特集 ● 混濁の状況を見る視角
福田村事件はなぜ起こったのか
関東大震災時 ── 朝鮮人だということにすればお国のため
筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹
1.映画『福田村事件』
ひとつの事件の本質を表現する場合、複数の表し方がありうる。それは、その事件から何を学び、歴史的教訓としてどのように生かしたいかの視点の相違による。
森達也監督、佐伯俊道・井上純一・荒井晴彦脚本の劇映画『福田村事件』が話題になっている。脚本家の名をあげたのは、この映画の製作の内幕について、わたしは詳しくはないが、二度映画館に足を運んだ印象としては、監督だけではなく脚本家の考え方も作品に大きく影響しているように感じられたからだ。
森監督は事件100周年直前のNHK「クローズアップ現代『集団の“狂気”なぜ』」(8月30日)に出演して、この作品がフィクションであることを強調した。また「『A』『A2』から『福田村事件』へ」(辻野弥生『福田村事件』所収)では、「そもそも表現であるかぎりは、純粋なノンフィクションなどありえないわけで、その意味では文章も映像も、すべてはフィクションです」と述べている。いくつかの資料を読み、現地フィールドワークを繰りかえしたわたしからすれば、映画と事実が異なる点を指摘するときりがないのだが、それは作家の権利として保障されなければならない。
ただ、福田村事件追悼慰霊碑保存会代表の市川正廣が「映画は影響力が大きいですから、正しい史実と映画のフィクションの部分を分けるべきですね。今回の映画はそこがかなり不鮮明です。観客の大部分の人達は『福田村事件』のことを知らない人たちですよ。となると、映画を見て、『福田村事件』はこういうものだったのかと思う。映画で発するグレーの部分をはっきりさせてもらいたいのです。……とにかく一番心配しているのは、この映画がそのまま史実の定説になっていくことです」(映画『福田村事件』公式パンフレット「対談」市川正廣×佐伯俊道)と述べているのは、わたしもまったく同じ気持ちだが、それは映画作家ではなく、歴史家に向けるべきことばだろう。
わたしたちはすでに、坂本竜馬について司馬遼太郎がフィクションとして描いたことが史実として扱われることがあまりにも多いという苦い体験を持っている。なんとかせねばという思いは、すべての歴史家に共通すると思われるのだが、歴史家の総力をあげても司馬遼太郎にはかなわないという現実がある。中高生たちの負担を減らすために、教科書から省く歴史上の人物の候補の一人として文科省が坂本竜馬をあげたときに、国民からの反発は激しかった。
問題は、ひとつの事件をフィクションとして描いたときに、本質を描けたかという点にある。また、作家が伝えようとした、作家が考える本質が、異なって伝わる場合もある。
2.福田村事件とは
福田村事件の概要を述べておこう。1923年3月、香川県の被差別部落を出発した売薬行商人15人の一行は、群馬県を経て千葉県東葛郡野田町にいたり、木賃宿を拠点に周辺で行商を行なっているときに、9月1日の関東大震災に遭遇した。数日後、在郷軍人会、消防組、青年団などによって、近隣で自警団が組織されている。6日、宿の主人が宿賃はいいから、もう少し静まるのを待ったらととめたにもかかわらず、一行は利根川の「家康がまんの渡し」から対岸の現守谷市に渡ろうと、福田村(現野田市の最南端)の船着き場に着いた。利根川と鬼怒川の合流点の近くである。
一行の支配人は、渡し船の船頭に渡し方や船賃について交渉するが、多くの荷物を積んだ大八車があり、何回に分けて渡るかなどについて、話がまとまらない。やがて船頭が「どうもお前たちの言葉づかいが日本人でないように思うが、朝鮮人とちがうのか」と言いだし、寺の梵鐘を撞き、自警団が日本刀、竹槍、猟銃などを持って「ウンカのように」集まってきた。当時13歳の被害者の少年には2000人にも見えたほど大勢だったという。
