特集●歴史の転換点に立つ

「主権者」よりも「社会の主人公」に

 若者の政治参加と「教育」

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

はじめに

有権者年齢が18歳に引き下げられることによって、「主権者教育」の必要性があちこちで論じられている。わたしはそれらの言説に、根本的なところから疑義を呈したい。

まず「主権者」とは、何の「主権者」か。当然「国家」の主権者である。「主権者教育」とは、国家のよき主権者、国家にとって「よき国民」を育て上げることが目的にほかならない。わたしは主権者を育てる前に、いや、それに対置して、若者が、すべての人びとが「社会の主人公」となることが必要だと考えている。

支配者は常に「国家」と「社会」の違いを曖昧にしようとする。たとえば「国家、社会にとって有用な人材を育成する」というように。しかし、支配装置としての国家の歴史はせいぜい数千年であり、人類の社会の歴史は数百万年である。それどころか、ハチやアリの世界にも社会は存在する。国家は支配のために人為的に作り出されたものであり、社会は生きるために自然に成立したものである。国家は上が下を支配するものであり、社会は構成員が生きるための結びつきである。わたしは国家による支配に対抗するために、社会に依拠するべきであると主張してきた(「相互扶助と自治の復権を」、本誌第19号、2009年4月)。

1.「社会の主人公」とは何か

「社会の主人公」とは、たとえば「人間を尊敬することによって自ら解放せんとする者」(「全国水平社宣言」)の集団の構成員となることである。あるいは、自分や周囲の者が不当な状態に置かれているときに、それに気づき、抗議し、解決できる人間になることである。

以前から、「ブラック企業」、「ブラックバイト」が重大な課題となっている。自分が奴隷的状態に置かれていることに気づいている者は、なにかのきっかけで立ちあがれることもあるだろうから、まだ良い。問題はそれにさえ気づいていない若者たちである。

わたしは都内の女子大学で、非常勤で全学共通科目を担当しており、約300人の受講生がいる。普段から「歴史を考えるときは、戦争、環境、労働を念頭に」と語っていることにことよせて、アルバイトの実態について問いかけた。

回答してくれた数十名のなかに、1分単位でバイト料を受けとっているもの、制服への着替えなど、準備時間が労働時間に入っている者はいなかった。ほとんどの学生が15分単位で計算されており、なかには30分単位という者もあった。あらためて「1分単位で受けとっている人は」というと、ようやく2名が名のり出た。労働契約書はもちろん、労働条件通知書を交わしている者もいない。

さすがにタイムカードを押してから1時間も2時間も無給で残業をさせられている者は、それが不当であることは自覚しているが、15分単位で計算されている者は、当然と受けとめている。

わたしごときが口でいっても信じてもらえないので、NHKの高校生向け番組「オトナヘノベル」、これは若者に人気のヒャダイン、清水富美加が司会をしているのだが、その「ブラックバイトに負けない!」という回を見せて、さらに厚生労働省の業界への要請書や学生向けのビラを配って、ようやく半信半疑というありさまである。どのバイト先でも15分単位といわれ、なかには親からも「バイトは15分単位」といわれている学生もおり、かれらの頭のなかには15分単位というアンフェアワークルールが刷り込まれている。ある学生がようやく、「そういえば、母のパート先の会社から、『出勤したら制服に着替える前にタイムカードを押してください』という手紙が来ていた、誰かが何か言ったんだろうな」と書いてきた。

無賃労働は、サービス残業をふくめて、奴隷状態である。それに気づいていない者は、本質的な奴隷である。奴隷は主権者にはなれない。

2.ブラックバイト

2016年6月、明治大学で、一橋大学・明治大学に籍を置く高須裕彦さんが中心になっている労働教育研究会が開かれ、厚生労働省の労働条件確保改善対策室長が報告した。前年に厚労省がIT企業に委託して得た、アルバイト経験大学生1000人の意識調査の結果である。そのうち、労働条件に関するトラブルは、以下の通り。

[労働基準関係法令違反のおそれがあるもの]
・準備や片付けの時間に賃金が支払われなかった13.6%
・1日に労働時間が6時間を超えても休憩時間がなかった8.8%
・実際に働いた時間の管理がなされていない7.6%
・時間外労働や休日労働、深夜労働について、割増賃金が支払われなかった 5.4%
・賃金が支払われなかった(残業分)5.3%
[その他労使関係のトラブルと考えられるもの]
・採用時に合意した以上のシフトを入れられた14.8%
・一方的に急なシフト変更を命じられた14.6%
・採用時に合意した仕事以外の仕事をさせられた13.4%
・一方的にシフトを削られた11.8%
・給与明細書がもらえなかった8.3%

