特集●歴史の転換点に立つ

「西欧の十字路」テロ後のベルギー

祈り耐え忍ぶ多言語の国の行く途

北海学園大学教授 松尾 秀哉

はじめに

2015年11月にフランスのパリで同時多発テロが生じた。この首謀者がベルギー人で、首都ブリュッセルのモレンベーク地区を拠点とする北アフリカ系移民の2世・3世であったことから、ブリュッセル、モレンベーク地区は「テロの温床」と呼ばれるようになった。

世界中の非難を浴びて、ベルギー当局は徹底した捜査と組織壊滅に乗り出した。事件の首謀者が次々と逮捕され、シャルル・ミシェル首相の支持率が高まっていた矢先、今年の3月22日にブリュッセルで連続テロが起きた。ブリュッセル国際空港やEU本部にも近い地下鉄マルベーク駅で自爆テロが生じ、200名を超える多くの死傷者が出た。イスラム国による犯行声明が出され、「なぜベルギーが『テロの温床』と化したか」を論じる記事、論説があちこちで見られた。筆者も例に漏れず、いくつかの執筆依頼を受けた。

しかし「喉元過ぎれば熱さを忘れる」ではないが、その後のベルギーについて伝える媒体はあまりないように思う。歴史(過去)を遡って原因を探ることが最も重要な仕事であることは間違いがないが、「テロ後のベルギー」から見いだされる課題もあるのではないだろうか。

本稿では、テロ事件を経てその後のベルギーがどういう状態にあるのかを見て、改めて課題を反芻してみたい。まずは簡単にベルギーという国を説明し、その後主に論壇で語られてきたテロの要因を整理して、現状のベルギーを論じたい。

ベルギーとは

ベルギー[ⅰ]はフランスとドイツに挟まれた狭い地域に位置している。海を渡ればイギリスとも近い。「西欧の十字路」と呼ばれることもある。面積は日本の関東地方程度で、人口は1100万人前後の小さな立憲君主国である。首都ブリュッセルには欧州連合や北大西洋条約機構など国際機関の本部機関が設置されており、「ヨーロッパの首都」と呼ばれる。

ベルギーを苦しめてきた最大の問題が「言語問題」である。北半分のフランデレン地方はオランダ語を公用語とし、南半分のワロン地方はフランス語を公用語とする。人口比はおおよそ6対4。ただし地理的にフランデレン地方に位置する首都ブリュッセルは、歴史的に首都として、また西欧の交易の拠点として住民の8割がフランス語を話し、両言語を公用語として認めている。

現在の多言語国家が出来上がるまでには紆余曲折を経てきた。オランダから独立を果たしたのは1831年。当時からベルギーにはフランス語話者とオランダ語話者が暮らしていた。しかし1830年から始まった独立戦争は、フランス革命の理念に憧れフランス語を語る人びとが主導したため、初期の国家建設はフランス語で進められた。やがてそれに抵抗し、オランダ語の公用語化を目指すフランデレン運動が台頭した。その結果、戦間期には地域によって公用語が異なる多言語の国となったのである。

第2次世界大戦後になると、それまでベルギーの経済をけん引してきたワロン地方(フランス語)の石炭の需要が急落した。当時のベルギー政府は、採算がとれない炭鉱を閉鎖すると同時に、大きな港を有するフランデレンに外資を誘致する政策を強行し、さらに社会保障費などの支出を削減した。これによって財政はもち直したが、1959年から失業者を大量に抱えたワロンの労働組合は、一連の緊縮政策に激しく抵抗したのである。

このデモは間もなく制圧されたが、やがて貧しい「ワロン」と裕福な「フランデレン」という対立が顕著になる。これを機に言語対立は激しくなり、特に1960年代にはブリュッセル(両語圏)の位置づけをめぐり各政党が言語の別で対立して、議会が機能しない状態が続いた。

結局ベルギーは、この行き詰まりを解決しようとして、1970年からそれぞれの地域(言語)の自治を認める分権改革を進め、さらに約4半世紀の議論と改革を経て1993年には連邦制を導入した。ベルギー政府が担うことは主に安全保障(軍)や外交、社会保障に限定され、公共事業などの経済政策や教育、文化政策の決定はそれぞれの地域や言語の別で構成される地域政府に委ねることとした。これによって双方が接触する機会を減らし、言語問題を終息させようとしたのだ。