15人の内、6名は神社の鳥居付近で休んでおり、9名は近くの茶店にいた。6名の内訳は男性4名(21歳2名、13歳、1歳)、女性2名(20歳、年齢不明1名)、9名の内訳は男性6名(29歳2名、24歳、18歳、6歳、2歳)、女性3名(26歳、23歳、4歳)で、23歳の女性は出産間近であった。集まった群衆は「朝鮮人に違いない、殺せ」と口々に叫んだ。29歳の支配人が香川県知事の発行した行商人の鑑札を示したために、生き残った当時13歳の元少年の証言によると「土地の駐在さんが『本官は日本人と見なす』と言ってくれました。青年団の団長は『全員が日本人だ』と証言してくれました。ところが駐在さんがいくら日本人であると証言しても、『日本人やったら……野田署の判断を求めたうえで皆さんに納得してもらうべきだ』ということになり、駐在さんは……野田署に行った訳です。」
この元少年は、「上層部の方は『日本人だ』と証言してくれるんです。青年団の団長とか消防団の分団長とか村長さんとか駐在さんとか全員が『こういう方言を使うんだ』と言ってくれたのですけど、野次が多かった。『こいつらは朝鮮人に間違いない』『殺ってしまえ、殺ってしまえ』と、来る人来る人が確認もしないで『朝鮮人だ、殺ってしまえ、殺ってしまえ』というものばかりでした。」と、地元の有力者たちが群衆の興奮を抑えようとしていたことを強調している。
その頃には南隣の田中村(現柏市の北端)自警団も連絡を受けて到着していた。その後に起こった惨劇については、元少年のリアルな証言(1986年、石井雍大元香川県歴史教育者協議会会長らによる聞き取り)が前掲辻野弥生『福田村事件』に再録されているので参照されたい。
野田署から駆けつけようとした警察幹部は途中でオートバイが故障し、馬に乗り換えて到着したが、すでに茶店にいた9人は惨殺され、利根川に流されて、後の6人も殺される寸前だった。
事件後、8人だけが逮捕された。東京地裁の判決は控訴審で減刑され、1924年、7人に懲役10年から3年の刑がいいわたされた。ただし2年後、天皇代替わりの恩赦で全員が釈放されている。
3.「朝鮮人と間違えて殺した」のではない
「福田村事件」といえば、「朝鮮人と間違えられて日本人(被差別部落民)が殺された事件」という決まり文句がついてまわってきた。しかし、それは適切なのであろうか。元少年が強調しているように、地元の有力者たちは、15人が日本人であると必死で群衆を説得した。「朝鮮人と間違えて殺したのだ」というのは、被告たちが自分たちの行為を正当化し、刑を軽くするための言い訳にすぎなかったのではないか。
新聞記事によると、公判で被告たちは惨殺の模様を得意げに証言し、「『私は実際相手を斬ったにもかかわらず、予審で3回も否認したのは、摂政宮殿下には玄米を召し上がられている際、不逞鮮人のために国家はどうなることかと憂れへの余りやったような次第ですが、監獄に入れられたので癪にさわったから、事実を否認したのです」と演説口調で声をふるわせながら申し立てた』とある。国家のために朝鮮人を殺して何が悪い、監獄に入れるのがおかしいと、「演説口調で」、すなわち堂々と主張しているのである。
わたしはかねてから、「朝鮮人と間違えて殺した」というのは、被告たちの目論見に乗ってしまっているのではないかと考えてきた。これは前出の市川正廣による少数意見だったのだが、管見の限り、活字になったものはなかった。しかし『部落解放』2023年9月号を見て、先を越されたと驚いた。藤田正「複合差別による虐殺『福田村事件』の真相―『朝鮮人誤認説』はなぜ流布されたのか」が掲載されたのである。
この論説は市川正廣の意見を紹介したうえで、『東京日日新聞』(1923年11月2日)の記事を紹介している。見出しは「鮮人殺しの被告には 極く軽い刑を 求める方針である 山下検事正の同情」、記事本文は「予審調書に見るも全部の被告が悪意があった筈ではなく ただもう流言蜚語におびやかされていはば無我夢中にやったらしいことは明らかであるから 一般人は余り重刑にはなるまいと見ているが刑の量定について山下検事正は 被告に同情した口吻裡に語る。『今回の事件は御承知の通り 東京横浜等の震火災に乗じて不逞鮮人が残虐行為をなし 遂には県内にも来襲してくるといふので 自警団を組織し警戒中起こったことで その間何等悪意はないのであるから 無罪にしてやりたいがしかし法を曲げる事は出来ないので 状を酌量して極く軽い刑を求める方針である』」とある。関東大震災に際しての虐殺で起訴されたのは367名にのぼるが刑は起訴猶予もふくめて軽いものが多かった。田中村自警団が到着する前にすでに8名が殺害されていたのだが、田中村自警団の被告の方が比較的重かったのは、村境を越えて出動したために「村を守るためではない」と判断されたのではないか。
