特集●歴史の転換点に立つ

立憲主義を主張する文脈と課題

『「憲法改正」の真実』と
『あたらしい憲法草案のはなし』をふまえ

鹿児島大学教育センター准教授 渡邊 弘

1.本質を問うこと――問いそのものを問うこと

「憲法改正に賛成ですか反対ですか、と聞いてますが、具体的にどういうふうに変えるのか、って話がまったくないわけで。『民法変えたいですか、変えたくないですか?』って質問は成り立たないと思うんですね」。(奥田愛基)

2.二人が声をあげる意味――生き方が与えるインパクト

樋口陽一と小林節による対論『「憲法改正」の真実』(集英社)が2016年3月に出版された。本書の帯には、樋口の写真の脇に「護憲派の泰斗」、小林の脇に「改憲派の重鎮」と記されている。このキャッチコピーは、小林が「ここではあえてマスメディアがつける枕詞を借りて乱暴にまとめると」という断り書きつきで、本書のなかで紹介しているものによっている。

しかしながら、小林の注意深い紹介の仕方からもわかるように、樋口も小林も本来的には、「護憲派」「改憲派」という表面的なレッテル貼りの胡散臭さを、根本から指摘し続けてきた研究者であるように思われる。樋口は本書のあとがきにあたる部分を「建物はまるきり違っていても土台は同じなのか」という問いで始めているが、「建物」は違っていようとも、自身と小林が立憲主義についての理解という「土台を共有している」ことに注意を促している。

「土台」を共有しているのか否か、ということ自体、二人の論者が読者に訴えかけようとする「キモ」に関わることではあるが、それについては後に触れるとして、それでも樋口と小林は、学問的にも社会的にもそれぞれに個性的な道を歩んできた。

樋口についていえば、これは本書で小林も指摘していることであるし、また、樋口自身もいろいろなところで語っていることではあるが、その時々に(憲)法学の世界で大きな議論を起こしたり、あるいはそれを越えて社会的にも影響を与えるような論考を発表しながらも、ある意味で歯がゆくなるほどの自己規制を課してきた。一例を挙げよう。樋口は、岩波新書の『比較のなかの日本国憲法』において、戦後日本の司法のあり方や構造に関する実態分析を行い、それがいかに日本国憲法の想定している(そしておそらく、近代的な意味の憲法が共通して想定している)司法の姿から離れているか、ということを説得的に示した。その上で樋口は、あえて「反動的」とも見えるような「伝統的裁判官像」について真剣に考えることの重要性を主張した。この主張については小田中聰樹から、モデルとすべきは「民主的裁判官像」なのではないか、との議論が提起され、後に両者のやりとりは「裁判官像論争」と呼ばれるようになるのだが、ここでいいたいのはその論争の中身のことではない。樋口は、『比較のなかの日本国憲法』において、いわゆる「運動」側が世に出してきた資料にいっさい依拠しないで、戦後日本司法の問題性を剔抉したのである。研究の手法の面で徹底して抑制的な姿勢をとりながら、それにもかかわらず鮮やかに問題の本質を示していくこのやり方は、樋口の論考の説得性を高めてきたといえるだろう。そしてこのような樋口の姿勢、すなわち、「運動」から一定の距離をとるという姿勢は、ごく最近、すなわち、集団的自衛権の行使容認と安保法制に関する議論が高まるまで一貫していた。

その一方で小林が、現実の政治過程にコミットしてきたことはよく知られている。小林自身が明らかにしているように、彼は、改憲に関する自民党の勉強会に講師として長く参加するなど、自らの学問上の主張を現実のものにするための動きに積極的に関わってきた。そもそも小林は、日本国憲法第9条については改正すべきだという立場である。憲法学の世界では、日本国憲法第9条を改正して軍隊の所持を認めようという主張は少数派であり続けてきたが、学界で少数派であるにもかかわらず(あるいは、少数派であるからこそ?)、自らの主張を実際の政治過程に反映させようとする従前の小林の姿勢は、樋口が「運動」に対して謙抑的に振る舞ってきたこととは対照的である。

本稿で第一に指摘しておきたいのは、このように、「運動」や現実の政治過程への関わり方の点で対照的な道を歩んできたこの二人が、ことここに至って、共通の「土台」に立つことを確認しつつ、安倍自民党による改憲の真実について明らかにしようとしていることのインパクトである。