このパーセンテージは、わたしが学生と接して得ている感触と相当へだたっている。これらの質問は、労働基準関係法令を知らないでも答えられるものと、知らないと誤った回答をしてしまうものがある。特に15分問題と制服着替え問題は、法律を知らなければ誤った回答をしてしまう。制服への着替えは、30秒もあればよい場合もあれば、わたしに答えた学生のように、特別な和服を着るために30分もかかるのに勤務時間外とされている場合もあり、特に塾講師では、相当な準備時間が無給である場合がほとんどである。

わたしは質疑応答の時間に以上の意見を述べたが、そのあとすぐ法政大学の教員が「法政でも学生はみな15分単位だと思っている」と報告した。2016年の国会では、15分問題で「セブンイレブン」が名ざしで問題にされ、厚労省も改善指導を約束したが、効果が上がっているとは思えない。

この研究会で、ワークルール教育推進法プロジェクトチームの小島周一弁護士の報告もあったが、問題は、各学校・大学がキャリア教育に力を入れながらも、労働教育、ワークルール教育が完全に欠落しているところにある。

しかし、わたしがわずかな講義時間を割いて、たとえば「アルバイトにも有給休暇がある」と話しただけでも、ある学生がバイト先で就業規則を調べ、同僚バイト学生に声をかけて、全員で店長と交渉し、バイト全員が有給休暇を取得できるようになったという報告があった。その結果自体以上に、若者たちが分断されている現在でも、働く者の連帯で権利を確保する学生がいるということに、わたしは感動した。

ブラックバイトユニオンによれば、大手コンビニチェーンで働いていた18歳の高校生が中心になって団体交渉を行ない、正社員もふくめて70人分の未払い賃金500万円を支払わせた例があるという。このような他者と連帯できる若者たちこそが、社会の主人公に育っていきつつあるといってよいだろう。

3.「教育」か「学問」か

主権者教育というものがあるとしても、労働教育がその基本になければ意味がない。ワークルール教育推進法については、財界も表向きは反対していないようだが、実体あるものにできるかどうかが勝負どころである。それ以上に、問題は労働組合の再建と強化である。働く者に表面的なワークルールの知識があっても、その内容を実現できる職場でなければ絵に描いた餅であるし、何よりも権利は自力で獲得したものこそが身につくのであって、それをルール化したものが法である。だとすれば、わたしたちは「主権者教育」にしても、運動の現在の到達点のレベルでしか実践できないし、課題はそれをどう深めるかである。

主権者教育を「社会の主人公教育」と読み替えたとしても、わたしには「教育」ということばが気に入らない。わたしは毎年、特に大学1年生に「教育はしません、一緒に学問をしましょう」と呼びかけている。教育という単語は主語を持つ。主体である国家がその理想とする国民を教え育てることであり、教わるほうは客体である。材料である。学問ということばの主語は個人であり、学問することによって一人ひとりが学び、常識、定説、当然とされていることを問い、すべてを疑い、変革していく。

国家による教育であっても、その主体が民主国家であればいいじゃないかという向きもあるかもしれないが、完成された民主国家の存在を信じる人は、この時代にはそういないだろう。戦後教育は主観的には子どもを主体に考えようとしてきた。それは歴史的事実として否定しない。日教組が多用する「学びの保障」ということばに、わたしも力づけられてきた。しかし「学び」、「保障」ということばは、中教審も文科省も使用する。昨今の学生には、「わたしは一人でいたいタイプなのに、『友だちと、明るく一緒に』というように、個性を重視するといいながら、実は画一化教育だ」というような根強い不満がある。一人ひとりに寄り添えていないのだ。

学問は大学でなら可能だろうが、初等・中等学校では無理だという声もあるだろう。しかし一部の理系科目で、いやなによりもいわゆる教育困難校といわれる高校で「学問」が成立していることをわたしたちは知っている。世界でも類を見ない高い識字率を実現したシステムであった徳川時代の寺子屋は学問をしていたのではなかったか。

4.教師にとって労働とは何か

1980年代の分裂前の日教組で、教師は聖職者か、労働者かという論争があった。もうひとつの立場として、専門職論があったという。専門職とすれば、大学教員のように、出退勤時刻は自由とし、部活への関係は自由で、時間外勤務手当もださない、西欧型教師となろう。その議論はここでは保留する。

わたしは大学教員もふくめて労働者だと考えているが、その発想は、労働概念を徹底して拡大することによって成り立つ。交換価値を生産することだけではなく、生きていること自身が労働であるということを、わたしは1970年代の障害者解放運動、とりわけ日本脳性まひ者協会青い芝の会の運動から学んだ(拙稿「部落間差別問題から考える関係の変革」、本誌第2号、2005年1月)。

