論壇

生命倫理は高校でどう教えられているのか(中)

新科目「公共」教科書を読む

元河合塾講師 川本 和彦

『堤未果のショック・ドクトリン』(幻冬社新書 940円+悪税)は現在進行形の危機を告発する、基本的には良書だと思う。私自身マイナンバーカードを持つ気がまったく、かけらも、さらさらないので、カードの危険性を指摘する同書の趣旨には大いに賛同した。

だが同書にある「北朝鮮は漢方薬でコロナを切り抜けた」「キューバでは地元産の木の実でつくった粉末をお茶にして飲み、3日で治した」という記述には、頸椎を痛めるくらい首をかしげた。これでは「イソジンはコロナウィルスに有効」と言った、頭の悪い知事と同レベルになってしまうのではないか(この知事の名前を書くとパソコンが劣化するので、名前は省く)。

性急なデジタル化には反対、という方向では堤氏と共闘できる。だが、その根拠として挙げられる内容に、すべて賛成するわけにはいかないと思ったものだ。

学校現場で使われる教科書にも、同じことが当てはまる。教科書の「人間らしく生きる」「生命は尊重されなければならない」というお題目、はい、おっしゃるとおりです。だがそこに問題は皆無なのか、慎重に検証する必要がある。

全肯定でも全否定でもなく、相対化する姿勢が必要だろう。「是々非々」と書くと、前述の愚かな知事が属する政党のようで嫌なのだが、本来の「是々非々」は決して悪い意味でないはずだ。

前号に続いて、「公共」教科書が扱う「生命倫理」を素材にして考えてみたい。

SOL(生命の尊厳)とQOL(生命の質)

SOL(Sanctity of Life)は「生命の尊厳」と訳される。本来は「生命は神から与えられた神聖なもの」というキリスト教起源の考えだが、現代は特定の宗教に結びつくものではなく、普遍的な理念であろう。

一方、QOL(Quality of Life)は「生命の質」と訳される。ひたすら苦痛に耐える状態、生命維持装置で辛うじて生きている状態は、生命の質を損なっているという考えが背景にある。

手塚治虫氏の傑作『ブラック・ジャック』でいえば、ありとあらゆる技術・手段を駆使して、何が何でも命を助けようとするブラック・ジャックはSOLの、安楽死の執行者ドクター・キリコはQOLの体現者と言えるかもしれない。

自民党文教族に支持者が多いとされる、数研出版の教科書から引用する。

「これまでSOLを重視する立場から、人工呼吸器などの生命維持の手段や装置が発達してきた。しかしQOLの立場から、病床で長期間意識のない状態にある患者への延命装置の人道的な是非や、終末期の患者への延命治療へのあり方が問われるようになってきた」

泉房穂・前兵庫県明石市長について「短気だが決断力がある」と書けば、肯定的なイメージを与えることができ、「決断力はあるが短気だ」と書けば、否定的なイメージになる。同じ内容であるはずなのに、後ろに出てくる主張の方が印象に残りやすい。言い換えるなら両論併記の場合、自分の主張により近い内容を後ろに持ってくることが多い。これは記者時代、一見客観的な記事に主観を盛り込む手法として、先輩から伝授された。まあ、日本語の常識である。

上述の教科書はSOLを否定するものではないが、QOLにより好意的であると考えて良い。

実は数研出版だけでなく他社の教科書でも、「SOLからQOLへの流れ」が、あたかも自然なものであるかのような記述になっている。その流れを全肯定も全否定もせず、ただ懸念される点を確認したい。

生命の尊厳/質とは何か

治る見込みがない、しかしいつ終わるかはわからない。そういう状態で続く激しい痛みというのは、ものすごく辛いであろう。教科書的に説明すると、苦痛に耐えて生きることは、生命の尊厳を守ることにはなるが、生命の質を損なうということになる。

「そういう状況に陥った人が安楽死を望んだとすれば、それはQOLを守る行為である」という結論に持って行きたいんだろうな。かなりわかりやすい構成で、批判意識を持たない教員にとっては楽かもしれない。

だがこれは自己決定権の問題というより、生命の尊厳・質とは何かという問題であろう。安楽死したから生命の質が守られたと断定できるのか。苦しみに耐えることこそ人間らしい、という考え方だってあり得る。SOLかQOLかという問いを持ちこむ以前に、SOLのSとは、QOLのQとは何かが問われなければならない。

生命維持装置に関しても同様である。身体中にたくさんのチューブを差し込まれて酸素や栄養を送られている状態を、「スパゲティ症候群」と呼ぶことがある。そのことが嫌だという気持ちはわかるし、それを拒否するリヴィング・ウィルを残す人もいるだろう。否定はしません。

とはいえ、その人はそれまで何年か何十年かわからないが、しっかりと生きてきたのだ。誰かを傷つけたかもしれないし、酔ってゲロ吐いて駅員に迷惑をかけたかもしれない。あるいは誰かを支え、励ましたかもしれない。誰かを愛し愛されたかもしれないし、まじめに働いて税金を納めてきたかもしれないのだ。

亡くなる数日か数週間か前、身体にチューブを差し込まれたからといって、そういう過去の人生がすべて無意味になるのか。そんなことはないだろう。

入れ歯や義足、ペースメーカーの利用者は、質の低い生命の持ち主になるのか。生活の利便性には関わるが、生命の「質」とは無関係だろう。仮に生命の質と関係があるとしても、それは本人が決めることだ。外部から「あんたの生命は質が低い」と言われる筋合いはない。断じて、ない。