とりわけ樋口の行動について言えば、憲法学を学んできた者はすぐに「研究者のけじめ」論(奥平康弘)や「人権のインフレ化」という言葉を想起するに違いない。すなわち、研究者としての言明には、研究者としての「けじめ」――「運動」論などといったんは切り離した学問的な姿勢――が求められるという主張は、これに対する賛否いずれの立場に立つにせよ、憲法研究者は常に意識させられてきた。また、「人権のインフレ化」――すなわち、なんでもかんでも「憲法違反」であると主張することは、その意図とは相反して、「切り札としての人権」の強みを減殺することになる――という主張についても、誠実な憲法研究者ならいつも頭の片隅においてきたはずである。そして樋口は、長年にわたる研究者としての人生のなかで、一貫して、これらの点において謙抑的な立場に立ってきた。その樋口が初めて街頭に立ったこと自体、近代的な意味での憲法の危機を象徴する出来事なのである。

一方で小林についていえば、樋口とはまた別の意味で、その行動は大きなインパクトをもつこととなった。くり返しになるが小林は、日本国憲法第9条を改正すべきという立場から自民党の勉強会に呼ばれてきた人物である。その小林が、安保法制に反対し自民党改憲草案に反対するのは矛盾していると見る向きもあろう。しかしながら、「自民党のブレーン」であった小林にとってさえ、安保法制や自民党改憲草案は反対せざるを得ないものなのだ、という点こそが、これまた近代的な意味での憲法に関わる現在の危機を象徴しているのである。

3.「土台」を嘲笑する自民党――「土台」を理解することの意義

第二に指摘しておきたいのは、樋口と小林が共通にもつ「土台」を、自民党が徹底的に嘲笑してきている事実である。この点は、自民党の勉強会に関わってきた小林によって明らかにされている。自民党は明らかに、憲法について謙虚に学ぼうという姿勢で憲法研究者としての小林を勉強会に招いてきたのではない。自民党は、小林の主張のなかで自らに都合の良いところを「つまみ食い」しようとしてきたのであり、それ以外の部分、とりわけ樋口と小林に共通する「土台」の部分については、あからさまに嘲笑してきたのである。ここでいう「土台」とは、第一にはもちろん近代的な意味での憲法ということになろうが、しかしながら本書を通読して明らかになってくるのは、自民党が嘲笑しているのはそれだけではない、ということである。自民党ははっきりと、近代的な意味での憲法を生み出してきた人類の歩みそのもの――それは多くの犠牲を伴っていた――を軽視し、そしてこの人類の歩みと、そこから生み出された憲法という智慧の意味を説き明かそうと努めてきた学問そのものを嘲笑しているのである。

この点についての傍証となる事態が、2015年の国会で生じた。自民党は、2015年6月4日に行われた衆議院憲法審査会における参考人として長谷部恭男を推薦した。長谷部は、特定秘密保護法の必要性については一定の限度でそれを認める立場をとっており、その点からしておそらく自民党は、特定秘密保護法について「つまみ食い」ができることをいってくれた長谷部であれば、憲法改正や安保法制についても同様に「つまみ食い」が可能なことをいってくれると高をくくったのであろう。しかしながら、従前からの長谷部の論考を学んだ者にとっては、長谷部が安保法制や自民党改憲草案に対して肯定的なことをいうはずがないことは明らかであった。衆議院憲法審査会での参考人として自民党が長谷部を推薦したことは、彼らが立憲主義と同時に学問そのものをも軽視し嘲笑してきたことのあらわれである。

そして、このような自民党の態度の帰結として、彼らが提案する2012年自民党改憲案は、人類の歩みから教訓をくみ出そうとする学問の成果を徹頭徹尾無視し、立憲主義の意義を没却しきったものとなった。いや、もっと端的にいうべきであろう。2012年自民党改憲案は、憲法改正の提案でさえない。この案でもって彼らは、はっきりと「憲法なんかいらない」と主張しているのである。

この点を「パロディ」の形で明確に示したのが、2016年6月に出版された『あたらしい憲法草案のはなし』(太郎次郎社エディタス)である。日本国憲法制定後に当時の文部省が配布した教科書『あたらしい憲法のはなし』を模した形で作られたこの小冊子は、2012年自民党改憲案の意図を余すところなく我々の前に提示する。

と同時に、この小冊子を読んだ者は、2012年自民党改憲案の問題点を知ることになるだけではなく、我々市民の側に厳然と存在するある種の弱点にも気づかされ、暗澹たる気分にとらわれるに違いない。少し長くなるが、一つの例を引用しよう。