朝鮮人を殺しても罪ではない、日本人を朝鮮人と間違えたことに悪意はないという論理を検事正が堂々と新聞に発表しているのであるから、被告にとってこれほど力強いことはないだろう。朝鮮人誤認説には、「朝鮮人と間違えたのだから少しはしょうがない面もあるよね」という差別的な見方が隠れていることを自覚しなくてはならない。
4.「朝鮮人だということにして殺したい」
映画での虐殺に至る経過は、元少年の証言とは異なっている場面もあるが、現場の雰囲気は元少年の回想とほぼ重なっている。わたしには、自警団の人びとは、朝鮮人ではなくとも、朝鮮人だということにして殺すことがお国のためだ、とにかく殺したいというように見えた。関西と関東のことばのちがいも引き金になっていることは事実だろう。東西の言葉の壁は、現代の関東人が考える以上に深い。わたしは兵庫県生まれであるが、1970年ごろの千葉県成田の農民同士の会話は、100%理解できなかった。
事件の地元では、行商人差別があったか、なかったかという議論もある。当時の警察による防犯ポスターには、「不正行商人に用心せよ」とある。一方で、常磐線や東武線には行商人専用車両が戦後まで連結されており、行商人は地域社会の風景に溶け込んでいたという見方もある。富山の薬売りは毎年来ているから顔を覚えられているけれども、全国で2番目に多かった香川県の売薬行商人はやはりよそ者だったのではないか。加害者たちが被害者たちを被差別部落民と認識していたかどうかについては結論は出ていない。利根川流域は小規模被差別部落が多数存在し、人口は少ないが密集度としては全国でも高い方である。加害者側が認識していなくても、被差別部落民が被害を受けた事件であるから、朝田テーゼを持ち出すまでもなく、差別構造のなかでの部落差別事件であることは確かである。福田村事件は、最近よくいわれる複合差別である。
なぜ彼らは朝鮮人を殺したかったのか。上映開始以前の宣伝チラシには、朝鮮人ということばも被差別部落ということばもなく、わたしは「差別構造をきちんと描かないと、観客は、野田の人たちは残虐だ、野蛮だ」という感想しか持たないのではないかという危惧を感じていた。しかし予想に反して、国家による差別も、民衆同士の差別も、力を込めて描かれている。しかし事前に感じていた危惧は、わたしのなかにやはり残っている。
劇映画は、最低3度見ないと作者の意図はわからないというのが私の経験則である。まして、当時の朝鮮、満州、シベリアを含む、日本の政治と社会の状況について、さほど知識のない観客は、どのようなものをこの映画から受け取るだろうか。わたしも、主人公が性的不能におちいったのは、1919年の3・1独立運動の虐殺事件である提岩里事件への関与が原因だったという設定になっていると気づいたのは2回目だった。それは「二度と教師はしたくない」というほどのショックだったのである。
1923年段階での日本人民衆の朝鮮人観はいかなるものだったか。内地の朝鮮人人口がふえはじめるのは、1920年代後半からである。それ以前の内地の朝鮮人労働者は、土木・建設工事現場がほとんどで、タコ部屋と呼ばれる飯場に押し込められていたから、日本人民衆は朝鮮人を見かけることは少なかった。タコ部屋の朝鮮人がその場所に根づいて朝鮮人部落のもととなったという旧来の定説は、金賛汀『異邦人は君ケ代丸に乗って』(岩波新書、1985年)によって完全に否定された。最大の朝鮮人部落である大阪猪飼野も、平野運河改修工事の朝鮮人労働者とは無関係に、1920年代半ばにようやく形成され始めた。関東大震災当時、日本人には、後に形成される「汚い、臭い」という差別的イメージはまだ成立していなかったはずである。
