論壇
伝統・文化理解教育とナショナリズム(上)
筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹
1.帝国主義世界体制の変容(=グローバル化)とナショナリズムの醸成
2.教育基本法の改悪と愛国心の強調
3.「日本の伝統・文化理解教育」の推進(略)
4.明治政府による国境の確定(以上、本号に掲載)
5.「日本人」の創出(以下、次号に掲載)
6.「日本の伝統・文化」の核心としての天皇文化
7.おわりに
この拙文は、翰林大学校日本學研究所の『翰林日本學』第40輯(2022年5月)に掲載されたものです。同研究所の許可を得て転載します。なお、編集担当からの短縮してほしいとの要請により第3節を省略しました(千本)
1.帝国主義世界体制の変容(=グローバル化)とナショナリズムの醸成
今、多くの国の政府が、ナショナリズムの鼓吹を強化している。その背景は現代帝国主義の変容である。1960年代までは古典的なブロック経済を形成する傾向にあったが、一時期、アメリカとソ連を中心とするふたつの帝国体制となり、ソ連の崩壊によって、アメリカを頂点としてそれに追随する諸国家が融合するひとつの帝国主義体制に再編された。G7 体制である。
日本も1970年代までは韓国や東南アジアで、旧来のような経済侵略を展開しようとしたが、各地で反日闘争に見舞われ、方向を転換せざるをえなくなった。また、帝国主義の運命として、支配する地域の民衆の購買力を上昇させざるをえず、いわゆる第3世界の経済力は急速に発展した。それらの地域の労働賃金は上昇して、帝国主義にとっての収奪のうまみは減少する。
各国の資本家たちは生産拠点を旧第3世界に移転するなどして切り抜けようとし、とりわけ大資本は国家の枠組みを越えて国際的に展開し、いわゆる「グローバル化」という状況を現出した。国家を超えて活動する大資本家にとって、愛国心は無縁のものであり、タックスヘイブンなどを利用して国家への納税を回避する。そのような行為は王族にまで広がっている。一部の資産家は超高額の美術品を投機目的で購入し、各地の「フリーポート」(課税されない倉庫)に置いたまま転売して利益を得、次の所有者もそこから移動させないために、それらの美術品は半永久的に一般の目には触れないだろうと危惧されている。
また、旧植民地からの利益の減少を補うために、帝国主義本国における労働者の搾取を強化する。その準備として、まず労働者の組織的抵抗力を奪うことをもくろむ。日本では1975年、戦後労働運動の先頭に立ってきた国鉄労働組合への攻撃から始まった。国鉄の分割民営化は、国鉄労働組合の解体と、国鉄資産の大資本による山分けを狙ったものであった。労働組合への組織的攻撃は、1989年の連合(日本労働組合総連合会)の設立で一段落する。
注目すべきは、労働者派遣法(1985年公布)と男女雇用機会均等法(1986年公布)である。労働者派遣事業は現在でも労働基準法によって原則禁止されているから、かつては暴力団によって非合法的に行なわれてきたが、政府はこれを特別な能力を持った人物が高給で雇用される場合に限定して認めることでくぐりぬけ、数度の改悪を経て、ほとんどの業種で、いつでも解雇できる低賃金労働者を大量に生み出すことに成功した。
男女雇用機会均等法は、男女平等を前進させたものとして、現在でも高く評価される場合が多いが、その本質は女性に対する母性保護を後退させる労働基準法の改悪にあった。「均等」法といいながら、男性はすべて総合職、男性並みに働いて出世したい一部の女性だけが総合職で多くの女性は一般職、総合職女性には転勤や夜勤を強制して結婚や出産を困難にさせる。「女でもあんなに働いているのだから、男はもっと働け」と女性差別を梃子に男性にも労働強化を強いる。均等法は女性のあいだに、男女のあいだに分断を持ち込み、労働強化をもたらした。また女性解放運動においても、均等法に反対する女性解放派と賛成する男女平等派という分裂を持ち込んだ。
以上のような1970年代から1980年代の動きは、1990年代初頭のバブル経済の崩壊とあいまって、その後長く続く実質賃金、名目賃金の低落という結果を招いた。