だとすれば、教師が若者に見せるものは、自分の生きざまでしかない。どんなベテランの教師であっても、人格が完成された者はいない。60歳になっても、教師も思い、悩む。その姿から若者は何かを受け取り、何かを返してくれる。それが教師と若者の学び合いである。当然わたしは「教師」という職名も返上したい。「学徒、学生(がくしょう)」といえば格好づけになってしまいそうだが、毎週300枚近い学生のリアクションペーパーを読み、その一部ではあるが印刷して翌週にコメントすることは、わたしにとって同業者の論文を読むこと以上の刺戟になっている。

教師が生きざまを見せるということには、個人の政治的主張もふくまれる。問題は教育の政治的中立性である。この点で教育現場に重荷を課してきた47年教育基本法は、第8条で「良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない」としていた。2006年安倍教育基本法でも第14条で、ほぼ同様の規定をしている。

しかしこの条文は、学校を規制しているが、教員を規制しているのではない。日教組は組合としては闘いながらも、教員一人ひとりの教室での政治表現の自由を保障できなかった。ドイツでは1970年代、教育と政治についての議論が高まり、1976年、ボイテルスバッハで教育関係者が集まり、その後、ボイテルスバッハ・コンセンサスがまとめられた。

「圧倒の禁止の原則」
教員は生徒を期待される見解をもって圧倒し、生徒が自らの判断を獲得するのを妨げてはならない。

「論争性の原則」
学問と政治の世界において議論があることは、授業においても議論があることとして扱う。

「生徒志向の原則」
生徒が自らの関心・利害に基づいて効果的に政治に参加できるよう、必要な能力の獲得を促す。

このうち、一般には最初の2項目が重要だと考えられているようだが、わたしは第3項がそれ以上に重要だと思う。「利害」が意味するものは、原語に当たらないと意味不明だが、教師の役割は生徒の関心を拡大することにある。それは「教育」の本質にかかわることである。

ドイツの教育では、生徒に自分の意見を持つことを求める。生徒が「先生はどう考えているのですか」と問いかける。教師は自分の政治的見解を教室で表明するのは当然のことである。それを47年教育基本法も、改悪教育基本法も保障していない。自分がどのような生き方をしているのかということを、教師は生徒に伝えられないのである。

5.政府の「主権者教育」

文科省は18歳選挙権に対応するため、2015年、省内に「主権者教育の推進に関する検討チーム」(主査:義家弘介文部科学副大臣)を設置し、2016年3月、「中間まとめ」を公表した。そこでは「背景」として、「選挙権年齢が満18歳以上に引き下げられたことにより、これまで以上に、子供の国家・社会の形成者としての意識を醸成するとともに、課題を多面的・多角的に考え、自分なりの考えを作っていく力を育むこと等が重要となっている」としている。例によって「国家・社会」をひとくくりにし、また文科省お得意の「多面的・多角的」という美辞麗句、というよりは決まり文句をちりばめている。文科省の政策を疑わない現場の素朴な教員が、「多面的」と「多角的」はどう違うのかと思い悩んでいることを、文科省は知っているのだろうか。

「中間まとめ」の「基本的な考え方」では、「検討チームでは、主権者教育の目的を、単に政治の仕組みについて必要な知識を習得させるのみならず、主権者として社会の中で自立し、他者と連携・協働しながら、社会を生き抜く力や地域の課題解決を社会の構成員の一員として主体的に担う力を発達段階に応じて、身につけさせるものと設定」としている。

これでは、「教育」の目的のなかで、「主権者教育」の目的がどのように個別性を持っているのかがまったく読みとれない。これまでの「教育」の基本的目標とどこが違うのか。

この検討チームは2016年6月13日に「最終まとめ」を策定したが、唖然としたのは、わずかA4 2ページ半、「中間まとめ」の後に、主権者教育実施状況調査をやりましたという報告にすぎない。わたしは、ほかに「最終まとめ」があるのではと探したが、これだけのようである。しかもその実態調査は、どの科目で主権者教育を実施したかという設問に対する複数回答の集計になっているため、実施しなかった学校、積極的に実施した学校の数はわからない。各表の集計を見ると、半数以上、あるいは90%以上の学校で実施されているようだが、それが実態なのか。大学1年生に聞き取りをしても、あまりにもその数字が実態をあらわしているとは思えない。