しかし、その後約20年以上を経て、対立が再燃した。最大の問題は、1960年代の対立の背景にもあったフランデレンとワロンの経済格差である。連邦制の導入後もこの格差は縮小せず、結果としてワロンの失業者はフランデレンの税収に依存して生活していた。特に冷戦が終結し、グローバル化が進展して新自由主義が台頭すると、依存するワロンに対するフランデレンの批判が高まり、フランデレンの経済的自治を高めようと主張する政党が支持されるようになった。2010年の選挙では「将来的にはベルギーからの独立も辞さない」と主張する分離独立派の政党、新フランデレン同盟が第一党になり、ワロン諸政党との連立合意形成に時間を要し、1年半も新政権が成立しなかった。

さらにユーロ危機の影響で、2014年の選挙では、財政赤字の解消が急務の課題とされ、一層「小さな政府」が求められた。これは地方分権を促進しようとする主張と結びつき、やはりフランデレンの自治や独立を主張する政党や新自由主義的政策を掲げる政党が支持された結果、緊縮政策を進める右派政権が成立した。

2014年10月の成立以来、このシャルル・ミシェル政権(自由党)は、社会支出の引き締め、財政の分権化などの政策を強行してきた。予定通りではないものの、財政赤字は徐々に減り、EUが要求した水準に近づきつつあると言われている。この右派政権の下で生じたのが、一連のテロであった。

テロの要因

筆者はかつてこのテロの要因について論じたことがある[ⅰ]。第一に、ベルギーの高度経済成長期(1960年代)に、エネルギー確保のためにサウジアラビアとの関係を強化したことで、首都ブリュッセル、特にヨーロッパ大陸初の旅客鉄道路線の拠点として賑わったモレンベーク地区に多くのイスラム系移民[ⅱ]が集まった。第二に、しかしながら、多言語都市ブリュッセルでアラビア語(とせいぜいフランス語、かたことの英語)しか使えない移民たちは、言葉のみならず風貌や名前を原因として社会的差別を受けてきた。特にオイル・ショック以降の経済不況においてはモレンベークから多くの企業が撤退してスラム化が進んだ。「犯罪多発地区」となりさらに社会的差別が進み、モレンベーク出身の若者たちの失業率が高くなっていった。

第三に、アメリカ同時多発テロ以降、アメリカとの連帯を表明したイギリス(ロンドン)、列車爆破テロが生じたスペイン(マドリード)には徹底的な公安の捜査が入り制圧されたが、分散したテロリストは、比較的安全なベルギー、モレンベークに集まってきた。このテロリストたちは、特に近年のユーロ危機のなかで職を失ってアイデンティティ・クライシスに陥ったイスラム系ベルギー人の若者を、巧みにテロリスト・ネットワークにリクルートしている。

CNNによれば、2005年以降、モレンベークの若者たちはすでに500名以上が海を渡り、シリアで軍事的訓練を受け、うち100名以上がベルギーに帰国しているという。差別を受け、働き口もないこのベルギーの若者たちは、「同胞」のいるイスラム国を追い詰める西欧諸国に怒りを覚えた。彼らにとってシリアに向かうことは生活の糧を手に入れることであり、ブリュッセルで見失った「自分」をとり戻すことであった。

しかし同時に、筆者は、最も重要なことはベルギー政府の対応であるとも論じた。先述したように、2014年10月以降、ベルギーでは緊縮財政政策を進める右派政権が成立した。ミシェル政権は労組の抵抗と闘いながら、緊縮政策を強行してきた。おりしもギリシア危機の後である。これ以上の財政破綻はヨーロッパ全体を危機に陥れる。これは仕方のない方策だったかもしれない。しかし、足下の貧困対策は後回しになった。現代の政治において、財政危機の折、真っ先に見捨てられるのは弱者だ。