それではなぜ、福田村と田中村の自警団は、朝鮮人を殺したいと思ったのか。興奮状態のなかで、なぜ、田中村自警団を呼びに行き、田中村の被告の方が刑が重かったのか。日本人民衆の本格的な朝鮮人体験は、1894年の甲午農民戦争を日本軍兵士として鎮圧した経験である。朝鮮の宮廷を実質的に支配下に置いた日本軍は、竹槍で抵抗する東学農民に対してジェノサイドに近い虐殺を行なった。歴史ドラマ『緑豆の花』に描かれたように、機関銃や大砲に対して竹槍では勝負にならないのだが、アリを踏みつぶすように虐殺しながら、後から後から湧いてくるように突撃してくる東学農民に日本軍兵士は恐怖を覚えたはずである。
次の経験は3・1独立運動である。これは基本的に非暴力直接行動であったが、甲午農民戦争よりはるかに大衆的であり、併合後9年で、非軍人の日本人移住者もふえていた。日本に抵抗する朝鮮人民衆に対する恐怖と「怒り」を、日本人全体としてどの程度共有したか。朝鮮人に対する差別観念を植えつけたのは教育とマスコミであるといわれる。しかし教育の世界ではタテマエは「一視同仁」であり、天皇は日本人も朝鮮人も同じように見てくださるはずである。教室現場で、それに反することを教師がどの程度語っていたかについては、実証は難しい。
しかし新聞の朝鮮人差別記事は、ここで具体例を挙げる必要がないほどおびただしい。3・1独立運動後も満州に逃れた独立運動派は、武力抵抗を継続した。1918年から始まるロシア革命干渉戦争は、1922年にはシベリアから、1925年に北サハリンから撤退して終了するが、日本軍は大きな被害を受けて敗北した。シベリアでも朝鮮人が日本軍と戦うが、日本軍は朝鮮と隣接する満州間島地区における朝鮮独立運動を弾圧する。これを間島出兵と呼ぶ。1920年6月7日、鳳梧洞において日本軍第19師団73連隊と朝鮮人ゲリラ部隊が衝突、朝鮮人側の勝利に終わった。韓国政府は現在もこの戦いを高く評価している。この時一人戦死したのが田中村船戸の堀井茂邦一等兵だった。
8月1日村費350円を支出して村葬を執行、会葬者は1000人以上、1921年勲8等功7級金鵄勲章授与、靖国神社に合祀、遺族に900円が下賜された。1922年3月、田中村山高野の薬師堂で「故陸軍一等卒堀井茂邦之碑」の除幕式が行なわれた。裏面の顕彰文は「前東葛郡会議長松丸健」によるもので、田中村屈指の有力者といわれる。(堀井茂邦については鳥塚義和氏の教示による)
村葬に1000人以上が集まったとされるように、村民が「不逞鮮人」に殺されたということは衝撃であった。薬師堂の石碑は、一戦死者の顕彰碑としてはあまりにも立派である。関東大震災は堀井茂邦戦死後3年である。福田村自警団としては、田中村自警団に報復させてやりたいから呼びに行ったのではないだろうか。
朝鮮人を殺すことがお国のためであるという発想が、田中村にも、福田村にも、そして全国に広がっていたのであろう。朝鮮植民地支配に抵抗する朝鮮人を政府と新聞が「不逞鮮人」とののしり、関東大震災にあたって「朝鮮人が放火している、井戸に毒を投げ込んでいる」というデマを広げて、民衆のあいだに差別の裏返しとしての恐怖を爆発させたことが朝鮮人虐殺や福田村事件の原因であった。
5.いくつかの「本質」
それが福田村事件の本質であるとするのは、やはり歴史家目線であるとも思う。それならば、現代ではもう起こらないだろうという安ど感につながりかねない。映画『福田村事件』が、わたしが述べたようなことを描きながら、森監督があくまでも「集団」を問題とするのは、このような事件が福田村だけではなく、どこでも、いつでも、現在でも起こり得ると訴えたいのであろう。そのように鑑賞者が受け止めたことを期待したい。
先の「市川・佐伯対談」で、市川が「映画の内容でいえば、加害者側を過度に重視している。私は被害者側からみる視点です」と語ったのに対して、佐伯は「僕は最初、被害者の少年の目線で描いていきたいと思っていたんですけど、それでは全体的な差別構造が見えづらいのでは、と思い、結局、加害者と被害者と新聞記者の目線を入れ、3つの視点から描くことにしました。それで、被害者側の少年の目線は当初の構想より弱まってしまったとは思いますね」と答えている。
