論壇

人口減少が止まらない!地方創生

四国通信―総合戦略策定という無駄

松山大学教授 市川 虎彦

1.四国概観

日本を構成する大きな島の中で、四国というとマイナーな感じが否めない。北海道や九州よりも面積は小さく、人口も少ない。ブロックを代表するような大都市も存在せず、くっきりとしたイメージがない。高知県だけは例外的に、坂本龍馬、いごっそ、大酒飲みという明瞭な像があり、それゆえ関東あたりの人は四国というと高知を真っ先に想起する人が多いのではないだろう。かくいう、私自身がそうだった。

参議院選挙の選挙区で、徳島県と高知県が合区されてしまったことに象徴されるように、四国の人口減少は深刻である。「四国四県で人口約400万人、おぼえやすいでしょ」とよくいってきたものだが、それもいつまで続けられるか。そうした中で私が住む愛媛県は、伝統的に東予、中予、南予の3地域に区分されてきた。東予は、タオルと造船のまち・今治市や住友の企業城下町・新居浜市を含み、臨海工業地帯が形成されている地域である。中予は、県庁所在都市・松山を中心にサービス業・商業が集積した地域となっている。そして、愛媛県内でも過疎化が最も深刻なのが西南部の南予地方である。

南予は東中予と異なり、山がちで広い平野部がない。海岸もリアス式で、臨海工業地帯を造成するのには向いていない。大正期は傾斜地に桑を植え、養蚕業が盛んだった。そのため、南予各地に製糸工場が立地して繁栄した。しかし、製糸業はやがて衰え、高度経済成長期には多くの人口が流出した。1970年代後半から80年代前半にかけて、リアス式海岸を利用した養殖水産業が始まったり、製造業の地方分散の流れにのって工場誘致に成功する地域が現れた。だが現在では、養殖水産業は産地間の競争が激化して、かつての勢いがない。工場はグローバル化の影響で閉鎖されるところが相次いだ。地域経済を支える1つの柱だった建設業は、公共事業削減のあおりを受けている。こうして南予地方は、過疎化と高齢化が進み、“疲弊する地方”の典型のような地域になっている。

2.地方創生のためのビジョンづくりと意識調査

地方の衰退に、政府もまるっきり手を拱いているわけにはいかなかったのだろう。2014年、第2次安倍改造内閣で地方創生担当大臣として入閣した石破茂は、翌15年、全国の地方自治体に地方創生のための長期ビジョンや総合戦略作成を指示した。そして、その長期ビジョンの前提となる人口推計や調査票を用いた調査の実施が求められ、予算がつけられた。小さな自治体では、自前で人口推計や調査票調査を行う余裕がないので、外注せざるを得ない。全国同時なので、外注するにも引き受け手を探すのに苦労する自治体も出てきたであろう。こうして、そのうちの1つが私のもとに回ってきたというわけである。

私が委託を受けた自治体は、先ほどから述べている南予地方の西予市である。市といっても、いわゆる「平成の大合併」の最中、宇和町・野村町・城川町・明浜町・三瓶町の5町が、2004年に合併して市制要件緩和によって成立した市である。このため、西は宇和海に面した海岸部から、東は高知県境の山地まで、東西に長く広い市域(面積514.34㎢)をもっている。合併当初は約4万8千人いた人口は、現在は約4万人にまで減少している。

さて、意識調査は、成人男女を対象に、「結婚・育児」「地域連携」「社会移動」と3種類の調査票を作成して各千名を対象に行い、別に市内の高校3年生・中学3年生・小学校6年生を対象に「進路」に関する意識調査を行った。これらの調査のデータ入力と集計を行い、報告書を作成したわけである。手間のかかる仕事の割には、これで何か新しい知見が得られたというような感覚はもてなかった。

また人口推計は、最も簡便なコーホート変化率法を用いて行った。これは、過去5年間の性別・年齢階梯5歳別の人口増減率が将来も続くと仮定して計算するものである。推計を行ってみると、西予市全体で2015年に4万人あった人口は2060年には16688人となり、現在の約4割の人口規模になってしまうという結果であった。特に市の中心部の旧宇和町以外の地域の人口減少が大きい。現在、人口約4千人の明浜地区や城川地区は、2060年に千人前後になってしまうという推計結果である。かつては人口1万人以上で、まがりなりにも町だった地域が、千人しか住まない地域になると、そこはどうなってしまうのであろうか。その上、高齢化率は50%を超える。

さて、この推計では国立社会保障・人口問題研究所の推計となんら変わらない。そこで次に、なんらかの施策を講じ、出生率や社会移動の状況が改善した場合の推計を行うという段取りになる。全国の自治体で、こうした推計が行われたはずである。こうしたタラレバ推計を足し合わせると、2060年に日本の総人口は2億人になるという笑い話をきいた。

