特集 ● 混濁の状況を見る視角

病める連合への“最後”の提言

戦争に反対し、労働の尊厳を回復する自由で平等な社会の実現には、労働戦線の再統一をも射程に入れた大胆な戦略転換が必要だ

労働運動アナリスト 早川 行雄

1.芳野会長留任という茶番

連合は去る10月5日・6日に開催された第18回定期大会で、低俗な反共主義で野党共闘を妨害する一方で、露骨に自民党に擦り寄る御用幹部丸出しの姿勢が世の顰蹙を買い、春闘はもとよりあらゆる分野で運動を後退させ何の成果も残せなかった芳野会長の留任を正式に機関決定した。幸か不幸か、この決定を意外に思う者は誰もいないのだが、大会来賓の政府代表に、米日軍事同盟強化に向けた軍事費拡大財源として大衆増税による貧困化と格差拡大をためらわず推し進める岸田首相を指名してエールを交換した連合という組織には羞恥心や自浄能力があるのかと疑わざるを得ない事態ではある。

芳野会長続投を各産別が容認せざるを得ない事情は、一昨年の役員選考に際して、野党の大きな固まりを形成して政権交代を目指すという従来路線を踏襲する相原事務局長(当時)へのバトンタッチが、相原の出身産別(労組)を含め、産業政策で国策に依存し政権交代に否定的な民間大手産別によって阻止されたことから生じている。この状況でどの産別も連合会長を引き受けることを躊躇して役選は混迷を極め、その挙句にどの産別も責任を持たない女性枠の副会長であった反共右派の芳野が担ぎ出される結果となった。

芳野会長は就任早々、当時間近に迫っていた第49回衆議院選挙に介入し、共産党との選挙協力はありえないなどの反共演説、政党への牽制、野党共闘への干渉など政権交代を妨害し自民党を利する行為を繰り返した。これは明らかに連合の第49回衆議院選挙の基本方針(2020年第12回中執決定)で確認された「同党(共産党)との選挙区調整は、あくまで、選挙戦術上の事柄として政党間で協議・決定されるものであり、連合が関知するものではない」との方針を逸脱する暴挙であったが、政権交代を望まない諸産別の意向に沿った対応で、政府自民党をほくそ笑ました。

芳野会長が自民党に手玉に取られ周囲もそれを容認してしまったことから、連合の政治ポジションが急激に低下した事実は確認しておく必要があろう。例えば2017年の高度プロフェッショナル制度創設に関わるいわゆる「残業代ゼロ法案」を政府と連合三役のボス交で一部修正して成立させようとの動きがあった。大衆運動を勝手に見限った裏取引だったが、それでも連合は政府から交渉相手であるとは見做されていたわけだ。しかもこの時は構成産別や地方連合から異論が噴出して裏合意を撤回させるという健全化バネも機能した。それが芳野体制では政府から自家薬籠中の物とみなされ、軍拡であれ原発回帰であれ何の歯止めにもならない体たらくで、健全化バネも伸びきっている。

2.協調性インサイダー依存症候群

2年が経過した現在も連合内の産別事情に大きな変化はない。すでに昨年5月段階において芳野会長の出身産別幹部は「芳野の言っていることはうちの考え方と違うが、芳野を支えるという産別もあるので簡単にはいかない」「最近ではうちよりもそちらの産別と接触する機会の方が多いようだ」と語っており、今期の役員選考に際しても、これら政権交代を望まない諸産別の隠然たる後押しで芳野続投が仕組まれたのであろう。異論を唱えるには自産別で会長を引き受ける覚悟が必要だが、芳野会長に批判的な産別も完全に腰が引けており、鼻をつまみながら芳野会長と共存(心中?)するつもりのようだ。誠に由々しき事態と言うべきだが、連合に巣食う最大の宿痾は実は別のところにある。連合政治方針に関しては、政党との関係や選挙闘争については各産別や地方連合に任せて、中央本部は政策・制度闘争に特化した方がよいとの考え方もあり得るからである。