確かに村民の人間像は深く描かれているが、被害者については描き切れていない。史料的制約があるために、被害者を描こうとすれば、フィクションも度を過ごすことになりかねない。6人が殺されそうになる寸前に、全員で「全国水平社宣言」を唱和するところなど、「部落問題を描くときは、解放への展望、道筋を示さなければならない」というかつてのルールに配慮したのかと思わせる無理が生じてしまっている。
差別の本質は、差別構造を解き明かすこと、差別社会に生きている者すべてが、被差別者もふくめて、社会意識としての差別観念に囚われているのはなぜなのかを明らかにすること抜きには見えてこない。差別する側、差別に加担している側の変革こそが、差別からすべての人びとがみずからを解放する必須条件である。その意味で、村民を重点的に描いたことは、森監督が「集団」を問題とすることとあわせて普遍性を持っている。このことについて森監督は前出の「クローズアップ現代」のなかで、加害のメカニズムを描きたかった、「しっかりと検証するのであれば、被害者側ではなくて、加害者側ですよね」と語っている。また森監督は集団のメカニズムとして、異物を見つけて排除しようとすると述べるが、わたしもかつて1937年に文部省が発行した『国体の本義』にふれて、「すべての集団の和は、各々が分を守ることによって得られるというのです。国の和も同じです。……『和』が異端者とした者を排除するという構造は残っています」と書いた(「『和の心』と大和魂は同じ? 違う?」、『「伝統・文化」のタネあかし』、アドバンテージサーバー、2008年)。
2021年8月、朝鮮人が集住する宇治市ウトロで放火事件があり、7軒が焼失した。犯人は「朝鮮人が不法占拠している」と思い込み、放火したという。戦争中、京都飛行場建設のために1000人以上が働かされた朝鮮人は、戦後もその飯場に住み続けるしかなかった。土地の払い下げを受けた日産車体はそれを不法占拠とし、宇治市も上水道を敷かなかった。しかし水道問題も土地問題も30年前に解決しているのである。犯人はSNS上の集団心理で放火にいたった。福田村事件は、現代でも起こり得るのである。この映画が話題になってから、100年前の被害者たちの出身部落は、示現舎などによってSNSで差別攻撃にさらされ、地元は恐怖におちいっている。東日本大震災においても、武器を持った外国人が窃盗を働いているというデマが流れ、その噂を聞いた人が仙台と東京で50%、そのうち噂を「信じた」、「やや信じた」人が86.1%という調査報告がある。
福田村でも田中村でも、加害者に対する裁判支援金が集められた。戸数割、すなわち全所帯から強制的に集められた。そして全村民に事件に対する緘口令が敷かれた。1999年、真相究明のために遺族と部落解放同盟(香川、千葉)などが実施した現地視察と交流会に、野田市同和対策課長と同和教育課長が出席している。野田市が公式に福田村事件に言及したのは、2020年に刊行した『野田市史 資料編 近現代2』に事件関係の資料3点を掲載したのが初めてである。それも2013年に辻野弥生が市長と教育長宛の要望書を出したからである。
そして2023年6月、野田市議会で一般質問に答えて、野田市長が「被害に遭われた方たちに対し、謹んで哀悼の誠を捧げたい。人権問題の正しい理解と認識を深められるよう今後も継続して人権教育、啓発に取り組む」と答弁した。何度も聞いたような紋切り型の答弁だが、野田市にとっては100年たって、ようやく事件の存在を市長が認めたのである。しかし市民レベルでは、いまだに緘口令は続いている。2023年9月前後、市外から追悼慰霊碑を訪れる人びとの数は多数をかぞえた。追悼慰霊碑が野田・柏市民のものになるのは果たしていつの日か。
ちもと・ひでき
1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。
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