特集 ● 続・混迷する時代への視座
「国のために死ぬ」ことを拒否する
安倍銃撃事件とウクライナ戦争から考える「ひとのいのち」
筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹
安倍晋三元首相への銃撃事件と、ロシアによるウクライナ侵略戦争は、戦後日本の民主主義にかかわるふたつの重要な命題について、大きな問題提起となった。ひとつは、人の命は何にもまして尊いものである、暴力によって言論は封殺されるべきではないということと、それに関連して、戦争は絶対悪であり、国のために死ぬことは拒否するということである。
山上徹也はなぜ撃たなければならなかったのか
安倍銃撃事件の直後、各政党をはじめ、さまざまな人びとが口をそろえて「暴力によって言論を封殺することは許されない」と発言した。しかし、山上徹也容疑者によるあの行為の原因が旧統一教会による被害にあるということの隠蔽が数日で破綻すると、「暴力による言論の封殺」云々という言説はたちまち姿を消した。現在では「山上ガールズ」なるファンクラブもどきのものまでが登場する事態となっている。
いっぽう、山上徹也容疑者本人は、精神鑑定のために病院で留置されている。日本という国家権力は、政権を揺るがしかねない事件が起こると、その実行者を「精神異常者」として法制度の枠組みから排除し、罪に問わないかわりに社会から抹殺しようとしてきた。足尾銅山鉱毒事件を明治天皇に直訴しようとした田中正造を「精神異常者」として罪に問わなかったのが一例である。マスコミが伝えるかぎり、山上徹也容疑者の発言に不審な点はない。検察にとって安倍銃撃事件は、山上徹也容疑者を無罪にしても事件そのものを葬りたいほどのものであったのか。事件後の政治的展開は、そのように姑息な策動を許さないほどに激しく動いている。
政治における暴力の発動は、実行者が事件後に権力を握った場合には、是認されるどころか崇高な行為とされて神聖視さえされた。乙巳の変、かつては「大化の改新」と呼ばれた中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足による蘇我入鹿殺害は、大王家(後の天皇家)による権力奪取だけを目的にした暗殺によるクーデターだった。蘇我馬子・厩戸皇子(かつて聖徳太子と呼ばれたが、「厩戸皇子」も根拠のある名称ではない)連合政権も、「改新政府」も中国の政治・文化を取り入れて中央集権国家をめざすことは共通しており、政策の大筋において違いはない。乙巳の変は、大王家が権力を奪取することだけが目的だったが、明治維新以降に研究が始まって、「大化の改新」は神聖視されることになった。
明治維新もまた、暗殺をともなうクーデターによって成功した。尊攘派にしても幕府側にしても、テロ行為は無数にあるが、特に大政奉還以後、討幕の口実を得るために、西郷隆盛は江戸で町人をも対象とする無差別テロを繰り返させるという挑発を行なった。江戸の治安を担当していた旧幕府側は業をにやし、薩摩屋敷を襲撃したことが武力で徳川家を打倒する口実となったのである。王政復古のクーデターは薩摩等の軍事力を背景とし、また明治4年の廃藩置県のクーデターも6000人の御親兵(天皇の軍隊)に包囲させて実現した。
「大化の改新」と明治維新という天皇制国家を確立させたふたつの政変が、ともにテロを伴うクーデターであったこと、これらの政変を明治維新以降神聖視し、戦後の学校歴史教育でもその本質が変化しなかったことは、日本文化の根底にテロを容認する発想が存在することを示しているのではないか。
明治維新以降の歴史では、テロの実行者はほとんどが右翼であるが、左翼もまた、権力による弾圧を「白色テロ」と呼び、左翼による暴力的反撃を「赤色テロ」と呼んで、後者を是認してきた。
安倍銃撃事件の場合、山上徹也容疑者本人はやや右翼的思想の持ち主であったようだが、政治権力と結託した旧統一教会の被害者であって、いわば弱者による反撃である。わたしも1980年代には、原理研究会(統一教会の学生組織)からの脱会支援活動に参加したことはあった。しかしそれ以降、日本政府もマスコミも、一部の弁護士などを除いて日本社会全体が統一教会の被害者の存在を無視してきた。被害者やその家族のなかから自殺者が出ていたにもかかわらず、である。その結果、彼は今回の行動に及んだ。ひとりの行動が、これほどの政治的流動を生んだ事例はあっただろうか。庶民のあいだで暗殺者が英雄視された数少ない例は、原敬首相を刺殺した鉄道労働者の中岡艮一である。山上徹也と共通するのは、はっきりした右翼活動家ではなかった点である。
安倍元首相銃撃の際、公然とはいわないが、「やったぜ」と喜んだ人びとは少なくないはずである。「暴力で言論を封殺してはならない」というのは、現在のところ、建前にすぎない。「人の命は何よりも尊い」という命題は、血肉化されていない。
「国のために死ぬ」ことを求めるゼレンスキー
テロは犯罪であり、管轄するのは警察である。戦争は国家にとって正義であり、軍隊が遂行する。テロと犯罪は正反対のものであって、実は紙一重である。2001年9月11日事件の直後、ブッシュ大統領が「これは戦争だ」と叫んだように。テロであっても、実行者にとっては正義である。
戦争か戦争でないかは、形式的には宣戦布告をしたか、しなかったかの違いである。中国との戦争において、日本は宣戦布告をしなかったから、「満州事変」、「支那事変」と命名した。日本の場合、戦争にあたっては大本営条例で、天皇が戦争を指揮する大本営を設置するのだが、1937年、大本営条例を廃止して戦時でなくても設置できる大本営令とし、11月20日、大本営を置いた。
