論壇
オーストリア社会民主党の合邦問題⸺1920~30年代
ドイツ・オーストリア合邦論の生成・発展そして破綻へ
社会思想史研究者 青山 孝德
1.ハープスブルク帝国における民族問題と帝国再編構想
2.合邦論の生成⸺バウアーのレンナー構想批判と民族自決容認へ
3.合邦政策の遂行と破綻、合邦の理念化
4.ナチ・ドイツによるオーストリア「合邦」とその評価
5.合邦理念の破綻
まとめ
私たちは、ロシアのプーチンによるウクライナ侵攻を目の当たりにしている。彼は、侵攻理由の一つに「兄弟国との一体化」を挙げた。これには既視感があった。しかし、これは「感」などではなく、文字通り歴史的にデジャ・ヴュ(既視)である。1938年3月、ヒトラーはオーストリアに侵攻した。それは「同一の血は共通の国家に属する」(『我が闘争』)からであった。ヒトラーの侵攻・併合は「合邦」Anschlußと呼ばれた。
では、「合邦」された側で抵抗はなかったのか? 皆無ではなかったけれども、当初、総体として歓迎するムードのほうが強かった。現代の私たちからすれば、そしてウクライナの抵抗を見る限り、これは極めて奇妙な出来事に思われる。実は結果として、この現象に掉さしたのが、1918年以降、合邦論を唱えたオーストリア社会民主労働者党(以下、社会民主党と略称)であった。
本稿は、戦間期オーストリア社会民主党が掲げたオーストリアとドイツとの合邦論と、それを遂行しようとした政策を検討する。具体的には、どのような背景で合邦論が登場したのか、その政策実現の試みが、どのように破綻したのか、破綻後、合邦はどのように取り扱われたのか、そして合邦がドイツによるオーストリア「併合」という形で実現した時、それはどのように評価されたのか、以上の検討を試みるものである。なお、この作業では、党の左・右の指導者であったオットー・バウアーとカール・レンナーが主人公となる。
1.ハープスブルク帝国における民族問題と帝国再編構想
まずは合邦論が登場する背景を記しておこう。1918年の崩壊まで存在したオーストリア=ハンガリー君主国(通称、二重帝国)は、1867年のアウスグライヒ(和協)の結果でき上がった。支配家のハープスブルク家が、独立傾向を強めるハンガリーに譲歩して、帝国の東半分の独立を事実上認めたものである。
帝国の東西は、それぞれ多民族国家であった。西のオーストリアでは、ドイツ系オーストリア人がチェコ人をはじめとして他の諸民族を支配下に置き、東ではハンガリー人が支配民族であった。しかし、この二つの支配民族は、併せても帝国人口の半分にも満たなかった(Bruckmüller 2001, p.345)。
被支配諸民族は、徐々に自己の民族としての存在に覚醒し、チェコ人を先頭に自立要求を強めて行った。その結果、帝国の遠心分離的傾向は強まる。繋ぎ止めるのは、ハンガリー王を兼ねた皇帝のみであった。
1888年・89年に階級政党として結成された社会民主党にも、この傾向は及んだ。党内では各民族グループの自立傾向が強まり、党は民族別の党と、戦略問題を担当する全国党とに分化する(1897年)。社会民主党もまた、民族問題に取り組まざるを得なくなった。その結果が、1899年のブリュン民族綱領(Berchtold 1967, pp.144f.)と呼ばれる帝国再編案である。
現実の帝国は支配家のハープスブルク家が我がものとした領邦を一つひとつ付け加えたものであり、その民族分布はモザイクであった。ブリュン民族綱領の主張は、歴史的に成立した領邦における支配者の既得権を廃して、民族分布に可能な限り配慮しつつ、帝国を幾つもの領域的民族国家に再編すること、さらに、これらを統括する民主的連邦国家を設けること、であった。
しかし、カール・レンナーの目に、この構想は不十分なものと映った(Synopticus=Renner 1899, p.20)。民族分布を慎重に考慮しながら国土分割を行い、諸民族国家と連邦国家を設けたとしても、実際の言語的・民族的分裂や、歴史及び民族に由来する衝突を考えれば、民族紛争が除去されることはなく、むしろ、それを作り出し深刻化させる、とレンナーは批判する。彼は、民族とその領土要求を徹底的に切り離そうとする。
その手立ては「属人主義」と呼ばれる原理であった。人々に自分が所属すると考える民族を選択させ、同一民族の人間たちが構成する、領域を持たない民族国家群を設ける。これが文化・教育・言語領域の民族行政を担う。この民族国家群と並列して設けられる、領域を持つ領域国家群は、民族国家群が担わない一般行政を引き受ける。その上で、こうした二つの国家群を統括する、民族を超越した中央政治権力(連邦政府)が構想される。レンナーの意図は、帝国の持つ有機的な経済関係を維持しながら、民族紛争の種を可能な限り排除することであった。
