」、裕仁天皇は生きながらえ、そして「象徴」天皇として憲法に位置づけられた。戦後の日本国憲法の公布であり、象徴天皇制の出発である。

ここで注意すべきは、GHQの憲法案では権利の主体は「people」であるものを、「人民」あるいは「人」ではなく、「国民」と訳したことである(この点についての問題はすでに武藤一羊他多くの人々に指摘されているが、とりわけ伊藤晃『「国民の天皇」論の系譜』社会評論社2015 参照)。つまり、「主権在民」と一旦は権利主体と位置づけられたかに見えるピープル(人)が、すぐさま「日本国民」として括られ、そして丸ごと天皇に統合されてしまう構造になっている。個々の多様なピープル(人)の主体やせめぎ合いはきれいに捨象されているのである。

したがって、戦前の帝国憲法は破棄されたのではない。形の上でも、帝国憲法第73条による憲法改正手続き行為として、しかも裕仁天皇の手によって「改正=制定」されたのである。

日本国憲法自体が、以上のように、民主主義的装いの下での「天皇・国民一体」の装置を作り上げた時、教育勅語はどのように位置づいていたのであろうか。

さすがに、「朕惟フニ・・・」という天皇の直々のお言葉としては持ち出すことはできない。しかし、帝国憲法が破棄されたのではなかったと同様、教育勅語もまた、為政者によって自発的・主体的に破棄されはしなかった。

内務省と並んで「解体」の対象になるやもしれなかった文部省は、8月15日以降、すばやく「民主国家・平和国家・文化国家」の表看板を掲げた。そして、政治家でも官僚でもない大学人を「文人文相」として招いた。前田多門、安倍能成、そして教育基本法策定のリーダーシップをとった田中耕太郎、しかりである。

以上の3人は、当時のれっきとした知識人、文化人である。にもかかわらず、というか、当然ながらというか、彼らは3人3様、いずれも教育勅語に対する敬慕の念が強かった。

前田多門:「教育の大本は勿論教育勅語をはじめ戦争終結の際に賜うた詔書を具体化していく以外にありえない。」

安倍能成:「教育勅語に関しては世上多少の疑義があるやうですが、・・・私も亦教育勅語をば依然として国民の日常道徳の規範と仰ぐに変わりないものであります。」

さらに、田中耕太郎は、官僚組織から超然と自立(自律)した「教権の独立」論者であり、西欧的な法理念(政教分離)を知悉しているはずの法学者であるにもかかわらず、また、カトリック教徒でもあったが、彼は何と、教育勅語の精神に「自然法的倫理の正当性」を認めている。

田中耕太郎:「教育勅語は我が国の醇風美俗と世界人類の道義的な確信に合致するものでありましていはば自然法とも云ふべきであります。即ち教育勅語には個人、家族、社会及び国家の諸道徳の諸規範が相当網羅的に盛られてをるのであります。それは儒教、仏教、基督教の倫理とも共通して居るのであります。」

さらに、「滅私奉公」「天皇・国家に命を捧げよ」を謳う「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ」に対しても、次のように述べている。

「『一旦緩急』云々は好戦的思想を現しているものではなく、其の犠牲的奉仕の精神は何時の世にも何れの社会に於いても強調せられなければならない。其処には謙虚さこそあれ、何等軍国主義的過激国家主義的要請も存じない。」(「現代の理論」第4号2015春号参照)。

この田中耕太郎の解釈は、稲田朋美防衛相の、現代という時点での「天皇に命を捧げる」ことへのあまりに軽率な弁論とは、もちろん次元を異にしていることは分かる。しかし、彼が個人の立場で、「犠牲的奉仕の精神」の重要性や崇高性を述べるのではなく、あくまでも、国家組織としての文部省文部大臣として発言していることに無自覚なのは問題である。国家機構の権力者としての文部大臣としては、それは、明らかに抽象的な「犠牲的奉仕の精神」の顕彰とはいかないであろう。

しかし、当時においては、庶民よりも知的文化人の方が、天皇主義、国家主義または教育勅語精神に心の底から色濃く染められていたのかもしれない。したがって、戦後当初、内面からの自発的な教育勅語批判が皆無だったことは(現代の私たちからすればあまりに残念至極だが)当然であったのであろう。そのような、歴史的視点や社会科学的視点の欠落のままに、戦後の教育基本法が制定されたことは、ある意味で、現在の安倍内閣の動向を支え導く要因の一つであるのかもしれない。

したがって、表面的には、「民主的、文化的な国家、および平和国家」に転換していても、「国家を支え、その根幹としての教育」という国家主義・官僚主義的教育観もまた継承されている。事実、教育基本法の巻頭には次のように述べられている。「われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理念の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。」これはすなわち、教育勅語の「億兆心ヲ一ツニシテ世々ソノ美ヲ済セルハ此レ我カ国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス」と重なるといえる。

民主主義に対する中途半端な姿勢、そして、「天皇・国民一体」という国家のあり方への居直り(戦後的完成形)・・・だからこそ、GHQから叱責されて初めて、大慌てで、教育勅語の「排除に関する決議」(衆議院)、「失効確認に関する決議」(参議院)(1948年6月19日)がなされたのであった。これが戦後まもなくの実態である。すなわち、1年3カ月、教育勅語と教育基本法は、不用意にも、自覚されることなく、堂々と共存していたのである。

