論壇

ちんどん屋にみる巷の流通史・序

みどりやの「仕事帖」から

フリーランスちんどん屋・ライター 大場 ひろみ

ちんどん屋自身が残した日々の記録

「現代の理論」22,23号に「みどりや進」というちんどん屋さんについて書かせていただいたが、これはその続報、というか、新たに入手した資料を少々整理、分析した途中経過報告のようなものである。以前書いたように、みどりや進はちんどん業界における牽引車的存在であったが、さらに過去のちんどん屋の業態について知るのに重要な資料を、その几帳面な記録によって残してくれた。

写真1 みどりや進が日々の仕事の手配について記録したノートのページ

「現代の理論」23号の拙記事に登場していただいた、みどりや進の愛弟子であった永田美香氏が、進亡き後、ご遺族の了解を得て譲り受けたのが、日々の仕事の手配について記録されたノートである。1968年(昭和43年)3月から1988年(昭和63年)12月までが現存する。それ以前からのものもあって紛失したのか、現存する日付から付け出したのかは分からない。誰がどこの現場に行ったかが、写真1のような形式で記してある。

ちんどん屋の仕事において重要なのは、まずどの現場に誰を向かわせるかを手配することで、この予定が立てられれば、ひとまず仕事が半分片付いたかのようにほっとするものなのだ。ヒマで毎日は仕事が無く、家族で仕事に出ればこと足りる程度ならそうでもないが、みどりやのように1日に仕事が何件も重なる忙しいちんどん屋にとっては、この人の手配(手組と呼ぶ)がなかなかの難事業だ。プロダクションが抱えるタレントを何個所にも派遣するとか、人材派遣業(手配師)があちこちの工事現場やら仮設会場の設営に派遣する人をかき集めるとかを想像してもらえれば分かる通り、現場の性質や、人それぞれの役割・相性などを考慮しながら、手の空いた人を探して組み合わせるのは、なかなか有能なマネージメント力を必要とするものだ。

みどりやの場合、このマネージメントを主に担っていた(具体的には、あちこちに電話をかけて仕事を依頼する)のは、主に「かあちゃん」(妻の文江)だったと進からは聞いているが、その結果を進が書き留めて管理するためのスケジュール帳がこのノート(以後これを「仕事帖」と呼ぶ)だった。だから見た目は簡素でも、様々な情報がここからは汲み取れるのだ。

例えば現場に出る優先順位で、誰が主に働き(親族でない専属で働く人を“子方“という)、誰を臨時に雇う(よそのちんどん屋に依頼する場合、”出方“という)のかが分かるし、どんな現場が多いのか(八百屋、マーケット、パチンコなど)とか、現場が多いのはどの地域かとか、月ごとや年毎の仕事の増減やら、その時代の出来事との関わりまでわかる。それもこれも進のまめな性質で付けられた丁寧な記録のおかげだ。記録者に対して敬意を払いつつ見ていきたい。

昭和50年代、ちんどん屋は大忙し?

表1 みどりやの仕事数推移

仕事総数出方年始廻り
1968385201
19694461784
19704901274
1971493964
1972559533
1973569734
1974557494
1975586454
1976660573
1977592283
1978579203
1979608242
1980620212
198146841
198244929
198346612
198429530
198531722
198626812
198735312
1988363 3

(1968のみ3〜12月 他は1〜12月)

「出方」は仕事総数に含めない他のちんどん屋への出張仕事。「年始廻り」はやはり総数に含めない正月にお得意さんを回ってご祝儀をいただく行事。

 

グラフ1 仕事総量の推移

以前拙著『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ刊 2009年)に、「ちんどん屋と時代の様相が最もマッチしていた時期が、昭和20年代後半から30年代だとすれば、その後は、ちんどん屋と時代のニーズが徐々にずれていく過程だと言わざるをえない(349頁)」と書いた。昭和40年代には仕事を減らしていったと証言するちんどん屋は多かった。その理由としては、テレビの普及による映画の衰退で、街角で映画スターのコピーを演ずるちんどん屋もありがたいものではなくなり、また宣伝もTVコマーシャルというマスメディアが中心となっていく。