高木郁朗もそのように連合に提案していたが、高木の提案には明確な前提があった。かつて高木は朝日新聞のインタビュー(2021年11月)に応えて「連合があまりにも政府と協調路線を取りながら政策実現をめざしてきた。いわゆる『インサイダー化』が問題だったと思います。労働者よりも霞が関の方を向き、厚生労働省の審議会に出てくる資料を尊重している。やっぱり労働者の現実を直視して大衆運動を組織する側面もないと、何かを大きく推進できません」と述べている。ナショナルセンター連合が政策・制度闘争に特化するとしても、大衆運動の組織的圧力をもってしなければ前進を勝ち取ることはできないとの指摘だ。高木は同インタビューの中で春闘についても「政府が『2%の賃上げ』と言って協調するだけなら、労組はいらなくなります。連合がリーダーシップをとっていかないといけません」と厳しい注文を付けている。

ここに連合の最大の宿痾が存するのだが、仮にこれを協調性インサイダー依存症候群と呼ぶとしよう。その症状は例えば芳野会長の自民党擦り寄りに対して、ひとりちやほやされ舞い上がって政争の具として政治利用されるなとは忠告できても、従来のインサイダー的ボス交体質への反省がないため実効性ある制止ができないという事態に端的に現れている。批判する側もされる側も五十歩百歩では、芳野がいままでの対応と変わらないと嘯くのにも、盗人には及ばないものの一分程度の理はあるとも言える。

高木郁朗は遺稿となった「「新しい資本主義」のもとでの春闘総括はどうあるべきか」において「自民党の幹部や企業経営者と会食して、内意を通じ合っておくというやり方が、日本を国際的に二流国にしてしまったのだという、自覚をもつ労働組合幹部はけっして少なくないと思う」と書き遺したが、この切ない期待は空しく宙に浮いている。朝日新聞が社説「連合の自民接近 働く人の利益になるか」(2022.3.26)で「経団連など経営者側との結びつきの深い自民の懐に入ることで、労働運動の実をあげることが本当にできるのか。すべての働く人の権利と暮らしを守るという原点を見失ってはいけない」と書いたのは、単に芳野会長の素行ばかりではなく連合の年来の宿痾に対する苦言として受け止めるべきなのである。

すでに深刻な症状を呈している協調性インサイダー依存症候群は連合が結成以来抱え続けてきた持病のようなものでもある。今世紀に入るころには連合に対する外部からの批判や注文も多く寄せられ、運動上の問題点が顕在化してきた。こうした下で連合は2002年に外部有識者による連合評価委員会(中坊委員会)を設置して病状の診断と処方箋を依頼した。2003年に出された最終報告では外部から見た連合の状態を「労働組合が雇用の安定している労働者や大企業で働く男性正社員の利益のみを代弁しているようにも思えるし、労使協調路線のなかにどっぷりと浸かっていて、緊張感が足りないとも感じられる。不平等・格差の拡大という不条理に対する怒りがあまり感じられず、組合自体にエゴが根付き、女性や若者などのために役割を果たしているとは思えない状態にある。労働組合運動が国民の共感を呼ぶ運動になっているのか」と大変厳しく診立てている。

この現状認識に立って評価委員会は5項目の改革の課題・目標を提示した。中でも「働く者の意識改革を―自らの本質を問い直す」および「企業別組合主義から脱却し、すべての働く者が結集できる新組織戦略を」の2項は連合の人と組織という主体的な条件についての指摘であり本稿とも関りが深い。最終報告では明示的に語られてはいないが、働く者(より端的に言えば労働組合幹部)の意識と企業別組合主義は深く結びついており、もともと過度に協調的企業別組合による企業従属的な労使関係の下で、始めに会社への帰属意識ありきの名ばかり組合役員が民間大手企業の主流をなしていることこそが労働運動衰退の根因なのである。

そうした民間大手を中心とする企業別組合の集合体である連合にも負の連鎖はたちどころに広がった。因みに芳野現会長は23春闘における日本経団連十倉会長とのトップ会談を受けて「これほど目指す方向等について、連合と経団連が一致したことは珍しい」と評価し、労使癒着体質に染まった典型的御用幹部の素性を露わにした。会長が管理春闘の共犯では連合春闘で実質賃金の上る道理がない(本誌第35号所収の拙稿「連合芳野会長の春季生活闘争」参照)。

