論壇
なぜ群馬で朝鮮人虐殺は起きたのか
関東大震災「藤岡事件」100年
「新聞うずみ火」記者 栗原 佳子
埼玉県に隣接する群馬県藤岡市。街道の面影を残す一角、成道寺の墓地に高さ2㍍以上ある大きな石碑がそびえている。「藤岡事件」犠牲者の慰霊碑だ。1923年9月5日から6日にかけ、朝鮮半島出身者17人が自警団らに虐殺された。寺に隣接する藤岡警察署(当時)が現場だった。都心から100㌔。県境の町で事件はなぜ起きたのか。
流言飛語に殺気立つ人々
1923年9月1日午前11時58分、相模湾を震源とするマグニチュード7.9の大地震が発生した。その夜、県内から見える東京方面の空は夕焼けのように赤く、藤岡周辺では「秩父の武甲山が爆発した」などの噂も流れたという。地震そのものの被害は比較的軽微で、県は救援活動にシフト。支援物資を積んだトラック、医師や消防組員などの救護班などが被災地に向かった。内務省の要請を受けて警察官200人も派遣され、被災地からの避難者の救護所なども各地で設けられた。国鉄高崎線は屋根や側面まで乗客が鈴なりになるほど。高崎駅は人で溢れかえった。その口づてに「朝鮮人が井戸に毒を入れた」「暴動を計画している」などという流言が持ち込まれ、官製のデマが、その信ぴょう性を高めた。
埼玉県に隣接する佐波郡の郡長は9月3日、町村長宛てに「東京府下震火災に際し囚人多数脱出し、又不逞鮮人暴行有之たるやに聞き及び」「不逞の徒何時当地方へ入り込むやも測りがたく、警備隊を組織し警戒を厳重ならしむるよう」通達した。群馬県史は「おそらく内務省からの連絡が県を経て各市町村へ行ったものであろう」と分析。実際、この3日の朝、内務省警保局長から各地方長官(知事)宛てに「朝鮮人の行動に対する厳密な取り締まり」を命じる電文が送信されている。県内では469もの自警団が組織された。
新聞報道もデマに真実味を与えた。4日付の地元紙・上毛新聞は一面で「不逞鮮人が盛んに出没」と見出しを打ち、「各所に出没して不穏の言動あるために、東京は戒厳令を布くと同時に軍隊出動して警備に充つて居る」と戒厳令と朝鮮人との関わりを強調した。別の面では中央に「不逞鮮人侵入」と4段見出しを配し、「(栃木の)足利に300人が下車 井戸に投毒が目的」「爆弾を所持していた朝鮮人3名が高崎駅で逮捕された」などの記事。東京の新聞の多くが発行不能状態に陥る中、上毛新聞は2日付で「突如稀有の大地震襲来」と一報し、東京や横浜、県内各地の被害も詳報してきた。情報に飢えた多くの人の手から手に渡ったのは想像に難くない。
4日朝、高崎駅で朝鮮人男性が自警団に棍棒で殴られ意識不明に陥った。一命を取り留めたが、同じ頃、高崎駅の一つ手前の倉賀野駅近くの九品寺で、朝鮮人男性が自警団員らに殺された。夕方には塚沢村(現高崎市)で福岡出身の男子大学生が、朝鮮人と誤認され自警団に殺された。群馬の場合、手をかけたのは官憲ではなく自警団を含む民衆である。
当時の緊迫した状況を、高崎市史は陸軍造兵廠の「震災関係用務詳報」を引いて生々しく伝えている。<「岩鼻火薬製造所」(高崎市岩鼻)付近は「朝鮮人暴動」のデマが盛んで「住民皆殺気立チ」、停車場はじめ要所には「在郷軍人、消防、青年団等凶器ヲ携え鮮人ヲ警戒シ、附近村落喧騒ヲ極メタリ」。九月四日の記録には二人の将校が情況を偵察し、「不逞鮮人襲来」などはまったくの「流言蜚語」で、朝鮮人を「何等根拠ナク撲殺」していると報告している。また将校らは倉賀野駅や岩鼻において、地域住民や火薬所の職員らにデマであることを伝え、「軽挙妄動」を戒めた。しかし、夜に入って「約百名ノ鮮人火薬庫ヲ襲来する」「鮮人鉄橋ヲ爆破セリ」といったデマがますます盛んとなり、住民は不安にかられ、「皆凶器ヲ携ヘ物々シク警戒シ、官憲ト雖(いえども)手ヲ付クルコト能ハズ」という情況であった>
デマを流布してきた官憲もここにきて火消しに動く。山岡国利知事は3日、「事実無根である。県民は流言に迷わないように」などとする談話を発表。5日付の上毛新聞に全文が掲載された。しかし、藤岡事件が発生したのはその5日の夜だった。