1964年の東京オリンピックを契機とする道路の整備、そして車の増加と共に大道はちんどん屋の闊歩する舞台ではなくなり、大型店舗の進出が商店やマーケット、商店街の減少を招いてちんどん屋の宣伝の機会も減らす。等々、複合的だが、要するに今さらの如く、この時代に、それまでのんびりしていた日本はすごい勢いでいっぺんに現代化したのだ。しかし、みどりやの仕事帖から見ると、1968年(昭和43年)から1988年(昭和63年)までの間の仕事量のピークは1970年代後半に集中している(表1・グラフ1)。

つまり昭和50年代前半がみどりやにおいての絶頂期だったわけで、むしろ高度成長期、安定期と共にすくすく伸びていったように見える。無論、仕事帖の現存しない昭和30年代の方が仕事が多かったのでは? という議論もあり得るが、1968,69、70年辺りがそれまでとそれ以後の時代に比べて特に落ち込む要因が見当たらないとすれば(むしろ経済成長率は他の年代と比べて屈指の伸び。前述のちんどん屋にとってマイナス要素の変化は70年代に加速)、それ以前を特に高めに見積もる必要もない。みどりやのように景気に合わせて繁盛したちんどん屋も複数いるが、みどりやはその成功例の最たるものといえるだろう。仕事を減らしたちんどん屋との差はどこにあるのか。それを個人の資質だけに還元していては何も始まらないので、彼がどんな仕事振りであったか、まず1日の様子を追っていこう。

1968年3月1日

現存する仕事帖の最も早い日付である1968年3月1日時、みどりやの所在地は目黒区の都立大学駅近く、中根小通り沿いだった。それ以前は柿の木坂の自称「ボロ家」だったが、仕事が増え、人手も多く抱えるようになってきたところで移転した。

1日の朝、今日の仕事は3件だ。「和光マーケット」へはチンドンで進と楽器(管楽器)の石川、旗で臨時の沢井を連れて行く。「深沢坂上」の商店街へは進の父の竹三郎がチンドン、専属で働いている郁子(通称ナカイクちゃん)がドラム、楽器で進の弟の武史が行き、「ボロ市通り」は出方で小鶴家の幸太郎がチンドン、幸太郎の妻梅子(ドラム)、旗で小鶴家の子方を頼み、身内では進の妻のいく(本名・文江)がチンドン、楽器は専属の染ちゃんが出動だ。

そんなに広くもないみどりや邸では大勢の支度で朝早くから大忙しだろう。白粉塗って、着物にかつらを着用、それぞれ道具を持って出発だ。出方の小鶴家や楽器の石川とは現場で待ち合わせ。ちんどん屋の手間(賃金)の支払いは「取っ払い」、つまりその場で手渡しだし、仕事の段取りやお得意さんへの対応も慣れが必要だから、それぞれの現場に身内を分散し、出方に渡す手間は彼らが預かる。父、夫婦、弟と専属の二人が総出だ。以上が身内で通常このメンバーが優先的に仕事を受け、楽士(楽器担当)と、さらに人手が足りない場合は小鶴家のような出方を頼む。家族では他に父の後妻や進の妹にその夫、時代が下ると進や妹の子どもまで引っ張り出された。

1件目の「和光マーケット」の所在地はわかっていないが、この「マーケット」とは「市場」とも呼ばれる、通常、小売商店が複数集合した施設のことである。八百屋、肉屋、魚屋の「生鮮三品」が中心となって、総菜屋、練り物屋、乾物屋なども加わるとにぎやかな体裁を成す。みどりやにはマーケットの仕事が多かった。1968年3月から12月の仕事総数が385件の内、マーケットが128件、約33%を占める(ただし「マーケット」という名称や状況から判断し数え上げているので完全に正確とはいえないことをお断りしておく)。「和光マーケット」はこの年、多い時は月3、4回、その後は減っていくが30日に売り出し日を設定し、みどりやに仕事を依頼していた、定期的なお得意様である。

