特集●歴史の転換点に立つ

尖閣近海 紛争の海から平和の海に

自衛隊配備に揺れる石垣島―反対住民の思い

新聞うずみ火記者 栗原 佳子

南西諸島に陸上自衛隊を配備する動きが加速している。八重山諸島の主島、石垣島(石垣市)もその一つだ。人口約5万人。台湾との距離は270㌔と、沖縄本島の400㌔よりはるかに近い「国境の島」だ。昨年11月、防衛省が市に配備受け入れを正式要請、島は自衛隊配備をめぐり揺れている。

「地元」の頭越しに候補地選定

島のほぼ中央部にどっしりとした山容を見せる於茂登(おもと)岳。山裾のなだらかな丘陵地帯にサトウキビ畑やパイナップル畑などが広がる。7月に入り、夏本番を迎えた石垣島。のどかな南国の農村風景の中をレンタカーで走ると、「自衛隊配備断固反対」と大きく記された立て看板が数カ所、目に入る。候補地に選定された平得大俣(ひらえおおまた)地区に近い開南(かいなん)、嵩田(たけだ)、於茂登の3公民館の連名。公民館は、自治組織の意味を持つ。

3公民館(地域の自治組織)が共同で設置した立て看板
(写真はいずれも筆者撮影)

昨年11月26日、防衛省の若宮健嗣副大臣が石垣市役所を訪れ、「尖閣諸島周辺で中国公船の領海侵入が常態化している」などとして中山義隆視聴に陸自受け入れを正式に要請した。「有事」の際の初動を担う警備部隊のほか、地対空ミサイル部隊、地対艦ミサイル部隊あわせて5、600人規模。隊庁舎やグラウンド、火薬庫、射撃場などを整備するという内容だった。駐屯地に選定されたのは島のほぼ中央部にある「平得大俣(ひらえおおまた)の東側にある市有地及びその周辺」。昨年5月、当時の左藤章防衛副大臣が配備に向けた調査への協力を求める要請を中山市長が受諾。その後、候補地に推定されると報じられた7カ所のうちの一つだった。

当時、嵩田地区の公民館長だった金城哲浩さん(61)は「これは黙っていたら大変なことになると思いました」と振り返る。同じく候補地に隣接する於茂登、開南の公民館役員と連絡を取り合い緊急に記者会見に臨んだ。3地区とも沖縄本島などからの八重山移民が拓いた純農村地域。あわせて約80世帯、200人あまりが暮らしている。候補地選定の過程はもちろん、正確な場所や面積なども何一つ情報を開示されない頭越しの「通告」。みな怒り心頭だった。

加えて、年が明けると、防衛省が先島諸島へのヘリ部隊配置も検討していることが国会で明らかになった。陸自のヘリといえば、想定されるのはMVオスプレイだ。配備先は石垣島が有力とも報じられ、住民たちの不安をさらに掻き立てた。

3公民館はそれぞれ臨時総会を開催。その結果、開南は反対多数、嵩田地区は1人が保留した以外は残り全員反対、於茂登地区は全会一致で反対を決議した。この結果を受け、3公民館は共同して配備計画に断固反対していくことを確認、予定された防衛省による説明会も、「既成事実にされかねない」と拒否した。その後も防衛大臣に対し抗議文を突きつけるなど、一貫して「断固反対」「白紙撤回」を主張してきた。

与党が「内部分裂」、まさかの否決

3地区の住民たちが当初から危機感を募らせていたのはもう一つ、市議会の動きだった。防衛副大臣による受け入れ要請に足並みを揃えるように推進派による「石垣島自衛隊配備推進協議会(三木巌会長)」が発足。さっそく昨年の12月議会に配備推進の請願を提出したのだ。石垣市議会は、保守系の中山市長の与党が多数派を占めている。同じく陸自配備が計画される宮古島(宮古市)では、推進の請願が賛成多数で採択され、市長が「民意」として事実上受け入れを容認した経緯があった。