3.溶解する労使関係

石田光男は連合評価委員会の最終報告が出たのと同じ2003年に上梓された『仕事の社会科学』の中(第6章 労働組合)で、「日本の労働組合は、その社会的存在意義が不明瞭になりその役割が深刻に問われている」と警鐘を鳴らしている。石田は「労働力を個別にではなく「集団的」に「販売している」主体があればそれは労働組合である」と定義している。集団的にという概念には当然に労働力の供給独占が含意されている。その上で、労働組合の政策文書に現れた思想は「従業員個々人の個性の尊重」など、経営側の主張する個々人の成果に応じた処遇をという考え方を共有しており、「個性的」で「自立した」個人には高給とやりがいのある仕事をということで労使は全く一致していると指摘している。労働者の個別分断を容認し、やりがい搾取の共犯関係にあるということだ。

また石田はこうした処遇=評価問題について労働組合の文書は、「公平」で「客観的」な基準をと言うに止まり、肝心の個々の事項についての労使の考え方は全く選ぶところがないため、日本では労資関係が溶解していると慨嘆している。そして労働組合までが個人主義的価値観を政策の前提とすることで限りなく無力化してしまった結果、例えば「私には人に自慢できる個性も、ましてや独創性もない。それでも周りの迷惑にならないようまじめに仕事はしたい」という平均的庶民は浮かばれるのだろうかとの気遣いを示す。石田の平均的庶民への思いは、アルフレッド・マーシャルの「高尚なものにせよ低級なものにせよ、強烈な野望といったものをもたない普通の人間にとっては、ほどよく、またかなり持続的な仕事をもってほどよい所得を得ることこそが、真の幸福をもたらすような、肉体・知性および特性の習慣をつちかう最善の機会を与えてくれるのだ」(『経済学原理』第3編第6章)という認識ともつながるものだろう。

平均的庶民=普通の人間に対するこの気遣いは労働組合にとっても欠かすことのできない活動原則のひとつであるばかりではなく、人間社会の基礎的な構成原理でもある。集団の中における個人が、解放された自由時間に費やす私的営みこそが相互に尊重すべき個性であり、賃労働と資本の関係に従属しながら他者から抜きん出て異彩を放つことは比較優位性の顕示にすぎず個性ではないのだから。

石田はこうした労使関係の在り様を、日本の産業社会の生産力はノンユニオン状況の普遍性によって担保され、集団的取引を原理とした現代資本主義を突き抜けてしまった地点に立っているとも評するが、日本の労使関係の特異性を規定しているのは石田が「細部の分類学がここでの主たる問題ではない」として捨象した労働組合という「集団」の範囲にこそあるのではないか。

1935年に制定された米国の全国労働関係法(ワグナー法)において、企業内組合を使用者の不当労働行為として禁止することで産業別労働組合の交渉力を補完したという歴史的事実からも明らかなように、孤立した企業別組合の労使は対等ではない。それに関連して言えば、連合評価委員会報告は、企業や事業所単位の労働者組織それ自体を否定するというより、企業横断的な産業別労働組合の機能強化を提起したものと解すべきだろう。

労使関係の溶解も労働組合の無力化も、会社という統治機構に従属した企業別組合という組織形態の下で精神の自立を確立できずに経営者と同じ価値観に取り込まれた組合幹部がもたらした帰結である。そこでは中小下請け、社外工・臨時工・季節工、派遣・(偽装)請負などの外縁部労働者が置き去りにされ、経済の二重構造が複製・増幅されて労働市場の二重構造にも反映されてゆく。本工組合のこの分断構造への対応は口先だけで実態としてはなす術がない。

労働力の供給独占を基盤に集団的労使関係において働く者全体の利益を代表するのではなく、労働力の使用条件に関して資本の側の価値観を受け入れ、あまつさえその管理の代行まで行う。ここにみられるのは賃労働と資本の関係への無理解ないしは資本の立場による捉え方への迎合である。賃労働と資本という集団的労使関係の裡に個人主義的価値観が持ち込まれることにより、労働組合という労働者集団に属する諸個人の尊厳が、資本の軛の下で不当に侵害されている。

