特集●歴史の転換点に立つ

乳幼児期のためのエデュ・ケア(保育)

固着する幼稚園と保育所の二元体制を超えて 

前こども教育宝仙大学学長 池田 祥子

1.「幼稚園とは何か」を問い続けること

[幼保一元化の幻と現状]
[戦前の幼稚園と託児所(保育所)]

2.固着する幼保二元体制とは?

[戦後改革期の妥協と幼保二元体制]
[少子社会での「待機児童」という謎]

終わりに―結婚・家族観と「子育て支援」

1.「幼稚園とは何か」を問い続けること

[幼保一元化の幻と現状]

就学前の幼児教育界では、言葉・用語そのものが、戦後の学校教育法・児童福祉法のために非常に特殊に限定されている。たとえば、「教育」といえば、いわゆる体系的な学校教育のこととされ、「保育」とは、これまた狭い児童福祉的な養護・生活保障とされている。そのためここでは、もう少し、柔軟に「乳幼児期の教育」を考えていくために、わざわざ聞きなれないカタカナ用語の「エデュ・ケア」を使用し、本来の広義の教育概念=「保育」(エデュ・ケア)という言葉を復権させ、汎く共有していければと考えている。

2015年4月、いわゆる「子ども・子育て新制度」がスタートした。この新制度は、2012年8月、民主党政権末、自民・公明党への譲歩や妥協を重ねて成立した「子ども・子育て支援関連三法」(子ども・子育て支援法、改正認定こども園法、および関連法律の整備法)に基づいているものである。と同時に、この時は、消費税増税法も合わせて成立し、2015年4月の実施時には、消費税10%を見越し、そこから新制度施行のための財源に充てるとされていた(当初は、1兆円確保といわれながら、最終的には0.7兆円に切り下げられている)。

しかし、ご覧のとおり、消費税の増税は、2015年段階でも、さらに2016年現在でも先送りされたままである。

この新制度の構想の発端は、遡れば小泉内閣の「総合施設」(2003年、総合規制改革会議「アクションプラン」)に行き着く。大きく括れば、1990年以降の「少子・高齢化社会」到来時代の政策群の一つではあるが、とりわけ国家財政緊縮改革のための新自由主義的規制緩和、地方分権等々に並ぶ幼稚園・保育所の大幅な一体化・一本化政策として浮上した。

とりわけ、都市と地方の格差は開き、地方では、幼稚園はもちろん保育所でも定員割れを起こす所が目立ってきた。また、都市では、逆に多様化する保護者の要求に保育所は対応しえなくなっていた。すなわち「制度疲労」という言葉すらささやかれていた。したがって、この「総合施設」の提案は、すべての幼稚園・保育所を「総合施設」に一本化し、行く行くは文科省と厚労省の二つの管轄省から離れて、就学前はすべて、新設の「こども省」あるいは「こども家庭省」に一本化!という構想までもが期待された。

しかし、現実の幼保二元体制は強固である。さまざまな妥協・修正を経て、2006年10月、略称「就学前教育・保育推進法」が成立し、現在にまでも続く「認定こども園」の誕生となったのである。それは、幼稚園と保育所とが「一体的に運営される」とされながらも、「教育・保育」の二つの言葉が併記されているように、どこまでも、「幼稚園の教育」と「保育所の保育」とが二元的にくっつけられているだけなのである。

その後、2009年民主党政権が誕生し、2010年9月以降は厚生労働副大臣およびその後の大臣を担った小宮山洋子を中心として、「チルドレン・ファースト」のキャッチフレーズの下、幼保のより一層の「一体化」を意図する「総合こども園」構想が練られていった。

しかし、これまた最初に述べたように、自民・公明党との妥協を重ね、現実の私立幼稚園界の根強い抵抗などもあり、結局はすべてを統括する「総合こども園」ではなく、既存の幼稚園、保育所の存在をも認めた上での、幼保一体的な「認定こども園」として落着したのである。