さらに、昨年のパリ同時テロ事件以降、モレンベーク地区が「テロの温床」と呼ばれるようになり、ミシェル政権は徹底したテロ一掃対策を実行した。次々と容疑者が検挙され、今年の3月18日にはパリ同時テロの実行犯、サラ・アブデスラム容疑者を逮捕したところだった。しかし、結局これが、テロリストを追い詰めることになった。CNNによれば、犯人の当初の目的はフランスだったが、捜査によって追い詰められて、ベルギー、つまりホームグラウンドでの自爆テロにおよんだ。まさしく政治がテロリストを追い詰めたことが引き金になったのである。

もちろんテロリストに同情の余地はないし、ベルギーでなければよかったということでもない。テロリストの甘い声に乗り、無差別に人を殺め、街を破壊することで自分をとり戻そうとするのは、あまりに安直で愚かである。アイデンティティは他者を活かすことによってしか正しく見いだせないはずだ。しかし、今回のテロは、財政危機の折、真っ先に見捨てられた弱者が、強権をふるう政治に対して、自爆という悲しすぎる手段をもって抵抗した、という構図で把握すべきかもしれないといまさらながらに思う。以下では、テロ後のベルギーの姿を描こう。

現代の「ベルギーの悲しみ」――「反移民」の動き

テロ後のベルギーは苦しみ喘いでいるように映る。テロ後のベルギーの市民の様子について、最近日本でも公開され、好評を博したベルギーの映画『神様メール』のジャコ・ヴァン・ドルマル監督は、雑誌『VOICE』のインタビューで、以下のように答えている。

インタビュア:テロ事件を経て、人びとの様子に変化はありましたか。

ドルマル:他者に対する優しさがベルギー人に芽生えたように感じます。たとえば、以前は路上で目の前の車に対してブーブーとクラクションを鳴らす人を多く見かけましたが、テロ事件後には、そういった他者への攻撃的な態度が軽減したのではないでしょうか。

<中略>

もう一つ私が感じた変化は、たとえテロ攻撃に直面しても、「逃げたくない」「絶対に屈しない」という強い気持ちを多くのベルギー人が抱きはじめたことです。いつまでも恐怖に怯えて家に籠もっていては何も変わりません。ベルギー市民はすでに、地下鉄やバスに乗って仕事に行き、映画館や劇場に足を運び娯楽を楽しんでいます[ⅲ]

一見ベルギーは力強く前に進もうとしている。たしかにその面はある。しかし、このインタビューの冒頭でいう「他者」とは誰か。この「他者」のなかにイスラム系ベルギー人は含まれているだろうか。

実は、テロ後すぐに、ブリュッセルやアントワープでは一部の移民排斥主義者によるデモが生じた。かつてベルギーでは、移民排斥を掲げた政党、フラームス・ブロック(現在は「フラームス・べラング」)が1991年の総選挙でおよそ7%の得票率(12議席)を獲得して躍進した。しかしその後移民排斥は人権侵害であると批判され、また「ベルギー分裂」「フランデレンの独立」といった主張があまりに非現実的であるとして、2009年の地方選挙を境に支持を落としていた。それに代わって、ワロンの経済的依存に不満を抱くフランデレン有権者の受け皿となり台頭したのが、先の新フランデレン同盟であった[ⅳ]

しかしテロ後、5月20日の世論調査では、現与党の新フランデレン同盟の支持率は32%から24%へ低下している。他の与党も支持率を下げるなか、フランデレン地方では唯一フラームス・ベラングだけが3%から13.8%へ支持率を上げて、フランデレン第3の政党へと躍進しているのである。力強く日常生活をとり戻すベルギーの人びとだが、一部の人びとの心底には強烈な移民排斥感情が渦巻いているかもしれない。

もちろんそうでないことを心から願う。ふたたびドルマルによれば、「今年3月22日にベルギーで起きた連続テロ事件の犠牲者のなかには、イスラム教徒も含まれていました」ということは、しっかり理解されている。テロに加担するものは一部で、多くの移民が平和と共存を願っている。しかし、いったん人びとの心に巣食った恐怖心を扇動し、政治的に利用しようとする集団がいる。