2件目の「深沢坂上」は世田谷区深沢5丁目辺りの商店街で正式名は「深沢坂上商店会」。4月以降は11、21日に売り出しでみどりやを頼む、こちらも常連さま。商店街の仕事は68年に64件で全体の17%を占め、マーケットと合わせるとこの二つで半分を占める。

3件目の「ボロ市通り」は世田谷区世田谷にある、正式名を「ボロ市通り桜栄会商店会」という、年末の「ボロ市」で知られる歴史ある商店街で、この頃は主に月始めの金曜にみどりやを頼んでいた。通常ちんどん屋は3人編成が基本なのを、毎回5人呼んでくれる太っ腹なお得意さまだ。このように定期的なお得意は他に「石川台マーケット」が2日、「奥沢フードセンター」が8か28日、または両方、「五本木一丁目商店会」が7と27日、などと毎日がマーケット、商店街の売り出しで埋まっていく。このように、定期的な売り出しをマーケットや商店街が重要な商機として活用し、そこにちんどん屋が宣伝媒体として消費者につなぐという関係を結んでいたことが分かる。

マーケットと商店街

その他は、この月だけに限っていえば、多い順に、個人商店、そして「デパート(百貨店)」だ。毎月2回定期的に頼む「成田屋百貨店」、「旭デパート」、隔月1回の「馬込百貨店」。これらは一応「デパート」と呼ぶが、いわゆる現在の大型商業施設としてのデパートではない。本当はマーケットに近い商店の集まり(「自由が丘デパート」の元はマーケット)なのか、それとも呉服などに特化した大型の店なのか判然としない(なぜ呉服かというと歴史的に三越、大丸など呉服屋からデパートに転身した例が多く、「呉服系百貨店」などと呼ばれる。そのせいかどうか「〇〇百貨店」などと名乗る呉服屋の例もある)。また、「デパート」と名の付く商店街も存在(「鵜木デパート会」「町田都南デパート⦅現在は原町田大通り⦆」など)するので、分類に困るやっかいなネーミングである。

つまり、推測と曖昧さが常に混在する資料解釈にならざるを得ないのだが、正確さを期すならタイムスリップでもするほか無かろう。だが、例えば国の統計で「マーケット」という商業形態を捉えていたかというと残念なことに、統計というものは法人・個人の別や業種別、卸・小売り別といった分別で店舗規模や従業員数、売上高等を数え上げる。例えば同一の店で衣類や食品など、様々な商品を扱う店舗は各種商品小売業という分類で、百貨店も町のよろずやもこの範疇に入る。

グラフ2 1968年のみどりや仕事内訳と数比較

 

表2 マーケット系の仕事数比較と推移

マーケットスーパーマーケットコンビニエンスストアマーケットその他不明
19681281
1969165
1970222
19712053
19722174
197320210
197420210
19752348
197624829
197719397
197818522
197921510
198015716
19811829
198216672
1983141132
198410513
19857572
19867932
19877973
198853221

(1968のみ3〜12月 他は1〜12月)

77年は荏原屋90件

1968年の「商業統計調査報告」(総務局)では百貨店はさすがに別項目でカウントされているが、1956年では百貨店はよろずやとひとまとめだ。マーケットでは様々な物が売られているが、野菜や肉などそれぞれのジャンルを別々に扱う個人商店の集まりであり、統計では個人商店1軒毎をカウントするので、マーケットという商業施設自体は認識されない。みどりやが毎日宣伝して廻るほど、巷はマーケットであふれ、人びとが盛んに買い物していたというのに、その存在が確認できないなんて・・。こういう大向こうの資料に登場しない庶民の生活を重箱の隅をつつくように探し出すのがこの些末な文章の目的です。