同時期のオットー・バウアーもまたレンナーに倣い、属人主義を採用したが、適用の場は、ブリュン民族綱領が想定した各領域的民族国家に存在する少数民族の自治団体だけであった。通常、レンナーとバウアーは属人主義で括られるが、それは二人の構想の重大な相違を等閑視することになる(参照 太田 2019, pp.7ff.)。レンナーは民族と領域を徹底的に切り離し、一民族=一国家の民族性原理を克服しようとしたが、バウアーはブリュン綱領に倣い、同原理を連邦国家の内で基本的に容認していた。
ところが、やがてバウアーは、民族自決へと転換を図る。つまり、帝国の民族集団が分離・独立する権利を容認する路線である。
2.合邦論の生成⸺バウアーのレンナー構想批判と民族自決容認へ
二人の決裂は、1917年の夏に公然となった。合邦論もまた、ここで姿を現す。
予備役将校だったバウアーは、第一次大戦勃発(1914年)とともに招集され、東部戦線に赴いた。同年11月にはロシア軍の捕虜となり、シベリアの捕虜収容所に送られる(cf. Hanisch 2011, pp.86ff.)。1917年夏の捕虜交換で帰国。レンナーが推進していた城内平和路線に異議を唱えるとともに、民族自決を唱えるようになった。党内ではバウアーを核にして左派が形成された。彼らは、民族問題が社会主義への道を妨げる、したがって、民族解放闘争を躊躇なく支援する義務、すなわち、完全な自決権要求の義務が生ずる、と考えた。これを定式化したのが1918年1月の「左翼民族綱領」(Berchtold 1967, pp.158ff.)である。
この「民族綱領」は同時に、ドイツとの「合邦」の意思を初めて公にした文書でもあった。つまり、民族自決権是認のロジカルな帰結として、二重帝国のドイツ民族にも同様の権利を要求した(Berchtold 1967, p.162)。
これに対しレンナーは、1918年10月末になっても、民族自治を基盤とする君主制の連邦国家構想に肩入れしていた。歴史が既にドナウ帝国を置き去りにしようとしていた時、レンナーはいまだ深くこの帝国に根を下ろしたままであった(cf. Hannak 1965, p.154)。
レンナーはその著『オーストリアの更新』(1916年)序文(Renner 1916, Vorwort v. 1. Bd., pp.V-VI)で、超民族国家――それは、単一民族国家に対し、歴史的にはるかに優位に立つと考えられる――の存在と、その必要性について自分が深く確信していることを強調していた。レンナーの思想的根幹は、諸民族が併存する国家、「君主を奉戴する大規模な民主的スイス」であった。
レンナーの思想理解に必須となる彼の経済構想、すなわち、大規模経済圏(=エクメーネまたは生存領域)構想について付記する。(彼が1918年・19年に合邦路線に転換するにあたって、これが重要な役割を果たした)。レンナーが社会民主党において、フリードリヒ・ナウマンの唱えるドイツ主導の「中欧」構想(cf. Herzfeld 2013, pp.134f.)を擁護する人物であることが、第一次世界大戦中に明らかになった。
ナウマンを批判する社会主義者たち(例えばヒルファディング)が、ナウマン構想にはドイツの覇権が見え隠れするとして、その帝国主義的な意図を非難したのに対して、レンナーはナウマンの「経済領域拡大という認識」を評価していた(Renner 1916, 1.Bd. p.151; cf. Pelinka 1989, pp.21f.[邦訳pp.22f.])。彼は先述のように、未来は単一民族国家でなく、大規模な超民族国家にある、と考えていた(Renner 1918; cf. Nasko 2016, p.145 [邦訳p.92])。レンナーは、ナウマン流の大規模な中欧の連合が、経済的な観点から言えば、国家のない大規模な社会主義世界共同体に向かう一歩になる、とまで述べた。レンナーはそれを信じていた(Kann 1964, p.258)。
3.合邦政策の遂行と破綻、合邦の理念化
合邦の第二段階は、1918年の帝国崩壊から1938年のオーストリア併合までの時期(第一共和国)に当たる。第一次大戦敗北の結果、帝国は崩壊した。オーストリアのドイツ人は、呆然自失の態で放り出される。この混乱の中で合邦論を主導したバウアーが党の指導者として認められ、また外相として合邦政策を担ったのである(1918年11月から翌年半ばまで)。