結局、12月議会で推進派の請願は継続審議とされ、今年の3月議会でも再び継続審議になった。一方、この3月議会には、3公民館も反対の立場で請願を提出したが、不採択という対照的な取り扱いを受けている。6月議会は、継続審議となっていた推進派の請願が総務財政委員会で採択された。残るは本会議。ところが、その本会議でまさかの番狂わせが起きた。賛成8、反対9。「時期尚早」などの理由で、公明2人と自民1人が退席、自民2人が反対に回り造反、否決されたのである。これに対し賛成の自民議員6人が支部を脱退、分裂騒ぎにまで発展した。いずれにしても、採決を覚悟していた側には思いがけない誤算だった。

バンナ岳から予定地とされる平得大俣方面をのぞむ

「安心ではありませんが、ひとまず間が持てたという感じですね。9月議会がありますし、油断はできませんが」と金城さん。与那国島から嵩田地区に入植して30年以上。マンゴーやアセロラなどの果樹栽培に打ち込んできた。2年前、長男(26)が農業を志してUターン。後継者が育っている農家は周囲に何軒もあるという。嵩田地区は台湾からの入植者がパイナップル栽培をはじめた発祥の地としても知られ、台湾にルーツを持つ人も多い。苦楽をともにしてきた仲間同士、集落の結束は固い。緑豊かな農村のパノラマ風景の正面にバンナ岳。その向こうにはミントブルーの海。問題の予定地、平得大俣地区は、この絶景に割り込むように位置している。

与那国島には今年3月、陸自の沿岸警備隊が配備された。いまも土ぼこりを上げて施設工事が進む。のどかだったふるさとの風景の変貌ぶりに胸を痛める金城さん。こんどは自分が根を下ろした土地まで脅かされる。「ここに基地は来てほしくないです。でも、すぐそばだから、ではなくて、個人的には、自衛隊の基地は石垣島のどこにもいらないと思っています」。金城さんの柔和な表情が引き締まった。

保守市政に転じて

冷戦の終結はソ連という仮想敵を消滅させた。陸上自衛隊は「北方重視」から「南方重視」へと戦略を転換。2005年には先島諸島への部隊配備が検討され、2010年に策定された新防衛大綱には「南西諸島での島嶼防衛」がうたわれた。現行の「中期防衛力整備計画(中期防)」(14年~18年)では「中国の脅威」を名目に与那国島、宮古島、鹿児島県の奄美大島、そして石垣島に陸自配備をする計画が進められている。こうした流れと並行するように、石垣島では、革新市政が保守市政に転換するという「事件」があった。石垣市は本土復帰以降、保守市政が1期あっただけで、残りは革新市政。沖縄県内では「革新王国」として知られていた。

中山市長(49)は二期目。2010年2月の市長選で、5期目に挑んだ革新系現職を下して初当選した。市議会も、同じ年の9月の選挙で保革が逆転、保守系の与党が多数を占めた。この市議選の直前には尖閣諸島での漁船衝突事件が発生している。日中の緊張が高まるきっかけになった大きな事件だ。操業中の中国漁船が、取り締まろうとした海上保安庁の巡視船と衝突。テレビのワイドショーでも衝撃的な映像が繰り返し流された。

中山市政に転じて際立って変化した一つが自衛隊の取り扱い。たとえば11年2月には海上自衛隊の掃海艇が石垣港に入港したが、それまでの革新市政では、軍事に結びつくとして認められてこなかった。同年9月の防災訓練では陸海空の自衛隊が参加、戦闘機まで飛んだという。12年12月には北朝鮮が予測した弾道ミサイルの発射に備えPAC3(地対空誘導弾パトリオット)が埋立地に配備され、繁華街を自衛隊車両が列をなす場面もあった。

この頃、時を同じくして起きたのが「八重山教科書問題」。11年8月、八重山採択地区協議会が公民分野で「つくる会」系の育鵬社を採択。これに竹富町が反発し、最終的には竹富町が採択地区から独立するかたちで決着した。そもそもの発端は採択地区協議会の会長で石垣市の教育長(当時)が採択のルールを突然変えたこと。教育長は、中山市長の肝いりだった。育鵬社版の公民は「自衛隊賛美」も特徴。海外派遣の意義などを詳細に説明し「戦後の日本の平和は自衛隊の存在と共にアメリカ軍の抑止力に負うところも大きいといえます」などと記す。一方、中国については「近年、一貫して軍事力の大幅な増強を務めており、日本を含む東アジアと国際社会の平和と安全にとって心配される動きとなっています」と言い切っている(平成24年版「あたらしいみんなの公民」より)。