2000人もの群衆が取り巻いた
藤岡事件の真相調査と追悼に尽力した猪上輝雄さん(元社会党県本部副委員長、2016年、87歳で死去)が1995年に刊行した『関東大震災(1923年)藤岡での朝鮮人虐殺事件』や県史、各市史などによれば、事件は次のような経過をたどった。
9月3日、藤岡町(現藤岡市藤岡)でも自警団が組織された。同日、多野郡長から各町村長宛てに「不逞鮮人ノ暴挙警戒ニ関する件」として在郷軍人会、消防組、青年団などで自警団を組織するよう通達。4日には藤岡署の署長代理が「朝鮮人は足利方面に襲来し、まもなく前橋に侵入する可能性がある。警備が手薄なので、自警団が充分な警備をするよう」訓示した。当時、藤岡署では署員30人中、半数が被災地に派遣されていた。
5日、藤岡警察署に17人の朝鮮人が保護・収容された。埼玉県境を流れる神流川河原の砂利会社で働く12人、行商人3人、自ら保護を求めるなどした2人で全員が男性。前日の4日、対岸の埼玉県北部で多数の朝鮮人が殺され、藤岡でも不穏な空気が漂っていることから、事態の悪化を未然に防ごうとしたのだった。
しかし、周辺の人々や自警団が「警察は悪いことをした朝鮮人をかばっている」などと騒ぎだした。その2日前、藤岡署が隣町から連行されてきた朝鮮人男性を釈放したことも責め立て、「警察が朝鮮人を逃がしたのはけしからん」と、引き渡しを要求しはじめた。群衆は夕方に1000人、夜には2000人にも膨れ上がった。
当時、署長は埼玉北部の視察中。署員は7人しかいなかった。「一人残らず殺してしまえ」などと怒鳴りながら竹やりや鳶口、棍棒、日本刀など凶器を手にした群衆が署内になだれ込み、17人が収容されていた無施錠の留置場に押し入り、襲い掛かった。かろうじて留置場の屋根をはがし、難を逃れたのは1人だけだった。
翌6日。隣の日野村(現藤岡市日野町)の自警団が昼ごろ、若い朝鮮人男性をひきずるように連行してきた。その後ろには300人余りの群衆がついてきた。警官が「この人は不法なことは何もしていない」と群衆を説得したが、夜になると群衆はまたも1000人規模に急増。署内に突入すると男性を引きずり出し、寄ってたかって1人の命を奪った。県警本部からの応援部隊も配置されていたが、興奮した群衆は署内を破壊し、重要な書類なども焼き払ったうえに占拠した。歩兵15連隊(高崎)が警察の出動要請を受け一個中隊を派遣する事態になった。
事件はどう裁かれたのか。県警は被疑者37人を殺人罪と騒擾罪で検挙した。少年2人を含む60代までの男性で、職業は職人や商人などが多かった。前橋地裁で11月3日から4日連続で公判が開かれ、審理を報じる上毛新聞には<国家の為め警戒の為め夢中で鮮人を斬ったり酔って銃で射撃したり><斬って見ろと群衆に言はれ男の意気地で後へ引かれず一太刀>などの見出しが並んだ。検事は論告で「9月5日の夜騒いだことは、流言飛語を信じ、熱狂の余りなしたということも幾分理解できるが、6日の夜にも再び騒ぐということは何という有様であろうか」「鮮人はまだしも、警察になんの遺恨があるのか」と虐殺よりも警察襲撃を厳しく求刑した。
地裁判決は25人を懲役5年から1年6カ月の実刑、10人を猶予刑、1人を無罪とした。25人は刑を不服として控訴、東京控訴院は9人を実刑としたが、9人はさらに上告した。大審院判決は2人が懲役2年、残り7人は執行猶予に。上級審にいくほど量刑は軽くなり、当時の藤岡町は被告人家族への「慰安寄付金」も募った。
県境手前の埼玉北部で事件続発
遺体は藤岡町長の依頼で成道寺に埋葬された。当時の住職は備忘録に生々しくこう書き残している。
<流言に官民やや狼狽の色ありて、各県皆在郷軍人会、青年団、消防団を持って自警団を組織し、各自獲物をもって昼夜警戒す。ただし、警察、役場より通知を発し組織せしむ。なお、警察は自警団に対し朝鮮人を発見次第警察に同行して来たれと命ず。ときに人心激昂の極みに達し、朝鮮人とみれば皆敵国人を見るがごとく、殺気充満す。
