この一冊

『なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか』(関曠野著/聞き手三室勇 NTT出版、2016.5)

西欧と日本の歴史を鋭く問いなおす

ベーシックインカム・実現を探る会代表 白崎 一裕

以前、ネット上である社会学者が「関曠野は、孤高の思想家である」と評していたのを読んだことがある。なぜ、「孤高」なのか。既成の専門家領域に安住している人々にとっては、その専門領域を揺るがす評論活動をしてきた関さんを「孤高」にして遠ざけておきたいのかもしれない。しかし、私のような庶民にとって関さんは、自分の思い込みから思考をすこしでも自由にしてくれる貴重な存在である。そういう意味で、関さんは、「孤高」ではなく、「野の知識人」なのだ。

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その関さんが、本書の最後に「知識人は、新旧世代の相克の中で新旧世代の代弁者になるだけでなく、各世代内部の葛藤についても代弁する必要がある」と述べている。冒頭から評者自身のことで恐縮だが、評者世代内部の葛藤は本書の主題とも関連すると思われるので少しふれてみたい。

本書で「戦後日本の歴史の分水嶺」と指摘される60年安保の年に評者は生まれた。この1960年という年は高度経済成長が始まった頃でもあり、日本近現代史の一つの断層が刻まれている年とも言えよう。60年代前半生まれの世代は、今は死語となっている「新人類」という言葉で表現されたことがあった。親世代は猛烈サラリーマン、一世代前の先輩たちは全共闘世代、5年ほどあとの後輩世代は校内暴力世代か消費社会礼賛のバブル世代。このどれでもない「シラケ世代」こそが新人類世代の葛藤である。高度成長経済にノリつつもシラケるという矛盾した存在であった。そして、この中途半端さは、当時の思想状況のハンパさでもあったのだ。 

新人類が青年期を迎える1970年代半ばは、73年に第一次石油ショックが発生し、オイル資本主義に陰りが見えて高度経済成長が終焉する時期である。また、高校進学率が90%台後半となり学歴社会が飽和点に達する時代でもあった。評者は、父親の猛烈サラリーマンぶりに反発を覚えサラリーマンにはなりたくないと考え、父親のような労働をさせているのは、資本主義に違いないと思いこむようになる。そして、資本主義なるものを超える思想はないかと様々な書物に手を伸ばしていく。資本主義批判ならばマルクス主義というかもしれない。

しかし、評者世代は、小学校高学年の頃におきた「連合赤軍事件」の印象が強く、マルクス主義には警戒感をもっていた。マルクス主義ではない「資本主義批判」の思想はないものか。70年代から論壇に登場してきたエコロジズム、フェミニズム等も資本主義批判のヒントにはなりそうだったが、説得力を感じることはなく混とんとしたまま、学生時代を終えようとしていた。ハンパ世代ならではの思想彷徨でもあった。そんな時に在野の思想史家、関さんの『プラトンと資本主義』という彗星のような書物に出会ったのである。西欧のロゴス中心主義の哲学文明こそが資本主義を生んだというこの本の主題はとても鮮烈な印象を与えた。

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本書は、『プラトンと資本主義』以来の思索を現在まで辿った語りおろしである。

アメリカ新大陸の富をタナボタ的に収奪して発生した資本主義は、21世紀に入りリーマンショックの後遺症を根本的に解決することなく末期症状を呈している。この現在の資本主義状況下で私たちはどのように生きていくべきなのか、そのヒント満載の書ともいえる。

「資本主義の根本問題は、銀行金融と精神病理と科学知識の資本化 これにつきる」と関さんは言う。精神病理とは、身分制崩壊後の競争的な個人主義社会のストレス過多社会から生じ、科学的知識の資本化とは科学の再魔術化と説明されている。加えて、その二つの事象とも密接に絡んだ「銀行金融」の問題が資本主義批判に鋭く突き刺さる問題提起となっている。

まず「貨幣論」。私たちは、素朴にアダム・スミス以来の思考で、貨幣は、物々交換の発展形として商業の手段の形態で登場してきたと思わされている。しかし、歴史を振り返ると貨幣は古代メソポタミアなどの帳簿による会計管理の手段、および徴税の手段として「政治的道具」として出現したのである。貨幣は商業経済の媒体ということではなく、あくまでも政治的道具であり政治的に公正に運用されなければならない。この政治的道具である貨幣発行を私的に利用したのが銀行金融である。現在の通貨供給量をみても、現金通貨は、全体供給量の7%程度にすぎず、通貨供給の大部分は、銀行の「預金通貨」である。この預金通貨は、市中銀行の貸し出しにより通帳内に記入されている数字にすぎない。しかし、この数字は、「利子付き負債」となり経済全体を牛耳っているのだ。従来のマルクス経済学を含む既成の経済学はこの貨幣論の現代的形態である銀行預金通貨=利子付き負債のことを無視した論理になっている。これが資本主義論を不毛にしてきた大きな原因である。

そして、銀行負債経済は、「罪の経済」としてヨーロッパに特長的なものだという。

この罪の経済をキリスト教批判と絡めて論じている思想家としてニーチェが紹介される。ニーチェの『道徳の系譜』で論じられた「負債=負い目」として倫理的に呪縛されたヨーロッパの政治・経済社会の指摘こそ、資本主義を支える強迫的な成長とグローバル化観念に隠された謎を言い当てたものである。

関さんは、この資本主義を超えるために、利子付き負債ではない「政府通貨の発行」と雇用とは分離された「権利としての所得保証=ベーシックインカム」等の政策提言を、忘れられた経済思想家クリフォード・ヒュー・ダグラスの思想を現代に復活・応用させることで行っている。

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以上の資本主義の問題点をあきらかにする中で、日本の歴史的位置付けについても考察はおよぶ。日本史の再考による神仏習合のダイナミズム、徳川時代や鎖国時代の再評価、江戸期の惣村自治の重要性とそれらに対比される薩長軍事クーデターとしての「明治維新」の欺瞞など分析の視座は重層的である。特に戦後史の東京裁判の意味とそこからみえてくる明治憲法・明治維新政府の問題点。冒頭に述べた高度経済成長の帰結と現在のアメリカ凋落後の日本人がネーションになろうとする意味などはこれからの日本の政治状況を考える際に貴重な視点といえよう。資本主義論との絡みでいえば、経済大国と過酷原発事故の功罪の両極を経験し、欧米の罪の文化とは違う位置にあり欧米の軍事的外交的圧力で成立した日本の資本主義は、それらゆえに、今後、資本主義を相対化してポスト資本主義への模範となると総括されている。

世界史の観念の終焉はローカルな伝承のモザイクとなるという。さて、私たち日本人一人一人は、そのなかで「汝の人生をもう一度生きたいと欲するような生き方」(ニーチェ)の義務をはたしていくことができるだろうか。

しらさき・かずひろ

1960年生まれ。ベーシックインカム・実現を探る会代表。共著に『ベーシックインカムは希望の原理か』(フェミックス)。現在、「お金リテラシー入門~お金にふりまわされないものの見方・考え方」を「くらしと教育をつなぐWe」(フェミックス発行)に連載中。

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