総理府は毎年「国民生活に関する世論調査」を実施し、自分を上流、中流、下流のいずれかと考えるかの回答を求めているが、中流との回答が90%前後を維持し、2014年でも93%以上を示している。もっともこれは、「上、中の上、中の中、中の下、下」からの5択であって、「中」の回答を多くすることによって「日本国民は満足している」と主張したい政府の下心が見えすぎる詐欺的な調査であるが、橋本健二は著書『中流崩壊』(朝日選書、2020)で反論している。橋本は等価所得によって階層を4分割し、自分を「人並みより上」と考える人が富裕層、相対的富裕層で、この階層はこの10年間で急増し、相対的貧困層、貧困層では「人並みより上」と考える人は減少していることから、階層帰属意識は明確に分解しているというのである。
戦後日本は、朝鮮戦争特需によって経済復興をはたし、それに続いてベトナム戦争特需をも利用して高度経済成長をなしとげた。他国の不幸を利用して日本は経済大国化したのである。それまで日本の労働者は、帝国主義本国の労働者として侵略のおこぼれにあずかっていたが、上記のような帝国主義体制の変容によって、資本による直接の搾取の強化にさらされることになった。90%以上の人々が中流と考える「中流の幻想」がはびこりつづけながらも、ジニ係数を見れば、いわゆる先進国のなかでは貧富の格差が大きい国となっている。行政やマスコミは「格差の拡大」と、現象面だけを見る欺瞞的な用語を使っているが、橋本健二がいうように、「階層帰属意識」の分解であり、正確にいえば「階級の分化」である。失敗すれば再挑戦が許されない社会でもある。
階級対立の激化は、政府にとっては危機である。帝国主義体制の変容によって各国で階級の分化が進行している。日本の場合、労働組合を弱体化させることに成功したから、労働者の階級意識、すなわち現在の社会を支えているのは自分たち労働者であり、労働者が主人公の社会に作り変えるのだという自覚は希薄になっている。しかし国家内部に和解が不可能な対立があることは、一国単位で成立している政府にとっては危機である。その対立を覆い隠す最大の武器が愛国心なのである。特に政府を支えるはずの資本家階級に愛国心が希薄になっている現在、政府による愛国心の鼓吹が急務となってくる。
戦後、吉田茂内閣が軽武装・経済大国化を目指したのに対して、岸信介首相は1960年、安保条約の改定によって、日米関係をより対等なものに近づけようともくろんだ。2015年の安倍内閣による集団的自衛権を承認する安保体制の改悪は、祖父の岸首相の課題意識の延長線上にある。アメリカを頂点とする帝国主義体制のなかで、より上位の地位を獲得したいという願望のあらわれである。60年安保にしても、安倍安保法制にしても、アメリカの戦争に日本が巻き込まれるという批判が多かったが、それは的はずれである。アメリカ合衆国はベトナム戦争の敗北などによって、弱体化はしたが、6500発の核兵器とドル通貨体制によって世界の覇者としての地位をなんとか維持している。その体制のなかで、日本をより上昇させようというのである。
安倍晋三はもとより核武装論者であり、首相在任中はその発言を控えていたが、退任すると、米軍の核兵器の日米共同運用を可能にしたいという趣旨の発言をした。日本独自の核武装をあきらめたのではないだろうが、日本が米軍の核兵器を使用するということこそ、帝国主義の一体化を象徴している。安倍内閣時代に軍用機をはじめとする米軍の中古装備品を大量に購入したのもその一環である。
2.教育基本法の改悪と愛国心の強調
帝国主義体制のなかでより高い地位を占めるためには、国内の対立を覆い隠し、国民の国家への統合を強めなければならない。権力を強化しようとする政府が、軍事力の強化とともに教育を活用するのは、どの国にも共通している。安倍内閣が踏み切ったのは教育基本法の改悪による愛国心教育と、その具体策としての「日本の伝統・文化理解教育」である。
その前に触れておきたいことは、教育と政府の関係についての条文の変化である。1947年教育基本法では、「教育行政」として次のように規定されていた。
第10条 教育は不当な支配に屈することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。
2006年教育基本法では、次のように改められた。