現行の「子ども・子育て支援新制度」の詳細な内容は、ここでは省略するが、主な特徴だけを列挙しておこう。

1.中央の行政組織は、文科省・厚労省の管轄体制を継承しつつも、特別に内閣府に「子ども・子育て本部」を設置し、幼稚園・保育所・認定こども園をすべて統括する。

2.実施主体は、市(区)町村である。

3.国からの補助金の給付は、大きく二つに区分される。「子ども・子育て支援給付」と 「地域子ども・子育て支援給付」である。前者には、従来通りの施設型給付の他に、「地域型保育給付」(小規模保育、家庭的保育、事業所内保育)や「児童手当」が含まれる。後者には、在宅家庭対象事業(一時預かり事業なども)や、延長保育事業、病児・病後児保育事業、放課後児童クラブ(学童保育)事業などが対象となる。

以上、この制度によって、これまで主に幼稚園と保育所にだけ限られていた公的な配慮(認可や補助金給付など)を、地域の「子育て」と「子育て支援」に関わるさまざまな施設にも広げようというものである。また、補助金の低下という理由からの認定こども園移行「返上」の動きを防ぐために、「保育の公定価格」も見直され、さらに保育士不足ゆえに保育士の待遇改善のための加算なども行われている。

確かに、「少子・高齢化社会」の切羽詰まった現状に対する、本気度の高い「子ども・子育て支援」政策であることは疑いえない。だが、そもそもの学校教育法と児童福祉法による規制ゆえに、「学校教育としての幼稚園」と「福祉(預かり的保育)としての保育所」という分断が、この「幼保一体的に運営される」という認定こども園にも、端的に持ち込まれているのである。

つまり、3歳以上のこれまでの幼稚園該当児が「1号認定」、午前の幼稚園課程プラス午後の長時間預かりの子どもは「2号認定」、そして、3歳未満の朝から夕刻・夜までの子どもが「3号認定」と分類されている。要するに、これまでの幼稚園と保育所が同一園舎に合体されたまま、そこには、たとえばこれまでの「幼保一元化」や「保育一元化」に込められていた何らかの「融合」された新しい理念や実践は生み出されてはいない。つまり、乳幼児期のすべての子どもの育ちを、個々の子どもの実態や家庭状況に応じて柔軟に対応しようとする「エデュ・ケア」的な保育概念・理念は、きれいに忘れられたままなのである。

[戦前の幼稚園と託児所(保育所)]

列強諸国に圧されての開国と、ともかくの近代国家化を迫られた日本は、天皇主権の家族国家体制と、国民教育制度に着手する。1872(明治5)年の学制の公布は、時期だけで見れば、西欧諸国の国民学校成立とさほどの隔たりは見られない。

その際に、すでにアメリカ経由の「プリスクール」(小学校に直属する幼稚園)の影響があったものか「幼稚小学」の名前が上がっている。しかし、実際には、小学校整備が本命であり、それすら、多くの農民から「家の労働力を奪われる」と反対あるいは抵抗された時代、小学校前の子どもたちの「教育」は、当然後回しにされただろう。

それでも、予想外に早く、1876(明治9)年、日本で初めての「幼稚園」が創立される。

ただし、それは、全国にただ一つの東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学の前身)付属幼稚園としてであった。この幼稚園の創立自体が、その後の幼稚園・保育所の二元体制と乳幼児期教育(保育)の縦の分断を用意するものであった、と今更ながらに痛感される。それはなぜか。

それは、「幼稚園」という名称と、そこに不可欠な「保育」という理念・言葉が掲げられ用いられながら、実態としては、上層階層の早期からの(小学校教育に適応的な)就学前教育であったという「ねじれ・矛盾」を内包していたからである。

言うまでもなく、幼稚園とは、フレーベル(1782‐1852)の「キンダーガルテン」の訳語である。フレーベルは、親たちに放置されていた貧しい子どもたちのために、少しでも自由で豊かな遊びの場を提供しようとした。そこには明確な幼児のための「根としての教育」観が込められている。したがって、名称も、当時の集団的一律の「シューレ(学校)」ではなく「ガルテン=庭・苑」が宛てられている。だから、日本の幼稚園でも、実際に幼稚園教育の内容が「保育」と称され、職員の名称も「保姆」であった。