4.クソったれ資本主義の自家中毒

上村達男は『会社法は誰のためにあるのか』(2021)において、「会社は株主のもの」「株主主権」「株主価値最大化」といった株式会社法の通説が、人間の匂いがせずカネの匂いしかしない主体(法人)による人間支配を容認し、歴史的に形成されてきた自然人の世界とは異質の人間疎外を拡大する世界が展開されていると批判する異色の商法学者である。上村は法人による人間疎外の克服に向けた株式会社制度のあるべき基礎理論として、「経済法規としての資本市場法の確立と株式会社法理との不即不離の関係性を意識的に明らかにし、中間市民層を主役とする両者一体の株式会社法理の必然性」(ここで言う「中間市民層」はその根底に「平均的庶民」や「普通の人間」とも共通した人間観を有する概念と考えられる)を強調しつつ、本書のサブタイトルともなっている「人間復興の会社法理」を提唱している。

上村の描く自然人としての人間(中間市民層)を主役とした株式会社法の核心は、「株主の属性に人間を見出す観点と、それを踏まえた議決権の意義の再評価」である。そこで思い起こされるのは、ヤニス・バルファキスが『クソったれ資本主義が倒れたあとの、もう一つの世界』(2021)というSF経済小説の中で描いて見せたパラレル世界の経済社会である。資本主義が崩壊した後のパラレル世界には法人が支配する私的大企業も投資銀行も、そして何より「うちの会社には上司がいない」と語られるように、賃労働と資本の関係を軸とした労使関係が存在しない。企業への参加者は全員が1人1株1票の議決権を行使して企業戦略の決定に参加する。それにより所得の不平等を劇的に是正すると同時に長期の集団的利益につながる意思決定が下せる。正に上村における「人間復興の会社法理」の究極的姿であろう。

その上村は原丈人との対談(「公益資本主義とはなにか」世界2023年6月号)において人的資本経営やジョブ型雇用の日本的展開について次のように批判している。

「(株式)公開企業について、経産省主導による「人的資本経営」が盛んに言われています。人間を資本という「財」とみなして企業価値の向上につなげようというものですが(中略)企業価値とは株主価値最大化であるという誤った発想への反省なしに、人間への投資を企業価値向上のためというのは非常に問題です」と述べ、原が「岸田政権も「人的資本は人への投資」と言っていますけれども、リスキリングでジョブ型に変えると、日本はひどい国になるでしょう」と応じたことを受け「ジョブ型というのは、人間の機能・能力の一部を切り取って雇用しようというもので、人間を人格ある存在として見ていないのですね。派遣社員の延長がジョブ型で、人間の機能の一部を切り取って売買の対象にする臓器売買の発想に近い。ジョブ型、人的資本経営とそろったら、その会社はもうダメですね」と手厳しい。

日経連の「能力主義管理」(1969)から今日の「人的資本経営」に至る個別分断型労務管理は、いかに美辞麗句を並べても、その意図するところは労働条件の引き下げという底辺への競争によってライバルに打ち勝とうとする邪道の経営施策であり、働く者の尊厳を奪い続けてきた。一方で企業別組合の幹部は経営者と同じ個人主義的価値観に染まり人的資本経営に同化されることで影響力を喪失してきた。労働組合というカウンターパワーの不在は営利企業の制約なき強欲な利潤追求を許して、社会の持続可能性、延いては企業自体の存続をも不可能ならしめる重篤な自家中毒を引き起こしている。

5.戦争への道を止める労働戦線再統一

日本的経営や日本的労使関係の来し方についての評価は異なる論者とも、その今日的形態である人的資本経営については時として認識がほぼ一致することもあるようだ。それは高木郁朗が「日本を国際的な二流国にしてしまった」要因として槍玉に挙げた現在の日本的労使の体質は、実態に即して偏見なく判断する限りにおいて衆目の一致するところともなっていることを意味しよう。

上に見た病理メカニズムを通して進行した労組の協調性インサイダー依存症候群は、慢性疾患でもあり自覚症状は希薄かも知れないが、すでに病膏肓に入る末期症状を呈している。歴史的に今日の労組実体と類似しているものに大正デモクラシーのなかで展開された労働運動が頓挫した後、労働三権を否定したまま労使懇談によって利害対立の解決を図る機関として任意に設置された工場委員会がある。この組織は産業民主主義から家産制的企業家族主義への後退を示すものだが、時局が戦時へと流動する中で産業報国会という新たな組織に再編成されてゆく。今日の軍事大国化、経済の軍需依存強化という流れの中で、連合もまた工場委員会の轍を踏むのではないかとの大いなる懸念が持たれる。