実は総務省と文科省は、2015年、高校生向けの副読本『私たちが拓く日本の未来 有権者として求められる力を身に付けるために』(104頁)を刊行した。これがどの程度、高校生の手元に渡っているかは、わたしは調べてはいないが、この副読本は、「解説編」「実践編」「参考編」から構成されており、「解説編」はほとんどが選挙システム、「実践編」は教師向けではないかと思われる内容、面白かったのは「参考編」のQ&Aである。

まず、18歳以上であれば、選挙期運動間中はホームページ、ツィッタ―、フェイスブック、LINEによる選挙運動をおこなうことができますが、電子メールは候補者か政党以外は使えませんとしたうえで、公選法に違反すれば20歳以下でも刑事処分の対象となります、としている。これは法律通りではあるのだが、若者への脅迫効果は大きい。また、「同級生から○○党への演説会に出るよう強く誘われて困っています」という問いに、毅然と参加を断ることが大事で、困ったら身近な大人に相談するようにと答えている。これでは高校生は選挙運動について委縮してしまう。

70年ぶりの選挙制度改革と、さも大きな変革を実行したようにいいながら、政府の「主権者教育」施策はあまりにもお粗末である。

6.「デモ」も主権の行使

もちろん教育現場では、工夫と努力を重ねる教師たちがいる。

2016年2月に開催された日教組第65次教育研究全国集会の第3分科会(社会科教育)の「現状認識小分科会」では、秋田県の中学校から「労働教育の実践」、岩手県の中学校から「『18歳選挙権がやってくる』の授業を通して」、鳥取県の高校から「『主権者』としての政治参加はどうあるべきか」、福岡県の中学校からは「政党づくりと模擬投票を通して、主権者意識を高める」などの実践が報告された。

それぞれ興味深かったが、異色だったのは鳥取の教育実践である。サブタイトルは「表現する『主権者』をめざして」。「主権者教育」が間接民主主義の重要性を強調するなかで、この若手教員は、安保法制反対運動が盛り上がるなかで、「主権者の表現」として、デモを取り上げた。

5時間の単元の構造は、「『デモ』とは何か」、「なぜ『デモ』を行うのか」、「『デモ』で社会は変わるか」、「あるべき民主主義の姿とは」、「将来の主権者として何ができるか」。彼の総括を聞こう。

「最初の導入として用いたデモの映像には、ラップやリズムにのせて自らの政治的主張を展開する若者などが映っていたが、そうした表現に対して嘲笑交じりで見ていた子どもの姿もあった。しかし彼ら彼女らがなぜそのような行動をとるのかを考察していくうちに、次第にデモに対する見方も、当初に比べて前向きな捉え方に変わっていった。

デモという手法について、冷やかなまなざしを向けるおとなの姿と、子どもたちの当初の反応はほぼ同質のものである。自分と異なる他者の意見を一切拒絶し、対話をしようとしない大人の存在を、子どもたちなりに感じているのではないか。本実践において、デモという表現方法について、多角的視点でアプローチすることによって前向きに捉え直す子どもたちも出てきた。とすれば、学びを深めることでおとなもまた変われるとも言える。今の子どもたちが、将来の主権者となったときに、意見の異なる他者と対話しながら自らの考察を深め、多様性を尊重できるおとなになっていてほしいと切に願う。そうした個々人の姿勢が、ひいては民主主義の質を高めていくことにつながると信じるからである。」

早速翌日、『産経新聞』が彼の報告について嫌がらせ記事を掲載した。

7. 18歳選挙権

2016年参議院選挙は、18歳・19歳の若者がはじめて投票権を持った国政選挙であった。全体投票率は54.47%で、18歳は51.17%、19歳は39.66%という結果であった(速報値)。19歳が低いのは、大学生の住民票移動の関係ではないかという説もあるが、18歳の投票率については、18歳キャンペーンの圧力ではないかとも思われる。来年選挙がある場合、現在の18歳の投票率はどうなるか。

20代と30代の自民党支持率が高かったことについて、前述の女子大でわたしは問いかけてみた。「君たち若い世代は戦争に行きたいのか」と。興味深い反応がいくつかあった。

A 10代の人達が自民党に多く票をいれているのは、「戦争をしたいから」ではなく、「政治がよく分からないからとりあえず今の政権にいれておこう」という考えの人が多いからではないかなと思う。

B 若者のほとんどが自民党に入れているのはきちんと調べていないからだと思います。立候補者のことをほとんど知らず、党が何をやっているのかも知らないまま投票するから、よく名前の聞いたことのある自民党に入れるのだと思いました。私の友達と選挙の話をしたとき「民進党」と名前を出したら「何その党、初めて聞いた」と言われ、しょうげきを受けました。