しかし、実態としては、幼稚園は、「家庭を補う」という法規定はありながら「ミニチュアの(準)学校」であった。小さな教室、小さな机、小さな椅子、等々・・・。

このフレーベルの幼稚園思想と学校教育的実態との矛盾に、真摯に向き合い悩んだのは付属幼稚園の主事(園長)を務めた倉橋惣三(1917・大正6・年就任)である。貧民街につくられた「二葉幼稚園」(1916・大正5・年に「保育園」に改名)の野口幽香たちとも親交を重ね、当時の学校教育的な幼稚園を、貧しい階層にも広げ、かつ何よりも子どもたちの生活と自主性に基づく「保育」方法の理論化と実践に努力した。

こうして、倉橋惣三の影響も大きかったと言われる、1926(大正15)年の「幼稚園令」には、保育時間の延長や入園年齢の若干の例外(2歳児あたり)を認めるべしという「注意事項」も付されていた。

だが、やはり一旦できあがった既成事実の力は大きい。フレーベルの「保育」の思想がどうであれ、実態として、小学校教育を念頭に置き、それに連なるものとして運営される幼稚園では、入園年齢の「満3歳」の縛りは強固となる。こうして、「言葉と文字と集団」による教育の開始は、どうしても満3歳以上とされ、そのために子どもたちに強いられる緊張の限度として「1日の保育時間は4時間程度」とされるのであった。この結果、3歳未満児(0,1,2歳児)の人としての基底的な教育(エデュ・ケアとしての保育)への公的な配慮が抜け落ちてしまったのである。つまり、「3歳までは家庭で、あるいは母の手で」という日本の明治以来のカッコつき「近代的な」子育て観が定着する。

一方、東京、大阪を初めとして、母親も就労しなければならない貧困家庭のための託児所が、明治の終わりから特に大正年代にかけて作られ始める。そして、1938(昭和13)年社会事業法に法定される。ただし、職員の資格や施設設備の基準の規定はなく、「託児所」という名称のみであった。それでも、幼児期の「子どもたちの遊び場、たまり場」という幼稚園と似たような施設ゆえに、託児所もまた多くが「保育・保母」という言葉を使い、その内に「保育所」「保育園」という名称も非公式に口から口に広がっていく。

このような風潮に、当時の文部省は「幼児教育に関する諸問題」(1942・昭和17・年)の中で、託児所は「託児」という言葉を嫌って、「幼稚園教育を意味するものとして明治以来通用してきた『保育』という言葉」を用いて、文部省に無断で自らを「保育所」と呼び、また厚生省もそれを許容している、と苦言を呈している。

以上の、幼稚園と託児所(保育所)の歴史的な成り立ちを辿る時、託児所(保育所)からの「幼保一元化」の声は、乳幼児教育(保育)の機会均等、平等保障の観点からも切実であり当然でもあるが、幼稚園(文部省)側からは、本音としては、どこまでも託児所(保育所)は階層的にも教育的にも同一レベルとは見られなかったのであろう。

2.固着する幼保二元体制とは?

[戦後改革期の妥協と幼保二元体制]

「戦後」とは何か、「戦後改革」は何であったのか、については、敗戦から71年目の今日、さらに論争は続いている。戦後の教育に関しても、同様に問題含みだと思われるが、なぜか大方の関心は高くはない。まして、戦後の幼稚園と保育所に関しては、学校教育法の幼稚園と児童福祉法の保育所との二元体制を、多くは前提的に受け入れてきたといえよう。

先にも少し触れたが、戦前にも「幼保一元化」「保育一元化」の声は上げられてはいたが、戦後、従来からの強力な縦割りの官僚システムが継承されたために、結局はそのままの二元体制が継続したのだとは思う。ただ、子細に見ると、教育刷新委員会委員を務めた倉橋惣三は、戦後の幼稚園と保育所の一元化に、あるいは大きな力を発揮しえたかもしれない。

なぜなら、ルソー、ペスタロッチやフレーベルの西欧近代の教育思想を学び、また実際に西欧諸国の幼稚園の実態を視察していた倉橋惣三は、日本の幼稚園があまりに偏頗であること、フレーベルの幼稚園や「保育」という理念に照らせば、幼稚園と保育所は、統一的に制度化されるべきことを承知し、かつそのことを繰り返し述べていたからである。

にもかかわらず、倉橋惣三は、まず幼稚園が、学校教育法に明確に規定され、小学校以上の教育と何ら遜色のないことを明らかにする、ことに同意したのである。その考えられる理由の一つは、大学から順次下へとランクづけされる日本の教育差別構造へのささやかな抵抗としてであったのかもしれない。「幼稚園」は立派な、かつ重要な幼児教育の場であると、公的にアピールしたかったのであろう。