しかし、衆議院での決議の、「(教育勅語など)の根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は、明らかに基本的人権を損い、且つ国際信義に対して疑点を残すもととなる」という認識は、忘れてはならない基本線である。言うまでもなく、私たちの課題は、この基本線を掘り下げ、さらに先に進めることであって、決して後戻りすることではないだろう。

おわりに―「タブー」と「強制」で「道徳」は育たない

以上見てきた通り、日本国憲法ならびに教育基本法が制定され、これからは「民主主義・文化国家・平和国家」の時代と高らかに謳われながら、それも束の間、民主主義を深めていく課題も、民主主義と象徴天皇制との原理的な矛盾を掘り下げていく作業も、ほとんど手づかずだったことが分かる。

こうして、「主権在民」という民主主義原理に基づきながら、「民」をすばやく「国民」に束ねて抽象化し、「象徴天皇を戴く」日本国家として再出発したため、為政者の視点は、つねに国家の高みから、国民全体へ下ろされてくることになる。教育勅語なき後、それでも次々と、国家が国民に「モノ申す」あるいは「期待する」という形での、「国民道徳」が打ち出されてくるのは、そのためであろう。

まずは、天野貞祐による「国民実践要領大綱」(1951(昭和26)年1月14日)である。「教育勅語に代わる国民道徳の基本として」出されたものであるが、当時の社会党、日教組などの強力な反対運動で、1月27日、白紙撤回された。

次に出されるのが、中教審答申「後期中等教育の拡充整備について」(1966(昭和41)年10月31日)の際に、併せて出された「期待される人間像」である。当時の中教審会長は森戸辰男である。もちろん、この「期待される人間像」でも、個人として、家庭人として、社会人として、あるべき徳は網羅されている。しかし、「期待される人間像」とは「国家が国民に期待する人間像」なのだ、ということに、まったく気づかれてもいない。しかも、最後には決まって、「国民として」が掲げられ、「日本国の象徴を敬愛することは、その実体たる日本国を敬愛することに通ずる」と、述べられている。

この「期待される人間像」もまた、「修身の復活」「反動化」「逆コース」というスローガンを掲げる反対運動により、日の目を見ることはなかった。にもかかわらず、それ以降も、日本国家の伝統とまとまり、国民の愛国心の養成が、為政者の重要な政治課題であることには変わりはなかった。「国旗は、日章旗とする。国歌は、君が代とする。」というシンプルな国旗・国歌法の制定は1999(平成11)年8月13日であるが、「国旗の掲揚に関し、義務づけることはない」と小渕恵三内閣総理大臣の制定直後の発言にもかかわらず、その後、公立学校教員に対する「国旗・国歌」への締め付けは、東京都教育委員会から始まり、全国的に執拗に行われ続けている。(2003(平成15)年10月23日東京都教育委員会通達など)

「国民の総意」というフィクションが、象徴天皇をも支え、そしてまた「公」(おおやけ、公共性)を支えている。日本の政治の舞台では、この「公=公共性」には、個々のピープル(人)の「私性」(わたくし)は捨象される。本来は、個々のピープル(人)のそれぞれの「私」の突き合わせの中から、辛抱強く「公共性」が創りだされるものであるだろうに。

しかし、事態は、民主主義の掘り下げや、多様な「私と公共性」「私と国家」の創出の試みとは逆の方向に動いている。第一次安倍内閣の下で改正された教育基本法(2006(平成18)年12月15日)のもっとも「不当」な点は、「法律に従って」行われる行政行為こそ「正当である」と定めた所である(第16条)。さらに、第17条では、政府は「教育振興計画」を定めるとされているが、「これを国会に報告するとともに、公表しなければならない」とあるだけで、肝心の教育計画の内容のチェックは想定されてもいない。

「国民の多数」を後ろ盾にする権力の暴走や「不当性」こそ、たえずチェックされ続ける必要があること、それが今、蔑ろにされている。もちろん、私たち一人ひとりの、法律や行政を「チェックする力」もまた、問われているが。

2018年(小学校)、2019年(中学校)から教科となる道徳も、「いじめ問題」の解決がねらいと言われるが、いずれにしても、国家が定めた徳を子どもたちに下ろしてくるものとなる。しかも、それらは、ごく当たり前の「~すべし」が集められているであろう。

差別をするな、みんな仲良く、ルールを守れ、家族を大切に、国家の伝統と文化を尊べ・・・・などなど。しかし、考えてもみよう。天皇制というタブーがあり、学校には評価がある。そのような、各自の本音を隠さなければならない「強制」のあるところで、道徳は育ちはしない。このように考える時、私たちは、戦前の教育勅語を中心とする教育の反省こそ、遅すぎるとは言わない、今からでも、まずはそこから始めるべきなのだろう。

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。お茶の水女子大学から東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。前こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、『歌集 三匹の羊』(稲妻社)、『歌集 続三匹の羊』(現代短歌社、2015年10月)など。

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