遡って大戦末期、敗色の濃厚な中で、オーストリアの行方は定まらなかった。大戦後の国制は、君主国か共和国か?しかし、諸民族の国家及び国土(領域)を求める意思は、そのような思惑をとうに乗り越えていた。そして大戦の帰趨が明らかになるにつれ、諸民族によるドイツ人(=ドイツ系オーストリア人)からの分離は、ますますはっきりとなった。大戦の敗北は、この遠心分離を単に決定的にしただけであった。各民族は、独立を果たして民族国家を形成したり、周辺に存在する同一民族の国家に合流したりした。
しかし、レンナーは、帝国の存続そのものが問われ、所属した社会民主党が大勢として民族自決路線に傾斜していった時にも、最後の最後まで同路線とドイツとの合邦に抵抗していた。だが、そのレンナーが土壇場で党の流れに乗った。「転向」と言ってもよい。1918年の10月・11月のことである。
1918年11月9日、ドイツが共和国宣言を行い、やっとウィーンでも帝政から共和制へと舵が切られた。ついにレンナーもバウアー路線を受け入れ、帝国保持の路線を放棄した。この急激な転換は、周りを唖然とさせた。だが、大規模経済領域に賛同するレンナーであってみれば、帝国の有機的経済圏崩壊が生んだ空隙を埋めるものは拡大ドイツである、と考えたとしても不思議ではない(cf. Hannak 1965, p.347)。レンナー自身は、この点について何も証言を残していないが、経済領域の代替というファクターを加味することで「転向」の意外性は大きく緩和される。
11月11日になって皇帝の「国事参加放棄」宣言(事実上の退位宣言)が出された。翌11月12日、ドイツオーストリア(註1)暫定国民議会は、共和国宣言の法案(レンナー起草の暫定憲法案)を可決する。その第二条「ドイツオーストリアは、ドイツ共和国の一部である」によって、ドイツとの合邦の意思が公式に表明された。同日、ドイツオーストリア共和国宣言も出された。
レンナーは、合邦路線に加わるのが一息遅れたが、「残り物」(仏首相クレマンソーの言葉)のドイツオーストリア共和国首相として、従来持っていた帝国オーストリアへの帰属意識を棄て、熱心にドイツとの合邦を訴えるようになった。レンナーは、ドイツとの一体化を求めるドイツ民族主義を前面に押し出すようになり、その後一貫して合邦路線を追求する(Renner Feb.1930, p.52)。
ドイツとの合邦、すなわち、同じドイツ人としてワイマール・ドイツと一体になることは、民族主義の観点から極めて自然なだけではなく、経済的にも必然であるとされた(諸民族国家の成立により、経済的生き残りの可能性が限りなくゼロに近いと思念されたオーストリアの、唯一可能な脱出口は合邦とされた)。さらにバウアーの場合、「大ドイツ」が社会主義への展望を大きく切り開くもの、と考えられた。「ここ[オーストリア]では人口の大多数は農民で、国民経済が社会主義のために成熟していない。ドイツとの合邦は、我々を一つの共同体に導く。そこでは、社会主義の客観的な諸前提が既にすべて満たされている」(Bauer Oct.1918, p.282)。
その上、合邦要求には講和交渉を睨んだ思惑もあった。ドイツオーストリア共和国が、崩壊したハープスブルク帝国の継承国として、戦時賠償を単独で背負わされるのではないか、という懸念である。合邦はそれを免れさせてくれるのではないか、と期待された(cf. Kann 1977, p.448)。だが、既に1918年12月29日、フランス議会でフランス外相S・ピションが合邦反対の態度を鮮明にした。バウアー自身も、この時点で既に合邦破綻の可能性を予感したように思わる(cf. Panzenböck 1985, p.130[邦訳 p.111])。
1918年3月、外相バウアーは自らベルリンに赴いて、ドイツと秘密裏の交渉を行った。ドイツ側担当者の対応は好意的ではあったが、交渉そのものに大きな進展は見られなかった。当時のドイツの関心がもっぱら戦勝国との講和交渉と賠償にあったからである。当然のことながら、合邦の優先度は低いものとなり、さらに、オーストリアが期待した経済援助についてもドイツの無い袖は振りようがなかった。
結局のところ、合邦路線は袋小路に入り込んだ。バウアーは、7月末に外相を辞任する。首相レンナーが外相兼任でサン・ジェルマンの講和交渉に臨んだ。講和条約は、オーストリアのドイツ人に対して民族自決と合邦を拒む。国名も「ドイツオーストリア」から「ドイツ」が消えて「オーストリア」にせざるを得なかった。戦勝国は、敗戦国ドイツが合邦によって領土を拡張することを決して許さなかったのである。
だが、合邦がそのまま消え去ったわけではなかった。引き続き、合邦は理念として、願望として追い求められた。また、公理として社会民主党のその後の行動に強い影響を及ぼした。