いま一つの理由は、対日教育使節団報告書に見るような、アメリカの児童中心的かつ民主主義的な教育に対する過大評価があったのかもしれない。これからの学校教育は、「新教育」として、これまで追求してきた幼児教育=広義の「教育=保育」と矛盾するものではないだろうと。

こうして、倉橋惣三は、保育問題研究会で活躍する城戸幡太郎ともに、衆議院教育基本法案特別委員会に委員として参加し、結局は、「いずれも一割以下といった収容幼児数」だから、「この際はまずお互いにどっちでもよいから、幼児収容機関が殖える方がよいのではなかろうか」(坂元彦太郎、文部省説明員)という妥協を認め、幼稚園と保育所の一元化は棚上げされてしまったのである(1947年3月19日)。

そして1947(昭和22)年、まずは学校教育法が、次いで児童福祉法が制定される。二つの異なる管轄省の下で、異なる法規が定められたのであるが、しかし、しばらくは、幼稚園と保育所は「お互いに似たような施設」という共通認識は保てていたようである。具体的にも、1948年に公刊された『保育要領―幼児教育の手引き』は、言葉通り、幼稚園の保育内容のガイドラインであるが、これは、幼稚園の保育だけでなく、保育所保育や家庭での保育(子育て)への配慮を当然のように含むものであった。一方の児童福祉法も、第1章に「すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生まれ、且つ、育成されるようつとめなければならない。」「すべて児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない。」と、「すべての児童」を対象とした高らかな児童福祉理念を掲げている。

しかし、幼稚園と保育所のその後の現実となると、たちまちに、それぞれの問題が露わとなり、また子どもたちの「取り合い」までもが取り沙汰されるようになる。さらに、幼稚園は義務教育ではないために、国からの補助金はほとんど当てにはできない。他方の保育所は、戦後の離散家族や貧困家庭も多く、特別な保護のために手厚い国庫負担が計上されている。だが、それゆえにこそ保育所は、1950年前後、国の財政負担軽減のために、保育所入所の子どもを限定抜きに広く受け入れるわけにはいかなくなる。「すべての児童」に開かれてもいいはずの戦後の保育所なのに、である。そこで、戦前の託児所(保育所)のように、いまさら「貧困家庭の児童」に絞るわけにはいかず、幼稚園とも差異化せざるをえなくて、第24条の行政の措置規定に取り込まれていた「保育に欠ける」(1949年)という用語が採択され、これ以降(1951年)「保育に欠ける」が保育所入所の限定用件となるのである。

「保育に欠ける」とは何か。それを考える時に、「保育に欠けない=満足な保育」を考えるとよく分かるだろう。つまり、「満3歳以上(戦後当初は5歳児が中心であったが)、1日4時間」と区切られてしまった幼稚園に子どもを通園させ、子どもの送り迎えができる母親(あるいはその他の保護者)が在宅している家庭は、子どもの世話やしつけに何らの不足も生じない(とされる)。家庭と幼稚園との連携で、子育ては問題なく営まれることになる、というわけである。

したがって、「保育に欠ける」とは、子どもの世話をすべき母親(もしくは他の保護者)が日中、就労あるいは入院している場合など、が想定される。「保育に欠ける」というそれ自体マイナスイメージの限定条件がつけられたために、「家庭と幼稚園」コースの専業主婦が女の主流のライフスタイル、という図式が固定化され、保育所利用の母親たちに、陰に陽に「子どもがカワイソウ」「子捨てをしている悪い母親」という罪意識を与えてきた。もちろん、社会の風潮も同じく、「保育所は必要悪」という意識はなかなか拭えないで続いていた。

こうして、戦後直後は、幼稚園と保育所の「二枚看板」もあり、と言われることもありながら、次第にお互いの違いが強調されるようになり、1956(昭和31)年、幼稚園の「保育要領」が「幼稚園教育要領」に改訂される。学校教育法には、なお「保育」という言葉が規定されているにもかかわらず、文部省はこれ以降、正式には「保育」という言葉を使うことはなくなるのである。「保育」という言葉は、こうして、厚生省の保育所にのみ該当する「教育以前の福祉・預かり」という意味に限りなく縮小され、矮小化されていく。

