コラム/ある視角

社会科学における人間性の復権

宇沢弘文とスティグリッツが問いかけるもの

京都大学名誉教授 松下 和夫

宇沢弘文とスティグリッツが問いかけるもの

去る2016年3月16日の午後、東京・渋谷区の国連大学で「宇沢弘文教授メモリアル・シンポジウム 人間と地球のための経済――経済学は救いとなるか?」が開かれた。ここで、ジョセフ・E・スティグリッツ・コロンビア大学教授は基調講演を行った[1]。彼は2014年9月に逝去された宇沢弘文教授との交流を振り返るとともに、その思想や行動から私たちが学ぶべきことを訴えた(以下敬称略)。

スティグリッツは3月16日の午前中には、安倍首相の主催する「国際金融経済分析会合(第1回)」へ有識者として出席していた。この会合についての当時のマスコミ報道は、消費増税の先送りを助言したということだけに焦点を当てていた。ところが実際のところ、彼は格差の是正と包摂的な経済発展を訴え、消費税よりはむしろ環境税、炭素税を導入すべきで、企業減税をするよりは研究開発に対する助成をすべきだとも助言していたのである[2]

スティグリッツは2001年に情報の非対称性に関する理論でノーベル経済学賞を受賞した著名な理論経済の研究者である。米国のクリントン政権下で大統領経済諮問委員会委員長として経済政策に関与し、その後世界銀行上級副総裁兼チーフエコノミストとして現実の開発途上国の開発問題にも深くかかわっている。その当時国際金融基金(IMF)が実施していた途上国に対し厳しい財政規律を求める構造調整策に対し、それが途上国の人々の生活を圧迫しているとして強く批判したことでも知られている。その後グローバリゼーションの弊害や、米国における所得格差の拡大を実証的に明らかにし、さらに米国および多国籍企業主導で進められるTPP交渉にも批判的な立場を表明している。明晰な理論的分析に依拠しながらも、現実の経済・社会問題に根源的な立場で取り組む姿勢は宇沢弘文教授と共通している[3]

スティグリッツは、50年ほど前に宇沢弘文がシカゴ大学教授時代に主宰した数理経済学セミナーでの出会い以来師弟関係にあり、学術研究以外の面でも思想面でも宇沢に多くの教えを受け、世界的に知られる学者となってからも宇沢との親交は続いた[4]

本稿では宇沢弘文の足跡を振り返るとともに、スティグリッツの人間と地球のための経済に関する提言を紹介する。

宇沢弘文の足跡

宇沢弘文は1950年代半ばから60年代後半にかけて、米国の大学で数理経済学的手法による経済成長理論などで先駆的な業績を上げた。とりわけ代表的な論文である「二部門成長モデル」[5]は高く評価されている。

しかしベトナム戦争に邁進していく米国に住むことに苦悩を感じ、1968年に帰国を決意したのである。ところが高度経済成長の成果を謳歌しているはずの日本に帰国してみると、深刻な公害問題や自然破壊が頻発し、歩道も未整備のまま歩行者や居住環境を無視した無秩序なモータリゼーションが進んでいた。宇沢はその状況に衝撃を受け、経済成長モデルの前提となっていた新古典派経済学を根本的に構築し直す作業に入り、社会的共通資本理論の提唱に至った。

宇沢が取り組もうとしたことは、個人の人間的な尊厳が守られ、魂の自立が図られ、市民の基本的権利が最大限に発揮できるような安定的な社会の具現化であった。いわば社会科学における「人間性の復権」である。経済を人間の心から切り離し、現実を文化的・歴史的・社会的な側面から切り離す近代経済学の現状を批判的に再構築し、根源的な命題の実現に取り組もうとしたのである。

宇沢は、当時の公害関係の研究会にも参加していた。そして理論経済学者としては珍しく、公害や自然破壊の現場にたびたび足を運び、被害者や地域の人々の声にも真摯に耳を傾けた。

社会的共通資本を提唱

宇沢は社会的共通資本の概念を提唱し[6]、現代の経済や文明に対し警鐘を鳴らし続けた。

社会的共通資本とは、山や森などの自然環境、社会的インフラ、そして病院、学校などの制度資本から構成される。社会共通資本が健全に維持されることにより、一つの国または特定の地域が、豊かな経済生活を営み、優れた文化を展開し、人間的に魅力ある社会を持続的・安定的に維持することが可能になるのである。

宇沢は、社会的共通資本は、社会全体の共通財産として、社会的基準に従って管理・運営されるべきものであり、その管理・運営は決して、官僚的基準に基づいて行なわれてはならないこと、また市場的条件によっても大きく左右されてもならないことを強調している。政府の経済的機能は、さまざまな社会的共通資本の管理、運営が社会的信託(フィデュシァリー)の原則に忠実に行なわれているかどうかを監理し、それらの間の財政的バランスを保つことができるようにするものとしているのである。