戦間期のリンツ綱領(1926年11月)はいう。「社会民主党は、ドイツオーストリア[ママ]のドイツとの合邦が1918年に起きた民族革命の完結であると見なす。党は、平和的手段をもってドイツ共和国との合邦に尽力する」(Berchtold 1967, p.264)。社会民主党は、あくまで合邦理念に忠実であった。
ところが、1933年3月、ドイツでナチスが独裁権力を確立した。その後、オーストリアは、ナチスの大領域指向あるいは生存圏構想の関心の的になる。社会民主党は、合邦構想の再考を余儀なくされる。1933年10月の党大会では、リンツ綱領の合邦条項削除を行った(Berchtold 1967, p.264)。(註2)
他方、同じ1933年3月にウィーンで権力を掌握したオーストロファシズム政権は、イタリアのムッソリーニを後ろ盾にして、ドイツからの独立を保持しようとした。この政権と対峙した社会民主党勢力は、1934年2月の蜂起で敗北する。バウアーは逃れ、レンナーは国家反逆罪の容疑で100日ほど逮捕・勾留された。(彼は釈放後、政界から身を引き、ニーダーエスタライヒ州グログニッツの別荘に1945年の再登場まで隠棲する)。
ところが、ナチ・ドイツが東方へ進出しようとして、最初の目標をオーストリアに定めたのを見て、レンナーは隠棲の身でありながら、戦勝国、特にフランスに対してオーストリアへの支援要請を行った。このレンナーの行動を、どのように理解すべきであろうか? 彼がオーストリア・ネーション(民族)の原理的信奉者に変わったか、というと、違うと思われる。これは、明らかに合邦論者としてのレンナーと矛盾している。間もなく、レンナー自らがこの矛盾を正す。ただ、そのやり方は、政治的に非常に危険なものであった。
4.ナチ・ドイツによるオーストリア「合邦」とその評価
合邦の第三段階は、ドイツによるオーストリア併合以降の時期に当たる。1938年3月12日、ヒトラー・ドイツが国境を越えて軍事侵攻し、1918年以来、独立の共和国だったオーストリアを「合邦」した。(その結果、オーストリアは、1945年まで国家としての存在を葬られる)。
レンナーは、軍事的に完了した「合邦」(=併合)を目撃して、その既成事実の咀嚼を迫られた。彼は、1938年4月10日に予定された、「合邦」の賛否を問う国民投票を前に『新ウィーン日報』紙Neues Wiener Tagblatt(4月3日)のインタヴューに応じた(全文は、ナスコ 2015, 付録2 pp.122-125)。レンナーは、積極的に「合邦」賛成を打ち出したのである。曰く、その方法はともかく、これはサン・ジェルマン講和条約がオーストリアのドイツ人に禁じた民族自決の実現ではないのか、と。
では、なぜ、レンナーが併合=「合邦」に賛成したのか? それは、強制されたものであったのか、それとも自発的なものであったのか? また、理由は何だったのか? これについて、従来からさまざまな説が唱えられて来た(Nasko 2016, pp.323f.[邦訳pp.256f.])。中でも有力と考えられるのは、①レンナー自身が語った自己保身説(Renner 1945, p.7)と、②ドイツ民族主義の立場に立った「確信犯」説である。①の根拠は、レンナーの1945年の言明である。曰く、自分の首相その他の経験が将来生きることもあろう、と考えて保身に努めた、と。
一方②「確信犯」説は、先に紹介した「合邦」賛成インタヴューの数日後、レンナーがある友人に、自分は信念にしたがって行動したのだ、とはっきり語ったことによる。これを機に友情は損なわれた(ナスコ 2015, p.77)。さらに、レンナーはまた、1938年5月、英国の雑誌『ワールド・レビュー』World Reviewに寄稿して、自分がなぜ賛成票を投じたかを詳しく説明した(Nasko 1982, pp.133-137)。曰く、併合も「合邦」であり、民族自決の実現だから、と。ここには、1918年11月初旬以降、つまり、レンナーが帝国護持から民族自決路線に「転向」して以降の一貫性がある、ともいえる。また、強制による賛成表明という憶測にはっきり反論した。自分は強いられた状態ではなく、まったく自由に意見表明を行った、と。ただし、自分が決してナチスに転向したわけではないことも併せて言明した。
他方、バウアーは、レンナーの「合邦」賛成を厳しく批判する。1918・19年に叫ばれたヴァイマール・ドイツとの「合邦」と、ナチ・ドイツによる占領=「合邦」とを「民族自決」の名のもとに同一視するのは大きな誤りだ、と(Bauer June 1938 [2 June 1938], pp.854f.)。