「主権者であるといっても、国民ができるのは、選挙のときに投票をすることだけですし、近ごろでは、その選挙にすら行かない人がふえてきました。国民主権といっても、じっさいの政治をおこなうのは、国民にえらばれた代表者なのです。

ところが、国民のなかには、国の代表者が気にいらないといって、国がきめた規則にしたがわなかったり、国がきめた方針に反対したりする人がいます。また、民主主義や国民主権は『国民がきめたことならすべて正しい』という考えかたですから、たくさんの国民がまちがった考えをもったら、国の将来はたいへんなことになってしまいます。なかには、国にとって、とくに大切なことは国民の投票できめよう(「直接民主制」といいます)という人がいますが、国民の能力を考えれば、それもむちゃな考えです」。

さて、この部分に正確に反論しうるだけの力を、我々の側はもっているだろうか。

主権者であるとはいいながら、我々は、実際に自分が日々の政治を動かす力をもっているという実感を通常はもったことがない。新聞の購読率は下がり、テレビでは政策に関する論議よりも有名人の私的な「スキャンダル」に注目が集まる。日本国憲法に定められた請願権を行使して自分が望む政策を実現しようと試みたことのある市民は、日本に居住する人のうち何パーセントを占めるだろうか。それどころか、民主主義に不可欠だとされ「人権カタログ」のなかで優越的な地位を占めるとされる表現の自由についてさえ、私たちは日々、じゅうぶんにそれを行使しているといえるだろうか。

選挙権についていえば、筆者は高校や大学の授業で、選挙権年齢を何歳に定めるのがふさわしいか、という問いかけを何度もしたことがあるが、生徒や学生からは決まって、「子どもには能力がないから選挙権の年齢を下げるのは無理」という意見が相当数出る。若者のあいだでさえいまだに、「能力」の有無が政治に関わる権利の要件だと考えられているのである。選挙権の歴史を顧みれば、「政治に関わる能力を持っているのは財産のある男子(=家長)のみ」という理由で、無産者や女性に選挙権が認められていなかったという苦難の歴史があったのに!

また、先の引用部分はこうも述べる。「民主主義や国民主権は『国民がきめたことならすべて正しい』という考えかたですから、たくさんの国民がまちがった考えをもったら、国の将来はたいへんなことになってしまいます」。この部分はまさに、立憲主義の重要性を語ってきた我々の側の論理ではないか。我々は、民主主義の限界を語り、民主主義的に選ばれた代表でさえも憲法で縛ることの重要性を語り、立憲主義をないがしろにしている安倍自民党を批判してきた。だが我々は、自らのこの主張の「両刃の剣」性をどれだけ意識してきただろうか。

このような点から考えれば、一つには、この小冊子を「パロディ」と考えられるか否かが、我々の側に突きつけられた課題だということになる。この小冊子には、元ネタの『あたらしい憲法のはなし』の抜粋や、日本国憲法と2012年自民党改憲案の対照表も収録されているから、たとえば、大学教養科目としての「日本国憲法」でテキストのひとつとして用いるに必要な情報量を有している。しかしながらこの冊子を実際にテキストとして指定したら、「パロディ」の部分を真に受けてしまう学生が続出するのではなかろうか。残念なことに我々の(学生だけではない!)知的水準はすでにそこまで劣化しているというのが、筆者の実感である。

そして二つ目に、この小冊子からもまた、我々は立憲主義の誕生の歴史そのものを深く学び、その意義を正確に捉え直すという課題の重さに改めて気づかされる。くり返しになるが、この点は、樋口・小林対論で彼らが共通の「土台」としてきたところである。先述のように樋口は、「建物」と「土台」という譬えを使って自らと小林のあいだに共通している部分と相違している部分とを意識させているが、『あたらしい憲法草案のはなし』も「家をまもるためには、くさった柱をとりかえなくてはなりません」として、国家と憲法を建物に譬えている。両者のあいだのこの類似は偶然の産物かもしれないが、しかしながら、「憲法」という単語の英訳である「constitution」が、他に「構造」や「組織」といった意味をももっているということは、この間、かなり広く知られるようになってきた。我々にいま課されているのは、自らの主張をも批判的に顧みつつ、この「構造」について歴史的教訓もふまえた上で学び直し、それを自らの内部に「組織」化することではないだろうか。