第16条 教育は不当な支配に屈することなく、この法律および他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適切に行われなければならない。
2 国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し実施しなければならない。
3,4 (略)
1947年基本法では、教育行政は「教育の目的」に従属するものであったのに対して、2006年基本法では、国が教育に関する施策を策定し、国が「公正かつ適切」と考える教育行政に変わったのである。これでは政府による「不当な支配」を容認することになる。
さて本題の愛国心教育に戻ろう。2006年基本法は「教育の目標」として5項目を列挙した。
第2条(教育の目標)
5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
ここで問題にすべきは、「国」と「郷土」を並列して、それを「愛する……態度」としていることである。まず、「国を愛すること」と、「郷土を愛すること」はまったく次元の異なる問題である。「国」は人々を統合して国民に作りあげ、支配する装置である。たとえばヨーロッパでも、ひとつひとつの国の領域も国名も頻繁に変化してきた。ハンガリーはあるときは巨大な帝国であった。一方「郷土」とは、わたしにとっての瀬戸内がそうであるように、その気候、風土、人々の気質など、愛するかどうかを越えて、わたしの人格と切り離せないものである。故郷を追われた人の場合、郷土を憎む場合もあるだろう。
第二次大戦末期、特攻攻撃を命じられた青年が国や天皇のために無駄死にすることに納得できず、「愛する家族を、ふるさとを守るために死ぬのだ」と無理に自分をごまかした論理と、2006年基本法の論法は同一である。郷土と国の位相の違いに無関心な人に対して、「郷土を愛する者は国を愛して当然だ」と愛国心を強制するのである。
「良き愛国心」と「悪しき愛国心」を区別する言説がある。「良き愛国心」とは、愛国心を愛郷心の延長上に据えているのであろうが、それは中国のように広大な面積の国では、郷土と国家の位相が違いすぎて、愛郷心と愛国心が結びつかない。中国人は愛郷心が強いのに愛国心が希薄であるといわれるゆえんであろう。やはり広大なロシアでは、愛国心が強いともいわれるが、それはロシア人が強大な国家を求める傾向が強いからであろう。
日本で郷土の延長で国家が捉えられやすいのは、戦前の郷土史が、「我が郷土がどれほど天皇に貢献したか」という視点で語られたように、皇民教育の残滓であるのではないだろうか。わたしはどちらかといえば、リージョナリズムは国家主義の出発点であるという、愛郷心と愛国心を合わせて批判する主張のほうに関心がある。韓国の地域対立はその好例であろう。
もう一つの問題は、愛国心を持つものこそが他国を尊重できるという論理である。これは、1999年に日の丸と「君が代」を国旗・国歌と法律で定めたときに、政府が使った論理である。「日本に誇りを持つものが他国を尊重できる」ともいわれた。
しかし、もっとも愛国者であるはずの人々がヘイトスピーチ、ヘイトクライムを繰りかえすのはなぜか。「日本人である」ということだけで誇りを持つとすれば、それは他民族への優越感、蔑視、差別に直結する。
現代日本の若者に自己尊重意識が弱いと危惧する意見が聞かれる。就職難のなかで、たしのような者でも採用してくれるならどこでも良い」、という卑下傾向がそうさせているともいわれる。自己尊重と「誇り」は混同されやすい。1922年の全国水平社宣言にある「吾々がエタであることを誇り得る時がきたのだ」という「誇り」は、自己尊重であって、他者への差別につながる「誇り」ではない。全国水平社宣言は、冒頭の直後に、互いに尊敬する事によって自らを解放すると述べている。水平社のひとびとが「誇り得る」のは、差別と闘ってきた歴史を持っているからである。「エタ」であることだけで誇り得るのではない。差別してきた側が差別してきた対象と相互に尊敬できる関係になるためには、それなりの営みが必要である。
日本人であるというだけで誇りが持てるわけではない。日本という国も民衆を支配する装置であるがそれはさておくとしても、日本という国が持つ負の歴史を総括し、それを日本人全体で共有できないでいる現在だからこそ、日本人であるということだけで誇りを持つことが容易に他民族差別に直結するのである。