こうした人びとの状況に応じて、政府の側を見ると、対テロ・オペレーションが強硬に進められている。筆者が知る範囲でも、特に5月以降はアメリカFBIの協力のもと、ときには銃撃戦を交えておおよそ数十名のテロリストが逮捕されている。また同時期、ベルギーはシリアへの空爆を再開している。

これに対して6月に入ると、イスラム国は主要閣僚、特にミシェル首相に対する犯行を予告し、閣僚周辺の警備が強化されている。同時に、ヨーロッパ中の人びとが熱狂するサッカーの大会である欧州選手権の期間中に、ブリュッセルの大勢の市民が集まるパブリック・ビュー会場で自爆テロを起こすとの情報が入り、ブリュッセル中央駅やデパートで不審物が発見され、一時立ち入り禁止になるなど騒然としている(現時点では未遂に終わり、不審物もすべてテロとは関係なく、誤りと断定されている)。テロとの闘いの終わりは見えない。

<テロ後>と労資闘争

テロ後のベルギーにおいて最も顕著なのは、一見テロとは無関係のように映る、近年まれに見るほどの労資闘争の激化である。きっかけはミシェル政権の緊縮政策である。財政再建のために社会支出の削減を目指すこの政権に対する批判は成立当初からあった。特に公的セクターの年金削減を決定した昨年12月には、大規模なデモが生じて一時空港が封鎖になった。また、女性権利団体FEMENのメンバーが演説中のミシェルにマヨネーズとフリッツ(ポテトフライ)をかけたのもこの時期だ。

ベルギーの南北の言語の違いは食文化の多様性にもつながり、それがこの国の食文化をヨーロッパ随一の豊かなものにしているが、その中でチョコレートとビールと並び、フリッツと呼ばれるポテトフライ(ベルギーの人たちはマヨネーズをつけて食べることが多い)はベルギーの人びとが共通して愛する食べ物である。2011年に長く政権ができなかったときに「早く政権を作れ」と市民がデモを起こしたが、そのとき人びとは手にこのベルギーを象徴する食べ物を片手に行進した。これは「フリッツ・デモ」と呼ばれた。今回、緊縮政策を強行する首相に対してマヨネーズをかけたFEMENのメンバーは、逮捕後「マヨネーズ臭くしてごめんなさい。でも、あなたの政策はベルギーを壊そうとしている」とコメントした。

テロが生じて、一時的にこうした緊縮政策に対する抗議は終息していた。しかしその後メーデーを境に、特に最初に削減のターゲットとなった公的セクターの労働者が一気に抵抗運動を開始したのだ。4万人の組合員を抱える社会主義系労組(ABVV)が「我々が深刻な状況にあることを知らしめる。犠牲になるのはいつも労働者だ」と声明を出し、ゼネストが予告された。

しかし政府は強硬な姿勢を崩さなかった。5月26日には、与党である新フランデレン同盟の党首、バルト・デ・ウェーヴェルがテレビのインタビューで「ベルギーは破綻国家か? 破綻しているのは国家ではない。『破綻国民』だ」と答え、抵抗する国民を批判した。翌27日には労働組合のリーダーの一人が警察と衝突、逮捕された。

まもなくベルギー国鉄のストライキが生じた。政府は低所得者層への手当増額を決定して懐柔し、これに応じてフランデレンの路線はストライキ中止が合意されたが、フランス語話者の多いブリュッセルでは継続され、1万人規模のデモが生じた。また6月半ばになると、公立学校の教員組合、郵便局の組合も同調した。国鉄のストライキはその後落ち着いたが、実はこうした動きとテロとは決して無関係ではない。

テロの慰霊祭がすんだ4月末、野党は徹底して与党を「過激派との闘いに失敗した」と批判した。責任を追及された大臣が複数名辞任を申し出た。こうした批判と相次ぐ辞任が、今まで強硬な態度を採っていた政府の綻びを映し出した。そのタイミングはおりしもメーデーである。つまりテロは、ベルギーの街や人びとだけでなく、緊縮政策を強行する政府の求心力も破壊した。と同時に、政府に対する批判を正当化し、勢いづけたということができよう。