ともかく、1968年の仕事を内訳毎にグラフ化するとグラフ2のようになる。小売業の占める割合が4分の3以上で圧倒的。ここでスーパーマーケットとして数えたのは1つのみだ。名称でスーパーと判断できたものだけを数えているので、マーケットの中に実はスーパーなのを誤って数えている可能性もあるが、マーケットの名称にはあるパターンがあるのと仕事の中身の検証から判断しているので、そんなに誤差は多くないと見積もっている。スーパーその他のマーケット系の仕事数比較は表2の通りだ。77年に元住吉にある荏原屋の仕事が90件もあるため突出している以外は、スーパーは漸増傾向ではあるがそんなに多くない。マーケットは80年代に入ると目に見えて減っていくが、それまではある一定数を保ち続けている。これをみどりやに特異な傾向と見るよりも、70年代まではマーケットが人びとの生活に根を下ろし続けた存在だったと見てみたらどうだろう。

また表1と合わせてみると、80年代に入ってマーケットだけでなく仕事の総量が落ちていくのが分かる。どうもみどりやの繁盛はマーケット、商店街、個人商店の運命と共にあったのではなかろうかという気がしてくる。仕事総数が落ちてくる1981年の仕事内訳がグラフ3だ。商店が割合として多くなっているが、お得意の八百屋が定期的に頼んできたためだ。またパチンコの割合も1968年と比べて多くなっている。みどりやは他のちんどん屋に比べてパチンコ店への依存度は低いが、グラフ4のように70年代に一挙に増加、増減は激しいがパチンコという業態の浮沈にも関係することかも知れない(パチンコ店についてはまた別の機会に触れたい)。

グラフ3 1981年のみどりや仕事内訳と数比較

 

グラフ4 パチンコ店の仕事数推移

『日本流通史⸺小売業の近現代』(満薗勇2021 有斐閣刊)によると、大正時代に物価高騰対策として大阪で生まれたのが公設小売市場(地方自治体が設置し小売商人が使用料を払って出店する形式の小売市場)であり、大都市に広まり、のち私設の市場も開かれ公設を数の上で上回るようになったという。また「敗戦直後のヤミ市(闇市)は、建築の視点からみると、露天形式のものと、長屋形式の低層商業施設を構えるものとに大別され、後者は同時代に「マーケット」という固有の呼称を与えられて数多く展開していきました」と述べる。この二つの流れがみどりやのお得意の「マーケット」に直結しているように思われる。私は花島という親方の元で文京区の「真砂市場」という公設市場の宣伝に携わったことがあるが、生鮮三品に総菜屋も揃い、ここはまさしく「マーケット」そのものだった(現存せず)。

さらに上記の本では「商店街」を単なる「場」としてでなく「何らかの組織」を持つものとして捉え、その成立を明治時代以上には遡らないとしている。また商店街を商圏の広さ(空間のみでなく扱う商品や店舗規模の広がりを含む)によって4タイプに区分する方法を紹介しているが、その内の「近隣型商店街」が「最寄品中心の商店街で地元住民が日用品を徒歩又は自転車等により買い物を行う商店街のこと」として、みどりやが多く宣伝を請け負う商店街に当てはまる。この性格は「マーケット」と一致し、つまりみどりやは日用品(特にこまめな購入を必要とする食料品)を買いに地域住民が集まる場所を主に顧客とし、そのニーズは80年代初頭までは維持されたということだ。しかもその後日用品の購入場所はスーパーに移行していくが、スーパーにはちんどん屋の需要は移行されないということでもある。これだけでもちんどん屋の仕事の性格がうすぼんやりと浮かび上がってくるが、もう一度「仕事帖」に戻って具体的な日常を拾ってみよう。