1963(昭和38)年、途切れていた文部省と厚生省との間のパイプが通じた!と評価される両局長通知「幼稚園と保育所との関係について」ではあるが、そこでもまた、結局は、「両者は機能を異にするもの」と確認され、ただし、満3歳以上に関しては、保育所も「幼稚園教育要領に準じて教育を行うように」と強要されている。保育所保育がまるごと「教育=保育(エデュ・ケア)」と認められるのではなく、保育所保育が満3歳を境に分断されている。あえて繰り返せば、文部省=幼稚園界では、「教育」とは、どこまでも満3歳以上の子どもにだけ焦点が当てられ、その様式もまた、学校教育的な「幼稚園方式」であることが前提視されているのである。したがって、厚生省児童家庭局から出された1965(昭和40)年の「保育所保育指針」のなかの「養護と教育とが一体となって、豊かな人間性をもった子どもを育成するところに、保育所における保育の基本的性格がある」という記述も、「養護と教育とを一体化させた保育」というせっかくの保育観を、その後、発展させ定着させていくことはできていない。「養護」と「教育」がまたまた分離され、「養護」は満3歳未満児、「教育」は満3歳児以上の一部(午前中?)などと割り振られてしまうのである。

[少子社会での「待機児童」という謎]

大雑把にいって1960(昭和35)年から1975(昭和50)年、いわゆる高度経済成長期には、幼稚園と保育所は、いずれも「振興・拡充」の期間であった。幼稚園は、私立幼稚園を中心として、保育所は、公立を主にしながらも、幼稚園に比べれば公私格差が僅かであるということもあり、社会福祉法人などの私立保育所も増え続けている。

私立幼稚園を拡充させた背景には、専業主婦家庭と中流意識の増大ということもあっただろう。また、それまで私学助成は憲法違反とまで言われていたものが、高校全入運動の影響などもあり、公立学校だけでは対応できなくなった教育上昇・拡大社会において、「私学の公共性」理論によって、私学助成、私学振興が促進されるようになったことも大きい。

一方の保育所に関しては、その利用者は貧しい家庭の子どもだけでなく、戦後の男女平等思想による女子の社会進出の結果、結婚・出産後も働き続ける専門職従事者の増大、さらには、中流家庭の持ち家志向や子どもの将来の教育資金などのために、パート労働に就く主婦の増大など、利用者の階層も多様化しつつ量的な需要も増え続けた。1960年代半ばの東京都を中心とする、「ポストの数ほど保育所を!」の増設要求運動などは、歴史的にも有名である。

もっとも、この両者の拡充期においても、全国的にみれば幼保の設置状況は区々である。たとえば、1966(昭和41)年の都道府県別幼稚園・保育所5歳児の在園率を見ても、香川県、兵庫県、大阪府は、幼稚園:75~80%、保育所:10%前後であり、長野県、高知県、鳥取県は、幼稚園:10~20%、保育所:60~70%、となっている。都道府県ごとの教育文化あるいは財政状況による違いによるものであろうが、しかし一方では、幼稚園でも保育所でも、お互いに融通がつくという事実を物語ってもいるだろう。

だが幼保二元体制を維持し、双方の適切な設置状況を監督する立場から、行政管理庁は、1975(昭和50)年の勧告において、市町村における幼保の甚だしい偏在や、幼保それぞれの不適切な入所状況などに警告を発している。

しかし、この幼保ともに生じていた右肩あがりの上昇傾向は、経済・成長曲線と同じく、75~80年をピークに、停滞・下降状況を迎える。そして、それが、1990(平成2)年の1.57ショック(合計特殊出生率)をきっかけにして、いわゆる「少子化対策」時代に滑り込んでいくこととなる。

「少子化対策」あるいは「子育て支援」と銘打つ施策は、1994(平成6)年の、文部・厚生・労働・建設4省による「エンゼルプラン」を初めとして、2003(平成15)年の「少子化社会対策法」「次世代育成支援対策推進法」などが続き、政府としても決して手を抜いているわけではない。直近の所では、昨年の2015年3月、「少子化社会対策要綱」が閣議決定され、これが5年後の2020年までの指針になるという。ただ男性の育児休暇取得率は、2012年で、1.89%、高くても2%台という現実なのに、この「要綱」では、「80%取得」という数値目標も入れられている。その現実的な根拠と達成の可能性もよくは見えない。