3.「日本の伝統・文化理解教育」の推進(略)
4.明治政府による国境の確定
明治維新によって成立した中央集権国家は、欧米の近代国家と同様に、国境の確定を始める。北方についてはすでに徳川幕府がロシアとのあいだで、何度か条約や協定を結んで、国境を調整していた。安政元年12月(1855年2月)の日露和親条約では、千島列島についてエトロフ島とウルップ島の間を日露国境とし、サハリン島については国境を定めることができなかった。また慶応3年(1867年)の仮樺太規約でも、サハリン島は日露雑居の地となっている。維新後、1875年に結ばれた樺太・千島交換条約では、千島全島を日本領とするかわりに、サハリン島をロシア領とした。さらに日露戦争後のポーツマス条約で、サハリン島の北緯50度以南、すなわち島の南半分が日本領となった。第二次大戦後のサンフランシスコ条約において、日本は千島列島とサハリン島の領有を放棄した。その後、ソ連・ロシア政府と日本政府の間で対立しているのは、クナシリ島・エトロフ島・色丹島・歯舞群島が千島列島に含まれるか否かである。
明治維新まで、サハリン島・千島列島から東北地方北部にいたる地域には、縄文文化の系譜をひいて13世紀ごろ民族を形成したアイヌ民族が居住しており、北海道以北は江戸時代まで蝦夷地と呼ばれていた。アイヌのことばでは「アイヌモシリ」であり、「人間の大地」を意味する。彼らは世界の先住民族と同じく、国家の形成を必要としなかった。そのため、日本とロシアが、最初に領土宣言をした国がその地域や島を領有できるという帝国主義の作法に従って、居住するアイヌ民族の意向を無視して分捕り合戦を行なったのである。日本政府がいう「北方領土は日本固有の領土」という表現は帝国主義の価値観であって、道義的にはまったく根拠がない。さらにいえば、明治2年に新政府が名づけた北海道も、またシベリアも日本やロシアの「固有の領土」ではないのである。
江戸時代、蝦夷地最南端には松前氏がわずかな領地を持ち、蝦夷地各地に「商場(あきないば)」を設定して、家臣と和人の商人がアイヌ民族とのあいだで差別的な交易を行なっていた。これを「商場知行制」と呼ぶ。18世紀初頭にはこれが「場所請負制」に変化する。交易拠点である「場所」を家臣に与え、そこで和人商人がアイヌ男性を奴隷的に使役して漁業などを営み、多大な利益を得て、松前氏に納税した。アイヌ女性たちは和人の性のなぐさみものとされた。アイヌ民族の抵抗は松前氏と幕府に弾圧され、アイヌの人びとは和人に反感を持つとともに、ロシア正教の宣教師に親近感を持つようになった。
それに危機感を覚えた徳川幕府は18世紀末松前氏を武蔵に移封し、蝦夷地を直轄地とする。幕府は経済的収奪を緩和し、同化政策に転じた。和風の服装や髪形を推奨し、和風の名を名乗らせ、和風の生活を強いたのである。
松前氏による異化政策と徹底した経済的収奪、幕府による同化政策は、後の帝国主義による植民地支配のふたつの方法の原型が見てとれる。西洋帝国主義の植民地支配は異化政策と経済的収奪が基本であったが、日本帝国主義は経済的収奪とともに同化政策を展開した。1910年代の朝鮮総督府による武断統治は前者であり、1920年代以降の文化統治は後者である。
日本の学校歴史教育の結果、文化統治は武断統治よりましな支配の方法であるという誤解が教わる側に存在し、教員にも同じ誤解があるように見受けられる。しかし、インドネシアの留学生3名と雑談しているとき、「インドネシアの人びとは、日本とオランダのどちらに反感が強いの?」と質問すると、口をそろえて「日本です」と答えた。ともに経済的収奪は行ったが、日本は同化政策であり、オランダは異化政策であった。オランダによる支配の方が圧倒的に長く、また太平洋戦争終結後、オランダがインドネシアの再占領をもくろんで派兵したとき、日本軍は独立をめざすインドネシアの人びととともに戦ったにもかかわらず、である。わずかに3人の意見であって、インドネシア国民を代表するものといえないだろうが、日本に留学してきたばかりで、反日派ではない若者の考えである。同化政策にはそれほど強い反感が持たれることを、帝国主義の側はほとんど自覚していない。それは、西洋言語とキリスト教を強制した西洋帝国主義でも、日本と同様に、あるいは日本以上に顕著かもしれない。