宇沢は社会的共通資本の概念に基づいて公害問題に取り組み、1974年に『自動車の社会的費用』を発表し、自動車利用による社会的共通資本の汚染や破壊に焦点を当てて自動車の社会的費用を算出した。宇沢によると、自動車交通によって人々が市民的権利を侵害されずに暮らせるよう、道路や都市構造を造り替えた場合の総費用は、当時の物価水準で毎年1台当たり約200万円とされた。これは実際上自動車保有を大きく制限することを意味し、社会に衝撃を与えた。

また、地球温暖化問題にも取り組み、その対策として、各国の一人当たりの国民所得に比例して税金を課す比例的炭素税を提唱した。さらに比例的炭素税の税収から育林への補助金を引いた一定の割合を拠出して大気安定化国際基金を設置し、その基金から発展途上国に人口や一人当たり所得などの一定のルールに基づいて配分し、発展途上国は配分された額を熱帯雨林の保全や農村の維持などに使うという構想を提案した。

スティグリッツの気候変動対策に関する提言[7]

スティグリッツが国連大学で行った講演のタイトルは「グローバリゼーションと地球の限界下における持続可能な社会と経済」である。彼はグローバルな課題である気候変動に取り組む衡平かつ現実的なアプローチとして、カーボン・プライシング(炭素の価格付け)を強調し、有志国連合による炭素税導入と国境調整税が有効とした。

彼は次のように述べている。

「我々は地球の限界を超えた生活をしている。ところが昨年12月にパリで開催されたCOP21は、国際社会のコンセンサスとなっている2℃目標を達成するための合意に失敗した。その主たる理由はアメリカの議会と気候変動否定論者にある。しかし、COP21は、気候変動への取り組みの勢いを生み出し、将来炭素に価格がつけられるとの信念によってより多くの企業が温室効果ガス削減の行動を起こすようになり、それがより強固な気候変動政策の基盤作りに資することによって重要な勝利を勝ち取ることができたかもしれないのである。

今後の真の挑戦は、気候変動に地球規模で衡平な方法で取り組むことである。大気は地球公共財であり、誰もが便益を享受したがるが、だれもその保全のコストを負担したがらない。なおかつ先進国と途上国では累積的および現在の排出責任に差異があり、しかも気候変動の被害は途上国に多く降りかかる。自主的な取り組みは成功しないのが通例だ。」

炭素税[8]と国境調整税の導入、グリーンファンドの創設が必要

「ではどうすればよいか。ほとんどの経済学者が、炭素価格を設定することが温室効果ガスの排出を抑制する最善の方法だと考えている。適切な炭素価格を導入すれば、世界規模での低炭素経済を実現できるであろう。税収は大幅に向上し、他の税金を削減することができる。その結果、総体的にデッドウェイトロス(死過重、課税によって生じる経済的負担)が縮小し、場合によってはマイナスになる。

経済学の基本原理は、よいもの(労働、投資など)より悪いもの(汚染物質、資源浪費など)に課税するべき、という単純なものである。今日の日本は税収をいかに増やすかという課題に直面しているが、迷うことなく炭素税について検討すべきである[9]。炭素税の導入は、環境問題が本当に社会的に意義深いと皆が考えるならば、経済効率も全体的に向上させる。また、企業が炭素価格の導入に対応するための設備投資を行うことから、総需要も拡大する。

炭素税の導入は、喫緊の問題である総需要の不足を軽減し、税収を増やし、環境を改善する。三つの課題を一挙に解決できる政策などなかなかない。

炭素税導入によりカーボン・プライシングを実施する意思を持った有志国連合を形成し、それぞれの国で炭素税と国境調整税を導入すると、他の国にも有志連合に加入するインセンティブを生み出すことになる。国境調整税は、WTOでも法的に認められる。

ところがTPP(環太平洋パートナーシップ協定)は、加盟国がCO2排出への規制やカーボン・プライシングを導入することを困難にする可能性がある。

世界規模で気候変動問題に取り組む、効果的で公平な手法という観点から、もう一つ導入すべき仕組みがグリーンファンドである。グリーンファンドは、温室効果ガス排出を抑制して気候変動を緩和したり、起こった影響に適応したりするための資金を賄うもので、発展途上国がそうしたことを行う経済的負担を軽減するための基金である。気候変動に対応するためのコストは、発展途上国で特に大きい。先進国が炭素税の導入によって得た収入のうち、たとえば20%程度でもグリーンファンドに回せば、「差異ある責任分担」といわれる手段を実行に移すことになる。