1968年12月16日

1968年12月16日月曜日。今日は3件の仕事がある。その内の1件は14日の予定が日延べして本日めでたく新規開店の「美しが丘ショッピングセンター」。3日続けて開店記念の売り出しをにぎやかす。チンドンは出方であやめ(男性)を頼み、いくがドラム、仲のいい糸井さんがクラリネット、ナカイクちゃんはチラシ撒きか。2件目は常連の「成田屋百貨店」で進がチンドン、残りは出方。もう1件は「溝口卸売市場」。卸売市場の一般向け朝市を宣伝する仕事で弟の武史がチンドン、染ちゃんが楽器でいつも2人しか頼まれないが、午前中で終わるので、パチンコ店などで午後から仕事がある時はもう1件同じ人手を回すことが出来た。

表3 1968年の月別仕事数

仕事数出方アブレ
 3月399
 4月379
 5月40161
 6月4418
 7月35242
 8月19203
 9月36281
10月32281
11月3829
12月65203
総計38520111

*アブレは予定していた仕事が天候やトラブルなどで取りやめになること。

12月は小売業にとって書き入れ時、それに寄り添うちんどん屋にとっても大忙しの月だ。1968年の月毎の仕事は表3の通りで、8月に落ち込み、12月に盛り上がるのが顕著だ。仕事が少ないと出方に出て帳尻合わせをしているのも分かって面白い(年々仕事数が充実するにつれ出方に出る回数を減らしていくのは表1の通り)。12月は1日に4、5本仕事があるのも珍しくない。妻のいくちゃんは手組にさぞかし苦労しているだろう。

「美しが丘ショッピングセンター」は何とこの新規開店から仕事帖の記録が残る最後の年の88年まで、21年間毎週のように火曜日、仕事を頼んでくれた息の長―いお得意さまである。ここは1969年1月に横浜市港北区元石川町から美しが丘(現在は青葉区)に地名が変更された地区で、ショッピングセンターは改名に先立って開店した。最寄り駅はたまプラーザ駅(1966年開設)で、たまプラーザ団地は1968年築、都市の膨張に伴い郊外へ郊外へと交通や集合住宅が伸びて行った時期に生まれた町だ。

みどりやは自宅に近い東京目黒区や世田谷区の仕事が多かったが、川崎市高津区溝口の幸盛館というちんどん屋の子方だった縁から川崎や横浜の仕事もかなり持っていた。特に郊外でずいぶん不便な所だなと思うと、近くにバス停と団地があったりする(「座間東台ショッピングセンター」は東台バス停、近くに県営瀬谷団地がある。「愛甲原ショッピングセンター」は厚木市の愛甲原住宅⦅団地ではなく公務員住宅地だが⦆の近くでバス停もある)。団地だとその建物の一部の1階部分や、中庭に長屋形式で小売店や「マーケット」を存して住民のニーズに合わせる形態がある(例えば町田市の「山崎団地名店会」や、みどりやの宣伝した所ではないが国立競技場建設で壊された霞ヶ丘アパートの「外苑マーケット」)が、「美しが丘ショッピングセンター」は団地横の公園そばに建ったマーケットだった。近年まで「肉のポール」と酒屋だけが残っていたが2015年には閉鎖されたらしい(『続たまプラーザ日記』など参考)

「肉のポール」は68年4月に東大井見晴通り店の開店記念セールを宣伝しているから、この店の口利きで「美しが丘」の仕事も頼まれたのではないか。口コミで仕事がつながる例は珍しくない。ただ仕事ぶりがいい加減ではなかなかそうはいかない。この辺りにみどりやと落ち込んでいくちんどん屋との違いがある。私の親方だった瀧廼家五朗八のようなちんどん屋は仕事の仕方がいつまでも自分本位で、きちんと宣伝してほしいクライアントの要求に答えていなかった。高度成長期は競争の時代でもある。個人商店だって大型店舗との商戦に巻き込まれて踏ん張っていかなければならなかったのだ。時代の変化についていかなかった者と敏感だった者との差はあると思う。まあいい加減だった五朗八親方こそがちんどん屋らしくて好きでもあったのだが。

