コラム/沖縄発
沖縄で生まれた私の自分探し
逆留学にて学ぶ私の沖縄
沖縄の基地を考える会・札幌 とぅなち(渡名喜) 隆子
私は沖縄で18年間生まれて育った。その後沖縄を離れて50年近くになる。県外での生活が長くなったせいか「半分ウチナーンチュ、半分ヤマトンチュ」と友人から言われた言葉がいつも自分の中にあった。
退職後の船旅で見た南アフリカ、南米の歴史が日本の中の沖縄と重なったことや友人に言われた言葉は沖縄人を意識する大きなきっかけになった。
しかし、自分には生活した時間の沖縄しか存在しない。それは振り返ると貴重な時代の沖縄だった。その時代と自分を結び知るために、沖縄復帰前本土へ渡った本土留学から、今度は本土から沖縄への逆留学で自分探しを行った。
私の育った沖縄
私は戦後米軍に統治された基地外で1950年に生まれた。
物心ついたときの世界は、家の前は1号線(現在は58号線)、1号線を超えた先はフェンスで区切られた米軍基地である。フェンスの中には戦前、私たち祖父母所有の家と畑があったという。
当時の我が家は基地ゲート前にあったので、基地で働く軍作業(当時はそのように呼んでいた)の人の往来、家の裏には田んぼ、サトウキビ畑、ウシモー(闘牛場)、沖縄の人対象の歓楽街(いずみ町)があり、米軍基地の外には普通の沖縄の生活があった。田んぼの中に小さな丘があり、くぼみには沖縄戦後の人骨らしきものがまだ残っていた。学校では不発弾へ注意喚起の事故写真が木造校舎の壁に貼られていたのをおぼろげに覚えている。
日本を意識したのは
中学の時、交換学生で初めて沖縄から大阪へと出たとき、沖縄と日本の違いを知った。
日本人の日本教育を受けている事に何の疑問もなかったが、本土への渡航にパスポートが必要、使用するお金もドルから円へと換金しなければならない。
あれ?なぜパスポートで本土へ行くのだろう、お金も私たちはなぜ米ドルを使うのだろ。
「なぜ」の思いは本土との違いを意識した。
大阪の中学校交流の時、「言葉は英語ですか」「食事はなにを食べていますか」の無邪気な質問に沖縄は日本ではないのだろうかと漠然と考えた。
日本のはずだが社会科の先生も熱く語っている日本国憲法とはなんだろう。米国との関係は何なのだろう。それから日本国憲法の平和・人権にあこがれを持つようになった。
高校生時代は本土復帰運動の大きなうねりの時代で、私たち高校生も社会運動に参加した。その頃は、軍作業労働問題、教員の社会運動への参加を阻止する教育2法、初めての主席(日本の知事)公選、嘉手納飛行場でのB52の爆発事故があり、私たちは「平和と人権のある日本国憲法」のある日本復帰運動へと動いていった。
日本へあこがれた部分の半面、学校、家庭では方言(琉球諸語を方言と表現)使用に対して「標準語励行」の教育、それは方言を使った人へ方言札という罰則教育(特に小学校時代)を受けた。方言を使うことで学力、表現力が落ちると、親や教師たちは子供にとって良かれとの教育で琉球語に劣等意識をしみこまれた。
大学3年生の時、日本復帰を迎え日本国籍になりパスポート、米ドルでの本土留学は終了した。
県外生活50年「半分ウチナーンチュ(沖縄人)、半分ヤマトンチュ(日本人)」
沖縄を離れた生活では、その時、その時の生活に関わった社会問題は意識していた。
そこでは沖縄出身のラベルはあったが、「沖縄」と自分は繋げていなかった。逆に米国文化に影響された観光としての沖縄を前面に話していた。
そんな私に、友人から「県外生活が長くなったせいか半分ウチナーンチュ、半分ヤマトンチュになったね」と指摘された言葉に戸惑った。しかし、その言葉は自分の内にあるウチナーンチュウを見つめるきっかけになる。
沖縄は植民地だった
仕事を退職した後、念願だった南半球の船旅に参加した。
南アフリカ、南米の自然の壮大さは感動的だったが、未だ続く負の歴史、宗主国の利権のために侵されている環境、自然そして何よりも奪われた言語・文化を感じた。
その国の先住民の生活は沖縄と重ねて見えたが、目を逸らし認めたくない自分があった。
非人間的な差別、環境汚染、貧富の差、奪われた言葉の情景は目を逸らしている沖縄にもある、もしかして、やっぱり沖縄は植民地だ。でもそれは認めたくなかった。
下船後、沖縄に戻った時、当時の現職知事が選挙公約を反故にして「辺野古新基地工事を承認」、「いい正月ができる」の発言に沖縄は大きな力に巻き込まれた傘下でしか生きられないのだろうかと「植民地」を意識する。普天間飛行場が世界一危険なので辺野古に新基地をつくる。なぜ、危険なものをまた県内に移設、しかも多様な希少生物が生息する自然の海を埋め立て、破壊して造ることを日本国は進めるのだろうか。復帰して41年たっても沖縄はまだ、日本の中での米軍基地の島でしかなかった。
元知事の発言以来、島ぐるみ会議辺野古行きバスに頻繁に乗るようにした。バスの中で戦争体験の年配の人が悲惨な沖縄戦の体験、戦争につながる米軍基地の不平等な過重負担を訴えたあとに「県外の皆さん!日米安保が必要なら米軍基地を持って帰ってください」の言葉は衝撃だった。