豊かな国々は貧しい国々が自主的合意に加わり、炭素価格を他の国々と同等に設定した場合にのみグリーンファンドから資金を提供することにすれば、私たちがプラネタリーバウンダリーの範囲内で生きていくことは可能になる。この仕組みは経済成長と矛盾しないばかりでなく、正しい形での成長を促すことができる。経済危機の後遺症で総需要が不足している場合は、さらに大きな効果を発揮する。持続可能性を考慮に入れて成長を正しく測定すればその効果は明らかなはずである。」

これから

宇沢の足跡を振り返ってみると、常に先見的に深い洞察力を持って問題を考え、一方で、水俣や成田などの現場に何度も出向き、地域の人や被害を受けている方に対して温かく優しい眼差しを注いでいたことに思い至る。そうした宇沢の思想と行動が、経済学を超えて様々な学問分野に広範な影響を与えて、多くの人々の心を捉えてきたのである。

若き日に宇沢の薫陶を受け、その後も学問的・人間的交流を続けたスティグリッツは、理論経済学者として活躍するとともに、実際の経済政策立案に関与し、さらには世界銀行で途上国の実態にもかかわってきた。理論的分析に基盤を置きながらも、現実の人びとの生活を直視し、より良い経済のフレームワークを作るべく具体的な提言を精力的に行っている。

プラネタリー・バウンダリー(地球の境界)の中で、いかにして人びとがより持続的に安心して生活できる社会を構築できるか。宇沢やスティグリッツの思いを受け止めながら、社会が直面する根源的な課題に取り組むことが、研究者、実務家、市民それぞれに求められている。

[1] このシンポジウムの内容は、「グローバルネット」2016年6月号に特集されている。

[2] 国際金融経済分析会合(第1回)におけるスティグリッツ講演資料(事務局による日本語訳)は、http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kokusaikinyu/dai1/siryou2.pdf

[3] スティグリッツの近著には「これから始まる「新しい世界経済」の教科書」(2016/2/18)、「世界に分断と対立を撒き散らす経済の罠」(2015/5/29)などがある。

[4] 同じ数理経済学セミナーの参加者には、スティグリッツと同時にノーベル経済学賞を受賞したジョージ・アカロフなどがいる。ちなみにアカロフの夫人はジャネット・イエレン連邦準備制度理事会(FRB)議長である。

[5] Uzawa, Hirofumi (1961). “On a Two-Sector Model of Economic Growth”. The Review of Economic Studies 29 (1): 40-47 宇沢氏の代表的な論文の一つ。消費財と投資財の二部門で構成する新しいモデルによって、経済成長のプロセスを考察した。このモデルの背景にはマルクス経済学の概念があるといわれている。

[6] 宇沢弘文、『社会的共通資本』(岩波書店[岩波新書], 2000年)

[7] 以下は2016年3月16日の国連大学における「宇沢弘文教授メモリアル・シンポジウム 人間と地球のための経済――経済学は救いとなるか?」におけるスティグリッツの基調講演に依拠している。シンポジウムでのスティグリッツ教授講演資料は国連大学のwebサイト(http://ias.unu.edu/)で公開されている。より詳細な内容はJ. Stiglitz (2015), Overcoming the Copenhagen Failure with Flexible Commitments, http://carbon-price.com/wp-content/uploads/Global-Carbon-Pricing-cramton-mackay-okenfels-stoft.pdf で閲覧可。

[8] 炭素税(carbon tax)とは、化石燃料の炭素含有量に応じて、使用者に課す税金。化石燃料やそれを利用した製品の製造・使用の価格を引き上げることで需要を抑制し、結果としてCO2排出量を抑えるという経済的な政策手段

[9] 現在日本でも温暖化対策税(炭素税)がすでに導入されているが、その税率はきわめて低い(CO2排出量1トン当たり289円)。スティグリッツが想定する炭素税のレベルは、現行税率の10倍以上の本格的炭素税である。

まつした・かずお

1948年生まれ。京都大学名誉教授。(公財)地球環境戦略研究機関シニアフェロー、国連大学客員教授、環境経済・政策学会理事、日本GNH学会常務理事。専門は環境政策論、環境ガバナンス論。環境省で政策立案に関与し、国連地球サミット事務局やOECD環境局にも勤務。環境問題と政策を国際的な視点から分析評価。著書に『環境政策学のすすめ』(丸善)、『環境ガバナンス』(岩波書店)、『環境政治入門』(平凡社)。『地球環境学への旅』(文化科学高等研究院)など。

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