まだたまプラーザ駅前が空き地だらけだった時(『アジャパ山の夕日はいつもオレンジ 01』参考)、団地開設直後に出来たマーケットは住民にとって便利且つ頼りになる存在で、マーケットは高い需要を呼び込んで繁盛したことだろう。都市膨張と高度成長期の象徴のような郊外の集合住宅も、ちんどん屋に仕事を呼び込んだ要素の一つだった。この付き合いの長いマーケットにはみどりやも特別の思いがあったのか、近くに仕事で来た時、弟子の永田美香に「ここに美しが丘ショッピングセンターってのがあったのよ」と懐かしそうに語っていたという。

1980年代の大変容

前々節で80年代初頭以降、「日用品の購入場所はスーパーに移行していく」と書いた。ここでのスーパーは食品スーパーを想定している。『日本流通史⸺小売業の近現代』によると、食品スーパーは1968年の店舗数が5395店、対小売総額シェアは3.8%から1982年には18169店、シェアは8.7%に増加している。また「購入先別にみた食費の平均支出月額の構成比」という表によると、例えば生鮮野菜では1969年スーパーが19.9%なのに対し一般小売店は68.1%、それが1984年にはスーパーが51.5%で小売店が38.5%に逆転している。豆腐では69年スーパーが15.0%小売店78.3%が、84年スーパー50.4%、小売店39.7%と同様である。

小売商店では生鮮三品や豆腐などは包装されず、店頭で丸のまま、肉などは経木に包んで売っていたのが、スーパーはプリパッケージしてショーケースに並べ、そのためのバックヤードの分業制も確立していった。その他の変革も含めて開発した企業にちなんで「関西スーパー方式」と呼ぶそうだが、この販売形式が「1980年代半ばにかけて(中略)直接・間接に伝播していく」ことになったという。またコンビニエンスストアの普及も見逃せない。最大大手のセブンイレブンの店舗数は1974年に15軒だったのが80年に1040軒、85年には2651軒まで伸びる。しかし2008年には12298軒だからまだまだという気もする。(ここまで『日本流通史⸺小売業の近現代』参照)

スーパーも食品購入先として小売商店を上回るけれども、まだ40%近くを小売商店が占め、完全に抜き去ったとまでは言い難い。しかし何かが変わったのだ。例えば、表1に示したみどりやが行っていた「年始廻り」は、お得意さまを回って正月の祝いを述べ、ご祝儀をいただく恒例行事で、お得意が多数なので正月に何日もかけて行っていた。他のちんどん屋はこれをけっこう早めにやめたという(例えば五朗八親方は昭和40年代には廃止)が、みどりやは(1968年はデータ無し)1969年から80年まで件数は減らしながらも続けていた。これも80年代に入ってからの変化の一つだ。

この文章でずっと引用させてもらっている『日本流通史』の著者満薗勇氏によると、「小売業の小規模稠密性という特徴は、主として自営業の個人商法によって担われてきた」のが「1980年代半ば以降における日本型流通の変容は、小売業における法人企業の台頭によって牽引された」という。つまり明治時代から小さな店舗が寄り集まって商業圏を築いて面々と続いていた(さらに満薗氏によれば総合スーパーのような大店舗の進出があってもそれを取り囲んで小売商店街が共存共栄する関係も成立していた)のが、その長―い「小売業の小規模稠密性」が一挙にこの80年代半ば、急変したのだ。これは大問題ではないか。要因として満薗氏の指摘する「郊外型ショッピングセンター」や「専門量販店」の進出なども理解できるのだが、みどりやのお得意の多い世田谷や目黒区には当てはまらない気もするので、もう少し別の機会に細かく考えてみたい。