たまたま、新町鹿島組配下岩田金次郎方に雇いし者12名、他より5名、当藤岡署に保護す。民衆9月4日武州本庄町神保原にて百数十人撲殺の実況を視察し、藤岡もかの例にならい、国賊朝鮮人を撲殺すべしとなし、警察に談判すること数日、ついに夜8時ごろより10時、民衆数千人警察門前に集まり、留置所を破壊し、16人引き出し、門前にて撲殺し警察に並べて死の山となす。
なお、6日の夜、民衆非常に激昂し、残りの1人の朝鮮人を留置所より出し、殺し、警察を破壊し、8時より11時までまったく無警察状況となり。乱暴すること非常なり。当夜警鐘を乱打す。18日、町役場より命を受け、岡住豊吉(注・1人の日本名)ら17名の朝鮮人の死体を集めて大葬す。即ち、遺骨は成道寺墓地に埋める>
武州は現在の埼玉県。北部の本庄、神保原では4日、自警団や群衆が移送中の朝鮮人を襲撃する事件が相次いだ。震災50周年の1973年、当時の畑和知事を名誉実行委員長とする朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会が刊行した『かくされていた歴史 関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』(60周年に増補版刊行)は、確認されただけで本庄で88人、神保原で42人、本庄の手前の熊谷で57人が虐殺されたとする。
当時、埼玉県は、東京方面からの避難者や、工場で働く労働者ら朝鮮人を県南部で保護・検束し、県外へ移送しはじめていた。宇都宮に移送された人たちもいたが、殺害されたのは旧中山道を群馬方面へ向かった人たちだった。子どもたちや妊婦もいたという。警察官も付き添ってはいたが、村々の自警団が駅伝のように引き継ぎ、威嚇しながらの「町送り」だった。
4日午前、警察は高崎線吹上駅から鉄道での移動に切り替えようとした。しかし乗客が騒ぎ、乗車はかなわなかった。前夜から数十㎞ひたすら歩かされ、熊谷の中心部に入る頃には既に夕刻。逃亡防止などとして縄で縛られていたという人々を、日本刀や竹やりなどを手にした自警団ら群衆が待ち構えていた。数千万とも1万人にも膨れ上がったといわれる。4日夕方から真夜中まで殺戮が続いた。
同じ4日午後、本庄署を小型トラック数台が出発、収容されていた人々を乗せ中山道を北上した。しかし、県境の神流川で、対岸の群馬県新町の自警団、藤岡警察署が入県を拒否。そこに複数台のトラックがさらに到着した。引き返そうとしたが神保原駅近くで群衆がトラックを取り囲み、襲い掛かった。
神保原で難を逃れた一部のトラックは本庄署に帰還。それを聞きつけた群衆が押し寄せてきた。本庄駅で降ろされた人や、地元に住んでいる人たちが演舞場などに収容されていたが、翌朝まで全員が殺された。
なぜ県境を超えられなかったのか。『かくされていた歴史』は「群馬県に送るにあたって藤岡署の間に了解をとりつけていなかった」と指摘する。そもそも行き先も、高崎歩兵15連隊か、あるいは群馬経由で新潟や長野だったのか、未だにわかっていない。鉄道、トラック、徒歩など移動手段も行き当たりばったり。いずれにしても入県拒否に端を発し、多数の犠牲者が出た。その対岸の惨劇は、群馬側にもリアルタイムで伝わった。現場で「実況を視察」していたものもいたのだった。
「日本政府は真相解明し謝罪を」
藤岡事件100年目の慰霊祭。9月9日午前、成道寺に権在益(クォン・ジェイク)さん(66)=韓国慶尚北道栄州=の姿があった。母方の祖父、南成奎(ナム・ソンギュ)さんが藤岡事件の犠牲者の1人だ。南さんは当時38歳。植民地政策によって土地を奪われ、生活の糧を日本に求めた。妻と幼い子供たちを残し、砂利採取場で働きはじめて2カ月しか経ってなかった。
祖父の身に何が起きたかを知ったのは8年前。『隠された爪痕』などのドキュメンタリー映画で知られる在日2世の呉充功(オ・チュンゴン)監督との出会いからだった。呉監督は5年余りかけて韓国で遺族を探し歩き、その結果、17年には釜山で「関東大震災朝鮮人大虐殺犠牲者遺族会」が結成された。関東大震災から95年となる18年、初めて韓国から遺族が慰霊祭に参加、権さんもその1人として来日した。成道寺の慰霊祭はその年以来、2度目の参列になる。