西予市でも、当初、2060年時点で人口2万人を割らないような推計値の条件を求めてくれということで、試行錯誤した。出生率が2.3に上昇するとか、平均寿命の延びを取り入れるとか、いろいろと設定を変えて推計を試みた。結局、市の側から実現不可能な設定で推計しても意味はないという賢明な意見が出された。落としどころは、合計特殊出生率が2.0に回復し、社会減の規模が今の半分にまで減少するという、控えめでありつつも、実際にはかなり楽観的な見通しであった。この設定で推計すると、西予市の2060年の人口は1万9千人台という結果だった。合計特殊出生率が2.0を回復したところで、将来人口はさして増加しなかった。

こうした推計を行ってみて、増田寛也・日本創成会議「消滅可能性都市896 全リストの衝撃」(『中央公論』2014年6月号)の着眼点の良さに、あらためて気づかされた。言うまでもなく、この論文は地方創生という流れの出発点となったものであり、地域社会に関心をもつ人々から大きな反響をよびつつ、反発も引き起こしたものである。

増田氏の論文の勘所は、各市区町村の人口の再生産を担う20~39歳の女性人口の推移に着目したところにある。20代、30代の女性がいなくなれば、当然、人口の再生産はできなくなる。そこで、2010年から40年までの30年間に、この年代の女性の人口が5割以上減少すると予測される市町村を「消滅可能性都市」と呼称したのであった。西予市でも、すでに20代・30代の女性や将来のその年代になる層が、かなり縮小してしまっていた。そのため、出生率が多少回復したところで、出生数が劇的に増えるというわけにはいかなかったのである。小さな数に何を掛けても、出てくる数字は思ったように大きくはならなかった。増田氏の主張が、身に染みる経験となった。

3.地方創生のお手本?―双海町・内子町

次の段階は、地方創生の戦略づくりということになる。そこから先は、市の仕事となり、私は関与しなかった。でも、そもそもどうしたら地方に人口が定住するのであろうか。施策を講じるといっても、何をどうすれば効果的なのであろうか。これまで愛媛県におけるまちづくりや地域活性化の成功事例として全国的に知られてきたのは、なんといっても双海町(現在は伊予市の一部)と内子町である。そこで、この二町の施策を紹介してみたい。

双海町は、松山市から西に約30㎞の距離にあり、伊予灘に面した町である。この町は、町役場職員の若松進一氏を中心に、「夕日」を活かしたまちづくりに取り組んできた地域である。伊予灘に沈んでいく夕日の美しさをまちづくりの核に据え、「沈む夕日が立ち止まるまち」を謳い文句に地域おこしを進めていった。海岸に、「ふたみシーサイド公園」を造成し、その中には「夕日のミュージアム」もつくられている。双海町の海岸沿いを走る国道378号線は「ゆうやけこやけライン」の愛称がつけられ、海に最も近い駅とされる下灘駅では「夕焼けプラットホームコンサート」が開催されている。このまちづくりは、全国的にも成功事例と評価されるものであった。また、これを主導した若松進一氏は、観光庁の「観光カリスマ」にも選ばれている。

一方の内子町は、松山市から南西へ約40㎞のところにある山間のまちである。この町は、江戸時代後期から明治にかけて、木蝋の生産によって繁栄した。この繁栄の名残が、八日市地区の商家群である。内子町では、町役場職員の岡田文淑氏を中心に、1970年代から歴史的な街並みの保存への取り組みがなされた。この取り組みが功を奏し、1982年に重要伝統的建造物群保存地区への指定に至った。1983年には、伝建地区近くの内子座(1916年建設の歌舞伎劇場)の修復工事が行われ、新たな観光資源となっている。こうした取り組みが評価され、内子町のまちづくりは、サントリー地域文化賞などを受賞している。まちづくりは、この伝統的な景観保護にとどまらず、農産物直売所「フレッシュパークからり」による地域振興もそれに続いた。「からり」は1993年から施設整備が始められた。単なる農産物直売所ではなく、農産物を加工する工房やその販売所、飲食施設などを併設している。第3セクター方式で運営され、多くの集客がある。また「からり」は、経済産業省と農林水産省共同の農工商連携88選などにも選ばれている。

諸富徹氏は内子のまちづくりを高く評価し、「自らが保有する地域固有資源を活用し、それに磨きをかけていくなかで観光業、農業の活性化をはかり、そこで得た富をさらに再投資して地域をよくしていくという好循環(内発的発展)をつくりだしている」とした上で、「中山間地域における持続可能な発展の実例であり、一つの有力なモデルとして位置づけたい」(諸富徹『地域再生の新戦略』P.166)と述べている。諸富氏は、地域固有の資源を活用した地域振興を「内子町モデル」と呼び、絶賛に近い高評価を与えている。