保守・革新を超えて反対の声を

「保守カラー」が強まってきた石垣島。昨年の安保法制をめぐっては、那覇で開かれた地方参考人会に中山市長が自公推薦で出席、安保法案賛成の立場で発言した。市議会は国会会期中の法案成立を求める異例の意見書を採択。安倍首相は「永田町では感じ得ない肌感覚の危機感を持っている」として国会答弁に反映させた。「中国の脅威」と向き合う最前線のイメージだが、それが民意を反映しているかというと疑問だ。自衛隊配備に反対し、力ではなく対話で解決してほしいと望む声は根強くある。

「一人でも多く反対の声を上げなければ、八重山の人はほとんど賛成なのだと判断して、どんどん計画を実行に移してくるかもしれません」。昨年8月に結成された「石垣島への自衛隊配備を止める住民の会」の共同代表、上原秀政さん(61)はそう警戒する。上原さんは医師。市街地にある医院を訪ねると、待合室や受付の署名用紙や住民の会のチラシが目に入った。「沖縄は中国、台湾の人たちと仲良くやってきました。なぜいまになってナイフを振りかざすような行為をするのでしょうか。観光にも大きな影響があるでしょう。平和なこの島に軍事基地をつくることは絶対反対です」

防衛省が2度開いた説明会は災害支援のPRばかり。住民の不安に何一つ答えるものでなかった。住民の会は月に1回、街頭のアピール行動に立ち、一人でも多くの人にデメリットを知ってもらおうと腐心している。市役所を包囲する人間の鎖も2回実施した。上原さんは「保守」を自認している。そのうえでこう訴える。「保守だの革新だの言っている場合ではありません。取り返しがつかなくなる前に、意思表示をしてほしい。沖縄が本土防衛の捨て石になるのはもうたくさんです」

石垣島で生まれ育った上原さんの親せきには、「戦争マラリア」の犠牲者もいるという。石垣・八重山には地上戦はなかったが、「もうひとつの沖縄戦」といわれる「戦争マラリア」の悲劇があった。3600人以上が命を落とし、うち石垣島は3000人以上を占めた。

私ごとになるが、2005年から「新聞うずみ火」というミニコミを仲間たちと発行している。このかん石垣島・八重山諸島にも繰り返し足を運んでいるが、その最初は2006年、戦争マラリアの取材だった。石垣島に駐留した日本軍は45年6月、住民に強制疎開命令を出した。於茂登岳の山腹にある白水などで、マラリアを媒介するハマダラカが生息する「マラリア有病地帯」。しかし軍命に背くわけにはいかず、空襲が激しさを増す中、住民たちは必死で指定された場所へ移動した。山中に粗末な仮小屋をつくり、不自由な暮らしを始めたが、マラリアが蔓延するまでにそう時間はかからなかった。軍が所有していた特効薬キニーネは、住民には渡されなかった。

於茂登岳山中の白水。かまどの跡を示す潮平さん=2006年

こうした話を語ってくれたのは体験者の潮平正道さん(83)だった。当時は鉄血勤皇隊に動員されていた。潮平さんもマラリアに罹患、生死の境をさまよったという。10年前、住民たちが避難した白水に案内してもらった。ジャングルの中に、かまどの跡、茶碗の欠けらなど、かすかに生活の痕跡が残っていた。

当時の惨状を伝える写真は皆無に近い。芸術家の潮平さんは、戦争マラリアの実相を作品に刻み込んできた。県立八重山平和祈念館には、潮平さんが描いたイラストやジオラマ、闘病する母子の人形などがある。マラリアで亡くなったおばといとこがモデルで、母親の頭には棒を伝って水流が落ち、息子の額には濡らした葉っぱが一枚はりついている。

「八重山に軍隊がいなければ、戦争マラリアはありませんでした。軍隊は住民を守らない、というのは八重山も同じです。ミサイル基地が来たら絶対標的になる。市民の命が危険にさらされる。絶対反対です」。戦争を実際に体験した人の、皮膚感覚から発せられた信念の言葉だった。