4.「参加者は3人(主催者発表)」――「数」に回収されない力

さて、2015年の夏、多くの市民が安保法案に反対する意思を示すために国会周辺に集った。60年・70年の安保闘争はもちろんのこと、ベトナム反戦運動や80年代初頭の脱原発を目指した世界的ムーブメントさえもほとんど記憶にない筆者のような世代にとってみれば、2015年夏の安保法案反対運動は、初めて経験する全国規模の大きな社会的運動であったといってよい。そしてまたこの運動は、「個人の尊重」という価値を自らのものとしつつある市民が、その価値に基づく一人ひとりの意思を主体的に示したという意味で、それまでの戦後社会運動とははっきりと異なる側面をもっていたといえるのではないか。

だからこそ、国家権力や、あるいは、それと意を同じくするある種の人びとは、この運動に、それまでにはない恐怖をかき立てられたようだ。例を挙げよう。

産経新聞電子版2015年8月31日付は、安保法案に反対する市民団体が前日に行った集会への参加者数について、共同通信のヘリコプターから撮影した国会議事堂正面の写真をもとに、「3万2千人程度」と試算してみせた。この集会について主催者は、約12万人が参加したと発表しているが、それからは「ほど遠い」というのだ。

加えて、産経新聞の有元隆志・政治部長は「デモ参加者たちが民意を代表しているのではない」と述べ(電子版2015年9月18日付)、さらに同日の同紙電子版コラム「浪花風」では、「国会前のデモこそが民意と言うのか。選挙で選ばれた国民の代表が議論し、多数決で決めるのが議会制民主主義だと習ったのだが」と述べている。

どうやらこの新聞は、集会やデモといった形での民意の表現をできるだけ小さくみせたいとの指向をもっているようである。しかしながら、あの日、国会周辺の集会に参加した一人として念のために付言すれば、共同通信がヘリコプターから撮影し産経新聞が掲載したその写真に写っている範囲の外も含めて、国会周辺は、安保法案に反対する人びとで埋めつくされていた。もちろん、絶対に主催者発表が正しいというつもりはない。それどころか筆者は従前から、この種の集会やデモの主催者は、参加者数をあえて「3人」と発表してはどうか、と半ば戯れに、半ば真剣にいってきた。この種の集会やデモをよしとしない人びとからは、主催者が何人だといおうと「主催者発表は信憑性がない」といわれるに決まっているからである。

さらにいえば、数が事実としてどうか、という点だけが問題なのではない。もし「浪花風」子が学校の授業において「選挙で選ばれた国民の代表が議論し、多数決で決めるのが議会制民主主義だと習った」のだとすれば、彼あるいは彼女が、たいへんに貧しい教育しか受けてこられなかったことについて、お気の毒というよりほかはない。これも「日教組教師」の責任であろうか。

そもそも、日本国憲法が予定している民主主義は、選挙や議会という制度によって裏付けられた制度的参加だけによるのではない。13条に定められた「個人の尊重」という理念に基づき、21条の表現の自由をはじめとする諸人権を行使することによって、多様な回路を通じて政治的決定を行うことが、民主主義の中身として当然含まれている。

この点からすれば、現在の学校教育が、第二第三の「浪花風」子を作り出しつつあるのではないかとの危惧を抱かざるを得ない。というのも、安保法案の審議と時を同じくして、選挙権年齢を18歳からとする法改正が行われたが、この法改正をきっかけに、全国の学校でにわかに主権者教育が脚光を浴びることとなった。ところが、この18歳選挙権をきっかけとする「主権者教育ブーム」は、はっきりと問題を抱えたものであったといわざるをえないからである。

第一に、多くの学校でおこなわれた主権者教育の授業は、選挙管理委員会から投票箱を借りてきて模擬投票を行う、という水準にとどまっていた。そこでは、架空の候補者が架空の政策を生徒に示して投票を求める、という形になっており、本物は投票箱だけ、というのが実態であった。

第二に、選挙で投票を行うことが「義務」であるかのように教えられ、投票に行くことが過度に慫慂された。憲法学を学ぶ者のあいだでは常識的なことだが、選挙で投票を行うのは「権利」であって「義務」ではない。なるほど、選挙権の法的性格についていえば「権利一元説」は少数説であって、多くの憲法研究者は「権利・公務二元説」に立つものと思われる。しかしながら、権利・公務二元説に与する論者であっても、多くは、義務投票制に慎重な立場に立つであろう。