7月に入り、独立記念日(21日)を前にして、こうした労働組合の動きはやや沈静化しているように映るが、その後はどうなるだろうか。テロ後のベルギー社会は移民をめぐる亀裂のみならず、労資対立等によって幾重にも分断されている。労資の対立は、オランダ語話者(フランデレン)が撤退し、経済的に低迷しているフランス語話者(ブリュッセルやワロン)の組合だけが抵抗しつつある。これが、歴史をくり返すがごとく、言語対立の引き金にならないだろうか。

2008年に亡くなったベルギーの文学者ヒューホ・クラウスは、その代表作『ベルギーの悲しみ』で、ナチス・ドイツ占領下のベルギーで、ヒトラー・ユーゲントに加わる家族の悲哀を描いた。それとはまったく異なるが、現在のベルギーは、テロの恐怖に左右され、分断し混乱する現代の「ベルギーの悲しみ」のようだ。

祈り耐え忍ぶ国王

こうした混乱のなかで、静かにテロで亡くなられた人びとの魂を想い、祈りを捧げているのがフィリップ国王である。テロから3か月後の5月22日に開かれた慰霊祭で、国王は以下のように短く英語でコメントされた。

私たちは、この試練に立ち向かわなくてはなりません。私たちの本当の力にきづき、弱さを克服し、それぞれが責任をもってともにより良い世界を作り出すよう献身していきましょう(Flanders Todayより)。

フランス語の堪能な国王が英語でコメントされたことは、管見だが、やはり犠牲となった、フランス語を理解できない移民の方々にも向けたものだったのではないか。非常に荘厳な雰囲気のなかで語られるこの言葉が、筆者には祈りの言葉のように聞こえた。死傷者、ご遺族に対する慰めの言葉であると同時に、恐怖に押し流され、分裂していく人びとの心に向けた、国王の祈りの言葉である。民族や言語を越えた一致のために、どうぞ、それぞれがまず自分の弱さに気づくように導いてください、と。

しかし、それでも恐怖に押し流され、混乱が引きおこされているのが現実だ。さらにイギリスのEU離脱により、海を渡れば近く、経済的な影響を確実に受けるフランデレンの側がそのダメージにどう対応すべきか慌てている。先行きは不透明というしかないが、この不透明感が不安や恐怖心を煽り、やはりフランデレンとワロンの対立を再燃させないだろうか。

鍵は、現政権がどう振るまうのかにあろう。多言語国家、そして移民を受け入れて長く自治と共存の道を歩んできたベルギーにとって、集権的に強権を発動する政治は混乱を招くだけのようにも思われる。そして、いずれにせよ、人びとが依るのは、国王の言葉ではないか。そこに具体的な策は不要である。あらゆる分裂を超越して、それぞれが同じ弱さを抱える人間であると祈り耐え忍ぶ言葉こそが大切なのである。

※本稿は科学研究費補助金・基盤C(課題番号15K03281 研究代表者 松尾秀哉)の成果の一部である

[ⅰ] 以下は、拙稿「ヨーロッパの華やかな小国・ベルギーがなぜ「テロの温床」になったのか。自治と共存の伝統はいったいどこに…」講談社『現代ビジネス』(2016年4月9日号)http://gendai.ismedia.jp/articles/-/48352:拙稿「ベルギーがテロの温床となるまで」中央公論新社『中央公論』、2016年6月号、148—154ページによる。

[ⅱ] 正確にはスンニ派と言われている。また、後述するテロリストのネットワークもスンニ派が過激化したサラフィー派が作ったとされる。スンニ派が多く集まったことがブリュッセルの特色であるとされる。

[ⅲ] webVoice 『神様メール』公開記念、 ジャコ・ヴァン・ドルマル監督特別インタビュー http://shuchi.php.co.jp/voice/detail/3025

[ⅳ] 詳しくは松尾 『連邦国家ベルギー』、吉田書店、2015。

まつお・ひでや

1965年愛知県生まれ。一橋大学社会学部卒業後、東邦ガス(株)、(株)東海メディカルプロダクツ勤務を経て、2007年、東京大学大学院総合文化研究科博士課程修了。聖学院大学政治経済学部准教授などを経て、14年より北海学園大学法学部教授。専門は比較政治、西欧政治史。著書に『物語 ベルギーの歴史』(中公新書)など。

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