C 先日の選挙では自民党が勝ちました。高い支持率はどこからきているのか疑問に思いました。戦争反対など強くいっている人がいるいっぽうで、18歳まで選挙権がさがったことで、あまりくわしくどの政党がどのような公約をあげているなどを知らないで投票している人が多いからではないかと私は思います。

D 先週の日曜日は参院選でした。……18歳まで引き下げられた理由は将来を担う若い世代の声をこれまで以上に政治に取り入れるためだと言われています。確かに私たちの将来のことなのだから私たちの声を政治に取り入れるために私は投票に行きました。しかし実際に行ってみると誰に投票すべきか分かりませんでした。私たちは政治についてもっと勉強すべきだと思います。18歳引き下げについて。「10代は投票するにはまだ未熟すぎる」「判断能力がない」といった声があげられていましたが確かにその通りだと思いました。しかし、実際に投票権があたえられたからこそ、一票の責任に気付けたのだと感じます。私たちは将来を良くしたいなら政治について関心を持つべきであり、政治教育をもっと学校などの教育機関で実施すべきだと感じました。

E 私は中学生の頃から、選挙権が欲しいと思っていました。……今回は初めての18歳選挙で参院選への関心も高まり、今までとは違う結果になるだろうと期待していました。しかし想像とはかけ離れた結果になり、とても残念に思います。自民党は国民から多くの支持を得たとして、これまで以上に暴走するのではないかと不安です。

F 夜のニュースで若者に選挙に行ったかどうかどうかインタビューしているのを見て、ある一人の女の人が「選挙よりも今、目の前にあるパンケーキのほうが大事」と言っていたのを聞いたときは目が点になった。憲法を改悪して日本が戦争をするかもしれないという大事な選挙でそんなことを考える人がいるなんて思ってもみなかった。今、日本の政治がどのようであり、これからどのようになっていくのか関心がない若者がたくさんいる日本に失望しそうになった。

誤解のないように書いておくが、この日の授業は江戸時代についてであって、300名近い学生のほとんどは、江戸時代について書いており、このように書いた学生は一部にすぎない。なお、学生のリアクションペーパーについては、『現代の理論』などの原稿執筆に使わせてもらうかもしれないとの了解を取っている。気になるのは、1990年代には、学生のなかで、千本の授業は偏っているという批判があり、学生層がまっぷたつに割れた時代があったが、今ではごく一部にネット右翼的な反発はあるけれども、学生が分裂する状況にはない。若者全体が政治的に白紙化しており、一部が政治に危機感を持っているということであろうか。

ほとんどの若者が新聞を読まないし、テレビニュースも見ない。政党の名前も、その主張も知らない。筑波大学学生宿舎4000人の場合、10年ほど前に聞いたのだが、新聞購読者は120名であった。しかし「18歳選挙権圧力」によって投票には行かなければならない。彼らはどうすればいいのか。

以上で紹介したように、一部の学生かもしれないが、政治制度だけではなく、政治の中身の教育を期待している。戦争法案が国会で議論されていたときに、「教育の中立性」に関係して、わたしは「教師が『教え子をふたたび戦場に送らない』といったら、それは政治的発言か」と問うた。答えた学生は少数ではあったが、すべて「政治的発言ではない、教師として当然だ」というものであった。だとすれば、「戦争法制反対」という主張も政治発言ではないことになる。現在の政治の対立が、人びとの生活そのものをめぐって対決していることをあらわしている。

おわりに

わが身を振り返ってみれば、ベトナム反戦以来、政治的な知識は教育によって得たものではなく、みずから身につけたのであった。それはある程度以上の世代では当然のことであろう。学生から、政治の中身について教育をしてほしいといわれたときに、それは自分でやることだろうという反発を感じる。しかし、若者をそこまで政治的に無知な状態にまで追い込んだのは誰か。

わたしが大学に入るまで、正面から政治を語る教師はいなかった。しかし、それでもわたしをこんな人間にしたのは、政治を語らずしてわたしとむきあい、わたしに社会への関心を持たせたあの教師たちだったとようやく気づくことができる。

授業でワークルール教育推進法プロジェクトを紹介したとき、どの党のどの議員が参加しているか、わたしは知らなかった。しかしある学生が、「わたしはその議員を調べて、参院選ではその人に入れます」と書いた。

投票することだけが「主権者」の仕事ではない。「主権者」からは在日外国人が排除されてしまう。18歳未満の子どもたちも主権者だという主張もある。まったくその通りだと思う。「主権者」ではなく、「社会の主人公」に。「主権者」を「投票権者」に切り縮めさせてはならない。

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て昨春より 名誉教授。日本国公立大学高専教職員組合特別執行委員。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『伝統・文化のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。

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