祖父の除籍謄本を取り寄せ、当時の日本の新聞記事などを探したという権さん。本堂で営まれた法要では祖父ら犠牲者全員の名前を読み上げ、「謄本には、震災4日後、群馬県の藤岡警察署で死亡したと記載されていました。死亡ではなく虐殺。どうして殺されたのか全く書かれていません。真相究明をすることが私なりの供養だと思っています」と声を震わせた。
遺族会会長の権さんは、8月末から各地の追悼式や集会などに参加、遺族たちの思いを代弁してきた。「遺族会としては、日本政府には真相解明と謝罪、遺族への賠償の実現、韓国政府には犠牲者と遺族の正当な権利回復の実現のため、日本政府と交渉を始めることを強く要求している」という。
日本政府は徹底的に虐殺の隠蔽を図った。犠牲になった朝鮮人のほとんどは名前も年齢もわかっていない。どこで亡くなり、遺骨がどこにあるのかもわからない。一人ひとり、故郷で帰りを待ち続けた家族がいただろう。朝鮮人犠牲者のなかで、名前が墓石に刻まれているのは、さいたま市の姜大興(カン・デフン)さんと埼玉県寄居町の具学永(ク・ハギョン)さん、そして、藤岡事件の17人だけだ。
藤岡事件では被害者側の証言も記録に残されている。震災から2カ月近くになる10月25日付の上毛新聞は、「同胞の惨殺されるのを目前に眺めて 僅に生残った藤岡の飴売り」という見出しで、朴南波さんという男性の壮絶な体験を報じた。「5日6日の両夜に渡る鮮人虐殺の光景を見ておったが4日より8日まで4日間全く飲むことも食うこともできず、ことに眠る事さえも尚更不安で、もし眠った間に襲撃を受けては大変だと案ぜられた。もしその場合は自殺しようと布団の中におって寸時も離たず短刀を懐中にしており、ほとんど生きた心地はしなかった」。朴さんは涙ながらに記者にこう語ったという。
95年に猪上輝雄さんがまとめた『藤岡での朝鮮人虐殺事件』には、事件を目撃した市民の証言も収録され、当時7歳だった男性は「飴売りの行商の朴さんを家にかくまった」と振り返っている。かくまうよう頼んできたのは藤岡署の警察官だったとも。
「史実語り継ぐのは市民の義務」
この100年目の慰霊祭は20団体で実行委員会を結成し、取り組まれた。もともと慰霊祭は震災の翌1924年に町有志が慰霊碑を建立し、藤岡町主催で行われるようになった。しかし戦後中断。1957年にひび割れにより二代目の慰霊碑が建立されると復活したが、その後また途絶え、関東大震災70年の1993年、「日朝友好連帯群馬県民会議」の主催で再開した。2017年からは「藤岡事件を語り継ぐ市民の会(市民の会)」が共催する。
「市民の会」は藤岡市民で事件を継承しようと結成された。地元の「負の歴史」。関わった子孫たちも暮らしている。それでも「史実を語り継ぐことは市民の義務」だと事務局長の秋山博さん(70)はきっぱりいう。秋山さんは藤岡生まれだが、事件のことは詳しく知らずに育った。小学生の頃、父から聞かされた藤岡事件は「昔、朝鮮人が井戸に毒を入れて殺された」という、事実とはかけ離れたものだった。
8月に藤岡で開いた集会は満席で、関心の高さを物語っていた。次々に意見が飛びかい、新たな事実につながるような情報もあった。毎年、正月に成道寺の慰霊碑を参拝しているという人もいた。成道寺では、慰霊碑のほかに犠牲者の名を刻んだ位牌もあり、代々の住職は盆や彼岸など折々に供養を続けてきたという。
「市民の会」がいま目標にするのは事件の概要を記した銘板を現場に設置すること。実現のためには、立場を超えた多くの人たちとともに知恵を絞らねばならない。市主催の慰霊祭という高いハードルも見据える。本庄市、上里町(神保原)、熊谷市は毎年9月1日に自治体主催で追悼式を開いている。成道寺の今年の慰霊祭では塚本英夫企画部長が参列、「事件を教訓として正しく認識し、風化させずに後世に伝えていかなくてはならない」などとあいさつした。慰霊祭はもともと町の主催から始まっており、秋山さんたちは地道に働きかけていきたいという。