では、バウアー自身の合邦路線とドイツ民族主義は、どのようなものであったろうか? 実は1917年以降、まったく変わるところがなかったのである。ドイツ社会主義革命の条件となる「大ドイツ」を創出するために、歴史的使命として合邦を追求しなければならない、という立場である(Bauer 1920, p.1027)。マルクス主義者らしく、社会主義が目的であり、民族統一はそのための手段に過ぎなかった(cf. Panzenböck 1985, pp.159f.[邦訳 p.139])。
「オーストリア人なるもの」は、バウアーには、いかなる意味でも無縁であった(Bauer 1937, p.691)。彼は死の前月(1938年6月)にもオーストリア共産党――オーストリア人はドイツ人ではなく固有の民族である、と主張した――を厳しく批判し、オーストリアの独立などというスローガンは反動的であり、呼びかけは全ドイツ革命でなければならない、と改めて主張した(Bauer June 1938, p.854, p.860)。
5.合邦理念の破綻
レンナーの二度目の「転向」に話を移そう。合邦の最終段階である。レンナーは、1918年末以来、ドイツ民族主義と民族自決原理を一貫して主張した。ナチ・ドイツによる「合邦」に対してすら公然と賛意を表明した。ところが、彼は戦争を生き延びる過程で徐々に合邦論を捨て、最終的にオーストリア・ネーション(民族)を唱える。第二次世界大戦の間に、固有性・独自性を持った民族としてのオーストリア人に「回心」する(Renner 1953, p.205)。「オーストリア民族」を唱える先駆者として、カール・ヴィンター(カトリックの背景を持つ)やエルンスト・クラール(共産党)はいたが、レンナーは社会民主主義者として、この転換を比較的早く行った一人といえる。
レンナーの二度目の「転向」、すなわち「ドイツ人」としての自己認識から、固有の「オーストリア人」としての自己認識への転換がいつ行われたのか、合邦論がいつ放棄されたのか、これを確定することは容易ではない。だが、大枠でいえば、1940年代前半、あるいは、もう少し狭めて、1943年11月の、オーストリア再興を謳うモスクワ宣言以降に行われた、ということになろう(cf. Panzenböck 1985, p.218[邦訳 p.178])。レンナーは、演繹よりも帰納の人であり、隠棲したグログニッツの別荘からオーストリアの動向をじっくりと観察し、ゆっくりと「合邦」放棄を準備した、と想定される。
レンナーは、1945年4月27日、暫定政府首班に就任し、同月30日、首相官邸の職員を前に自らの「回心」を披歴した。
「世界の三大国[米・英・ソ連]は、独立したオーストリアを再興することで一致しました。……私どもの選択肢は、合邦の考えを自ら捨て去ることを置いて他にありません。……私どもは、自分が何に帰属しているかを知らねばなりません」(引用は、ナスコ 2015, p.95より)。
「自ら合邦の考えを捨て去ること」は、これまで自分たちが帰属すると考えてきたドイツ民族に属する者でないことを宣言することであった。自分たちは何に帰属するのか? レンナーは1946年、メルクで開催されたオーストリア建国950周年式典でこの問に答えた。自分たちはオーストリア民族(Nation)に帰属する、と(Renner 1946, p.14)。
まとめ
1938年に「合邦」に公に賛意を表明していたレンナーは、1918年から四半世紀以上保持した考えを覆して、オーストリアの固有性と独自性を主張するに至った。ここに社会民主党の合邦論は終焉を迎える。間接的ではあれ、多大な不幸をもたらした一つの理念が死んだのである。
しかしながら、1938年の「合邦」に支持を表明したレンナーへの批判は、今なお完全に収束しない。今もオーストリア史の「しこり」として残り続ける。
【脚註】
註1 分離ないし独立した諸民族の形成した民族国家を二重帝国から差し引いた、ドイツ人の「残り物」国家である。ただし、現在のオーストリアに止まらず、チェコ共和国に取り込まれたドイツ人集住地域も未だ含んでいた。
註2 ただし、この削除は、社会民主党における合邦路線の根本的な転換を意味するものではなかった。それは、状況が強いる政治上の要請にしたがったもの、と考えられる。その後、レンナーやバウアーの行った、一九三八年のオーストリア併合への対応を見れば明らかなように、従来の路線は変わることなく堅持された、と考えるべきである(cf. Hoor 1966, p.116)。
【引用文献】
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・Bauer, Otto (1920),“Der alte und neue Linke”in Der Kampf, Vol.13 (July), in: Bauer, Otto (1980), WA, Vol.8, Europa Verlag, pp.1021-1037.