医学・医療技術は人類の発明である。その技術を駆使して生きることは猿ではない人間の、まさに人間らしいことと言うことも可能ではないか。

新自由主義の悪影響

数研出版の教科書では、SOL・QOLに触れたページのすぐ近くに「限られた医療資源をどうするか」という、生徒が話し合う(のか教員に誘導されるのかは怪しいが)コーナーがある。

先生らしき人物のイラスト(眼鏡の中年男性)が、「医療資源には限りがあります。医療資源が不足する場合は、どのような人から治療にあたるのがよいでしょうか?」と問いかける。さらに(ご親切なことに)4つの回答例まであげてくれるのだ。

基準1 業績を上げた人から治療

→価値のある業績を上げた人から治療する。

基準2 効果が明らかな人から治療

→治療の効果がより明らかな人から治療する。

基準3 市場の判断に委ねる

→市場の資源配分を重視し、より高額な医療費を支払うことのできる人から治療する。

基準4 偶然性に委ねる

→公平な条件のもとでのくじ引きなど、作為的な基準のない方法で決定する。

確認しておくが、これは堀江貴文や成田悠輔の戯言ではなく、検定済高校教科書の一節なのである。

何だかすごいなあ。どれもこれも暴論に見える。執筆者の大脳は、新自由主義一色に染まっているらしい(と言うよりファシズムか)。基準1と基準3が露骨であるが、基準2もコストパフォーマンス(略してコスパ。嫌いだなあ、この語句)優先の発想である。相対的にではあるが、基準4がまともに見えてしまうのがおっかない。

まずは、「医療資源に限りがある」という前提を撃ち抜きたい。アメリカ軍需産業の言いなりになって爆買いする兵器、借金を残しそうな万博、オリンピック、リニア新幹線のことを考えても、「限りがある」という設定自体が意図的である。政府は電通やパソナに、何円支払ってきたのか。そちらには限りがあるんですかねえ。

この教科書記述から、「治る見込みのない患者はお金の無駄だから、さっさと安楽死させよう」という結論までは、もうほんの一歩である。ただそこまでストレートに言うと炎上するので、QOLという横文字を前面に出しているわけだ。

繰り返すが、QOLという考えが誤りだと主張したいのではない。その中に潜む危うさに、もっと目を向けるべきだと言いたいのだ。

エンハンスメントについて

先ほど入れ歯や義足に触れたが、これに関連するエンハンスメントについて考えたい。

東京書籍の教科書は、以下のように記述している。

○エンハンスメント(Enhancement)とは何か

エンハンスメントとは、医学・生命科学にもとづく技術的な介入によって、人間の能力や性質を改良・強化することである。身体だけでなく、知性や感情もエンハンスメントの対象となる。その手法として、外科手術や薬物投与に加え、将来的には遺伝子操作も有力になるとみられている

数研出版ほど新自由主義べったりではない東京書籍は、技術を手放しで礼讃することはしていない。上述の記述に続いて、写真入りで以下の文章が続く。

○「パワードスーツ」を着用している兵士

「パワードスーツ」が身体の動きをサポートし、着用すれば「疲れ知らず」の働きが可能になる。

○ロボット義手

神経に接続した義手を自らの手のように思いのままに動かせる。将来的には、人体のサイボーグ化により超人的な性能をもてる可能性もある。

○遺伝子操作ベビーの誕生

ヒトゲノム編集国際会議(2018年)において、HIVに感染しないよう受精卵のDNAを操作した子どもの誕生が発表された。

 

エンハンスメントに対して執筆者が抱く、微妙な危惧が伝わってくる。文部科学省検定官の眼をすり抜ける意図があったとしたら、成功したと言えるだろう。

パワードスーツを着用しているのが兵士でなく、介護士や消防士であれば、かなり違った印象になったはずだ。ロボット義手にしても、最初の1文だけであれば、障碍者の可能性を広げる「良い技術」というイメージだけが残るだろう。「遺伝子操作ベビー」と書くとSF映画のようだが、「感染を防ぐ受精卵」であれば、これまた「良い技術」である。

障碍者の活動範囲を広げるなどの記述があり、エンハンスメントのメリットをすべて無視している、というわけではない。だからこの教科書が示す方向性は評価できるのだが、それだけに「もったいない」と思う面がある。

人間らしさとは何か

教科書だけの問題ではない。『ターミネーター』などの映画、『アルジャーノンに花束を』などの小説の影響がありそうだが、エンハンスメントに対しては「不自然である」「人間らしさを損なう」という感想を持つ向きが多い。

だが、ここで問いたい。

人間らしさとは何なのだろうか。

人間らしさという言い方、これは多くの場合プラスイメージである。しかしながら、それは半面の真理に過ぎない。

人にもよるし程度の差もあるが、他者を支配したい、他者より金持ちになりたい、美しくありたいという希望(欲望ともいう)を持つ。これも人間の一面である。

人間の、ある一面だけを取り上げて、その面と合致しない存在を「人間らしさを損なう」とするのは、ちと浅薄であろう。

さらに思うのだが、「人間らしさ」「女らしさ」「男らしさ」「日本人らしさ」‥‥こういう表現は要注意である。「らしさ」を過度に強調することは、「らしくなさ」を排除することにつながる恐れがあるからだ。

生命倫理は医療だけの問題ではない。例えば中絶の是非は、アメリカ政治の一大テーマである。着床前診断・出生前診断は、女性の権利と障碍者の権利とがぶつかる問題としても語られることが多い。これらは別の機会に考えたいと思う。

かわもと・かずひこ

1964年生まれ。新聞記者、予備校講師を経てフリーランス校正者。ホームレス支援団体「ほうゆう」会員。

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