日本列島の西南側はどうか。1429年、沖縄島ではそれまで北山・中山・南山と、三人の王が割拠していたが、中山王が統一し、琉球諸島の他の島々を従えて琉球王国が成立した。1609年、薩摩島津氏が武力侵攻し、奄美地方を割きとるとともに、内政を監督下に置いて、島津氏の「附庸国」とされたが、島津氏の目的が琉球と中国の貿易による利益をかすめ取ることにあったので、琉球王国の形式的独立は維持され、中国の冊封体制においても朝鮮に次ぐ第二位に位置した。
明治維新の廃藩置県後、明治5年、琉球王国は琉球藩、国王は琉球藩王とされた。明治4年に宮古島島民54名が漂着した台湾で原住民に殺害されたことについて、日本政府は清国から台湾先住民は化外の民であるから責任はとれないとの言質を得、報復を名目に1874年、大久保政権は台湾に派兵した。清国がそれを承認したことを、日本側は琉球が日本領であることを清国が認めたとみなし、琉球処分を進めた。
1879年、明治政府は軍と警察の部隊を率いた琉球処分官松田道之を派遣、軍事力を背景に沖縄県を設置した。琉球処分と呼ばれ、450年続いた琉球王国は滅亡し、日本に併合された。なお1880年、日本は清国に対して、日清間の条約を日本に有利な不平等条約に改定する代償として、宮古・八重山両諸島を清国に割譲する分島改約案を提案したがまとまらなかった。この提案は、日本政府が琉球を日本固有の領土とみなしていなかったことのあらわれである。
1947年9月、宮内府御用掛の寺崎英成は、日本の安全保障のために、米軍が50年ないしそれ以上沖縄の軍事占領を続けることを希望するという裕仁天皇の考えをGHQ外交顧問のシーボルトに伝えた。「天皇の沖縄メッセージ」と呼ばれるものである。これは当時の芦田内閣が国連による日本の安全保障を模索していたときに、裕仁天皇が日米安保体制を構想していたこと、昭和憲法のもとでも天皇が政治活動を展開していたことを物語る重要な事件であるが、同時に、裕仁天皇の意識としても沖縄が日本固有の領土ではなかったこと。
1997年、アイヌ文化振興法が施行されて、アイヌ民族に同化を強制する北海道旧土人保護法は廃止された。しかしアイヌ文化振興法は、先住民としては認めたが、世界の潮流に逆行して先住民族としての権利を保障しない、不充分とさえもいえないものであるが、旧土人保護法廃止後も「旧土人」という行政用語は継続して使用されている。「琉球の土人」ということばは、1930年代に至っても新聞紙上ではよく見かけるし、戦前は内地のアパートに「空室あります、ただし朝鮮人・琉球人お断り」の札はよく掲げられた。
戦後の旧植民地人送還事業でも、政府文書に「朝鮮人・台湾人・琉球人送還事業」という簿冊があり、これも「琉球人」を「日本人」とみなしていない事例である。1970年代にいたっても、大阪のアパートに「朝鮮人・琉球人お断り」の札が掲げられていることが写真入りで新聞記事になった。また近年、沖縄の辺野古基地反対運動の規制のために派遣された大阪府警の機動隊員が反対運動の参加者に「土人」ということばを投げかけて話題になったことは記憶に新しい。戦前・戦中の植民地民衆を二級臣民と見る差別的まなざしが、現在まで続いているのである。
念のために申し添えるが、わたしはアイヌや琉球の人びとを日本人として扱うべきだと主張しているのではない。異なった存在として尊重すべきなのである。国連の自由権規約委員会は、「第5回日本定期報告審査にかかる総括所見」(2008年10月)で、次のように述べた。
委員会は、アイヌ民族及び琉球・沖縄民族を特別な権利や保護を受ける資格がある先住民として締約国が公式に認めていないことに、懸念を持って留意する。
締約国は、アイヌ民族と琉球・沖縄民族を国内法で先住民と明確に認め、彼らの継承文化や伝統的生活様式を保護、保存及び促進する特別な措置を講じ、彼らの土地についての権利を認めるべきである。締約国はまた、アイヌ民族や琉球・沖縄民族の子ども達に彼らの言語によってあるいは彼らの言語について、また彼らの文化について教育を受ける適切な機会を提供し、正規の教育課程にアイヌ民族と琉球・沖縄民族の□□□文化と歴史の教育を組み込むべきである。(日弁連仮訳)