こうした予備知識を得た上で、下の図を見ていただきたい。このグラフは、双海町・内子町と、愛媛県最南端の愛南町の一部となっている旧御荘町・旧一本松町の人口の推移である。

図 旧双海町・旧内子町・旧御荘町・旧一本松町の人口の推移(人)

旧双海町・旧内子町・旧御荘町・旧一本松町の人口の推移

出所)愛媛県統計協会『統計からみた市町村のすがた』各年度版より作成

ふつうに考えれば、まちづくり施策に成功している双海町と内子町の人口の推移を示す線が70年代から2000年にかけて安定している上から2番目と4番目の線で、地理的条件が悪く、鉄道も高速道路も通っていない旧御荘町と旧一本松町の人口推移の線が、1960年以降、一貫して右肩下がりの上から1番目と3番目の線だと思われるであろう。しかし、さにあらず。上から順に、旧内子町、旧御荘町、旧双海町、旧一本松町となる。

まちづくりの成功事例として高い評価を受けてきた双海町と内子町は、実はともに人口減少に歯止めがかからない状態で、今日に至っている。双海町は1960年の段階で9951人にいた住民が、2010年には4414人と、半分以下にまで減少してしまっている。内子町も1960年に19790人と2万人近くいた人口が、2010年には1万人を割り込んで9813人まで減少している。両町とも、1960年からの半世紀で人口が半減しているのである。今後も下げ止まる気配はなく、とても「持続可能な発展の実例」とは言えない状況なのである。たしかに、両町のまちづくりへの取り組みとその成果は、見習うべき点が多いのだろう。にもかかわらず人口が減少し続けていることこそ重要である。

4.人口の地方定住に必要なものは

一方、御荘町は、戦後になって減少してきた人口が、1970年に底を打った。それからは、わずかではあるけれども増加に転じてさえいる。1980年代には人口1万人台を回復したのである。一本松町も、60年代に人口が1500人以上減少し、5000人を切ってしまった。しかしそこで下げ止まり、70年代から2000年にかけては、人口4100人から4200人の間で安定的に推移した。

これはなぜなのでろうか。御荘町は、1970年代に御荘湾におけるハマチ等の水産養殖業が勃興し、急速に水産業生産額を伸ばしたのである。一方の一本松町は、松下寿電子工業の大規模工場の誘致に成功し、この工場だけで600人を超える雇用が生み出されたのであった(現在は閉鎖)。要は、辺鄙なところでも雇用があれば人は定住するのである。逆に、歴史的景観保存、観光開発、集客イベント、直販所、B級グルメ等々は、いかに成功しているようにみえても小手先のことで、地域の屋台骨を支えるような雇用を生み出しはしないということなのであろう。

旧双海町・旧内子町・旧御荘町・旧一本松町の人口の推移をみれば、産業が生まれ、大の大人が生計をたてられる仕事が増える、というのが地方創生の本道だと思うだろう。そして、委託を受けておいて言うのも何なのだが、今回の人口推計に、住民意識調査、それに基づく長期ビジョンや総合戦略の作成は、なんとも無駄な費用と労力をつかっているようにしか思えなかった(人口推計は個人的にはいい経験になったが、それはまた別の話である)。これで多少なりとも潤ったのは、都市部に立地するシンクタンクあたりであろう。自治体は、余計な労力と時間をつかわされた。さらに、「選択と集中」の名の下、知恵を出し、汗をかこうという自治体に補助金をつけるということなので、また申請書の作文づくりを各自治体は競わされる。にぎわい回復、空き家活用、産官学協働、育児支援、婚活支援と、様々な案がつくられ、採択されるのであろう。しかし、こうした施策に実効性があるかは、はなはだ疑問である。

アメリカのトランプ大統領は、個人的にはまったく支持できない。しかし彼の「ジョブ、ジョブ、ジョブ」という呪文が多くのアメリカ国民に支持されるというのは、四国にいると実感として理解できる。仕事があれば人はそこに住むし、あるいはそこに行くのである。補助金の切れ目が事業の切れ目、というような施策を繰り返しても、地方の雇用も、人口も増えはしないであろう。ましてや、意識調査や総合戦略づくりを何度くりかえしたところで、なんの効果もなかろう。

いちかわ・とらひこ

1962年信州生まれ。一橋大学大学院社会学研究科を経て松山大学へ。現在人文学部教授。地域社会学、政治社会学専攻。主要著書に『保守優位県の都市政治』(晃洋書房)など。

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