第三に、たとえば、ビルマで民主化を求めたアウンサンスーチーは、過去に選挙のボイコットを呼びかけたことがある。また、世界の国ぐにのなかで最も選挙の投票率が高いのは、おそらく朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)だと思われるが、まさか「浪花風」子は、北朝鮮の選挙が民主的だとは主張しないであろう。すなわち、選挙が行われるだけでは民主主義だとはいえないということは、世界の歴史を見ても明らかであるが、にもかかわらず、この点について触れた「主権者教育」がどのぐらいあったかという点については、相当に疑問である。

第四に、第三点にも関わって、この「主権者教育ブーム」のなかでは、選挙制度そのもののあり方についてまで問う授業実践はきわめて少なかったのではないかと思われる。選挙運動期間中のほうが政治的な意見表明が困難になるという逆立ちした「べからず選挙」や選挙運動期間の度重なる短縮、いつまでたっても根本的には是正されない「一票の格差」、有権者の意思と国会での議席配分の乖離が大きくなる小選挙区制度(参議院選挙における選挙区選挙の多くは一人区=小選挙区制である)など、公正かつ民主的とはとてもいえないような選挙制度を前にして、その制度をも変える力が市民の側にあるということに気づかせるような授業実践がどれほどなされたであろうか。

第五に、この「主権者教育ブーム」から、在日外国人児童・生徒は、ほぼ完全に置き去りにされたといってよい。教室で教師が「みなさんも18歳になったら選挙権をもつことになりました」と語ったのを、在日外国人児童・生徒はどのように聞いたであろうか。地域社会で生きる外国人住民に頑として政治的参加の道を閉ざしてきた日本社会のあり様について、「人間が人間であることのみを根拠としてもつのが基本的人権」という定義をふまえた問いかけはなされたのであろうか。

以上のような点から見て、民主主義を現存の制度的参加の範囲に切り縮め、それ以外の、とりわけ非制度的・直接的な市民の意思表明をアブノーマルなものと捉えさせかねない教育は、今日もまた再生産されつつある。本来であれば、このような発想を克服した先にこそ、「数」の多寡に回収されない、本来の意味での民主的な参加の意義を語る地平がやってくるように思われる。

5.まとめ――現実になるかもしれない憲法改正国民投票へ

イギリスのEU離脱の是非を問う国民投票の結果が明らかになったとき、グーグルでは「EUってなに?」「EU離脱の影響は?」という文章での検索が突然増えるという現象が起きた。この現象を指して、イギリス人はEU離脱の意味がわからないまま、その是非を問う国民投票に臨んだのではないか、ということがいわれた。

翻って日本ではどうであろうか。2016年7月10日、参議院議員選挙の大勢が明らかになったタイミングで、グーグルにおける「改憲」「憲法改正」というワードによる検索数ははっきりと増えている。ことが起こってから慌てる、というのは、どうやら洋の東西を問わない現象のようである。

もちろん、「ことが起こってから」といっても、日本の場合には今日明日に改憲の発議がなされるというわけではない。改憲を目指す勢力にとってのハードルは、まだ、何重にも残っている。しかしながらここまで見てきたことからすれば、我々はそれほど強固に、近代的意味の憲法の価値やそれを生み出してきた歴史の教訓を自らのものとしてきたということもできなさそうである。もしそれができていたとすれば、樋口は街頭に立たなかったであろうし、小林は従前通り日本国憲法第9条の改正のみを主張していたであろう。すなわちこの二人が危機感を持ったのは、政府の動きに対してであると同時に、我々市民の側に対してでもあるように思われる。

さて、我々はこの二人の危機感に応えることができるだろうか。あるいは、『あたらしい憲法草案のはなし』を「パロディ」として心から笑って読む日を迎えることができるだろうか。

わたなべ・ひろし

鹿児島大学教育センター准教授。1968年生まれ。活水女子大を経て今年4月より現職。専攻は憲法学、法教育論、教育法学、司法制度論。【論文】「法教育をめぐる論争点」(2012)、「法教育推進の方向性」(2011)、「『国民の司法参加』『裁判員制度』の教育をめぐる課題」(2011)【著書】『プロジェクト・シチズン 子どもたちの挑戦』(共訳)(現代人文社 2003)、『高校生が考える「少年法」』(共編著)(明石書店 2002)、『法教育の可能性』(共編著)(現代人文社 2001)。

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