・Bauer, Otto (1937),“Der Sozialismus und die deutsche Frage”in Der Kampf, Vol.4 No.1, in: Bauer, Otto (1980), WA, Vol.9, Europa Verlag, pp.683-692.
・Bauer, Otto (June 1938),“Nach der Annexion”in Der Sozialistische Kampf (Paris) No. 1, in: Bauer, Otto (1980), WA, Vol.9, Europa Verlag, pp.853-860.
・Berchtold, Klaus (1967) Hrsg., Ӧsterreichische Parteiprogramme 1868-1966, Verlag für Geschichte und Politik.
・Bruckmüller, Ernst (2001), Sozialgeschichte Ősterreichs, Verlag für die Geschichte und Politik.
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・Hannak, Jacque (1965), Karl Renner und seine Zeit. Versuch einer Biographie, Europa Verlag.
・Herzfeld, W. D. (2013), Franz Rosenzweig, >>Mitteleuropa<< und der Erste Weltkrieg, Verlag Karl Alber.
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・Kann, Robert A. (1977), Geschichite des Habsburgerreiches 1526-1918, Hermann Böhlaus Nachf.
・Nasko, Siegfried (1982) Hrsg., Karl Renner in Dokumenten und Erinnerungen, Bundesverlag.
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・Panzenböck, Ernst (1985), Ein deutscher Traum. Die Anschlußidee und Anschlußpolitik bei Karl Renner und Otto Bauer, Europaverlag; E・パンツェンベック 青山孝徳 訳(2022) 『一つのドイツの夢――カール・レンナーとオットー・バウアーにおける合邦思想と合邦政策――』御茶の水書房.
・Pelinka, Anton (1989), Karl Renner zur Einführung, Junius Verlag; A・ぺリンカ 青山孝徳 訳(2020)『カール・レンナー入門』成文社.
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・太田仁樹(2019)「研究ノート カール・レンナーの属人的民族的自治論と二元的連邦国家構想」『岡山大学経済学会雑誌』50(3),2019
・S・ナスコ(2015)青山孝徳 訳『カール・レンナー 1870-1950』成文社 2015.
本稿は、ポストマルクス研究会会員の方からの寄稿論文です(現代の理論編集部)
あおやま・たかのり
1949年生まれ。1980年、名古屋大学大学院経済学研究科博士課程単位取得により退学。名古屋大学経済学部助手を経て、1983年より2014年まで独・米・日企業勤務。ドイツ、オーストリア社会思想史研究。論文:「オーストリア社会化とオットー・バウアー」(『経済科学』Vol.29 No.1/1981);「1945年のカール・レンナー ⸺スターリンのレンナー探索説とその真相」(『アリーナ』No.20/2017)等。訳書:ジークフリート・ナスコ『カール・レンナー⸺その蹉跌と再生』(成文社 2019);アルベルト・フックス『世紀末オーストリア1867-1918 よみがえる思想のパノラマ』(昭和堂 2019);エルンスト・パンツェンベック『一つのドイツの夢 カール・レンナーとオットー・バウアーにおける合邦思想と合邦政策』(御茶の水書房2022)等。
論壇
- ジョン・デューイの急進的リベラリズムと生活様式としての民主主義関西大学名誉教授・若森 章孝
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