グラフ5 1985年のみどりや仕事内訳と数比較

1985年のみどりやの仕事内訳はグラフ5の通りで、商店街は3%、マーケットは24%、小売商店19%を合わせても46%で半分を割っている。「近隣型」の仕事が大幅にシェアを減らしているのが分かる。それに比べて増えているのがパチンコで81年の13%から20%だが件数としては同じ62件なので総数が減ったためシェアが増えただけだ。飲食店は2%から8%、件数としては10から24に増え、居酒屋のチェーン店と焼肉屋が主だ。イベントが8%で81年に1件しかなかったのが24件に増えているが、この年開催されたつくば万博の会場で「日本の大道芸」というイベントに連続出演していたためだ。卸売市場も倍に増えているが、全て相模原と八王子の卸売市場で東豊産業という卸店の仕事である。だからその年によって個々の事情があるのだが、「近隣型」の仕事が減った分を他の仕事で補っているともいえる。

そしてその業種はある未来を示している。パチンコはこの後も長く安定してちんどん屋との関係を続けるし、居酒屋チェーンは現在のちんどん屋にとっても重要な顧客である。居酒屋こそは「近隣型」、地元に密着した商売だから、ちんどん屋の町をくまなく回っての宣伝が効果を発揮する。そしてイベントの仕事に活路を見出すのは、特に東京以外のちんどん屋に顕著な傾向だ。

大型商業施設としてのデパートや駅ビル、スーパーマーケットなどは基本的にちんどん屋の宣伝に頼らないのだが、みどりやの記録ではイベント的な仕事がいくつか見られる。1972年10月にはスーパー忠実屋が上溝店で、11月には中野ブロードウェイで、ちんどん屋の大会(コンクール)が行われているし、73年3月には錦糸町駅ビルで大会が、6月には渋谷東急で「紅白サービス大合戦」(ちんどん屋が紅白に分かれ宣伝合戦を繰り広げたものか)が、9月には銀座松坂屋で「ハウスシャンメン大会」(ハウスシャンメンは当時発売されたインスタントラーメンで、その名を冠した大会か?)が開催された。この頃は大型商業施設でちんどん屋を採用するのが流行ったものか。仕事としては宣伝も兼ねているが、多分にイベント的である。

このような大型商業施設との結びつきは、90年代に入ってから郊外型ショッピングセンターでのイベント的な賑やかし兼宣伝につながる。現在は例えば正月に獅子舞と共に東京タワーや郊外のファッションモールなどに出没することが多い。流通の形態が変化していくなら、その末端の消費の現場で関わるちんどん屋もイノベーションしていっているということだ。

現在のちんどん屋の生き残り戦術も大事なテーマだが、もう一度”80年代の大変容“に戻って次の機会に探ってみたい。何故なら、1980年に私は既に高校生だった。つまり十分当事者なのだ。この時代にどうしてきたか、後の世代に責任がないかという問いがある。満薗氏の言う通り、「自営業の衰退は、それまで自営業で担われていた仕事の多くが、法人企業に雇われた非正規労働者によって担われるようになる、という変化を伴って」いるというのであれば、まさに自分の生き方が現在の問題に直接つながっているということだ。例えば小売商店の衰退の要因に挙げられる「跡継ぎがいない」という問題。ちんどん屋も私達と同世代の子どもたちは後継者にならなかった、親もさせなかった。

私は就職活動もせず非正規労働者の道を自ら選んだし、何の疑問も持たなかった。みどりや進のような、好きな仕事に邁進して夾雑物の無い主体的な生き方とは大違いだ。東京に住み、消費と娯楽を満喫し、何の責任も持たなかった。大企業や流通とのかかわりでいえば、消費者として完全に「お客様」だった。流通構造の変容は、生き方や意識の変容と切り離せない。むしろ私を含む人々の意識が変わったから、構造が変わったのではないか。あるいは人々の意識が構造に組み込まれているとでもいえばいいのか。今更何だといわれそうだが、何だか暗い沼を見ているような気持ちでひとまずこの文を終える。

おおば・ひろみ

1964年東京生まれ。サブカル系アンティークショップ、レンタルレコード店共同経営や、フリーターの傍らロックバンドのボーカルも経験、92年2代目瀧廼家五朗八に入門。東京の数々の老舗ちんどん屋に派遣されて修行。96年独立。著書『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ、2009)

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