藤岡市は、事件の教訓を伝える貴重な公的文書を保有する稀有な自治体だ。「大正十二年 東京付近大震火災ニ関スル書類」。古ぼけた表紙に墨書きされたつづりが市教育委文化財保護課に市文化財として保管されている。全676ページ。当時の藤岡町が震災に関する文書をまとめたもので、藤岡事件関連のものも含まれる。自警団組織化を促した通達、死亡通知書、検視調書もある。「流言飛語に惑ワサレタル民衆が鮮人ニ対スル殺気漲リ群衆襲撃シテ死ニ至ラセルモノ也」などと状況を説明、殺害や傷の状況なども詳細に記している。松野博一官房長官は「事実関係を把握する資料は見当たらない」などと開き直っているが、これらの資料は確固たる事実を静かに訴える。この資料は半世紀近く前、奇跡的に焼却を免れたもの。旧町役場解体工事で処分される寸前、ある小学校教諭が発見し保管、その後、市職員に託されたという。
貴重というなら猪上さんの『藤岡での朝鮮人虐殺事件』は事件についてまとまった唯一の資料といっていい。前書きにはこんな一説がある。<いま日本人にとって最も必要なことは、近代化に向けて猛進した日本の過去百年の歴史を顧みることではないだろうか。その百年の前半五十年はアジア侵略の歴史であったと言っても過言ではないだろう。その侵略の思想的背景としてアジア、特に植民地化した朝鮮と朝鮮人への蔑視思想が強く存在した。藤岡事件はまさにそのもとにおける蛮行であった>。
刊行した95年当時、猪上さんらは戦時中の強制連行の実態を調査。過酷な労働を強いられ犠牲となった朝鮮人の追悼碑設置に向けて動き出す。2004年、県立公園「群馬の森」に「記憶 反省 そして友好」の碑が設置されたが、加害の歴史を消し去ろうという動きに追随するかのように、県は姿勢を転換、撤去方針を崩さない。ちなみに群馬の森は100年前、苛烈な流言が周囲で飛び交った「岩鼻火薬製造所」の跡地にある。藤岡事件の現場にも近い。
群馬で何人が命を奪われたのか。震災の2カ月後、在日本関東地方罹災朝鮮人同胞慰問班が「独立新聞」に発表した最終報告では、殺された朝鮮人は34人。地方出身の日本人が殺される事件も数件発生している。だが、詳しいことはほとんどわかっていない。9月の慰霊祭では終了後、車に分乗して九品寺(高崎市倉賀野)へ赴き「倉賀野事件」の犠牲者を悼んだ。100年前の9月4日、派出所に保護された朝鮮人男性が自警団に惨殺された。寺の墓地で日本刀でとどめを刺されたという。寺には小さな地蔵尊像が建つ。倉賀野の住民が供養してきたもので、2000年代に入り、存在が知られるようになった。
いまも埋もれた事実があっておかしくはない。なぜこの群馬で虐殺は起きたのか。被害者はどうなったか。気づいた一人ひとりが事実を掘り起こし、積み重ね、歴史の空白を埋めていくしかないと思う。
新聞うずみ火 2005年10月創刊。14年、第20回平和・協同ジャーナリスト基金賞(奨励賞)受賞。20年、第3回「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」大賞受賞。1部300円。年間購読料は300円×12カ月分で3600円。書店では販売しておらず、「ゆうメール」で送付している。ご購読希望の方は新聞うずみ火(電話 06・6375・5561、FAX 06・6292・8821 Email:uzumibi@lake.ocn.ne.jp ホームページはこちら) へ。
くりはら・けいこ
群馬の地方紙『上毛新聞』、元黒田ジャーナルを経て新聞うずみ火記者。単身乗り込んだ大阪で戦後補償問題の取材に明け暮れ、通天閣での「戦争展」に韓国から元「慰安婦」を招請。右翼からの攻撃も予想されたが、「僕が守ってやるからやりたいことをやれ」という黒田さんの一言が支えに。酒好き、沖縄好きも黒田さん譲り。著書として、『狙われた「集団自決」大江岩波裁判と住民の証言』(社会評論社)、共著として『震災と人間』『みんなの命 輝くために』など。
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