また、今年2016年5月に発表された昨年の出生率は1.46。これは2年ぶりの増であったが、微々たる増であり、日本の総人口を見ると、7年間連続の減。1968年以来、最大の27万1834人もの減少であるという。

このように、政府の打ち出す少子化対策は、なぜ、たとえばフランスのような出生率の上昇に結びつかないのか?・・・それは、今後も続く大きくかつ深刻な問題である。

ただ、ここでは、少子化社会への打開策が見つからない状況なのに、なぜ、首都圏を初めとする都市部で、待機児童が減らない、あるいは増え続けているのか、を考えてみよう。

それは、一つには、都市部への人口流入が続いている、ということがある。いま一つは、先にも見てきたように、幼稚園はもちろん、保育所にも「3歳までは、家庭で、母の手で」といういわゆる「3歳児神話」が根強く残っていたためでもある。また、それに加えて、3歳児未満は、「子ども6人に保育者1名」という少し前の国基準(1998年)ですら、人件費がかさばる「非効率的な」領域である。ましてや、「子ども3人に保育者1名」という現在の0歳児保育は、なおさらに消極的にならざるをえないのであろう。それを裏づける根拠として、乳幼児期の公的な財政支出/GDPが、OECDの中で日本は30位(平均0.6%、デンマーク1.3%、日本0.1%)という事実がある。この非常な低位置も、もっと着目されなければならない。

加えて、1995(平成7)年以降の少子化対策などでは、保育所の開所時間が11時間(これ自体も大きな問題であるが)と長時間化され、その他の地域の子育て支援事業なども付け加えられてはいる。しかし、問題は満3歳児未満の子どもたちの保育状況である。満3歳未満児の在所率(全国平均)を見ると、2014年度でも、2歳児34.8%、1歳児26.9%、0歳児は何と4.9%なのである。現在急激に高まっている1歳児、0歳児中心の保育需要に、保育所を作っても作っても追いつかない理由はここにある。

一方、1979(昭和54)年の女子差別撤廃条約以降の、「男女雇用機会均等法」制定(1985年)によって、日本では「育児休業法」が制定される(1991年)。当初は、「休業中は無給」ではあったが、未だ産前・産後休暇が6週間・6週間(現在でも、産後休暇が8週間に延びただけである)であった時代、育児への社会的な支援策として着目されたものである。だが、この制度もまた、「せめて1歳(延びて1歳半)までは母の手で」という母性神話の一翼を担い、0歳児や1歳児の社会的保育の整備を遅らせてしまったとも言えなくはない。と同時に、「育児休業」制度を利用できる層と、制度がない職場や制度があっても稼ぐことを止めることができない層との分断や確執をもたらしたのも事実である。

もちろん、時間決めで働く他律的・効率的な労働の場と、ゆったりとした時間が自在に流れ、ハプニング・中断など、何でもアリの、妊娠・出産含めた子育ての場とは、基本的に折り合いの悪い関係領域である。「男女平等」とは、この折り合い・相性の悪い「労働」と「妊娠・出産・育児」の二つの領域を、男女ともに如何にして担っていくのか、そしてそれを如何にして社会運営していくのか、なのではないだろうか。

にもかかわらず、日本の現実は、労働現場の厳しさはそのままに、今もなお育児・子育てを女に委ね、就労していない保護者(とりわけ母)の子どもは保育所への入所も容易ではない。

結婚し出産したものの、生活が決して豊かではなく働かねばならない家庭の増加、また、一人の人間として自分の仕事は続けたいという当たり前の女たちの増加、さらには、地域の広がりも人間関係もない中での、母と子の息詰まる空間のなかでの子育ては、母にとっても子どもにとっても決して最良ではないと考える男女の増加等々に、日本の幼稚園はなお消極的であるし、保育所は希望する親と子どもたちすべてに開かれているわけではなく、相も変わらず、現在は「保育に欠ける」に代わって「保育を要求する」度合が、点数表に従って第三者(行政の設ける審査会など)から審査され序列づけられている。こうした、なお残る幼保(認定こども園含めた)の旧態依然、それゆえの「待機児童」現象なのだと思う。