また、「第6回日本定期報告審査にかかる総括所見」(2014年8月)でも、次のように述べた。
委員会は、アイヌ民族を先住民として認めたことを歓迎するが、琉球・沖縄に対する認知の欠如並びにこれらの集団の伝統的土地と資源の権利又はその子どもたちが自らの言語で教育を受ける権利の欠如に関して懸念を有することを繰り返す。
締約国は、立法改正によってアイヌ、琉球・沖縄のコミュニティの伝統的な土地及び天然資源に対する権利を全面的に保障し、これらの人びとに影響を及ぼす政策につき自由かつ事前に情報を与えられたうえで参画する権利を尊重することを確保し、また、可能な範囲において、その子どもたちのための自らの言語による教育を促進するために、さらなる措置をとるべきである。(日弁連仮訳)
第5回所見の際に、わたしはアイヌの場合でも琉球の場合でも「自らの言語」による教育がいかに困難であるかを、自由権規約委員会は認識しているのだろうかと疑問を持ったが、第6回所見においては「可能な範囲において」という文言が入り、現実的な表現になった。第6回所見の「アイヌ民族を先住民として認めたことを歓迎する」というのは甘すぎると思うが、第5回にくらべて琉球・沖縄についての言及が多いことが注目される。アイヌ民族のなかでも、琉球においても、現在、独立論が存在する。独立をめざすべきかどうかについては、本来、国家の存在を可とするかどうかにさかのぼって議論すべきである。仮に一時的な国家の存在を認めるとしても、その国家内で徹底的な自治が保障されれば独立は必要ではないという立場もありうる。民族自決論に従って、世界中の民族が独立すれば、地球上に数千の国家が誕生するからである。
琉球・沖縄の人びとが先住民であるかどうかについては、民族とは何か、先住民族とは何かの議論を深める必要がある。わたしは民族を規定する場合、歴史の固有性を重視するので、縄文文化を日本と共有した後、日本の弥生文化とは別の道をたどった沖縄の人びとを日本とは別の民族だとすることに異存はない。さらに宮古・八重山諸島は縄文文化をも共有していない。しかし、先住民族とは、自前の国家を持たなかった集団だとすれば、それはわたしの勝手な規定かもしれないが、琉球も、マヤ、インカも先住民族ではなく、被征服国家ということになってしまうので、先住民族とは何かの議論を深める必要がある(注4)。
国境の確定という本題に戻ろう。南方において、1875年、明治政府が小笠原諸島を日本の領土と宣言した。それまではアメリカが太平洋のクジラ漁業の拠点として利用していたが、領土とは宣言していなかった。小笠原という名称は、1593年に小笠原貞頼が発見していたというのが理由とされた。しかしそこに住んでいたのは、南洋系の人々が9割、欧米系が1割であって、日本列島系の人びとはいなかった。村長も、小笠原とは縁もゆかりもない東京の人物が任命され、現地には赴任していない。日本はまだ帝国主義段階には到達していなかったが、領土の確定については、帝国主義の作法を学んだのである。(以下次号)
【注】
注1~3は、第3節部分のため省略
注4―千本秀樹「国連が日本政府に厳しい勧告」、『季刊現代の理論』vol.21、2010年秋.
注記―年号表記は、太陰暦が使用されていた明治5年までは太陰暦で、翌1873年からは西暦で表記した。日露和親条約は安政元年12月21日調印で、西暦では1885年2月7日である。第1の理由は、年月日や時刻表記は現地主義が原則だが、意外と守られていない。例えば真珠湾攻撃は12月7日。第2の理由は、日露和親条約が安政2年と書かれている文献が少なくないこと。これは安政への改元が11月27日だったため、西暦1855年の10か月余は安政2年にあたる。そのため安直に1855年=安政2年と置き換えてしまい、1855年2月なら安政2年だろうとしてしまった誤りだろう。そのため、明治5年以前は、現地の日本で使用されている年月日とした。
ちもと・ひでき
1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。
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