つくられた「中国脅威論」

戦争マラリアとともに、八重山の戦争を代表する悲劇とされるのが「尖閣列島戦時遭難事件」だ。市の郊外、海べりに建つ慰霊碑の前で、7月3日、慰霊祭が営まれた。2002年に遺族会が慰霊碑を建立、毎年この日、ここで執り行っている。

71年前のこの日、石垣島から台湾に向かう民間の疎開船2隻が尖閣近海で米軍機の空襲に遭った。一隻は沈没炎上し約50人が死亡、もう1隻は無人島の魚釣島に漂着したが、45日後に救助されるまでの飢餓地獄で、死者が続出した。慰霊碑には、判明している80人の名が刻まれている。犠牲者はほかにもいるとされるが、正確な数は不明だ。あまりにも壮絶すぎて、語ることもできない人もいるという。この日の慰霊祭には、戦後はじめて参加し、人前で初めて体験を語るに到った遺族の女性がいた。

慰霊碑に手をあわせる慶田城さん

遺族会会長の慶田城用武(けだしろ・ようたけ)さん(74)は母と兄、妹と疎開船に乗り、兄、用典さん(当時5歳)を亡くした。機銃掃射を受け即死だったという。挨拶に立った慶田城さんは、「遺族会は二度と戦争を起こさないよう、この悲惨な事件を後世に伝え、尖閣近海の平和と平穏を願い慰霊祭を行っています」と遺族会の立場を説明、「しかし遺族会の願いとは裏腹に、魚釣島近海は領有権をめぐって年々、日中の争いがエスカレートし、悪化しています」と憂えた。

慶田城さんも石垣島への自衛隊配備に反対の立場。挨拶でその意思を明確にしたうえで、中国海軍のフリゲート艦が6月、魚釣島の接続水域に初めて入ったことに触れ、「日本と中国は互いに軍事を強化するのではなく、解決に向けて話し合うべき」と訴えた。また「魚釣島の領有権を解決するには、軍拡よりも、両国間の合意にもとづきガス田を共同開発することではないか。尖閣近海を『紛争の海』から『平和の海』に」などと提案した。

この日、来賓の中山市長は不幸があり慰霊祭を急きょ欠席。慶田城さんの訴えを直接聞くことができなかった。ちなみに、中山市長は「国防や安全保障は国の専権事項」だとして、自衛隊配備についての考えを明言していない。

日中の緊張が高まるきっかけになった10年の尖閣漁船衝突事件。12年4月には突然、当時の石原都知事が尖閣購入を表明、同年9月には野田政権が国有化を決定した。「尖閣の危機」がつくられていくなかで、遺族会の周辺もにわかに騒がしくなった。魚釣島には、市が69年に建立した慰霊碑がある。なかには「慰霊」を名目に上陸をはかろうとして、遺族会に同意を求めてきた保守的な国会議員らの団体もあった。電話を受けた慶田城さんは「私たちは平和団体。領土を守るという主義主張とは違う」と断ったという。

「石垣島に『中国の脅威』を感じながら暮らす市民はいません」と慶田城さん。「つくられた危機」の先になにがあるのか。恣意的な『中国脅威論』を鵜呑みにしてはならない。

くりはら・けいこ

群馬の地方紙『上毛新聞』、元黒田ジャーナルを経て新聞うずみ火記者。単身乗り込んだ大阪で戦後補償問題の取材に明け暮れ、通天閣での「戦争展」に韓国から元「慰安婦」を招請。右翼からの攻撃も予想されたが、「僕が守ってやるからやりたいことをやれ」という黒田さんの一言が支えに。酒好き、沖縄好きも黒田さん譲り。著書として、『狙われた「集団自決」大江岩波裁判と住民の証言』(社会評論社)、共著として『震災と人間』『みんなの命 輝くために』など。

新聞うずみ火

ジャーナリストの故・黒田清氏が設立した「黒田ジャーナル」の元記者らが2005年10月、大阪を拠点に創刊した月刊のミニコミ紙。B5版32ページ。「うずみ火」とは灰に埋めた炭火のこと。黒田さんがジャーナリスト活動の柱とした反戦・反差別の遺志を引き継ぎ、消すことなく次の世代にバトンタッチしたいという思いを込めて命名。月刊一部300円。詳しくはホームページ http://uzumibi.net/

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