終わりに―結婚・家族観と「子育て支援」

1985年から90年にかけて、保育所への補助金はカットされ、入所児童数が184万3550人から172万3775人に減少していた。「日本産経新聞」に「保育所の役割は終わった」という記事すら掲載された時期もあったのである(1985年)。このような時期を経て少子化対策時代を迎えた保育所(厚生省)は、保育所が就労家庭のみを対象にしているのは差別ではないか、という批判を受けて、地域の一般家庭、いわゆる専業主婦家庭にも対象を広げ始める。それが、1989年の「保育所地域活動事業」であり、1997年には、児童福祉法の改正によって、保育所の地域子育て支援や保護者支援が努力義務として規定されていく。いわゆる「児童虐待」と呼ばれる各家庭や地域での子育て機能の劣化が目立ち始めた時期でもある。児童虐待防止法は2000年、発達障害支援法は2004年に制定されている。

さらに、2006年に制定された「認定こども園」には子育て支援機能が義務づけられ、現在の「子ども・子育て支援新制度」にも引き継がれている。

確かに、家庭の中に閉じ込められ、保健所を除けば、公の支援のほとんどを受けることのなかった一般家庭(専業主婦家庭)の母子に対して、保育所や地域の児童館、子育て広場、子育てセンターなどが広く開放されたことは、素直に喜んでいいことであろう。

だがしかし、ここにも無視できない問題が潜んでいる。

それは、どこまでも現実には「母子一体」になってしまうことを前提にしての子育て支援である、ということである。確かに、児童福祉法には、第2条「国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う」と規定されている。子どもの保護者が、とりあえず子育ての当事者であり、責任を負うのは言うまでもない。しかし、家庭の保護者のみでは抱えきれない子育てへの「ヘルプ!」状態を支え、助ける公的な施策が求められ、その公的な子育て政策(保育政策)の規定であるにもかかわらず、日本では、必ず、父母(保護者)の子育て責任が言上げされる。改正された教育基本法第10条でも、「父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有する」とあり、「子ども・子育て支援法」第2条でも、「子ども・子育て支援は、父母その他の保護者が子育ての第一義的責任を有するという基本認識の下に・・・」と規定されている。そして、その「父母・保護者」とは、例外を除けば、現実の子育て担当の「母」なのである。

「3年間抱っこし放題!」と公言して失笑を買い、あるいは批判された安倍晋三首相には、なお理解されないであろうが、現在では、「母子」というセットは、母にとっても、子どもにとっても、緩やかにほどかれなければならない。母と子、それぞれにとって、分離できる時間と空間が必要なのである。

介護の世界では、かなり広まっている「デイケア」「ショートステイ」と同様、いや、子どもの場合にはもっと積極的に、子どもが親以外の大人や仲間たちと出会う時間・空間が求められている。その意味では、保育所にも、普通の家庭の子どもたちが必要に応じて通うことができなければならないし、幼稚園や、児童館、あるいは地域の子育て広場などでは、いつも母子のセットではなく、子どもだけの保育空間(デイケア)が求められなければならないだろう。

後は、駆け足の問題提起になってしまうが、「希望者には夫婦別氏を」という、「家」に拘束されない二人の共同生活空間がなかなか認められない日本社会では、0歳からの母と子の自由な分離も、決して容易いことではないかもしれないが、実は、「子育てしやすい社会」のための要なのかもしれない。

そして、さらに理想を言えば、限りなく小さく、不安定な家庭の中での子育てや介護の現状を考えると、さらに緩やかな24時間体制での駆け込み寺のような「地域のたまり場」をも、自主的にかつ公的に増やしていかなければならないのかもしれない。偶々、ドキュメンタリー映画になった大阪釜ヶ崎の「さとにきたらええねん」(重江良樹監督、「こどもの里」)が参考になるように、家庭を支える「エデュ・ケア」=保育の施設のさらに周りに、地域での生活を支える施設もまた求められているのではないだろうか。

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。お茶の水女子大学から東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。前こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、『歌集 三匹の羊』(稲妻社)、『歌集 続三匹の羊』(現代短歌社、2015年10月)など。

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