この病巣を剔抉することなくして連合運動の再生はあり得ないが、米国に目を転じれば、チームスターズ(全米トラック運転手組合)傘下のUPS(ユナイテッド・パーセル・サービス)労組は8月1日から2週間のストを構え、会社から大幅な譲歩を勝ち取って妥結した。またUAW(全米自動車労組)は初めてGM、フォード、ステランティス(フィアット・クライスラーとプジョーの合弁企業)3社に対する一斉ストを敢行し、本稿執筆時点でも闘争を継続している。米国労働運動のこうした前進は、各産業別組合において、労使協調と汚職で腐敗した御用幹部に代わり改革派グループ(コーカス)が執行部を奪取したことで実現した。

一貫して管理春闘に屈服し、敵前逃亡・闘争放棄を続けてきた日本の労働運動は世界の労働運動の弱い環でありその足を引っ張り続けてきたが、賃金・労働条件の劣化という社会的ダンピングで公正な国際競争を阻害してきた日本企業が結果的に著しく衰退し、却って競争力を喪失した結果、国際労働運動の重石が外れて今日の労働攻勢が発現しているという側面も見ておかねばならない。

日本の労働運動にも改革が必要だが、それにはまず幹部の意識改革と、それを可能にする条件整備が必要だろう。賃金、労働時間など基本的労働条件については産別の関与しない勝手な企業内協定を原則禁止するとか、本籍を企業に置いて今流行りの副業気分で産別役員に就くことの禁止などは、本来なら最低限必要な条件である。すべての働く者の尊厳を守るため、労働運動に骨を埋める意思も能力もない副業幹部は、せめて速やかに労働運動から身を引く潔さを示すべきである。

労働の尊厳に思いを致し(本誌第33号所収の拙稿「新自由主義的な人への投資から、労働の尊厳回復への転換が急務」参照)危機感をもって戦争への道を遮断し、公共の福祉を基盤とした自由で平等な社会を実現する労働組合の役割は、連合、全労連、全労協、上部団体を持たない多くの労働組合・活動家を結集した広範な統一戦線(共闘組織)を実現してゆくことだ。最終的にはそれらの人と組織を糾合する労働戦線の再統一(再々編)をも視野に入れた大胆な戦略を打ち立て、溶解した集団的労使関係を企業横断的な産業別労働運動を通して再構築し、その力を闘うナショナルセンターに結集してゆくことである。

なお本稿では企業別組合に基礎を置いた日本労働運動の宿痾についていくつかの診断を行った上で、労働組合のあるべき姿についてはイメージの提示に留まっている。労働組合の運動や組織のあるべき姿を実現する具体的な戦略や方針は、今後の活動家諸氏との切磋琢磨に俟たねばならない。福田歓一は『政治学史』(終章)において「(マルクスの社会主義は)その未来のイメージは開かれたままであって、具体的な内容が示されているわけではない。まさにそれ故に巨大な運動のエネルギーを動員することができたのであって、その強烈なアピールは、具体的な未来像の比ではないのである」と看破したが、いまの筆者はそうした先人の顰に倣いたいと思うのみである。

本稿のタイトルは「病める連合への最後の提言」としたが、最後の提言とは芳野会長続投を決め、連合は死と再生の分岐点を超えて腐朽化の最終局面に至ったとの認識によるものではあるが、今後とも情勢の要請に応じて見解を明らかにしていく必要がなくなるわけではない。従って本稿は連合への最後の提言「その1」とするのがより正確であろう。

はやかわ・ゆきお

1954年兵庫県生まれ。成蹊大学法学部卒。日産自動車調査部、総評全国金属日産自動車支部(旧プリンス自工支部)書記長、JAM副書記長、連合総研主任研究員、日本退職者連合副事務局長などを経て現在、労働運動アナリスト・日本労働ペンクラブ会員・Labor Now運営委員。著書『人間を幸福にしない資本主義 ポスト働き方改革』(旬報社 2019)。

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