沖縄に米軍基地が不平等に集中している憤りに共感できるが、県外での生活が長くなった私は彼女たちの訴えに立ち止まった。18歳までいつもそばにあった米軍基地のフェンス、空の騒音の生活から、今はその存在のない日常生活が当たり前のため、辺野古新基地阻止への行動はウチナーンチュでもない、当事者意識のない正義への参加になっていたかもしれない。
祖父母、親は戦争前後の生きた体験を深く話さなかった。私も聞くことも考える事もなく自分の五感で沖縄にいた。旅で記憶をよみがえった沖縄の「なぜ」、目を逸らした沖縄の植民地への自分の紐を解くため、復帰前に行った本土留学を今度は、本土から沖縄への逆留学を考える。
沖縄国際大学への逆留学
色々な情報で沖縄国際大学へ聴講生として申し込む。
聴講生は、講義は自由選択(指定科目から選択)、テスト留年がないのが高齢で学ぶには気持ちが楽だった。さらに、沖縄国際大学には沖縄を多面的に学ぶ講座が多くあった。学校の正面の石碑に「真の自由と自治の確立」と書かれた建学精神はまさに沖縄への私の気持ちと重なる。
島嶼経済、沖縄の経済、民俗学、沖縄戦史、沖縄の社会、沖縄の基地についての研究的な名前のついた学科を聴講したが、漠然と生活していた中での、軍票B円、ドル、円、言葉、生活改善運動から、なにが問題で、その問題が歴史の中でどのように私たちを翻弄していたか、自分の中で視覚化された。大学での学びは自分の中にある「なぜ」に繋がっていく。
アフリカ、南米で感じた植民地化がどのような形でまだ影響を及ぼしているのか、自分の体験とも重なって見えてくる。
難解で今でも理解しているといえないが講義で学んだフランツ・ファノン著の「黒い皮膚・白い仮面」、野村浩也著「無意識の植民地主義」はまさに閉じ込めていた自分の姿をみた。
言葉と文化の否定、日本人になりたいと思っている自分、刷り込まれた同化もあった。同時に「沖縄戦史」の講義でも言葉・文化を否定、名前の本土化への改名、琉球・沖縄を否定していた皇民教育、同化教育があの悲惨な戦争へとつながった事を学んだ。きっと祖父母、父母たちは琉球併合からの長い歴史の中で、琉球民族は劣等と烙印され刷り込まれた世代を生きてきた。琉球・沖縄人の負い目を無意識に私たちに伝えていたのだろう。認めたくない「沖縄は植民地」はグギ・ワ・ジオンゴの「植民者は植民地に銃を持ってきた後に黒板を持ってきた」武力で制覇し、その後教育で精神の植民地化を行う。まさに沖縄の歴史だった。
ウチナーンチュと堂々と言える様になるまで長い時間がかかったが、逆留学で琉球・沖縄を学んだ事で、刷り込まれた思いから解放された。
逆留学で学んだ琉球・沖縄にはつらい歴史もあったが精神的な自由でたくましい明るい文化もあった。私は沖縄で生まれて沖縄の匂い、生活文化の中で育ったことに誇りをもった。琉球語を学び、名前を旧姓とぅなち(昔は渡名喜と通常はよばれていた)に戻した。
残念ながら琉球語はまだ聞くこと、読むことはできてもまだ、話すことはできない。
言葉を取り返すまでの私は「半分ウチナーンチュ・半分ヤマトンチュ」のままだが、昔の自分の意識ではない。
札幌に戻り、沖縄に「なぜ米軍基地が集中しているのか」を歴史を知り、考えてもらうため沖縄の基地を考える会を立ち上げた。市民講座への参加、学習会、スタンディングと行動を起こすが、植民地、差別の当事者意識を伝えることはリベラルの人でも壁がある。
琉球民政部長の要請により、米人視点で作成した概観琉球史・ジョージ・H・カー著「琉球の歴史」は研究の結果、諸記録から「日本内地の人々が即座に琉球の人々を日本人として受け入れようとする気持ちよりも、琉球の人々が日本人として認められ、受け入れてもらいたい気持ちのほうがはるかに強いことを知った。―中略―しかし日本にとって琉球は単に軍事的な前線基地として、あるいは中国と争ってわがものにしたために19世紀日本の「顔」が立ったことになった一種の植民地としてのみ、重要性があった。日本の政府はあらゆる方法をもって琉球を利用するが、琉球の人々のために犠牲は好まないのである。」と1953年(1956年発行)に書かれた。いまだ植民地化が続いている現状だ。(発行者:琉球列島米国民政府)
辺野古島バスで出会った年配の人の訴えた言葉にウチナーンチュウとして応答し、札幌で「なぜ沖縄に基地が存在するのか・・」「あなたが加害者」を訴えていく。
とぅなち・たかこ
1950年沖縄浦添村(現在の沖縄県浦添市)キャンプキンザー牧港ゲート前にて生まれる。1969年パスポート、米ドルにて東京の学校へ留学、1972年日本国民となる。2018年「沖縄の基地を考える会・札幌」を立ち上げる。
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