大日本帝国の立場は、日本が日清・日露戦争以来、「合法的に、正当に」中国で得た権益を中国が不当に犯そうとするから、無茶をする中国を懲らしめる「暴支膺懲」であった。侵略戦争ではないのである。
第2次世界大戦後、アメリカ合州国は世界中で戦争を展開するが、宣戦布告はしていない。日中戦争やプーチンの「特別軍事作戦」と同様である。ベトナム戦争は共産主義との戦いであり、アフガニスタンでは「テロとの戦争」であった。すべて自らを正義として合理化する。しかし、オバマ大統領によるパキスタンでのビン・ラディン殺害は、テロとしか表現できない。しかもパキスタンの国家主権を侵害している。アルカイダは国家ではないから、宣戦布告はありえないし、正義がいずれにあるかは無関係に、アルカイダにとっては、9・11攻撃は正義である。弱者による世界権力への抵抗である。
9・11の場合も、映像を見て、「やった!」と喜んだ人びとは多い。わたしの友人は当日、中米のある国に滞在していたが、一緒にテレビを見ていたほとんどの人が万歳をして喜んだという。死者のなかには、本来連帯すべき労働者もいることは、すぐにでも思い至るはずなのに。政治や宗教における対立は、そのような単純な想像力さえ奪ってしまう。
安倍元首相の命も、ウクライナ人ひとりの命も、ロシア人ひとりの命も、価値は同じである。しかし安倍元首相は国葬で弔われ、戦争やコロナ禍で死亡した人びとは〇万人、○○万人と数えられて、一人ひとりの生は、喜びも悲しみも伝えられない。ウクライナ側の呼びかけによって投降したロシア兵の命は保障されるが、ウクライナ兵は国のために死ぬことを求められる。
責任は侵攻したプーチンにある。ウクライナでどれほどネオナチが跋扈しようとも、プーチンが取り得る最善の立場は他国への内政不干渉主義である。ネオナチに弾圧される親ロシア派を救うというのは、邦人保護のために大陸へ出兵した日本軍と同じである。わたしはいまだにプロレタリア国際主義なので、内政不干渉が最高の価値とは考えていないが、プーチンにプロレタリア国際主義はない。
一方でゼレンスキー大統領に、「国のために死ね」という権利はあるのか。日本国憲法第9条が普遍性を持っているとして、9条の精神によれば、ウクライナはどうするべきだったのか。軍事的抵抗は行なわず、直ちに降伏してゼレンスキー大統領は亡命政権をつくる。亡命政権が機能するほどの国民的支持があると仮定してのことであるが。
その場合の最大の条件は、他国がそろって侵略国ロシアと断交するほどの徹底した経済制裁を実行して、ロシアによる占領をあきらめさせることである。NATO諸国はウクライナに軍事援助を行なって、自国の軍需産業を儲けさせるけれども、経済制裁には及び腰である。ロシアと断交すれば、エネルギーをはじめとして、自国の経済が立ち行かなくなるからである。それをプーチンに見透かされている。
わたしがそのような持論を述べると、ある人から反論を受けた。ロシアが占領すれば、数万人規模の虐殺が起こるだろう。だからウクライナは戦わざるをえないのだ、と。
わたしはそれに、まだ再反論できていない。ウクライナ支持の不徹底さ以上に、山上徹也容疑者は日本社会によって孤立させられていた。彼もあのような方法で戦わざるをえなかったのである。日本の中国侵略を欧米諸列強は容認した。彼らもまた侵略者であったからだ。満州事変にかかるリットン調査団の報告書は、大陸における日本の権益を認める微温的なものであった。日本はそれさえも拒否した。世界から孤立した中国人民は、武器を取って戦わざるを得なかった。
日本国憲法第9条は、守るだけでは展望はない。憲法制定のための帝国議会で、日本共産党の野坂参三議員が「自衛のための戦力は持つべきである」と主張したときに、時の吉田茂首相は、「中国との戦争も自衛を口実に行なわれた。ゆえに自衛の戦力も持つべきではない」という趣旨の答弁をした。これが原点である。もっとも吉田首相はのちに米国に求められて再軍備化への道を歩むのだが。繰り返すが、日本国憲法第9条は守るだけでは展望はない。仮に日本に軍事的攻撃をしかける国があるならば、すべての国がその国と断交するほどの関係を作っておかなければ、9条は機能しない。
「再び戦争をしない国を作る」ことと「国のために死ぬことを拒否する」ことの間には距離がある。そのあいだに「非戦の国を作るために命を捧げる」という場合が成り立つからである。
2010年頃、NHKは大型シリーズ「証言記録 兵士たちの戦争」を放送していたが、それに関連して2011年に予定している太平洋戦争65年の企画のために証言を募集する短い案内番組を頻繁に流していた。「あなたは“お国”のために死ねますか」という質問に対して、アジア系外国人らしい女性が「愛国者なら当然でしょう」と答えたほかは、日本人に見える人は、「家族を守るためなら…」と口ごもる男性、「命をかけるほどの国じゃないということです、日本は」という男性、「“国のために死ね”という国なら滅んじゃえばいいと思う」と答えた若い男性。右翼からみれば、「NHKは極左偏向している」ということになるのだろうが、「“国のために死ね”という国なら滅んじゃえばいい」という思想は、9条擁護派のなかで、どれほど共有されているのだろうか。
すべての、一人ひとりの命をいつくしむ世界を作るには、とりあえず、プーチンや安倍晋三のような政治家を、統一教会やオウム真理教のようなカルト集団を生み出さない社会に作り変えることだろう。「とりあえず」といっても遠い道のりのようである。
ちもと・ひでき
1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。
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